My Photo
September 2024
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

« June 2018 | Main | August 2018 »

Tuesday, 31 July 2018

どうしてもうまくできない Chinese Coin Bookmark

涼しいとはなんと偉大なことだろうか。
先週、タティングをはじめてみてさう思つた。

「タティングで七宝つなぎを作りたい」といふ旨のことを書いたあと、実際にやつてみた。
ちよつと涼しくなつたときのことだ。
「ちよつと涼しくなつた」といつても、それまでが暑すぎた。
だが昨日も書いたやうに、寒暖といふのはどうやら相対的なものなのらしい。
あまりにも暑い日がつづいたせゐだらう、ちよつと気温が下がつただけでなんだかとても楽なのだ。

それで久しぶりにタティングシャトルなど取り出してきて、タティングしてみたのだつた。

しかしまあ、久しぶりなのでなかなかうまくいかない。
リングに比してチェインが長すぎるやうに思ふ。
リングとチェインと、スティッチの数はおなじでいいのかなあ。
また、端で折り返す部分のチェインもどうかと思ふ。ここもスティッチが多すぎるのかもしれない。
リング同士をつなぐピコも大きすぎるのかもしれない。このピコはいつも大きくなりすぎるので今回は気をつけて作つたつもりだつたが、やはり大きかつたやうだ。

いづれにしても、久しぶりだからな。

ひとまづ七宝つなぎの練習は端糸の始末もした。
その後、Chinese Coin Bookmark を作り始めたのだが、これがいけない。
Chinese Coin Bookmark はとても好きなパターンながら、これまで成功した試しがない。
一度、途中ピコにつなぎ忘れたのをごまかして完成させたことがあるが、その後はいつも失敗してゐる。

Chinese Coin Bookmark は、円形に近い八角形のモチーフを数枚、スプリットリングを使つて糸を切らずに一列につなぐ。
いいよねえ、糸を切らずにモチーフつなぎ。
かぎ針編みだと連続モチーフ編みといつたところか。

そんなわけでとても好きなのにも関はらず、どうもいつもつなぐ場所やつなぐ位置、スプリットリングの位置などを勘違ひしてしまつてなかなか完成にこぎつけることができないのだつた。

今回もまた同様。
どうしたものかな。
シャトルに巻いた糸はまだ残つてゐる。
Chinese Coin Bookmark に再挑戦するか。
それともしばらくはリハビリと称してもつとかんたんなものを作るか。

さうかうするうちにまた暑くなつてきた。
とりあへずリハビリしてみるかなあ。

Monday, 30 July 2018

暑さと湿気とあみもの

去る冬、結局のところ寒暖といふのは相対的なものだなと実感した。
ものすごく低い温度を体験したあとでは、それより高いと常なら低いと思うやうな温度でもたいして寒くないと感じるものだ、といふことだ。
この夏は暑さでそれを実感してゐる。
あまりにも暑い日々を体験したあとでは、平年並みの暑さでもさほど暑く感じない。暑くても、なんとか我慢できる。
さうやつて我慢してゐると、絶対的には気温は高いのでかへつて危険なのだが、こればかりは仕方がない。

そんなわけで、すこし涼しくなつたのであみものでもしてみるか。
と、思へばいいのだが、思はなかつた。
腱鞘炎の具合はあひかはらずで、よくなつたのやらなつてゐないのやらよくわからない。
いづれよくはなつてゐないのだらう。
よくなつてゐたら気にならないはずだからだ。
これだけ暑いと編む気も失せるしな。
編んだものといふのは織つたものより地が厚くなりがちだ。
したがつて、暑い時期には向かない。
とくに日本のやうに蒸す暑さには向かないと思ふ。

以前もここに書いたらうか。
気温が摂氏四十度を超えても、手編みのくつ下をはける、と豪語してゐる人がゐた。
おそらく、その人の住む地方は乾燥してゐるのに相違ない。
蒸した暑さに手編みのくつ下はムリだ。

同様に夏場にモヘアといふのもあり得ない。
海外のあみもの雑誌などには夏でもモヘアのレース編み作品が載つたりするが、湿気のある日本の夏にモヘアはあのけもけもした毛が非常に不快になる。

えうは、日本の夏に編んだものが向いてゐるとはとても思へないといふことだ。

ひとつあるとしたら、冷房の効き過ぎた状態に対処するための羽織ものだらうか。
綿やとくに麻の糸で編んだショールやストールは冷房除けにいいと思ふ。
問題は、冷房のきいてゐないところでもさうしたショールやストールを持ち歩かなければならないといふことだ。
さうすると、編んだものよりは小さくたためる織つたものの方が便利、といふことになる。

冬はあひかはらず寒くなるのだらう。
地球温暖化によつて極地の氷が溶けて海水の塩の濃度が下がると、これまで流れてゐた暖流が底にしづむので温暖だつた地域も冷えるといふ話を聞いた。
あみものをやめる必要はない。
夏さへ乗り切ることができれば。

Friday, 27 July 2018

イルカのショーと多様性

土曜日に京都水族館に行つた。
なぜかといふと暑かつたからだ。
京都は木曜日だかに三十九度を記録したのではなかつたか。

さういふわけで、同行してくれる友人に「京都水族館に行かない?」と持ちかけて、水族館行きが決まつた。

京都水族館の目玉はオホサンセウウヲと京都の海にゐる魚の展示ではないかと思つてゐる。
でもせつかく水族館に来たのだし、イルカのショーを見ることにした。
前回来たときも楽しかつたし。

ところが、今回のイルカのショーはなんだかしまらなかつた。
最初に旅の一座でいまは京都水族館にとどまつてゐるといふ五人組が出てくる。
手品師の座長は手品を披露しやうとするが、全然うまくいかない。
その他の四人はイルカと遊びたいといふやうなことを云ふが、座長は受け入れない。
あんまり四人が云ふことをきかないので、座長は拗ねてその場を去る。
そんな小芝居が延々とつづく。
正直云つて、こんなものは見たくない。
イルカのショーで見たいのはなにか。
イルカの演技だらうよ。
イルカが見たくて来てるのに、なぜなんだかよくわからない人間の小芝居を見させられなければならないのか。
一応、イルカは三頭水槽にゐて、泳いだりしてゐるのだが、それだつたらショーではないわけでね。水槽を見にいけばいいわけで。

さうかうするうちに、イルカのトレーナーが三人出てきて、やつとショーがはじまる。
トレーナーが一人一人自己紹介をして、自分のパートナーであるイルカを紹介する。
しかし、これがまたなにか妙なのだ。
三頭ゐるうちの二頭は、いい。
残りの一頭が妙なのである。

さういや五人の小芝居のあひだも、この一頭だけは泳いだりはせずに一カ所にずつととどまつてゐた。
疲れてしまつたのか、それともひきこもりかなにかなのか。
そんなやうすに見受けられた。

トレーナーが出てきても、このイルカはなかなか技を披露しやうとしない。
ほかのイルカがジャンプを見せたり握手してみせたりしても、このイルカだけはなぜかぽーつとしたやうすである。
ほかのイルカに注目が集まつてゐるときに、やつとトレーナーと握手をしたりしてゐる。

そして、トレーナーたちも、自分もふくめて観客たちも、そのイルカはさういふものなのだと受け入れてゐた。
すくなくとも自分にはさう感じられた。

イルカのショーである。
そこに出てきて、これといつた演技もしないイルカを、観客たちがさういふものだと受け入れてゐる。
考へてみればふしぎな状況なのだつた。

もしかすると、人間の小芝居が一役買つてゐたのかもしれない。
あんなものを見せられるより、演技は碌々できなくてもイルカを見てゐる方がいい、と、人々は思つたのかもしれない。

