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Friday, 29 June 2018

日々の暮らしとTVドラマ

映画は映画館で見る。
おなじやうに、TVドラマはTVで見る。
さういふものなのかもしれないなあ。

録画機が動かなくなつてからといふもの、家にゐないときにはTV番組が見られない。
それで痛痒がないかといふとさうでもなくて、「新・必殺仕置人」は見られないし、「徹子の部屋」に出た梶芽衣子も見られないし、落語会に行つた日の「探偵物語」は見られないし、そんな感じで時に落胆の日々を送つてゐる。

録画機が壊れてからといふもの、見る番組といつて「傷だらけの天使」とその後放映されてゐた「探偵物語」、それと日曜日の朝の「仮面ライダービルド(以下「ビルド」)」と「怪盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー(以下「ルパパト」)」と夜の「帰つてきたウルトラマン」くらゐだ。
いづれも出かける用事があれば見られない。

「傷だらけの天使」とか「探偵物語」とか、古いドラマだから探せばDVDがあるだらう。
「帰ってきたウルトラマン」も同様だ。
「ビルド」と「ルパパト」とはすぐにDVDが発売されるはずだ。
それを買つて見ればいい。
レンタルがあれば借りてくればいい。
わざわざ決まつた時間にTVの前に待機してゐる必要はない。

録画機のあるころは、録画した番組を見るのがあたりまへだつた。
不在時にTV番組を録画しておく。
時間のあるときにそれを見る。
コマーシャルがあればとばす。
とても便利だと思つてゐた。

ところが放映時にTVドラマを見るやうになると、それがあたりまへになつてきた。
コマーシャルもそれほど気にならない。

なぜなのだらう。

映画は映画館で、といふ理屈はわかる。
もともと大きい箱にある大きい画面で見るやうに作つたものだ。
さういふ設備の整つた場所で見るのが一番だ。
音響にだつて気を配つてあるだらうし、隣近所を気にしなければならない自宅で見るよりは映画館で見た方がいい。

また、映画館で見た方が集中して見ることができる、といふこともある。
最近では上映中にスマートフォンを操作する不逞の輩がゐたりしてなかなか集中できないこともあると聞くけれど、自宅でほかに気を引くものに取り囲まれた状態で見るよりは映画館で見た方が集中しやすいのではないかと思ふ。

ゆゑに人はDVDその他のメディアを持つてゐたとしてもなほ、映画館で映画を見るのだらう。
といふか、少なくともやつがれはさうだ。

然るにTVドラマだ。
TVドラマこそ、入手可能ならばDVDなどのメディアを入手して見ればいいぢやん。
さういふ気がする。
見る場所もおそらくは自宅だらう。
何曜日の何時といつた決まつた時間に見る必要はない。
好きなときに見られる。
それはDVDのメリットだ。

なのに、なぜ放映されてゐると見てしまふのか。

好きだから、といふのはもちろんあると思ふ。
でも、理由はそれだけだらうか。

思ふに、連続ドラマの場合、昔の紙芝居、もつと古くは講談のやうな楽しみがあるのではないか。
主人公が岐路に立たされる。
明日はどつちだ。
それは次回の講釈で。
さういふ楽しみだ。

日々の暮らしのルーティンとして、好きなTVドラマが組み込まれてゐる。
さういふ幸せつてあるんだと思ふ。

「探偵物語」が終はつてしまつて、TVをつけたら成田三樹夫が出てゐるなんてなこともなくなつてしまつた。
この喪失感。

ちよつとしばらく立ち直れないかも。

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Thursday, 28 June 2018

歌舞伎が好きな理由を考へる

なぜ歌舞伎が好きなのか。
考へてゐると、「歌舞伎なんか好きぢやないのでは」といふ気分になつてくる。

三森ゆりかの提唱する言語技術では、こどものうちにまづ自分がなにを好きかを表明してその理由を述べ「だからわたしはそれが好きです」としめくくる、といふ練習をするといふ。
ただなんとなく好きではダメなのだ。
これこれかういふ理由で好きだと述べることができてはじめてコミュニケーションが成り立つ。
さういふことだと理解してゐる。

それではといふので、歌舞伎からはじめてみやうと思つたのだが、これが実に手強い。
歌舞伎のなにが好きなのか。
好きな役者がゐるから、といへば、「ではなぜその役者が好きなのか」といふ話になつてくる。
そんなの、「好きだから好き」だよなあ。

よくよく考へてみると、ひとつには「よく知つた人々が出てくるから」といふのがある。
歌舞伎には源平時代の人々が出てくる。
これがなんとなく慕はしい。
こどものころの愛読書が「牛若丸と弁慶」だつたからだ。
「牛若丸と弁慶」といふ本については以前もここに書いた。
短編小説がいくつも入つたやうな体裁で、最初こそ五條大橋で牛若丸と弁慶とが出会ふ話だが、倶利伽羅峠の話や宇治川の一番乗りの話、ひよどり越えの逆落とし、那須の与一、熊谷と敦盛、安宅の関、しづやしづしづの苧環くりかへし、とひととほり源平の戦ひを見た後に、三つの鉢の話や日蓮の話、最後には元寇の話が出てくるといつた本だつた。
その後、「源義経」といふ伝記めいた本ももらひ、小学三年生のときにこども向けの「平家物語」といふ本を買つてもらつた。
どちらもよく読んだ。

そんなわけで、この三冊の本に出てきた人々のことはなんとなく慕はしく思つてゐる。
こどものころのことだから、何度もくりかへし読んだ。
それで、「知らない人とは思へない」といふ感じがするのだらう、大げさに云へば。

歌舞伎を見ると、本に出てきた人がたくさん出てくる。
それも、なぜ斎藤実盛は髪を染めてゐたのかといふ理由が出てきたり、佐藤忠信が狐だつたり、弁慶が生涯一度しかしなかつたことと二度しかしなかつたこととをうまく取り入れたりした話が出てくる。
おもしろいよねえ。
よくそんなこと考へたねえ。
うなるしかない。

だから歌舞伎が好きなのです、で理由になるだらうか。
理由にはなつてゐると思ふが、人に話すにはくだくだしい。
それに、源平時代の人々の出てくる芝居ばかりとも限らない。

そこでさらに考へてみた。
なぜ自分は歌舞伎が好きなのか。
好きかどうかはともかく、なぜ見に行くのか。

つまるところ、物語が好きだから、なのかもしれないな。

物語といふのは「いまはむかし」である。
「いまはむかし」といつて、いつの時代ともしれぬ世のことを語り、そしてそれは現代にもつながつてゐる。

歌舞伎の芝居もさうなんぢやあるまいか。
今月歌舞伎座でかかつた「妹背山婦女庭訓」は、大化の改新のころを舞台にした芝居だ。
でも出てくる人の風俗は江戸の(それもおそらくは今の我々の考へる江戸の)風俗で、建物はかなりのところ想像の産物である。
そして語られるのは今の世にあつてもそんなに不思議ではない(疑着の相云々はともかくとして)話だ。
多分、みる人にはお三輪の心情はよくわかる。
通じてゐる部分があるからだ。
それをもつて普遍的とは云ひたくないが、「いまはむかし」のいつともしれぬ世の話をしてゐて、でもそれは現代とつながつてゐる。

そして、さういふいつのどことも知れぬ世の物語が展開されるのを見るのが好きなのだ。
歌舞伎以外の演劇をあまり見に行かないことを考へると、さういふことなんぢやないかな、といふ気がする。

