知的生産をしないものの技術
久しぶりに「知的生産の技術」を読んだ。
以前は情報を収集するにはどうすればいいかといふことばかり考へてゐた。
今回は違ふ。
今回気になつたのは、家庭にあふれる紙の資料の整理についてだつた。
どうせ「生産」なんてしないんだしね、知的如何に関はらず。
いまは(と著者が書いてゐるのは1960年代のことだと思はれるが)一般家庭にも紙の資料があふれてゐる。
資料の中には書籍・雑誌なども含んでいいだらう。
チラシなどはすぐに捨ててもいいかもしれないが、こどもが学校からもらつてくるプリントはさうもいかない。
さうしたものをきちんと整理しやう、といふのだつた。
整理といふのは整頓とは違ふ。
整頓は見た目に整つてゐる状態にすることをさす。
整理は必要なものを必要なときに取り出せるやうにする状態のことだ。
読み返して、自分に必要なのは情報の収集ではなく、この「紙の資料の整理」だつたのだなあとつくづく思つた。
買物のときにもらふ領収書や電気代・ガス代・上下水道代の記録などもこの中に入るだらう。
どうやつて保管していつ廃棄するか。
さういふ仕組みが必要だ。
雑誌や書籍にしてもさうで、整理できないものは処分するのがほんたうだらう。
小学校に通つてゐる時分にかういふシステムを知つてゐたら、もうすこしなんとかできたプリントもあつたのではあるまいか。
うつかり母に渡すのを忘れてしまつたプリントがいつたい何枚あつたことだらう。
「知的生産」をしない人間でも、かうした紙の資料の整理は必要なのだつた。
それに気づかずにここまできてしまつたとは。
否、気づいて気づかぬふりをしてきたのかもしれない。
だつて整理整頓なんてめんどくさいもの。
やつがれは壊滅的に整理整頓のできない、ものの捨てられない人間なのだつた。
でも今回「知的生産の技術」を読み返したことで、ちよつと紙の資料の整理にのりだしてみるか、と思つたりもしてゐる。
本に書いてあるやうな整理をするには、まづ必要なものとさうでないものとを分別してからでないと無理だらう。
さうしないと量が多すぎる気がする。
分別しつつも、今後どうやつて整理していくのか、考へる必要がある。
整理の仕方によつては残せる量が変はつてくるだらうからだ。
問題は、いまは夏だといふことである。
つまり、ただゐるだけで暑い、動いたらもつと暑いといふことだ。
こんな時期にものの片づけができるだらうか。
それでなくてもできないのに。
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