でもなんか違ふ気がする。
あのときあの場にゐた人々は、積極的とはいへず自分勝手ともいへるなにもしないイルカに「きみはそれでいいんだよ」といふ気持ちを抱いたのではあるまいか。
すくなくとも、何人かはさういふ人がゐたんぢやないかなあ。
なぜならやつがれがさうだからだ。

人の世もさうなるといいのにな。
その人がその人であることを受け入れられるやうな世の中。
或は世の中とはさうしたものなのかもしれない。
単に、やつがれがやつがれ自身であることを受け入れられないだけで。

あのイルカは、ショーに出ることになれてゐない新人(新イルカ、か)だつたといふ可能性もある。
いまごろはすつかりなれて、トレーナーの合図にあはせてさまざまな技を見せてくれてゐるのかもしれない。
でもあのときの、客を喜ばせやうなんてちぃとも考へてゐないやうな、マイペースなイルカの姿を、そしてそのイルカを受け入れてゐた自分のことを忘れずにゐたい。

Thursday, 26 July 2018

かたづける快感: あたぼうステーショナリーのペネック

先週の木曜日からあたぼうステーショナリーのペネックを持ち歩いてゐる。
一本差しのペンシースで、ストラップなどを利用して首からさげることができるやうになつてゐる。

一週間使つてみて、かたづけることの気持ちよさつてあるな、と思ふやうになつた。

ペネック

多分、最初はひらくPCバッグnanoだつたんだと思ふ。
ひらくPCバッグnanoは、職場で引き出しが使へなくなつて、それで購入した。
ひらくPCバッグnanoの口を開けた状態で机の上に置いておくと、手帳や筆記用具などを即取り出せる状態でしまつておくことができる。
きれいに入れればいはゆる「見せる収納」ができるといふ寸法だ。
使ふときに取り出し、使つたらかばんにしまふ。
取り出しやすくしまひやすい。
それになにしろかたづくといふのがいい。

ペネックは、当初は増殖し続けるPILOTのkakunoを持ち歩くために購入した。
万年筆自体もこれ以上増やすまいと思つてゐるのに、kakunoはなぜか増える。
気がつくと十本を超えてゐる。
十本くらゐ、たいしたことないぢやあないかといふ向きもあらうが、やつがれは別段コレクタといふわけでもないし、マニアといふわけでもない。
必要なペンが必要なだけあればいい。
kakunoはちよつと増えすぎた。
増やしたのはやつがれだけどさ。

その増えすぎたkakunoをできるだけ使ひたい、それには毎日或は毎週持ち歩くkakunoをとりかへればいいのぢやあるまいか。
さう思つて持ち歩く筆箱に出し入れしてゐたのだが。
ここにペネックが登場した。
これ、毎日kakunoを入れ替へて持ち歩くのにいいんぢやないか。

さう思つて購入して、そのとほりに使つてみて、これがいい。
なにがいいつて、使つたらしまへるといふのがいいのだ。

それまでは、使ひ終へたペンはうつかり机の上に出しつぱなしになつてゐることもあつた。
どうせまたすぐ使ふからといふのでいちいちペンケースに戻さないことがあるからだ。

でもペネックを使ふやうになつてからは違ふ。
首から下げたペネックからkakunoを取り出し、書いたあとはまたペネックにしまふ。
この流れがとても自然なのがまたいい。

kakunoにはペンクリップがないので、ペネックから取り出すときは一番下の方をつまむやうにして押し出す必要があるが、これはそんなに苦にならない。

目下の悩みは休日ペネックをどうやつて持ち歩くか、だ。
平日は社員証のストラップにつけてゐる。
この土日は、口の開いたかばんの持ち手にストラップを巻き付けて、ペネック本体はかばんの中に入れてゐた。
使ふときはストラップを引けば即出てくる。
この使ひ方もいいけれど、いつもいつも口の開いたかばんを使ふわけでもないしなあ。
しばらく試行錯誤がつづくやうだ。

ペネック

Wednesday, 25 July 2018

ドラマ過食症

binge-watchingといふことばがある。
あるTV番組にはまつてしまひ、延々と存在する限りの放映回を見続けてしまふこと、といつたところか。

たとへば、「宇宙大作戦(古いねどーも)」にはまつてしまつたとする。
ケーブルTVやWebサービスなどで全話一挙放映があつたので、第一話から最終話までずつと見続けてしまふ。
そんな状況を指すのだと思つてゐる。
DVD-Boxをいちどきに見るのも入るのかな、とも思ふ。

bingeとはもともと食べ過ぎる、それも度を超えた過食を表現するときに使ふ単語だ。
binge-watchingは見過ぎ、それも過度の見過ぎだらう。不健康な雰囲気も漂ふ。

Mediumで読んだこの記事によると、毎週一話づつ見たときに比べてbinge-watchingで見た番組の内容は忘れてしまひやすいのらしい。
一話づつ見たときと比較すると、即忘れてしまふといふ。
また、毎週一話づつ見てゐるときの方がより楽しく感じるともある。

ははー、なるほどね。
以前ここにも「DVD-Boxでも買つて見ればいいのに、毎週/毎日TVでドラマを見るのが楽しい」といふのはなにもやつがれだけではなかつたのだ。

Mediumの記事は、「どうすれば一度読んだものを忘れずにゐられるか」といふ内容だ。
TV番組についても、週に一度見てそのあひだに見た内容を思ひ返すなどすると内容を覚えてゐられるやうになる、といふやうなことが書かれてゐる。

覚える覚えないに関はらず、次の放映を楽しみにしつつ見たドラマのことを思ひ返す時間といふのが、またいいんぢやあるまいか。
一度見たものなら一挙放映を見るのもいいかもしれない。
でも一挙放映を楽しみに見るやうな、そんなに好きなドラマなら、やはり一度に一話づつ見た方が楽しい。
さういふこととなんぢやないかな。

この記事にリンクされてゐる元の研究の内容はまだ見てゐないが。
ある程度集中して見た方が楽しめるといふことなのではないかと愚考してゐる。
などといひながらやつがれはあみものやタティングレースをしながらTVドラマを見ることが多いんだがね。

いまは「帰ってきたウルトラマン」を毎週楽しみに見てゐる。
見られるときに「仮面ライダービルド」と「怪盗戦隊ルパンレンジャーvs警察戦隊パトレンジャー」を見るくらゐだ。
再放送をしてゐるのだから、必殺シリーズなど見たいものなのだがなあ。
録画機を新調するしかないか。

Tuesday, 24 July 2018

知つてる名前と違ふ?