といつたところで、歌舞伎が好きな理由になるだらうか。
他人には伝はらないやうな気がするからダメか。

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Wednesday, 27 June 2018

なにを書き残すか

現在使用してゐる手帳・ノートは三点。
Bullet Journalにしてゐるシステム手帳、一ページ一内容でだらだら文章を書く用の Smythson の Panama、それと5×3の情報カードだ。
ほかにメモ用のRhodiaがある。

最近は、Rhodiaにひとまづいろいろ書き出して、その後見返しつつ情報カードやBullet Journal に転記してゐる。
Rhodiaは、orenz neroとの組み合はせが最強なので使つてゐる。
でもちよつと悩んでもゐる。
転記し終へたメモは捨ててしまふのだが、果たしてそれでいいのだらうか。

PoICだと、メモ用に測量野帳を使用してゐる。
測量野帳だとあとで残る。
ページをやぶいて捨てるとか、一冊まるごと捨てるとか、処分する方法はある。
しかし、見たところPoICでは使用済の測量野帳もとつておいてゐるやうだ。

とつておく理由は、メモを取つたときの状況のよすがとなるものを残すため、だと思はれる。

メモのうち必要なものだけ転記して捨てるといふのは、合理的ではある。
だが、転記してゐるので、必ずしも思考の過程が残るやうな書き写し方をするとはいへない。
メモを残すときは、それを書くに至る思考の過程も一緒に残したい。
PoIで測量野帳をとつておくのはさういふことなんだらうと思ふ。

そして、この思考の過程といふのが案外重要だつたりする。
Bullet Journal と情報カードとは別に、だらだら思ひついた文章を書き連ねる手帳を持ち歩いてゐるのは、おそらくさういふことなのだ。
だらだら書き連ねる文章は可読性には欠けるが、思考の過程を残すといふ意味ではよい。
読めば「ここからかうなつたのか」とわかるからだ。
マインドマップなどは、自分の作つたものなら思考の過程もわかるのだらうけれど、他人が見たらさつぱりわからないんだらうな。
どういふ順番で書いたのか手がかりがないからだ。
それはそれでかまはないのだらうけれど。

さう考へると、メモノートから母艦ノートへ書き写さずに、メモノートの必要なところに色をつけるなどしてわかるやうにして、そのまま母艦ノートとして使用するといふのもありかな、といふ気もしてくる。
実際、一時はさうしてゐた時期もある。

あとはメモノートに書くときの字がもう少し判読可能ならいふことはないのだが。

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Tuesday, 26 June 2018

おやすみ中

結局タティングレースは試してみてゐない。
昨日も書いたとほり、腱鞘炎が思つたほどよくなつてゐないからだ。

どうしたものかねえ。
このままよくならないのだらうか、といふ気もしてゐる。
心のままにWeb検索をかけると、注射を打つたり手術したりしても再発することもあるし、というてゐる人もゐる。
注射、痛いらしいのに、再発するんかい。
医者にいはれたとほり薬を塗つてはゐるけれど、うーん、どうかなあ。
とりあへずテーピングをしてみやうと思つたのだが、なかなかテープに出会へずにゐる。
以前買つたものはかぶれるので使へない。
それで臨時にバンドエイドを使つてゐたのだが、バンドエイドだと曲がるんだよねえ。
弱つた。

ふだんの生活にさしつかへるほどの痛みはないのだが、うつかり手を握つてしまつたときに痛い。
缶ビールについては、つぶやいたところいろいろと開ける方法を教へてもらへたのでなんとかなりさうだ。
さう、問題はうつかり握つてしまつたとき。そしてそれはよくありがちなことだ。
それとあみものやタティングレースだなあ。

やはりまづはテーピングか。

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Monday, 25 June 2018

腱鞘炎は続く

腱鞘炎の影響で編めてゐない。
以上。

といつたところだが、昨日はちよつと編んでしまつた。
腱鞘炎はといふと、指の可動領域がひろがりつつあり、痛いと思ふことも減つた。
ただ、こぶしを握ることはできず、缶ビールを開けることができない。
仕方がないので缶は右手で開けたが、不都合極まりない。
缶ビールを飲むのはやめろといふ神のお告げかもしれない。

編めずにゐて、それほど痛痒を感じることもないのは、寝不足だからだ。
とにかく眠い。
家に帰つて食事をすませるともう眠い。
だがそこで即寝るわけにもいかない。
それで食後三時間は起きてゐなければといふので起きてゐて、そのうち布団に入るころには眠たくなくなる、といふのがいつもの流れである。

ところで昨日つひ編んでしまつたのにはわけがある。
手持ち無沙汰だつたからだ。
なにか、かう、することがほしい。
そして、目の前には編みかけのリカちやん用の上着が放置されてゐる。
といふわけで編んでしまつた。
編んで、指にはあまりよくないかなあといふので即やめた。
無念である。

もしかしたらタティングレースの方が負担が少ないかな、といふ気もしないでもない。

……やめておくが吉か。

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Friday, 22 June 2018

隣の男が壁を抜けたつてね

「怪奇大作戦」の上映会イヴェントがあるのださうな。
ときは2018/8/19(日)、ところは和光大学ポプリホール鶴川とのこと。
まだ詳細は確認してゐないが、「壁抜け男」と「霧の童話」を上映するのらしい。

「怪奇大作戦」は放映開始から今年で五十年、なにかしら記念イヴェントがあるだらうと思つてゐた。
よかつたよかつた。

円谷で五十周年でイヴェントといふことで、一昨年の「ウルトラマン落語」や去年の「ウルトラセブン落語」のやうに「怪奇大作戦落語」もあるとといいんだけどなー、と思ひはすれど、もちろんあるとは思つてゐない。
今年も「ウルトラセブン落語」は開催されるのだとは聞いてゐる。
こちらはときは2018/9/16(日)、ところは日本教育会館一ツ橋ホールださうな。
落語家は柳家喬太郎と柳家喬之助、ゲストに森次晃嗣とひし美ゆり子が出るといふ。今年は紙切りの林家二楽の名前がないのがチト残念。

去年の「ウルトラセブン落語」は上野の鈴本演芸場で、このときはゲストに森次晃嗣が来た。
いやー、もりあがつたねー、「特別ゲストです」つて呼ばれて出てきたときには。
場所が鈴本だからか、あまりウルトラに興味のない客もゐたやうなのだが、といふのは最初に「私情最大の侵略」のマクラで喬太郎がかなり客席のやうすを探つてゐたやうに見受けられたのでさう思ふのだが、いやでもさ、「ウルトラセブン落語」ですよ。ちやんとさう銘打つてるんだからさ、盛り上がるでせう、そりや。

登壇した当初は年相応に落ち着いて見えた森次晃嗣が、喬太郎・喬之助・二楽とのトークが進むうちにどんどん生気に満ち、若返つていくのがわかつて、とてもおもしろかつたし、さういふ姿を見てこちらも気分が昂揚していくのを覚えたことが忘れられない。

さういやこのとき二楽は「フジ隊員はお姉さんといつた趣だつたけれど、アンヌ隊員は、ね」と、アンヌ隊員好きなことを話してゐた。
もともとは別の人が配役されてゐたのが急遽変はつので制服の変更が間に合はず、ぴちぴちな感じで着てゐた、といふ話の流れからだつたと思ふ。
実相寺昭雄は逆なことを云つてゐたやうな気がするけれど、おもしろいねー、さういふものなのねー、と思つたりもした。
さういへば、冒頭に書いた怪奇大作戦イヴェントにはそのフジ隊員・桜井浩子もくるのださうな。

