歌舞伎が好きな理由を考へる
なぜ歌舞伎が好きなのか。
考へてゐると、「歌舞伎なんか好きぢやないのでは」といふ気分になつてくる。
三森ゆりかの提唱する言語技術では、こどものうちにまづ自分がなにを好きかを表明してその理由を述べ「だからわたしはそれが好きです」としめくくる、といふ練習をするといふ。
ただなんとなく好きではダメなのだ。
これこれかういふ理由で好きだと述べることができてはじめてコミュニケーションが成り立つ。
さういふことだと理解してゐる。
それではといふので、歌舞伎からはじめてみやうと思つたのだが、これが実に手強い。
歌舞伎のなにが好きなのか。
好きな役者がゐるから、といへば、「ではなぜその役者が好きなのか」といふ話になつてくる。
そんなの、「好きだから好き」だよなあ。
よくよく考へてみると、ひとつには「よく知つた人々が出てくるから」といふのがある。
歌舞伎には源平時代の人々が出てくる。
これがなんとなく慕はしい。
こどものころの愛読書が「牛若丸と弁慶」だつたからだ。
「牛若丸と弁慶」といふ本については以前もここに書いた。
短編小説がいくつも入つたやうな体裁で、最初こそ五條大橋で牛若丸と弁慶とが出会ふ話だが、倶利伽羅峠の話や宇治川の一番乗りの話、ひよどり越えの逆落とし、那須の与一、熊谷と敦盛、安宅の関、しづやしづしづの苧環くりかへし、とひととほり源平の戦ひを見た後に、三つの鉢の話や日蓮の話、最後には元寇の話が出てくるといつた本だつた。
その後、「源義経」といふ伝記めいた本ももらひ、小学三年生のときにこども向けの「平家物語」といふ本を買つてもらつた。
どちらもよく読んだ。
そんなわけで、この三冊の本に出てきた人々のことはなんとなく慕はしく思つてゐる。
こどものころのことだから、何度もくりかへし読んだ。
それで、「知らない人とは思へない」といふ感じがするのだらう、大げさに云へば。
歌舞伎を見ると、本に出てきた人がたくさん出てくる。
それも、なぜ斎藤実盛は髪を染めてゐたのかといふ理由が出てきたり、佐藤忠信が狐だつたり、弁慶が生涯一度しかしなかつたことと二度しかしなかつたこととをうまく取り入れたりした話が出てくる。
おもしろいよねえ。
よくそんなこと考へたねえ。
うなるしかない。
だから歌舞伎が好きなのです、で理由になるだらうか。
理由にはなつてゐると思ふが、人に話すにはくだくだしい。
それに、源平時代の人々の出てくる芝居ばかりとも限らない。
そこでさらに考へてみた。
なぜ自分は歌舞伎が好きなのか。
好きかどうかはともかく、なぜ見に行くのか。
つまるところ、物語が好きだから、なのかもしれないな。
物語といふのは「いまはむかし」である。
「いまはむかし」といつて、いつの時代ともしれぬ世のことを語り、そしてそれは現代にもつながつてゐる。
歌舞伎の芝居もさうなんぢやあるまいか。
今月歌舞伎座でかかつた「妹背山婦女庭訓」は、大化の改新のころを舞台にした芝居だ。
でも出てくる人の風俗は江戸の(それもおそらくは今の我々の考へる江戸の)風俗で、建物はかなりのところ想像の産物である。
そして語られるのは今の世にあつてもそんなに不思議ではない(疑着の相云々はともかくとして)話だ。
多分、みる人にはお三輪の心情はよくわかる。
通じてゐる部分があるからだ。
それをもつて普遍的とは云ひたくないが、「いまはむかし」のいつともしれぬ世の話をしてゐて、でもそれは現代とつながつてゐる。
そして、さういふいつのどことも知れぬ世の物語が展開されるのを見るのが好きなのだ。
歌舞伎以外の演劇をあまり見に行かないことを考へると、さういふことなんぢやないかな、といふ気がする。
といつたところで、歌舞伎が好きな理由になるだらうか。
他人には伝はらないやうな気がするからダメか。
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