タティングレースでもなにも作つてはゐないが、考へてはゐる。

ひとつは、以前も書いたプラスチックリングをくるんで作るネックレス。
もうひとつは七宝つなぎで作るものだ。

七宝つなぎの方は「七宝つなぎをしたい」といふ思ひだけがあつて、なにを作るかは決めてゐない。
手始めに栞でも作らうかと思つてゐる。

七宝つなぎでは、藤戸禎子の「華麗なるレース タッチングレース」に出てゐる替襟が気に入つてゐる。
一度作つてみたいと思つてゐるが、なかなか踏み切れない。
作つても使はないのは目に見えてゐるしね。

七宝つなぎのむつかしいのは、少なくともやつがれにはむつかしいのは、リングが比較的大きい上に、チェインも長いから、といふことがある。
リングが6P6だつたらチェインは8P8くらゐはほしい。

……やつぱり栞から作つてみるかな。

いま「タティングレース 七宝」でWeb検索してみたら、思つたほどそれらしい結果が出てこない。
タティングレースで七宝つなぎとか、あんましやる人ゐないのか知らん。
それともあれを「七宝つなぎ」だと思つてゐる人がゐないといふことか知らん。
全然違ふ名前で覚えてゐるのかもしれないな。

Monday, 23 July 2018

暑いけど

暑い。
なにもしたくない気分である。

否、実際のところはなにかしたいのだ。
なにかしたいのだが、しても続かない。
暑いからである。

腱鞘炎もいまだ癒えず、あみものも進んではゐない。
夏用に買つた糸があるんだけどなあ。
しかしこの暑さではちよつと編む気にならない。
編む気だけでなく、ほかのこともやる気が出ない。
昨日などは、ちよつとなにかしては休み、ちよつとなにかしては休みといつた状態だつた。
本さへ碌々読めない。
録画機が使へなくなつて以来、家で本を読む機会が増へた。
しかし、この暑さでは、なあ。
せめて風でもあればと思ふが、かういふときに限つてない。
今朝、そろそろ起きやうかといふころになつて、涼しい風が吹いてくる。

世の中、なにかとままならない。

せめて編みかけの三角ショールくらゐは仕上げたいんだがなあ。
ハマナカのポームで編んでゐるので、ちやうどいま使へさうだし。
あとちよつとで終はるし。
指にムリのかからない範囲で、最後まで編んでみるかな。

あみものせずになんの人生。

Friday, 20 July 2018

戦隊ヒーローもののレッド考

数作前の戦隊ヒーローものでレッドを演じてゐた俳優が出てゐる芝居を見る機会があつた。
戦隊ヒーローもののあとその俳優を見かけたことはなく、芝居を見て「かういふのを演じてみたかつたのかなあ」とそのとき思つた。
といふのは、戦隊ヒーローもののときは無理をしてゐるやうに見えて仕方がなかつたからだ。

獣電戦隊キュウリュウジャー、烈車戦隊トッキュウジャー、手裏剣戦隊ニンニンジャーのレッドは、いづれもそんな感じだつた。
つづく動物戦隊ジュウオウジャーのレッドはそれほどでもなく、宇宙戦隊キュウレンジャーのレッドは口癖の「ラッキー!」に助けられて無理をしてゐるやうすがわづかばかり軽減されてゐたやうに思ふ。

各戦隊のレッドがどうして無理をして見えたのかといふと、明るくふるまはうとしてゐるやうに見えて不自然さを覚えたからだ。
「戦隊もののレッドはかういふもの」といふ決まりがあるのだらう、つねに前向きで、世の中の負の部分には目を向けない。
さういふ演技をしてゐる(或は「しなければならない」)さまを見てゐると、見てゐるこちらがつらくなつてきてしまふ。
輝く笑顔さへ顔にはりついてゐるやうに見えてくる。

いま検索しても見つけられなかつたので記憶だけで書くが、先日誠直也が秘密戦隊ゴレンジャー(以下、ゴレンジャー)に出演してゐるときのことを語つたものの抜粋を見かけた。
誠直也はアカレンジャーを演じてゐた。
誠直也は、自分やアオレンジャーを演じてゐた宮内洋はこども向けの演技ができなかつた、といふやうなことを云つてゐた。
「こども向けの演技ではなかつた」だつたかな。
でも、それがよかつたんぢやないかな。
ゴレンジャーの人気の秘訣はさういふところにあつたのではあるまいか。
無理に作つたこども向けの演技よりも、大人のドラマで見せるやうな演技が荒唐無稽な特撮戦隊ヒーローものをリアルに見せてゐたのぢやあるまいか。

人形劇がさうだ。
NHKの人形劇は物語(脚本)こそこども向けに作られてゐることもあるけれど、人形の声の演技や操演は、こども向けではまつたくない。
そのままおとなのドラマも撮れる、さういふ芝居をしてゐる。
それがこどもの心に残るのぢやないかなあ。

現在の戦隊ヒーローものである怪盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー(以下、ルパパト)のルパンレッドとパトレン一号にはいまのところこれまでのレッドに感じてゐたやうな無理はあまり感じてゐない。
ルパンレッドは怪盗といふこともあつてか底抜けの明るさとはあまり縁がないやうであるし、パトレン一号は明るさよりは真面目さ融通のきかなさを前面に押し出してゐるからだらう。
それが自然かといはれると答へに困るが、少なくともこれまでのレッドよりは見てゐて安定感を覚える。
つひつひルパパトを見てしまふ所以はさういふところにもあるんだらう。

Thursday, 19 July 2018

三国志とダメ人間

最近になつて三国志の好きな人々の集まる場に行くやうになり、いろいろ新たな発見をしてゐる。

たとへば、「魏が好き」「呉が好き」「蜀が好き」とおつしやる向きが多い、とか。
厳密に云ふと、三国志(とくに断らない限り「三国志演義」とそれを参考にしたもの)で魏・呉・蜀にわかれるのはだいぶあとのことであつて、「それつて、「曹操とその野郎ども」が好きつてことですよね?」とか「「劉備とその崇拝者たち」が好きなんですね?」と、脳内で読み替へてゐる。
呉だけは三国にわかれる前から「呉」と表記されることが多いのであまり違和感はない。

なんで「魏が好き」「呉が好き」「蜀が好き」といふ話に感銘を受けたのか、といふと、さう云はれて考へるに、自分にはさういふ「好き」が三国志の中にはないからだ。
とくに誰のところが好きといふのはない。
飯田市川本喜八郎人形美術館の展示を見るときは、曹操とその部下たちのケースが一番好きだなあ、と思ふことが多いが、それは人形とそのときの展示のやうすがいいのであつて、人形劇を見てゐたときに「曹操とその陣営が好きだなあ」と思つてゐたわけではないし、いまでもさうは思はない。

それでは自分はなにが好きなのか。
三国志を知つたときに、なにに心惹かれたのか。
思ひ返してみるに、それは、おそらく「野の遺賢」だ。
もつといふと、「隠者」といふものに憧れを抱いてしまつた。

主を求めず、草庵にあつて、他人とは会ひたいときに会ひ、さうでないときはひとりでぼんやりとしてゐる。
いいなあ、さういふ生活。

本来は「晴耕雨読の毎日」とやらを送るものなのかもしれないが、雨読はともかく晴耕が、ねえ。
といふあたり、どう考へても「ダメ人間」である。
クズ、と云つてもいいかもしれない。

しかしまあそんな生活を送れるわけもなく、ぢやあどうしてゐるのかといふと、さうだな、「中隠」といつたところかな。
勤め人であつて勤め人でなく、隠者であつて隠者でない。
ゆくゆくは隠れるとしても、身過ぎ世過ぎとしていまはちよつとだけ世に出てゐる。

Web検索をしてみたら、「中隠」の受け取りかたにもいろいろあつてちよつと驚いたが、やつがれの中では「どつちつかずでもあり、どちらでもある」みたやうなイメージである。

「中隠」を知つたのは、三国志を知つてからのち、白居易に出会つてからだ。
それまで白居易については「平安時代のお貴族さまが好きな感じの詩を作つた人」といふ印象しかなかつた。
詩を読んで、白居易のことを好きになつたかといふとさうでもないけれど、でもなぜ平安時代の貴族たちが白居易の詩を愛好したのかわかつたと思ふし(使つてる字がかんたんだからだよね、たぶん)、これはいいなといふ詩もあることを知つた。
「長恨歌」を読んでおいたからのちに「あれは「長恨歌」のあの一節を持つてきたものなのだな」とかわかつたこともある。