一昨年の「ウルトラマン落語」のときはやつぱり鈴本演芸場で下席の十日間、「ウルトラ喬タロウ」と題して喬太郎がウルトラマンネタの噺をかけたのだが、ウルトラセブン落語はその日一度きりだつた。
このときかかつた噺は「ウルトラ仲蔵」や「抜けガヴァドン」などほかの落語会で聞くこともある噺もあるのだが、「私情最大の侵略」と「セブン段目」がほかでかかつたといふ話は寡聞にして聞いたことがない。あるのかなあ。
九月の会では新作をかけるのか、それとも「私情最大の侵略」をリファインしてくるのか、気になるところではある。

「セブン段目」も好きなんだよなあ。
おそらく、元ネタの「七段目」にしたつて、歌舞伎を見たことのない人にはなにがおもしろいのかよくわからない噺なのだと思ふ。
若旦那と貞吉とのやりとりがなんとなくおもしろいから笑へるのであつて、元ネタがわかつて笑つてゐるばかりでもないだらう。
聞いたことはないけれど、昔は声音でやつたりもしたんぢやないかなあ。
圓生の「掛取万歳」の芝居の部分はものまねが入つてゐて、あんな感じで「七段目」をかけることもあつたんぢやあるまいか。
「あたしは播磨屋でいくから。貞吉、おまへはどうする」「あたしはぢやあ、歌右衛門で」「大成駒。おまへも目が高いねぇ、うんうん」なんてな感じでさ。

でもいまそれをやつてもおほかたのご見物には通じない。
それでとくに誰といふことに言及せずにやるやうになつてゐるのぢやないかなあ。
だつて芝居好きだよ、若旦那も貞吉も。
絶対自分の好きな役者のまねでやりたくなるつて。

「七段目」の不満になつてしまつたが、ともかく、「セブン段目」は「マニアつてかうだよね」といふ楽しさにあふれた噺なので、聞きたいのだが、しかし、多分、話して二席だよね。
一席は新作がほしいし、さりとては、だ。
九月までこんな感じで楽しめるといふのもまた一興ではある。

ところで、二月の落語会で、喬太郎はちらりと「今年は「怪奇大作戦」が放送開始五十周年」と云つてゐた。
そこはそれだけで終はつてしまつたのだけれども、なんかどこかでちよこつと話したりしないか知らん。
しないか。
しないな。
「ウルトラセブン落語」のマクラとかで、ちよろつと、とかさ。
期待はすまいと思ひつつ、してしまふ。

まあでも、「怪奇大作戦落語」つて、素人でも考へつくよね。
以前こんなことをつぶやいてゐる。

牧さん 隣の男が壁を抜けたつてね
ノム へえ
改訂版はこんな感じ。
助さん 隣の男が壁を抜けたつてね
ノム へえ
さおりちやん カッコい〜!
これでちやんと「怪奇大作戦落語」になるぢやないですか。
#なりません。

そんな「壁抜け男」の上映される八月、そしてよくわからないけれども「ウルトラセブン落語」のかかる九月と、今年も円谷的に楽しめさうでなによりぢやよ。

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Thursday, 21 June 2018

拡張と集約

PoIC を参考に5×3の情報カードにあれこれ書き付けてゐる。
一週間に二十枚から三十枚くらゐ書いてゐる。

たまつてきたのはいいけれど、これ、どうしたらいいんだらう。
定期的に見返してまとめたりなんだりすればいいのだらうけれど、それにはまだ数が足りない。

マンダラートといふアイデア発想法がある。
野球の大谷翔平選手が使つてゐたことがあるといふ話も聞く。
マンダラートでは、正方形を三×三の九つのマスに区切り、真ん中のマスに主題を書いて周囲のマスに主題から思ひついたことを書く。
周囲のマスに書いたことを別の九つのマスの真ん中のマスに書いて、周囲に思ひついたことを書く。これをくり返していく。

マンダラートの本などを読むと、人の思考はリニアではない、とある。
ノートにアイデアを書き付けていくと、どうしてもリニアになつてしまつて、発想がひろがつていかない。
そこで、マンダラートの手法を使つてどんどん発想をひろげていかう、と、かういふわけだ。
マインドマップにも似たところがある。

人の思考といふのはリニアではないのかもしれない。
あることについて考へてゐたはずなのに、関連する別のことを思ひついてしまひ、そこからさらに連想が進む。
さういふこともある。
この場合、罫線のあるノートに上から順番に書いていくと、うまくいかない、のらしい。
マンダラートなりマインドマップなり、連想をひろげるやうな仕組みを利用した方がいいといふ。

問題は、マンダラートにしてもマインドマップにしても、広がりすぎてしまふことだ。
収拾がつかない。
どうしやう、と思つてゐたら、マインドマップに精通した人がいふには、マインドマップで拡散したら、次は集約する作業が必要なのだとか。
そらさうだよな。

そして、ここからは個人的な考へだが、集約するときはリニアな方がいい気がしてゐる。
これもアイデア発想法の本で読んだ話だ。
その人は、おもしろいと思つたものは、とにかくかたつぱしからメモを取るのだといふ。
取つたメモはこれまたかたつぱしからノートに書き付けていく。順番は気にせず、とにかく書く。
そして、一ヶ月くらゐたつたら見返して、これはおもしろいと思つたものを別のノートに書き抜く。このときも内容ごとに書いたりせず、時系列に書き付けてゆく。
かうして書き抜きを集めたノートを持ち歩いてひまなときにめくつてみるのださうだ。
ノートに書くのは、いつでもどこでも見返しやすいからだといふ。

かうして考へてみると、情報カードはやつがれにとつてはマンダラートとかマインドマップのやうなものだ。
まづ書き出す。
拡張することだけを考へる。

集約がまだできないんだよなあ。まだ、といふか、苦手な気がしてゐる。

情報カードはもうかなりの枚数になつて、でも集約するにはまだ足りない。
もうちよつと増やしつつ、集約について考へていくか。

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Wednesday, 20 June 2018

はじめての歌舞伎の本

中学生の時にたまたま入つた音楽室の準備室に歌舞伎の本があることを発見した。
A4変形だらうか大きなサイズで、写真がたくさん載つてゐる、ムックのやうな体裁の本だつた。
音楽の先生に無理にお願ひして借りてきて読んだ。
といふよりは、見た、かな。なにしろ写真の多い本だつた。

題名も忘れてしまつたし、出版社はどこか大手だつた、くらゐしか覚えてゐない。講談社だつたかなあ。
表紙は写真を寄せ集めてきて作つたやうな感じで、開くと坂東玉三郎の藤娘の写真が掲載されてゐた。
この本を見る前に知つてゐた役者は玉三郎くらゐだつたと思ふ。
この本で、中村歌右衛門と実川延若とを覚えた。
ふたりともヴィジュアルが強烈だつたからだ。

実川延若は、「関の扉」の関兵衛実ハ大伴黒主の写真が抜群によかつた。
鉞を下にして足をかけた形がいいし、とにかく表情といはうか顔の造作といはうかがこの世のものではないかのやうな様相で、このまま浮世絵にしたいやうな風情だつた。
ほかには当然「楼門五三桐」の五右衛門や、「封印切」の忠兵衛など、結構いろんな写真が載つてゐたやうに思ふが(なにしろこの本で覚えたんだからね)、なにをおいても黒主。

歌右衛門といへば忘れられないのが「鴛鴦襖恋睦」だ。
鴛鴦になつてからの姿で福助だつたころの梅玉と踊つてゐる場面の写真があつたのだが、失礼ながら化け物にしか見えなかつた。
幽霊といへばさうなのでさう間違つてはゐないのかもしれないが、実際に見るまでは「鴛鴦襖恋睦」は怪談なのだと信じてゐた。
それにしては明るいし衣装も華やかだなあ、とふしぎではあつたのだが。