そんなわけで、日々中隠として暮らしてゐる……わけでもなくて、ときどき思ひ出したやうに「さうだ、自分は中隠だつたのだ」と暮らしを改める日々である。

Wednesday, 18 July 2018

上期の芝居がしぼれない

役者や俳優より舞台や映画・ドラマそのものの出来を云々してしまふ。

「ニノチカ」が好きで、見るたびにグレタ・ガルボばかり目が追ひかけてしまふのだが、だつたらガルボの出てゐる映画はなんでも好きかといふとさうでもない。
これに限るといふことはないけれど、できれば「ニノチカ」。
さう思つてゐる。

先日、池袋の新文芸坐で「蜘蛛巣城」を見てきた。
山田五十鈴が怖いのであまり見ない映画なのだが、「メタルマクベス」を見る前に見たいと思つてゐたので渡りに船だつた。
見返してやはり山田五十鈴が夢に出るレヴェルで怖く、三船敏郎もすばらしいのだが、でもだつたら別の映画でもいいわけでさ。
「蜘蛛巣城」でなければならないその理由は、「蜘蛛巣城」が作品としてすばらしいと思ふから、すくなくともやつがれは「蜘蛛巣城」が映画として好きだからだ。
ちなみに、山田五十鈴も三船敏郎も取り立てて好きな俳優といふわけではない。

自分の好きなもの・好きな人を無条件にほめたたへることができない。
まづは欠点を探す。
それをあげつらふ。
自分は客観的に自分の好きなもの・好きな人をとらへてゐると、内外に示す。
なぜさうなつてしまつたのかといふと、こどものころみーちやんはーちやんといふものが嫌ひだつたからだ。

自分の周りにゐるのはみなミーハーだつた。
家族も近所の子どもたちも、ひとりとしてミーハーでない人はゐなかつた。
ミーハーは醜い。
昨日はあの人が好きと騒いでゐたくせに、翌日には手のひらを返したやうに別の人を好きだといふ。それまで好きだつた人のことなど忘れてしまつたかのやうなふるまひをする。それだけならまだしも昨日までは神のごとくたたへてゐた人のことを悪く云ふ。
しかも、ミーハーは自分の好きなものの欠点を見やうとしない。
あんなに明らかな汚点を、ミーハーはないものにしてしまふ。
なんてイヤなんだらう、ミーハーであることつて。

その後、ミーハーとは和解した、と以前書いた。
ミーハー的のふるまひをしてみたら、とても楽ちんだつたからだ。
いつたい自分はこれまでなにと戦つてきたのだらう。

さう思つたけれども、身に染みついてしまつたものといふのはなかなかとれないのだらう。
三つ子の魂百までもとはよく云つたものだ。
好きな役者の出る芝居でも「この芝居は好きぢやないんだよなあ」とか「ほかの配役がよくないなあ」とか文句をつけてしまふ。
今年も後半に入つたので、一月から六月までに見た芝居の中でなにがよかつたかと考へてみると、「これ!」といふものがひとつもない。
一月歌舞伎座の「勧進帳」はよかつたけれど、襲名演目として最高だつたとは思ふが、「勧進帳」としてよかつたとは思つてゐない。
「七段目」は芝居として好きぢやない。
「絵本合法衢」は片岡仁左衛門一世一代といふふれこみだつたが、大阪松竹座のときの方がいい出来だつた。配役も松竹座の方がよかつた。

いろいろ考へて、おもしろかつたといふ意味では三月の「於染久松色読販」かなあ、といふところに落ち着く。
普段は人気女方の早変はりが見どころの芝居だが、今回は土手のお六のくだりだけ出した。
芝居全体の中では早変はりのない地味といへば地味な芝居だが、ここだけ取り出して見ると、これが隅から隅までよくできたいい芝居なのだつた。
無駄な仕掛がなにもない。
登場人物の来歴や、死体・早桶に至るまで、実にさりげなくさまざまなものがちりばめられてゐる。
よくできてるなあ。
さすが南北。
まあ、鶴屋南北が書いたそのままが上演されてゐるかどうかは定かではないがね。

映画・ドラマでもさうで、この俳優を見てみたいと思ひつつ、一度見て作品として好きにならなかつたものは二度・三度と見る気にはならない。
まれに「まあたまには見てみやうかい」といふので見て、「やつぱりこれぢやないんだよなあ」と思つてしまつたりする。

無論、作品としてはいまひとつでも、たつた一場面、たつたひとつのセリフのために見るといふこともないわけぢやあないのだが。
最近はなかなかそんな気力・体力もなくてね。

結局は気力・体力・財力か。

Tuesday, 17 July 2018

なぜタティングを?

タティングをする人といふのは、実際のところどれくらゐゐるのだらう。
自分の周りには、ひとりかふたりといつたところかなあ。それもいつもしてゐるといふ人はゐないやうに思ふ。

フェリシモにタティングレースのキットがあり、タティングレース関連の本も多く(少なくとも以前よりも多く)出版されてゐるのを見ると、タティングをする人はかなりの数にのぼるのではないかといふ気もする。

先日、歌舞伎座ギャラリーで歌舞伎なつかし堂の「本庁廿四孝」を見に行つたとき、タティングレースのピアスをしてゐる人を見かけた。
自分で作つたのかなあ。
それとも貰ひものか知らん。
まさかこんなところでタティングレースを見かけるとはね。

タティングをする人はなにを作るのだらう。
かういふアクセサリなのだらうか。
しかしアクセサリはすぐできるがゆゑにおなじやうなものが手元にたまりがちだ。
さういふのはどうするんだらう。
知り合ひにあげるんだらうか。
それとも売つたりするのかな。

タティングレースをはじめる人はどこでタティングレースに出会つたのだらう。
やつがれは、たまたま手芸店のあみもの用具売場でタティングシャトルを見かけたのがきつかけだつたと思ふ。
ちやうど藤重すみの「かわいいタッチングレース」が発売されたばかりで、シャトルと一緒に買った、といふ話は何度か書いてゐる。

世のタティングレースをはじめる人もこんな感じなのだらうか。
或は「すてきにハンドメイド」で見かけたとか、手芸雑誌などで紹介されてゐたとか、さういふのもあるかな。

世の中にはお教室もあるやうだし、さういふところに通ふのだらうか。
やつがれも通つた方がいいのかなあ。

暑さにやられてそれどころではないのだが。
ちよつと遠出をする機会があるので、そのときにちまちま結んでみやうかなと思つてゐる。

Monday, 16 July 2018

編まない生活は続く

先週もこの三連休もまつたく編んでゐない。
編まなくても大丈夫なんだな、と思ふ。

あみものは好きだ。
と書いて、ほんたうだらうかと思つてしまふ。
実は自分はあみもののことなどたいして好きではないのかもしれない。
時々編んでゐてさう思ふ。
それではなぜ編むのか。
それは、数少ない自分にできることのひとつだからで、編んでゐるとなにがしかできあがるものがあるからだ。

えうはなにもしないでゐることができないんだらう。
なにかしら生産的なことをしたいのだ。
それなら部屋の片づけや掃除をすればいい。
なのにそれはできない。
といふわけで、なにかしら形に残るあみものに逃げるわけだ。

TVを見るといふのも自分にとつては生産的なことではない。
なので見ながら編みたい。
ところがTVを見なくなつてしまつたものだから編むきつかけがつかめなくなつてしまつた。
だからといつて見たいTV番組があるわけでもないしねえ。

なるほど、編まなくなつたのは、腱鞘炎のせゐもあるけれど、生活習慣が変はつてきてしまつたからといふ原因もあるんだな。
TVを見てゐるあひだに編んでゐたのに、そのTVを見なくなつてしまつたから編まなくなつた。
わかつてみればなんのことはない。

こののちもずつと編まないのだらうか。
腱鞘炎は、よくなつたやうなさうでもないやうなで、とりあへず拳を握ることはできない。
すこしは動かした方がよいといふ話もあるので、ちよつとあみものを再開してみるかなあ。

Friday, 13 July 2018

増殖する情報カード

情報カード、どうしやうなあ。
さう考へてゐるうちに、情報カードに書くといふ習慣が身についてしまつた。
さあ、どうしやう。

情報カードについてWeb検索をしてゐるうちにPoICに出会つたのが運の尽きだつた。
なんだかすごくシステマチックで、しかも楽しさうだつた。
最近はそれにさらに43Tabs システムなんてのも加はつて、「もう、カードだけあれば無敵ちやん」といふ感じなのだが、残念ながらまだ43Tabs システムは試してみてゐない。
自分の中で使ひ終はつたToDoカードの行き先がはつきりしないからだ。

43Tabs システムはタスク管理やToDo管理をするものなので万人向きだと思ふ。
もちろん、「カードは向かん」といふ人もゐるかもしれないけれど、ToDoやタスクの管理はどんな人にも多かれ少なかれ必要なことなので、「試してみなよ」と勧めやすい。

しかし、昨日も書いたやうにPoICのやうなシステムといふのは、生産をする人向きで、生産をしない人にはどうよ、といふ気はする。

その一方で、手帳は誰でも使ふものだ、と思ひなほしたりもしてゐる。
スケジュール帳やスマートフォンのスケジュールアプリケーションは、誰でも使つてゐる。
最近は社内の予定管理も専用のアプリケーションがあつてそれを使ふやうになつてゐたり、使用を強いられたりしてゐるやうだ。

それならば、ちよつとした備忘録に情報カード……とはなんとなく勧めにくいのはなぜなのだらうか。

ひとつには、カードはバラバラになりやすいから、といふのがあると。
手帳に書いておけば書いておいたページがばらけてどこかに消へてしまふといふこともない。
だが、情報カードの場合はきちんと管理しておかないと、書いたカードがどこかへ消へてしまふ可能性がある。

また、カードは入手しづらいといふこともある。
比較的大きな文房具店に行つても探してゐるカードがない場合がある。
カードにはいろいろとサイズがあり、それぞれのサイズに罫線や無地、方眼罫など種類が複数ある。
なので、店頭にカードがあつたとしても、自分の求めるサイズの求める種類のカードがない場合が往々にしてある。
最近はネット通販で買ふといふのも手だが、さうすると1パックだけ買ふといふのも気が引ける。

反対に、カードははじめやすいともいへる。
入手しづらいのにはじめやすいとは不思議かもししれない。
ただひとたび入手してしまへば、カードは一枚一枚ばらにして使ふことができる。
とりあへず何枚か使つてみて、向かなかつたらそこでやめることも可能だ。
ノートだと最初の数ページを使つてあとは空白といふのはなんだかもつたいない気がするが、カードなら別の用途に使へばいい。
情報カードはちよつとしたレシピなどを書いておくのにとても向いてゐるし、とりあへずメモ用紙として使ふこともできる。
使つてみて向かないと思つても、無駄になりにくいのだ。

さう思つて軽い気持ちではじめた情報カードの利用も、そろそろ九百枚を超えたあたりだらう。
一週間に三十枚書くとして、毎年千五百枚ほどのカードが増えていく。
それをどう管理すればいいのか。
さう思ふと気が遠くなる。
ならばここでやめるか。
やめるとして、九百枚以上もあるカードをどうすればいいのか。

やはり情報カードを扱ふのはむつかしいのかな。

Thursday, 12 July 2018

知的生産をしないものの技術

久しぶりに「知的生産の技術」を読んだ。

以前は情報を収集するにはどうすればいいかといふことばかり考へてゐた。
今回は違ふ。
今回気になつたのは、家庭にあふれる紙の資料の整理についてだつた。
どうせ「生産」なんてしないんだしね、知的如何に関はらず。

いまは(と著者が書いてゐるのは1960年代のことだと思はれるが)一般家庭にも紙の資料があふれてゐる。
資料の中には書籍・雑誌なども含んでいいだらう。
チラシなどはすぐに捨ててもいいかもしれないが、こどもが学校からもらつてくるプリントはさうもいかない。
さうしたものをきちんと整理しやう、といふのだつた。

整理といふのは整頓とは違ふ。
整頓は見た目に整つてゐる状態にすることをさす。
整理は必要なものを必要なときに取り出せるやうにする状態のことだ。

読み返して、自分に必要なのは情報の収集ではなく、この「紙の資料の整理」だつたのだなあとつくづく思つた。

買物のときにもらふ領収書や電気代・ガス代・上下水道代の記録などもこの中に入るだらう。
どうやつて保管していつ廃棄するか。
さういふ仕組みが必要だ。

雑誌や書籍にしてもさうで、整理できないものは処分するのがほんたうだらう。

小学校に通つてゐる時分にかういふシステムを知つてゐたら、もうすこしなんとかできたプリントもあつたのではあるまいか。
うつかり母に渡すのを忘れてしまつたプリントがいつたい何枚あつたことだらう。

「知的生産」をしない人間でも、かうした紙の資料の整理は必要なのだつた。
それに気づかずにここまできてしまつたとは。
否、気づいて気づかぬふりをしてきたのかもしれない。
だつて整理整頓なんてめんどくさいもの。
やつがれは壊滅的に整理整頓のできない、ものの捨てられない人間なのだつた。

でも今回「知的生産の技術」を読み返したことで、ちよつと紙の資料の整理にのりだしてみるか、と思つたりもしてゐる。
本に書いてあるやうな整理をするには、まづ必要なものとさうでないものとを分別してからでないと無理だらう。
さうしないと量が多すぎる気がする。
分別しつつも、今後どうやつて整理していくのか、考へる必要がある。
整理の仕方によつては残せる量が変はつてくるだらうからだ。

問題は、いまは夏だといふことである。
つまり、ただゐるだけで暑い、動いたらもつと暑いといふことだ。
こんな時期にものの片づけができるだらうか。
それでなくてもできないのに。

Wednesday, 11 July 2018

江戸の風つれづれ

江戸前つてなんだらう。
なんとなく口にはするけれど、実のところよくはわかつてゐない。
でもたとへば「め組の喧嘩」の藤松は、坂東八十助(当時)のあとはなんだかパリつとしない。
江戸つ子味が足りないのだ。
さういへばどこかで読んだ気がする。
江戸つ子を演じられるのは十世坂東三津五郎が最後だらう、と。
青山の家に純粋培養の江戸つ子の祖母(曽祖母だつたかもしれない)がゐて、それを見て育つてゐるから、といふ話だつたと思ふ。

森茉莉はよく「伊右衛門役者に出会へなかつた不幸」について書いてゐる。
十五世市村羽左衛門の伊右衛門ではダメなのださうな。
それを云ふとやつがれは「勧進帳」の弁慶役者にも出会へなかつたし、与三郎役者にも出会へなかつた。今後も望み薄だと思つてゐる。
「与話情浮名横櫛」の与三郎には、やはり江戸前な雰囲気がほしい。
江戸前ですつきりとした色男といふのが理想だ。
でももうその「江戸前」の役者がゐない。
昔の「演劇界」の花形特集で中村歌六の与三郎を待望する記事を読んだことがある。
江戸前ですつきりした二枚目で爽やかな口跡の与三郎になるだらうといふやうな内容だつたと思ふ。
手元に資料がないので確認できないけれど。
そのときはそのとほりだなあと思つたけれど、その後歌六の与三郎を拝む機会に恵まれずにゐる。
おそらく今後もないだらう。

柳亭市馬の落語には江戸の風が吹くといふ。
ふしぎと江戸の空気がある。
市馬は大分県の出身と聞くから、江戸前な雰囲気を出すにはなにも東京の生まれでなくても構はないといふことだ。