あと、道成寺の道行の花道で鐘を見込んだところの表情なんかもものすごく怖かつた。
延若の黒主もさうだつたけれど、「これ、絶対この世のものぢやないから!」といふ顔付きだつた。
写真だから怖いのであつて舞台を見てゐれば自然と流れていくのでそんなことはなかつたのかもしれない。
とはいつても歌右衛門の玉手御前は怖かつた。
花道から出てきて戸の前にたどりつくまでの幽鬼のやうな風情や、「かかさん、かかさん、ここ開けて」の黄泉の国からやつてきたかの如き声音がいまでも忘れられない。

異形のもの。
ふたりともそんな感じだつた。

この本には、実際に芝居を見るやうになると「え、この人、ほんとにこんな役やつたの?」といふやうな役の写真が出てゐたりもする。
福助だつたころの梅玉のお嬢吉三とかね。きれいですてきだけれど、つひぞ見たことがない。見てみたかつたなあ。
見てみたかつたといへば、菊五郎と孝夫時代の仁左衛門のおまんまの立ち回りの写真もあつた。
「岡崎」は二世鴈治郎と扇雀時代の藤十郎。
海老蔵時代の十二代目の團十郎の弁天小僧菊之助の写真もあつたなあ。
おそらく染五郎時代の白鸚の春永と吉右衛門の光秀の「馬盥」もあつた。
「河内山」の写真が羽左衛門だつたのもいまとなつてはちよつと意外だ。先代の白鸚とか十七世勘三郎とか、いくらでもありさうなものなのに。

それから忘れられないのが宗十郎・先代の時蔵・先代の錦之助が赤姫のこしらへでならんで写つてゐる写真。モノクロだつたけれど、これがきれいで可愛くてねえ。
どんな芝居だつたんだらうか。芝居ぢやなかつたんだらうか。楽屋で撮つた写真のやうでもあつたし。

こんな感じで実際に芝居を見る前から芝居や役者の名前は覚えてゐた。
それでいまでも頭でつかちなところが抜けないのかとも思ふ。

それにしても、この本、ほしかつたなあ。
古本屋に行けばいまでもあつたりするか知らん。
表紙を見ればそれとわかるとは思ふのだけれども。

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Tuesday, 19 June 2018

葛藤と妥協

時計は修理してもらふことにしたので、せつせとマクラメをつづけてゐる。
マクラメといはうか、手だけで組む丸四つだたみ、ね。

とはいへ、そんなにものすごく進展してゐないのは、やはり腱鞘炎だからだらうか。
リカちやんの服を編んでゐると書いたけれど、昨日は編めなかつた。腱鞘炎にかかつてゐる左手の中指が痛いからだ。
昨日も書いたとほり、ばね指のやうな現象は起きなくなつてゐるし、痛みもだいぶおさまつてきてゐるやうに思ふ。
でもまだ手を握るときに中指には力が入らない。
ムリに握らうとすると痛い。
できるだけ安静にしつつ、ときどき折り曲げて調子を見てゐるところだ。
ばね指は、腱鞘を広げるところからはじめないと、といふ話も聞いたのでね。

といふわけで、タティングではなにもしてゐない。
土曜日にエミーグランデを買ひに行つたときに、クロバーの紺色のシャトルを買つてしまつたくらゐか。
赤いのと紺色のと、このシャトルだけは買つたことがなかつた。
ものすごく久しぶりに手芸店に行つたので、目に付くものがなにもかもほしい気分になつてしまひ、一方で「家にあれだけあるぢやないか」と泣く千代に訴へる松王丸な気分にもなり、葛藤がものすごかつた。

結果、タティングレースに関するものは(エミーグランデでタティングするかもしれない可能性もないとはいへないけれど)、これまで買つたことのなかつたクロバーの紺色のシャトルを買ふことで妥協したのだつた。
妥協つて、「あれもほしいこれもほしい」と騒いでゐる自分と、だけどさ。

かぎ針編みがムリな状態ではタティングはもつとムリだ。
タティングの方が左手の中指をたくさん使ふものね。
テーピングで固定したらできるかな、とも思ふが、さうしたら糸とテープとが干渉しあふだらうし。
よくはなつてきてゐると思ふのでもう少し様子を見て、タティングレース再開はそれからかな。

それまでは、できる範囲で丸四つだたみだな。
時計もいつ返つてくるともしれないし。

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Monday, 18 June 2018

小さ過ぎる

腱鞘炎はあひかはらずだが、ばね指にはならなくなつたやうに思ふ。
夜寝るときだけテーピングをしてゐて、これがいいのかな、とも思ふ。
朝目が覚めたときにうつかり握つてしまつてばね指になつてしまつてゐたからだ。
なるべく使はないやうに、と思つてゐたのだが、日曜日にはこんなものを編んでゐた。

Experiments

リカちゃんのオールシーズンクローゼット」を参考にしながら、フード付きの上着を作らうと思つた。
それで土曜日に久しぶりに手芸屋に行つて、エミーグランデを買つてきたのだつた。

この本に掲載されてゐる上着はスフレや25番刺繍糸、モヘアなどを使つたものばかりで、エミーグランデで編んだものがない。
そこで長さだけ参考にしつつ、目数段数は探りながら編んでみた。
その結果がこれである。

Experiments

をかしいなあ。
はかりながら編んでゐたはずなのになあ。
どうも、くさり編みのあと細編みや長編みをしばらくすると短くなるんだな。
それをうつかり忘れてゐて、こんなことになつてしまつたのらしい。
ゲージはとりませう、といふことか。

Experiments

でもまあ仕組みはわかつたので、気を取りなほして新たに編み始めた。
失敗した方は、参考になるのでしばらくはこのままとつておくつもりである。

それにしても、リカちゃんはなにを着せてもらりぃであることよのう。

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Friday, 15 June 2018

それは鬱ですか

実のところあなたは鬱に悩まされてゐるわけではないのかもしれません。

そんな記事を読んだ。

記事の中では、鬱ではなくてacediaに悩まされてゐるのではないか、といふことだつた。
acedia は怠惰だとか無精、無感動や無関心、無気力と訳されるやうだ。
やる気を失ふと次第に生きることへの意欲も失はれていく、さらにやる気を失ひ、あとは負の連鎖だ。

日曜日、目が覚めてなにもする気がしない。
土曜日は出かけてゐたし、今日掃除や洗濯をしないともうする日がない。
わかつてゐるが起きあがれない。
なんとか起きあがつても、椅子に腰掛けてゐるだけでつらい。
本も読めなければあみものすらする気にならない。
なぜ自分はすべてのことに対してやる気がないのだらうか。
人間として、どうよ。
生きてゐる価値なんてあるのだらうか。
ダメダメぢやん。

結局、この日の不調は睡眠負債が山積みになつてゐる上に低気圧がきてゐたからだ、とあとから自分でもわかつたのだが。
わかつたからといつてなにも楽にはならないのだつた。
acediaといふのは、かくも強烈なものなのか。

acediaをなんとかするには、くり返し行ふことをはじめてみること、らしい。
やつがれの場合で云へば、部屋の片付けだらう。
日々くり返しやる必要のあることをくり返し行ふ。
それだけで違ふといふ。
記事では社会貢献や日記などをつけること、ヨガや運動などもあげられてゐる。

それにしても、だ。
平日は毎日出勤してゐるし、出勤後にすると決めてゐることはやつてゐる。
日記といふか Bullet Journal は日々つけてゐるし、毎日或は決まつた間隔で行ふことはそれなりにやつてゐるつもりなんだけどなあ。
それでもacediaに悩まされるのだらうか。
それともこれはacediaではないのだらうか。

常態が鬱寄りなので、鬱には悩まされるといふ感じはあんましないんだけどな。
やはりこれはacediaなのであらうか。

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Thursday, 14 June 2018

いまさらorenz nero

ORENZ NEROはずつと気になつてゐるシャープペンシルだつた。
シャープペンシルは使はなくなつて久しい。
いつのころからか、えんぴつを好んで使ふやうになつた。
それでなければ万年筆だ。
気になる理由は、その売れ行きだつた。
どこに行つてもない。
いつでも品切れだ。
そこで、どんなものだらうといふので、ORENZを買つてみた。

最近のシャープペンシルの芯の書き心地といつたら。
考へてみたら、高校生のころからシャープペンシルの芯はぺんてるのものを使ふことが多かつた。
たまにUni。そんな感じ。
しばらく使はないうちに、シャープペンシルといふのはこんなに書きやすいものになつてゐたのだなあ。
しみじみさう思つた。
なんていふのかな、それこそ「三日会はざれば刮目して相待すべし」といつたところだらうか。
シャープペンシルとの邂逅は、三日ぶりなんてなものではない。
まさに刮目して相待するしかない。
そんな感じだつた。

普通のORENZで満足したので、ORENZ NEROはもういいかな。
正直云つて、さう思つた。
相変はらず店頭では見かけないし、Webで検索をかけても売り切ればかりだし、これはもう手には入らないのだ。
さう思つてゐた。

出会つちやつたんだな、これが。

たまたま東京駅付近に用事があつたので、ぶらりと丸善丸の内店に立ち寄つたのが運の尽きであつた。
あるぢやないか。
ORENZ NERO。
あるにはあるけれど、0.2はもう残り一本だつた。
気がついたら会計の列に並んでゐた。

ORENZはすでに使つたことがあつたので、使用するのに戸惑ふことはなかつた。
ただ、最初に芯が見えるところまでノックするといふことは忘れてゐた。
そこはちやんと取扱説明書を見てゐたので問題なかつた。

ORENZとORENZ NEROとの違ひは、重さだらうか。
ORENZ NEROは書かうとしたときにずつしりとした重さがある。
重心は握るあたり、或はもつと先の方だらうか。
万年筆では尻軸の方に重心がある方が好きだが、書いてみるとシャープペンシルならこれも悪くない。
万年筆だと太めの軸が好きだが、えんぴつならこれくらゐだよね、といふ太さでもある。

芯は、これはもう、好き好きの問題で、ぺんてるの芯は好きだなあと思ふ。
なめらかな書き心地で、個人的にはRhodiaとの相性が抜群だと思つてゐる。すひつくような感触があつて、ずつと書いてゐたい気になるのだ。

なるほどねえ。
売れるわけだよね、ORENZ NERO。

マットブラックなところもいいし、お気に入りの一本がまたここに、といつたところだ。

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Wednesday, 13 June 2018

健康によいこと

世の中で「これは心身の健康にいいよ」と云はれてゐることで試してみたことのないことがいくつかある。

ひとつは瞑想だ。
瞑想は、米国の西海岸あたりからやつてきたのではあるまいかといふ偏見がある。
キリスト教に足りないものを他の宗教からもつてきて、それをちよつとアレンジしてみました。
最近流行つてゐる瞑想にはさういふイメージがある。

瞑想と近いと思つてゐるものに座禅がある。
やつがれの理解では、姿勢を正して座り心の中(頭の中でもいいが)を無にするもの、だ。
無の境地に至ることが重要で、それ以外に目的らしいものはない。

しかるに瞑想といふものは、瞑想をすることによつてなにか得をしやうといふ心根が見え隠れする。
それがどうにも賤しいものに感じられてならない。

なにを気取つてゐるのだ。
だれだつてなにかをすることで別のなにかを得やうとしてゐるぢやあないか。
おまへだつて例外ぢやあない。
さういふ声も聞こえてくるが、瞑想をあさましい気持ちで行ふのがどうにもしつくり来ない。

やつてみてやめたこともある。
早寝早起きがそれだ。
一時は朝五時とか五時半とかに起きるやうにして、出勤までのあひだにそれまで夜してゐたことをしやうとしてゐた。
うまくいくかと思はれたが、いかなかつた。
歌舞伎座の夜の部やソワレに行つて帰つてくる前に就寝時間がやつてくるからだ。
早寝早起きをはじめる前に睡眠不足を解消できてゐればそれでも問題なかつたのかもしれない。
睡眠不足のまま早寝早起きをはじめたのがよくなかつた。

柔軟体操はしたりしなかつたりだ。
一度のばし過ぎて腿の裏を痛めてしまひ、柔軟体操どころか普段の立ち居にも困るやうになつてしまつて、それ以来なかなかつづかない。
ただ、酒飲みのともだちや一緒に京都散策などをするともだちと、「お互ひいつまでも元気でゐやうね」などと語りあつてゐる手前、柔軟体操はやめられない。
ある程度年を取つたら筋力よりも柔軟性だといふ話も聞くしね。

かうしてみると、まづ一番になんとかしなければならないのは睡眠不足の解消、最近の流行りことばでいふと睡眠負債の返済だらう。
これがなかなかうまくいかない。

これもここに以前書いたやうに、日々の生活の記録をとるやうにしてゐる。
朝何時に起きて何時に家を出て、何時に出勤して何時に退勤し、何時に帰宅して何時に夕食をとり、その後なにをしたかを時刻を記録しながら就寝をむかへる。
最近はスマートフォンのアプリケーションにさういふ記録を取ることのできるものがあるので、比較的簡単にできるやうになつてゐる。

この記録を見返してみると、もう切り詰めるところがどこにもない。
とくに先月から職場が移転して、さらに通勤時間がかかるやうになつてしまつた。
仕方がないので最近は湯舟につかるのは週に何回かにして、あとはシャワーで済ませてゐる。下手すると一週間ずつとシャワーだけのこともある。
あと削るとしたら夕食の時間、ともここに以前書いた。
夕食をとらないことにすると、食べる時間だけでなく支度や後かたづけにとられる時間も浮くからだ。
そして、食べてゐないので早めに布団に入ることもできる。

こんな状況では瞑想をしやうにも使へる時間がない。
そんな時間があつたら寝るよ。

といふわけで、目下の急務は睡眠不足の解消、と、もう何年も思つてゐる。

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Tuesday, 12 June 2018

利き手ぢやないのに腱鞘炎

昨日医者に行つたら、左手の中指が腱鞘炎だと診断された。
実は三ヶ月ほどまへにおなじ病院に行つて、「左手の中指が痛いんですけど」と訴へたところ、その日の担当医に「その程度(の痛み)で病院へ?」と鼻で笑われて、そのままになつてゐた。
昨日はまた別の医者だつたのだが、塗り薬を処方するけれどこれが効かなかつたら痛い注射を三本打つ、それでもダメなら手術だと脅された。
「その程度で病院へ?」ぢやなかつたんかい!
夜はともかく朝起きてすぐなどはいはゆるばね指の症状が出ることもある。といふか、それを「ばね指」と呼ぶのだといふことを昨日もらつた腱鞘炎の説明パンフレットで知つた。
どうするんだよ、手術とかいふことになつたらよう。

しかし、左手である。
やつがれは右利きだ。
左手のしかも中指つてどういふことよ。
と思つて夕べ家に帰つてからかぎ針編みをしてみたところ、案外左手の中指を動かしてゐることに気がついた。
とはいへ、右手の比ではない。
なんなんだらうなあ。
思ひつくことといへば、電車の中で本を読むときに本を支へてゐるのは左手といふことと、マウスは左手で使つてゐるといふことくらゐかなあ。
そのマウスもそんなにしよつ中使ふわけではないしなあ。