関西の人はわりと「あの役者の上方のセリフはなつてゐない」だとか、TV番組で話される関西弁についても「なつてゐない」といふやうなことを指摘するといふ印象がある。
でも関東の人が「あの役者のセリフは江戸つ子らしくない」と指摘するのはあまり聞いたことがない。
関東の人(或は東京の人)の大半は別の地方から引つ越してきた人だからだらうか。
江戸前なことばを使用する(或は使用してゐた)人の住んでゐた範囲がそんなに広くなかつたからか。
いづれにしても、標準語といふのは江戸なまりや東京なまりとはまた違つたものなんだな、と思ふ。
みんな、江戸前なことばなんて知らないのだ。
知らないのに、かうして「江戸前ぢやないんだよ」とか書いてゐる自分は何様だらう。

今後はもう、「江戸の風」なんぞといふものはなくなつていくんだらう。
演じる方も見る方もわからないのだし。
いま見聞きできるものが最後なんぢやあるまいか。

この後江戸の歌舞伎とか江戸の落語とかになにを求めればいいのだらう。
江戸の世話物は、次第に演じられなくなるんぢやないか。
それとも物語としてはわかりやすいから上演はされるのか。
上演はされるのかな。でももうそこに江戸らしさはなくなつてしまふのだらう。
「髪結新三」の鰹売りも代替はりするたびになにかが欠けている気がしてゐる。
それは気のせゐなのかもしれないし、そもそも鰹売りなんて見たことないんだから勝手な思ひ込みなのかもしれないとは思ふ。
でももうきつと、そんなことはどうでもいいのだ。
「髪結新三」といふ芝居の筋とはまつたく関係がないのだから。

歌舞伎は、さうやつて変はつていくのだらう。
落語はどうだらうか。
落語は、落語としてどうかうというよりも、そのひとつ上のサブセットの話芸としての出来で良し悪しを判断するやうになるのかもしれない。
話芸でしかできないこと、たつた一人で表現するからこそ展開できる世界、さうしたものでいい噺家か否かが決まるやうになるのぢやあるまいか。
そんな重たいものはもう落語ではないし、とくに江戸落語ではないといふことになる気はするな。

Tuesday, 10 July 2018

突然前向き

昨日は「あみものの終活」なんぞといふ話を書いたが。
タティングレースはできるのだつた。

リングの糸を引くときに指を曲げないやうに気をつければ問題ない。
かぎ針編みよりタティングの方が左手の中指を使ふと思つてゐたが、指の第二関節にテーピングをした状態でもタティングなら指を曲げずにできる。
といふか、できた。

すこしだけ光明がさしてきたやうに思ふ。

さうだよ、毛糸もタティングすればいいんだよ。
さういふ極端な考へすら浮かぶほどだ。

ところで、修理してもらつた時計を受け取つてきた。
心なしかきれいになつた気がする。
無論、もともとついてゐた傷はそのままだ。
もう市場には出回つてゐない型だといふので大切に使ひたい。

その一方で、時計用のチェインはまだできあがつてゐない。
かうなつてくると、「タティングで今から別なのを作らうかな」といふ気になつてくる。

前回の時計用チェインはタティングで作つた。
スプリットリングを鎖のやうにつなげ、ところどころにビーズをあしらつたものだ。
このチェインは時計の重さでリングがのびきつてしまつた。
タティングで作るのはむつかしいかな、と思つたが、ひとつ手がある。
ビニルリングを使ふ手だ。
ビニルリングを芯にして、周囲をタティングのスティッチでぐるりと覆ふ。
これならのびづらいのではあるまいか。

さう考へるとゐてもたつてもゐられない。
いますぐにでもタティングしたい。
問題は、ビニルリングがあつたかなあ、といふところだ。
ビニルリングものびさうな気もするので、プラスチックリングの方がいいかな。
プラスチックリングはまだあつたと思ふが、どうだつたかなあ。

といふわけで、急に前向きなのだつた。

Monday, 09 July 2018

あみものの終活

腱鞘炎のため編まなくなつて一ヶ月弱。
このまま編まなくなるのかな、とも思ふ。

編まなくなつた場合、毛糸をどうするかが問題になる。
我が家にはひよつとすると一生かかつても編みきれないくらゐ毛糸がある。
それでも毎日編めばなくなるのかな。あまり自信がない。

毛糸は、虫食ひやカビなどがなければ寄付できる。
さう聞いてゐる。
「ちやんと編んでくれる人のところに行くんだよ」と送り出す。
それがいいだらう。

あみもの道具はどうするか。
これといつてヴィンテージなものなどないし、一度は使つたものばかりなので、これは捨てる一手だらう。
もしかすると編み込みをするときに使ふヤーンガイドなんかはほしい人がゐるかもしれないが、自作しやうと思へばかんたんに作れるらしいので気にしない。

残りはあみものの本か。
あみものの本といふのはなかなか再版されないと聞く。
図書館にもないことが多いのらしい。
保存状態はよくないけれど、ほしい人もゐるかもしれない。
以前はあみもの専門の古書店などあつたけれど、いまはない。
それとも探せばあるのかな。
一般的な古本屋に売つてもあみものの本は埋もれてしまふだけかもしれない。
そもそも売れない可能性も高い。
さう考へるうちにめんどくさくなつて廃品回収に出してしまふんだらうな。
いままでの流れからいつてさうだ。

趣味に使用した/するつもりだつたあれこれをどうするかといふことを真剣に考へる時期がきてゐるのかもしれない。

腱鞘炎は、多少よくなつてゐる気もするが、それでもまだ痛い。
注射を打つしかないのかな。
あるいは手術とか。
まあもうちよつと様子を見やう。

Friday, 06 July 2018

好きな人がいない必殺シリーズ

ぼんやりと「必殺シリーズの中で一番好きな登場人物は誰だらう」と思つてとつさに思ひつかないことに衝撃を受けた。

え、ゐないのかな、もしかして。

自分のことなのに、そんなこともわかつてゐなかつたのか。
うかつである。
いや、粗忽か。

仕掛け/仕置き/仕事/whatever の場面であらはれるときに一番好きなのは、「助け人走る」の文さんだ。
スキャットのBGMが流れて、田村高廣演じる文十郎の横顔が闇にふつと浮かぶ、あの瞬間が異様に好きである。
BGMがスキャットぢやなかつたり、横顔からの登場ぢやなかつたりするときはがつかりするくらゐ好きだ。

おなじく「助け人走る」の中谷一郎演じる平さんこと平内の煙管の煙がふはりと揺れる、あの登場場面もいい。
暗闇にほの白い煙がぼうつと浮かんで、あれはいい場面だといつも思ふ。

ぢやあ登場人物として文さんや平さんが好きか、と訊かれると、うーん、それはちよつと違ふんだなあ。

いろいろ考へて、「必殺仕掛人」の山村聡の音羽屋半右衛門かなあ、といつたところか。
あとは「必殺必中仕事屋家業」の岡本信人の利助。
それと「必殺仕業人」の美川陽一郎の島忠助。
仕掛け/仕置き/仕事/whatever しないぢやん、とも思ふが、それくらゐしか思ひつかない。