左手はしばらく安静にしてゐないといけないのらしい。
かぎ針編みがダメといふことは、タティングレースもダメだらうな。
タティングレースの方が左手の中指を動かす印象がある。

ときどき、あみものかタティングレースか、あみものも棒針編みかかぎ針編みか、いづれかにしぼつた方がいいのではないかと思ふことがある。
どれもやるなんてムリ。
ムリではないけれど、時間が足りない。
どれかに注力した方がいいのぢやあるまいか。
さう思ひつつどれもやめられてはゐない。

タティングレースはなあ、お道具が可愛いからなあ。
タティングシャトルとか、手に乗せただけでもなんともらりぃだ。

いづれにしても、まづは指の痛みを癒すところから、かのぅ。

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Monday, 11 June 2018

心理的ブレーキ

あひかはらず、このまま編めなくなるのではないかと思ふくらゐ編めてゐない。

理由はわかつてゐる。
ひとつは疲れてゐるからだ。
先週は日曜から月曜にかけて福岡に行つてゐて、その疲れのとれぬままに日々働き、土曜日は落語会に行つて、昨日の日曜日にはおそらくは低気圧からくる不調に負けてしまつた。
その前の週からずつと疲れは引きずつたままだしね。

もうひとつの理由は、編みかけがふたつあるからだ。
編みかけで、どちらももうすぐ編み終はる。
編み終はつたら仕上げをしなければならない。
仕上げる気力がどうにもわかない、といふ話は先日も書いたとほりだ。

編んでゐる最中のものがあるのだから、新たなものを編み始めてはならない。
さういふ心理的なブレーキがきいてゐる。

以前は、気にせず編み始めてしまつたこともあつた。
さうしていづれも仕上がらないなんてなことも日常茶飯事だつた。
その轍を踏んではならない。
さういふ思ひもあるのだらう。
といふか、ある。

解決策は、ふたつほど考へられる。
ひとつは、かまはずに新たなものを編み始めることだ。
今度編むものは着るものになる予定なので、いづれにしてもゲージをとる必要がある。
ゲージを編むといふ名目で、新たに編み始めるといふのも手だ。

もうひとつは、しかかり中のものを最低でも編み終へてしまふことだ。
とりあへず編んでしまへばあとの仕上げは時間のあるときで、といふことになる。
編む必要はないのだから、新たなものを編み始めてもかまはない。

後者が理想的ではある。
といふわけで、今夜にでも「探偵物語」でも見ながらかぎ針編みのショールを編み上げてしまはうかな。

と、書いておけばするだらう。多分。

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Friday, 08 June 2018

疾走感考

先月シアターコクーンで「切られの与三」を見た。
コクーン歌舞伎の中で見たものとしては、結構おもしろいと思つた。
第一幕こそ単なるダイジェストだなと思つたものの、第二幕のいはゆる「源氏店」で、掛軸の絵が抱一の寒牡丹を模したもののやうに見えて、そこからすつと芝居の世界に入つていけたやうに思ふ。
「抱一でございますね」などといふやりとりはいつさいなかつたけれど、ないのに抱一といふのが気に入つた。
もつともやつがれの見た狭い範囲でいふと、あの抱一の掛軸は芝居の中の季節よりは実際に上演されてゐる季節にふさはしい絵をかけるやうで、そこは違ふんだけど、まあ、細かいことはいい。

見てきた人の感想などを見ると、一様に「疾走感を感じた」といふやうな表現に出くはした。
劇評家の評の中にもあつた。

疾走感。

あつたつけか、「切られの与三」に。

感じなかつたなあ、不明にして。

どちらかといふと、struggling で crawling な印象を受けた。agonizing といふかさ。
疾走する agony といふものもあるのかもしれないが、どちらかといふと身を絞つて悶える感じかなあ、agony。

なぜさう感じたのか。
「切られの与三」の中で、与三郎は、あまり自分からどうかうしやうとはしない。
流されるままに木更津に行き、一目惚れの勢ひにまかせてお富といい仲になり、切り刻まれて元の暮らしに戻れなくなつたところを蝙蝠安に拾はれて、成り行き任せで押借強請を覚える。
なんか、かう、「自分からかうしやう」と思つてしたことがほとんどない。

これが「切られ与三」といはうか「与話情浮名横櫛」の与三郎だと、木更津に行くのは一応みづからの意思である。
こどものない家に養子としてもらはれて行つたら弟が生まれてしまつた。
親は実子に家をつがせたからう。
さう勝手に思ひなしての放蕩三昧、その末の木更津行きだつた。
そこが「切られの与三」の与三郎とは違ふ。

みづから思ふところもなくただ流されていく状況には疾走感を覚えなかつたんだよなあ、多分。
ただ流されるにしても、もつと急転直下の大波乱とかあれば、感じたかもしれない。
あのあと、いろいろ考へた。自分はどういふものに疾走感を感じるのか、と。
「マッハGoGoGo」の主題歌が最初に頭に浮かんだが、あれは曲想がさうなのであつて、あまり参考にならない気がした。

はたと気がついたのが、「早發白帝城」だ。

朝辞白帝彩雲間
千里広陵一日還
両岸猿声啼不住
軽舟已過万重山
の「千里広陵一日還」なんて最高に疾走してゐる感じがするし、「軽舟已過万重山」といふのも軽快で速い。
辞すといつてゐるのだから、みづから白帝城をたつて広陵に向かつたのだらう。
舟をあやつつてゐるのは船頭だらうが、広陵に向かふのは自分の意思だと見受けられる。

あと「赤壁賦」の「短歌行」引用から「固一世之雄也」までのくだりにも疾走感を覚える。
壬戌の秋七月だつたはずの長江が、一気に建安十三年の冬に様変はりする。
蘇子と友とを乗せた舟だけだつたはずが、千里と連なる船団が江に浮かび、はためく旗が空を覆ふ。
それがほんの数十文字のうちに展開される。
その速さ。

ここにはそれほど登場人物の意思の力は感じない。
その一方で、流されてゐるといふ印象もない。

おそらく、自分にとつて疾走感とはみづからの意思を伴ふものなのだらう。
それで「切られの与三」には疾走感を覚えなかつたのだ。

だからといつて、「切られの与三」がつまらなかつたといふわけではない。
最初に書いたとほり、おもしろく見た。
ただ、見た人々の云ふ「疾走感」といふものがどこからやつてきたのかがわからない。
知りたいと思つても、もう見ることもかなはぬやうだ。
残念。

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Thursday, 07 June 2018

のほほん羽田空港

日曜日に二年ぶりに羽田空港に行つた。
なぜかその場の雰囲気がなんとものんびりしてゐることに気がついた。
あくせくしてゐる人などひとりもゐない。
みなゆつたりした足取りで歩いてゐる。
たまにすこし早足な人は、客室乗務員や地上勤務の職員とおぼしき制服を身につけてゐる。

ふしぎだ。
空港なんて「出発の十五分前までには保安検査場をお通りください」だとか「出発の十分前までには搭乗口までお越しください」だとか、とにかく行動が時間に縛られることばかりのはずだ。
新幹線なら発車のベルが鳴つてゐたつてまだドアが開いてゐれば飛び乗ることもできる。
飛行機はそれがきかない。
十分前だらうがなんだらうが、時間までに乗るといふことは一緒だが、精神的な負担は飛行機の方が圧倒的に重たい。

なのに、さういふ圧力をまるで感じなかつた。
午後の早い時間に離陸する予定の機に乗ることになつてゐたので、昼食を空港で済ませやう、それにはちよつと早めに行つておかう、といふので、出発の二時間以上前には空港についてゐた。
時間に余裕はある。
だが、このままこののほほんとした空気に浸つてゐたら、出発の時間までダラダラしてしまふのではあるまいか。
そんな不安を覚えるほど、世の中の空気は弛緩してゐた。

新幹線の駅だつたらあり得ないことだ。
とくに最近の東京駅や品川駅はひどすぎる。
東京駅なんて、かつてはターミナル駅の中では比較的乗り換へやすい、いい駅だつた。
渋谷駅や新宿駅は乗り換へでさへ使ひたくないと思つてゐたが、東京駅はそんなことはなかつた。
それがどうだらう。
いまの惨状。
乗り換へでさへ使ひたくないよ、東京駅なんて。
人がひしめいてゐて、それも大きな荷物をずるずる引きずりながら時にはスマートフォンを眺めつつ歩いてゐるやうな、さらには連れ全体がさういふ状態といふやうな、そんな人間がたむろしてゐる。
混沌とした地獄絵図をみたいならぜひ東京駅をおすすめする。
さうして、苛々するわけだ。
こちらが行きたい場所ははつきりしてゐるのに、目の前にゐるどこに行くのか目的意識を持つてゐないんぢやないかと思へるやうな有象無象のゐる中で、いつたい自分にどうしろといふのか、と。

どこに行くのか目的意識を持つてゐないやうに見受けられる、といふ点では羽田空港もそれほど変はらない。
もちろん、どちらの場合も最終的な目的地ははつきりしてゐるのだらう。
だが、そこに向かふのに、まづどこへ行けばいいのかわかつてゐる人は少ないやうに見受けられる。
空港でいへば、第一ターミナルに行けばいいのか第二ターミナルなのか、といふのがまづは問題だ。
第一は国際線で第二は国内線といふ大きなくくりはあるものの、第一を利用する国内線もある。
正しいターミナルについたとして、どの保安検査場を通過すればいいのか、といふ問題がある。
そして何番から出発するのか。
それをまづは確認しなければならない。
場合によつては出発する場所が途中で変更になる場合もある。

それにしては、みんなのんびりしてゐるんだよなあ。
日曜日の昼間だつたからだらうか。
東京駅や品川駅に比べて空間が広くゆつたりしてゐるからだらうか。
飛行機に乗らうなんて人はみんな時間に余裕を持つて空港にやつてくるからだらうか。
全部かな。

なぜかは知らず、とにかく精神的にとても安定した心持ちになつたのだつた。
こんなことは絶えてなかつたことだ。
だいたい、時間に縛られるのがダメ、とは、常々ここにも書いてゐるとほりである。
何時にどこに行くには何時の電車に乗つて、それには家を何時に出ねばならず、そのためには食事の支度は何時にはできてゐなければならないし、それには朝何時に起きなくてはならないから夜は何時までには寝なければ。
さう考へるだけでぐつたりしてしまふ。

それが、今回はほとんどなかつたんだなあ。
すくなくとも羽田空港では。
昼にはまだ早い時間だつたので空いてゐる店内でのんびりと昼食をとり、時間があるから書斎館をゆつくりと見てまはり、離着陸時に耳を守るための飴を忘れてきたことに気がついて飴を買へるやうなところを探して歩く。
そのあひだ、せかせかとした気分にはまつたくならなかつた。

いつもかうだといいのだがなあ。
それだと遠征ももつと気楽に行けるのだが。

来月は大阪松竹座に行く予定だ。
新幹線で行くつもりである。
このときのやうにのんびりと行けるといいのだが。

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Wednesday, 06 June 2018

カリスマとシンドロームの違ひ

先日、TVドラマ「新・座頭市」で北村和夫の演じた僧侶について「カリスマ性」と書いて、「(といふことばもいまは安くなつてしまつたが)」とつづけてしまつた。
「カリスマ」といふのは超然としたもの、通常では得難いもの、さういふ資質を持つた人物に本来は使ふことばなのだと思つてゐる。

しかし、世の中には「カリスマ」が氾濫してゐる。
最近は云はないのかもしれないが、かつては「カリスマ店員」と呼ばれる存在がゐて、それも世にたつたひとりとかではなく、あちこちのお店にゐるのらしかつた。
「頭文字D」だつたか、「群馬のカリスマ」と呼ばれる人物がゐて、「つてことは、四十七都道府県全部にひとりづつカリスマがゐるつてことかい?」と思つたものだつた。
2700の「右肘左肘交互に見て」に出てくる「カリスマ」はよいとしても、この歌といふかコントといふかに「カリスマ」といふことばが出てくるのは「カリスマ店員」だとか四十七都道府県にひとりはゐるだらうカリスマの影響だらうと思ふ。

以前、中島梓が「シンドローム」だとか「症候群」といふことばをそんなに使つてくれるな、と嘆いてゐた話はここにも何度か書いてゐる。
何度も何度も使はれることでことばに手垢がつくから、といふことだつたと記憶する。
そのうちにことばの力も失はれていくのだらう、と個人的には思ふ。

「シンドローム(症候群)」は、病状につける名称なので、さう安くなつたり手垢がついたりはしないだらうとも思つてゐる。
十五年ほど前、SARSといふ呼吸器疾患が世界的に発生して大問題になつたことがある。
SARSとは Severe Accute Respiratory Syndromeの略で、重症急性呼吸器症候群と訳される。
「症候群」とは原因が明らかではない一連の症状につけられる名称であつて、さういふ症状が複数あり、世界的に大問題になつてあちらこちらで使用されることになつたからといつて、手垢がついたりことばの力を失ふやうなものではない。

そんなことを考へるのは、「カリスマ」はまた別なんだなあ、と思つたからだ。
「カリスマ」もまた、さういふ資質を持つ人物について使ふことばではある。
だけれども、あんまりあちこちで使はれてしまふと、「この人にはほんたうにカリスマ性がある」と思つたときに使ひづらいのだ。
かへつて失礼にあたるのぢやあるまいか。
さういふ気がしてしまふ。

さういへば、「大女優」とか「大物俳優」とかも使ひづらいことばになつてしまつた。
TVのワイドショーが「あの大物歌手が」とか「あの大女優が」などといふ煽り文句で番組の宣伝を打つものだから、「誰のことだらう」と思つて見てみたら、「え、この人が「大物」なの?」とか「え、この人が「大女優」なの?」といふことがくりかへしくりかへしあつたからだ。
そのうち「大」だけでは足りなくなつて「超」をつけてみたり、あれこれ手を尽くしてはゐるやうだが、一度インフレーションを起こしてしまふと、ことばといふものはデフレーションには向かはないものらしく、どうにもならない状況になつてゐると見てゐる。

「カリスマ」とおなじで「大女優」や「大物」もまた使へないことばになつてしまつた。
使へば相手に失礼なことになりさうだからだ。

「症候群」や「シンドローム」にはさういふことはない。
やつがれが知らないだけで、いまも原因不明の新たな症状に「なんとか症候群」だとか「かんとかシンドローム」と名前がついてゐることだらう。
中島梓はなにを心配してゐたのだらうか。
いまとなつてはわからない。