一回きりのゲストキャラクタなら好きな登場人物はいくらもゐるんだがなあ。
「必殺仕掛人」の戸浦六宏演じる左内の昔の上司(とゆーか)とか。
おなじく「必殺仕掛人」の佐藤慶演じるカルト教団の頭首とか。
佐藤慶は「必殺仕置屋稼業」の方がいいか。あれは必殺シリーズ全体でも一、二を争ふやうないい登場人物だ。
「新・必殺仕置人」最終回の辰蔵もいいよねえ、佐藤慶。一緒に出てる清水紘治の諸岡さんも忘れられない。
「必殺からくり人」の岸田森演じる鳥居甲斐守もいい。
鳥居燿蔵は「必殺仕置屋稼業」では志村喬が、スペシャル番組では米倉斉加年が演じてゐて、とくに志村喬の方は如何にも明治の世まで生き残りさうなしぶとさがあつていい。
岸田森の鳥居燿蔵はなんだかすぐ死んぢやいさうなところがある。でもあの人を人とも思はぬセリフがね。

といふ感じで、いくらでも出てくる。
たぶん、必殺シリーズが好きなのは、といふか、TV時代劇が好きなのは、一話完結で毎回ゲストが楽しみ、といふところにあるんだな。

などと考へてゐるうちに、「必殺仕掛人」を見返したくなり、やはりDVD BOX的なものを手に入れやうかと算段してゐる。

Thursday, 05 July 2018

眠らせろ

Why We Sleep といふ本を読んで、「もつと寝なきや!」と思つてゐるのだが、なかなか眠れてゐない。

ここのところ寝付きは悪くなつてはゐるものの、基本的には寝付けないといふことはあまりない。
むしろ気絶するやうに寝入ることの方が多いかもしれない。
この「気絶するやうに」といふのはほんたうに気絶してゐるのであつて、睡眠のうちには入らない、すくなくとも良質な睡眠を取つてゐるとはいへないといふ話もあつて、眠れてゐないことに代はりはないのかもしれない。

ところで、Why We Sleep でも云つてゐるし、巷でもよく聞くことに「毎日の起床時間と就寝時間とは変へないこと」といふのがある。
毎日おなじ時間に起きておなじ時間に寝ろ、といふことだ。
平日だらうが休日だらうが、出勤しやうがしまいが、とにかくおなじ時間に起きておなじ時間に寝る。
これがよい睡眠にとつて大事なことなのらしい。

働く日も、休みの日とおなじくらゐ寝ないとダメ、といふことである。
長いこと、それこそ学校に通つてゐる時分から、休みの日は寝溜めの日、いや、寝溜めはできないといふから、平日の睡眠負債を返済する日にあててゐた。
あててゐたといふよりは、とにかく眠たかつた。
それをしてはならないといふ。

また、昼寝も午後三時以降はしてはならない。
三時以降も昼寝をしてゐるやうだと夜の睡眠に差し支へるのださうだ。

どうしろといふのか。

毎日おなじ時間に起きておなじ時間に寝て、午後三時以降はしない休日を送つてみればわかる。
もう、全然、睡眠が足りない。
グロッキーとはこのことかと思ふくらゐ、頭も躰も動かない。
火曜日くらゐには気分はもう金曜日だ。
なぜ明日は休みではないのかと思ふ。

つまり、平日ももつと早い時間に就寝してちやんと睡眠時間を取りなさいね、といふことなのだ、と頭では理解してゐても、これがなかなかできない。

この生活を改善するには、転職するしかない。
もつと早い時間に帰つて来られるやう、近所に職を求めるしかない。
それつて可能なんだらうか。
可能だとして、いまとおなじやうな暮らしが送れるだらうか、主に、懐具合的に。
できないよなあ。

引つ越すといふ手もあるが、それには資金が足りない。
いづれにしてもいまの状況でなんとかするしかない。

としたら、だよ。
やつぱりなにも予定のない休みの日にはおなじ時間に起きておなじ時間に寝るなんてなことを云つてゐないで、昼寝にしても午後三時までなんてケチなことを云はずに寝られるだけ寝るしかないんぢやあるまいか。

一度不足した睡眠は補ふことはできないといふけれど。
でもなんかもう、さういふ問題ではなくなつてゐると思ふ。
とにかく寝不足だとつらいの。
頭も躰も。

といふ問題については、Why We Sleep は答へてくれない。
だいたい「寝過ぎたらどうなるか」についてはほとんど言及がないからな。
寝過ぎといふのも身体によくないんぢやないかと思ふがどうだらうか。

Wednesday, 04 July 2018

Bullet Journal: 復活の Tracker

今月から Bullet Journal に Tracker を復活させた。

Tracker とは、定期的にくり返し行ふと決めたことを書き出し、実際に行つたかどうかチェックするときに使ふものだ。
ラジオ体操の出席カードのやうなものと考へるといいかもしれない。
「Bullet Journal Tracker」でWeb検索をかけると例がたくさん出てくるのでご興味のある向きには是非。

Tracker は以前二ヶ月ほど試してみてやめてしまつた。
やる意味がわからなかつたからだ。
Tracker をつけやうがつけまいが、することはする。
たまに忘れてもまた翌日から開始する。
思ふに、かういふ人間には Tracker はあまり必要ないのではあるまいか。
「毎日つづけられてるなあ」と確認して悦に入る趣味もない。

やつがれはもともと、日々くり返し行ふことが苦手だつた。
小学生の時分は夏休みになると、毎日何時に起きて何時に寝て天気はどうでといふのを書き込む表をもらつてゐた。
毎日書いて、二学期になつたら提出する。
これが書けなかつた。
最初のうちはつけるのだが、いつしか忘れてしまふ。
泊まりがけで旅行に行つたりするともういけない。
旅先でつけられないのは仕方がないとして、帰宅してからもつけることをすつかり忘れてしまふのだつた。

ほかにも、親から「これをやれ」とか「あれをやれ」と云はれたことはひとつも続かない。
根気がないのだ。
さう思つてゐた。

ところが、十年ほど前のことだつたらうか。
自分で「あれを毎日やることにしやう」と決めたら、気がつくと結構つづいてゐる。
三ヶ月くらゐたつてもやつてゐる。
たまに忘れることもあるけれど、さういふときは気にしないでまた翌日から再開する。
自分にこんなことができるなんて。
我ながらちよつとびつくりした。

どうも、自分でやると決めたことはそれなりにできるのらしい。
根気はないがしつこいところもあるので、決めたら続けられることもあるのだらう。

かういふ人間には注意を喚起し、結果を確認するためのツールは必要ない。
Tracker 不要なのだ。

では今回なぜ改めて Tracker を採用したのかといふと、「ほんたうにできてるの?」といふのが疑問だつたからだ。
毎日のルーティンに入つてしまふと、やることが自然になる。
意識せずにするやうになる。
さうすると、実際にやつたのかそれともやつてゐないのか、記憶が曖昧になつてくる。
意識的にするやうにしたい。
それには Tracker だらう。
さう思つてはじめてみた。

ちなみに、自分で「これをやる」と決めたことで続けてゐてなんらかの役に立つてゐることはひとつもない。
もしかすると見えないところで効いてきてゐるのかもしれないが、見えないからわからない。
Tracker はそのうちまたやめるのではないかと思ふ所以である。

Tuesday, 03 July 2018

手芸好きの悪癖

時計の修理が終はつた。
さう時計屋から連絡があつた。
うれしい反面、丸四つだたみの時計チェインはまだまだ完成しさうにないのでどうしやうかとと途方にくれてゐる。

そもそも、チェインを手作りしやうとしたのが間違ひだつたのぢやあるまいか。
時計についてきたごく細い樹脂のチューブのやうな紐が切れてからは、タティングレースのチェインを使つてゐた。
スプリットリングにビーズをあしらつた極々シンプルなもので、しかし、時計の重さに負けてぐでつと伸びてしまつてゐた。
それでも使用に支障はなかつた。
そのタティングレースのチェインもところどころほつれてきてしまつた。
そこで、今度はマクラメでもつとしつかりしたチェインを作らうと思つた。

作る以外に選択肢はないのか。
なくはない。
買ひにいけばいい。
しかし、さういふチェインつてどこで売られてゐるのだらう。
ビーズ売場だらうか。
或はアクセサリー店か。
買ひに行くのを渋つた結果が手作りである。

手芸好きな人間には、かういふ傾向があるのかもしれない。
なんでもかんでも「作ればいいぢやない」といふ傾向が。
糸がなければ「紡げばいいぢやない」。
マフラーがほしければ「織ればいいぢやない」または「編めばいいぢやない」。
手提げがほしければ「縫えばいいぢやない」または「編めばいいぢやない」。

自分にはないと思つてゐたんだがなあ。
だつて買つた方がしつかりしたものが手に入る可能性が極めて高いし、結果として安価だし時間もかからない。
さう思つてゐるんだがなあ。

だからくつ下も編みはするけれど、通常履くものはすべて購入する。
その方が安くて丈夫なものが手に入るからだ。
編んだくつ下は寒い日に自宅で履くものだ。
考へてみたら、もう何年も履いてゐて繕ひもしてゐない手編みのくつ下もある。
でも外には履いていかない。
たまーにサンダルで出かけるときに履くこともあるけれど、それも四年に一度あるかどうかといつた具合だ。

こんな調子で自分は practical であると信じてゐたのに、さうでもなかつたんだなあ。

とりあへず時計は今週中にも受け取る予定だ。
チェインはどうするかなあ。

Monday, 02 July 2018

不器用なわけ

腱鞘炎になつてからといふもの、編むときには案外左手を使ふものであるといふことに気がついた。
右手で糸をかけて編む方法ならもう少し左手を使はずに済むのだらうか。
いづれそちらに鞍替へすることも検討するか。

ところで、あみものやタティング以外にもやつがれはどうやら利き手でない方の手をほかの人よりはよく使ふのらしい。
コンピュータのマウスを左手で使ふのは、これは意図してはじめたことだ。
職場で同僚が右脳活性化のためと左右の手のバランスをとるためと云つて、左手でマウスを使つてゐた。
それはいいかもしれない、といふのではじめたのだつた。
それ以前は右手で使つてゐたし、おそらくいまでも右手で使ふ方が楽にマウスをあやつることができると思ふ。

本来利き手ですることを逆の手でする方であるらしいことに気がついたのはスピンドルで糸を紡ぐやうになつたときだ。
教はりに行つて、どうもほかの人と手が逆である。
目の前に座つてゐる人のやるとほりにやつてゐるからさうなつたわけではない。
自分でやりやすいと思つたのがそちらだつたのだと思ふ。
糸を紡ぐにはどちらの手で毛を持つてどちらの手でスピンドルを使ふといふのが決まつてゐるらしいので、これはそののちなほした。

確信したのは昨日のことだ。
左手の中指が腱鞘炎になつてからといふもの、缶の飲み物のプルトップが開けづらくて困つてゐた。
プルトップは左手の指にかけて引つ張る。ゆゑに中指に力が入らない状態はすこぶる都合が悪い。
困つたなあとつぶやいたところ、スプーンを使ふといいとかバターナイフがいいとかいろいろご教示たまはつた。
ぢやあ次に開けるときは試してみやう、と思つてゐたところ、トマトの缶を見たらプルトップの開け方が図示されてゐるではないか。
その絵では、どう見てもプルトップは右手で開けてゐた。
世の中の多くの人は右利きだらう。
最近は左利きの人も左利きのままでゐるのらしいが、すくなくともやつがれの世代までは左利きの人は厳しく矯正されてゐた。
つまり、世の中の人は缶のプルトップを利き手で開けるのぢやあるまいか。

さうなのかー。
あまり深く考へたことはなかつたし、観察したこともなかつた。
ちなみに、利き手である右手でプルトップを引くと、なれないせゐか爪が折れさうになつてしまつた。

考へてみると、昔から左手の方が握力は強かつた。
小学生のときに計測したときにはすでにさうだつたから、ずつとさうなのだらう。
思へばラケットベースといふテニスラケットをバットに見立てた野球の一種でバッターボックスにたつときは左側に立つてゐた気がする。
力は左の方が強いのだつた。
でも左手では字も書けないしお箸も使へない。
制御がきかないのである。
ラケットは両手で持つから制御は右手がするのだらう。

なるほど、やつがれが不器用なのはそのせゐなのかもしれない。
利き手が利き手の役目を果たせないからだ。
そして逆の手は利き手の代はりにはならない。
この中途半端な状態では器用にはなりやうがない。

さうだつたのかー。
きつと世の中にはおなじやうな人がゐるのに違ひない。
先にも書いたもともと左利きなのに矯正されて右利きにしたやうな人にゐたりしないかなあ。

これから左手でやつてきたことを右手に置き換へていくのはひどく難儀な気がする。
どうしたらいいのか。

とりあへず腱鞘炎をなんとかすることが肝要かな。

Sunday, 01 July 2018

6月の読書メーター

6月の読書メーター
読んだ本の数:5
読んだページ数:1802
ナイス数:22

ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇 ケンブリッジ 1939年 (講談社学術文庫)ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇 ケンブリッジ 1939年 (講談社学術文庫)感想
講義を受けた人のうち主に四人のノートから再現した講義録というが、もとのノートはどんな感じだったのか気になる。知らなければ講義の録音から起こした記録なのではないかと思っても不思議ではない書きっぷりだと思う。なにを云っているのかわからないところだらけなのだが、ヴィトゲンシュタインと学生とのやりとりはおもしろそうな話をしているという雰囲気に満ちていて、それで読めてしまう。「きみには哲学をする資格はない」と云われてしまう部類の人間でも、本を読むくらいならいいんじゃないかと云いわけをしてみる。
読了日:06月01日 著者:
話術 (新潮文庫)話術 (新潮文庫)感想
店員がわきまえておくべきことって、そりゃ正しいかもしれないけど、ムリなんじゃないか知らんと思ってしまうあたりが話術がダメな理由なんだろうか。こどもに聞かせる物語に関するあれこれや「日本人はかくあるべし」という説にはちょっと考え込んでしまうけれど、若い頃に聞いた噺家の評は楽しく、かなりうらやましい。お能の謡の逸話にもあるけれど、それがわかるってことは、話術に長けているということでもあろうし。
読了日:06月06日 著者:徳川 夢声
時間 (講談社文芸文庫)時間 (講談社文芸文庫)感想
昔のことばかり考えている自分はうしろ向きな人間なのではないかと不安に思うのだが、この本を読んでいるとそんなことはない気がしてくる。相変わらずなにを云っているのかよくわからないけれど、そこんとこは間違っていないんじゃないかと思っている。
読了日:06月11日 著者:吉田 健一
Why We Sleep: The New Science of Sleep and DreamsWhy We Sleep: The New Science of Sleep and Dreams感想
「水滸伝」を読んだ時に眠らせない拷問が出てきて「なんて恐ろしいことだろう」と思ったことを思い出す。「もっと睡眠を大事にしなければ」と思う反面、眠りすぎた場合のことについてはあまり書かれていないのがちょっと不満かな。
読了日:06月24日 著者:Matthew Walker
易の話 (講談社学術文庫)易の話 (講談社学術文庫)感想
「易経」でなんかもやっとわからないことがあると読む。いつもはぱらぱらそうやって読むのだが、今回は久しぶりに通読。読んでわかった気になっちゃうのがいかんなあ。ちょっと吉田健一の「時間」を思い出した。変易の時間感覚と似ている気がする。
読了日:06月28日 著者:金谷 治

読書メーター

« June 2018 | Main | August 2018 »