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Tuesday, 05 June 2018

分不相応なものを買うたばかりに

最近は昼休みにはタティングレースではなくてマクラメといふ名の組み紐作りにいそしんでゐる。

逆かな。組み紐といふ名のマクラメ、かな。

いづれにしても、丸四つ畳を道具を使はずに手だけで作つてゐる。
時計の鎖にするつもりでゐたが、当の時計がダメになつてしまつた。
修理が必要だ、といふのである。
ものはMONDAINEのちいさな時計で、腕にもできるし首からも提げられるやうになつてゐるものだつた。もつぱら首から提げて使つてゐたが、あるとき紐が切れてしまひ、その後は自分で作つたタティングレースのチェインを使つてゐたが、それもほつれてきてしまつた。

で、鎖になるやうなものを作らうといふので作りつつ、時計の電池が切れてゐたので交換しにお店に行つたら、修理が必要ですね、といはれてしまつたのだつた。

MONDAINEの時計なんぞを買つたのがあやまりだつたかのう。
さうも思ふ。

いい時計はそれなりにメンテナンスにも気を配つて使ふものらしい。
それができない人間には使ふ資格がない。
さういふものだらう。

とりあへず、修理はおいてまづは見積もりをしてもらふことにした。
つまり、丸四つ畳の鎖は宙ぶらりんの状態になつてしまつたといふことだ。
できあがつても、提げる時計がないかもしれない、といふことだ。

お店の話によると、もうおなじ時計は作られてゐないのださうだ。
鎖は単体で使へるとは思ふ。
それともこれは練習と思つて仕上げるべきだらうか。

気に入つてゐる時計なので、いづれ修理はするやうな気もするが。
ちよつと作る気が萎えてゐるのだつた。

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Monday, 04 June 2018

仕上げる気力

かぎ針で編んでゐたポーチはあと片方の持ち手をつけて糸端の始末をすればできあがるのだが。
そこでとまつてゐる。

仕上げをするときには気力が必要だ。
すくなくともやつがれはさうだ。
そしてその気力がいまはない。

「はじめることができたら五割はできたやうなもの」といふ話を聞く。
はじめるまでが大変だ、といふわけだ。
それもそのとほりかな、とは思ふ。
五月の連休にあはせて買つた糸にいまだ手をつけてゐないことを考へると、まさにはじめるまでが大変といふことだらう。

しかし、ことあみものに関しては、はじめるのはそれほど大変なことではないやうな気がしてゐる。
編みかけのまま放置してきたものがたくさんあるからだ。
最近ではさすがに編みかけで放置するものはほとんどない。
あつたとしても、冬のあひだ編んでゐて暑くなつてきたからやめた、みたやうなものばかりだ。
寒くなつてきたらまた手にして完成させてゐる。

「こんなものが編んでみたい」「手元に毛糸も針もある」「ぢやあちよつと編んでみるか」といふのが、あみものは容易な気がする。

問題は仕上げだ。
編み上げて形を整へて糸端を始末する。
これが如何に大事業であることか。
それまで編んできた手間とおなじくらゐの労力が必要な気がする。
百里の道は九十里をもつて半ばとせよ、といふやうなことばがあるが、そのとほりだと思ふ。

セーターなどでいふと、袖も編めたし、あと少しでできあがる、と思つて袖つけや脇のとじはぎに手をつけたが運の尽き、徹夜しても終はらなかつた、といふ過去もある。
それで、袖が編めたらその日はまづそれまでとして、翌日以降その後のことをするやうにしたほどだ。

今回作つてゐるのはポーチで、整形は必要ないと思つてゐる。
とにかく、編み上げて糸端の始末をするだけでいい。
それだけのことをする気力がわかない。

さうかうするうちに、市販のポーチでちやうどいいサイズのものを見つけてしまつた。
うーん、どうしたものかなあ。

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Friday, 01 June 2018

Never Ending or Beginning on an Ever Spinning Reel

夕べ、「ムーン・リヴァー」が流れてきて、そこから怒濤の映画音楽メドレーがはじまつてしまつた。

「ムーン・リヴァー」は、映画「ティファニーで朝食を」でオードリー・ヘップバーン演じるホリー・ゴライトリーが歌ふ歌である。
歌のお世辞にもうまいとはいへないオードリー・ヘップバーンのために、ヘンリー・マンシーニが最小限の音域で作曲したといふ話を聞いたことがある。

曲や歌詞も含めてだけれども、いつたいどこで覚えたのだらう。
不思議でならない。

映画はそんなに見ない。
「ティファニーで朝食を」はジョージ・ペパードが亡くなつたときかなんかに追悼番組としてTVで放映したんぢやなかつたかな。
さうぢやなかつたかもしれないけれど、とにかくTVで見た。

ヘンリー・マンシーニで映画音楽といふと、ほかにも「シャレード」とか「ピンク・パンサー(ではないのかな、邦題は。ま、いいか)」とか「ひまわり」とかいろいろ出てくる。

思ふに、昔は映画音楽の番組があつたのだらう。
TVに限らずラジオとかで、「なつかしの名画の主題曲集」みたやうな番組があつたのに違ひない。
さうでないと説明がつかないからだ。

「慕情」を歌へば、題名からの類推だらう、「追憶」が出てきて、さらに「卒業」が出てくる。
映画自体に関連性はないが、題名とあとはなんとなく雰囲気でつづいてしまふ。
「ゴッドファーザー愛のテーマ」ははづせないし、「ある愛の詩」なんてのもいまでも聞くことがないでもない曲だ。

「荒野の七人」には「大脱走マーチ」がつづくし、さうしたら次は「クワイ河マーチ」だ。

「007」のテーマが出てくれば、「ロシアより愛をこめて」「ゴールドフィンガー」「死ぬのは奴らだ」「For Your Eyes Only」と、歌へる歌が続く。
007といへばデュラン・デュランのPVの最後でサイモン・ル・ボンが名前を訊かれ、「ボン。サイモン・ル・ボン」つて答へるのにうつかり笑つてしまつたりしたよなあ。

セリフ込みで覚えてゐるものもある。
「カサブランカ」の「As Time Goes By」とか。
「風と共に去りぬ」の「タラのテーマ」とか。
あ、「フラッシュ・ゴードンのテーマ」なんかも歌詞よりセリフの方がメインくらゐの覚え方だつたりするな。

ここでMGMミュージカルに流れてしまふととりとめがなくなつてしまふので、真剣に避けてとほることも忘れない。
でも「カサブランカ」が出てくると連想でウッディ・アレンに行つてしまひ、「カイロの紫のバラ」から「Cheek to Cheek」を思ひ出せばMGMミュージカルまではあとほんの一歩だ。
スリリングである。

終はらない。
永久に終はらないんぢやないかとさへ思ふ。
さうすると「華麗なる賭け」の「風のささやき」が出てきて、さういやリメイク版の「トーマス・クラウンズ・アフェア」は見てないけどスティングのカヴァはイカすよなあ、といふので、つひつひ聞いてしまふ。

一夜明けても脳内には「シェルブールの雨傘」の主題曲が鳴つてゐたり、ときに「太陽がいつぱい」に変はつたり、川原泉ぢやないけれど「ジュテームだのモナムールだの」な世界に埋没しさうになる。

現実逃避?
さうかもしれない。

ここに出てきたので一番新しいのは「美しき獲物たち」だらうか。
その後も映画はたくさん作られてゐるし、いい映画音楽もいくつもあると思つてゐる。
「パシフィック・リム」の主題曲とかイカしてると思ふし、ミュージカル映画だつて作られてゐるし、邦画にもいい曲があると思つてゐる。
なのに出てこないのはなぜだらう。
やはり、「映画音楽特集」みたやうな番組がなくなつてしまつたからなんぢやあるまいか。
聞く機会がなくなつてしまつた、といふかさ。

それでなくても世の中は音楽であふれてゐるので、それはそれでいいのかもしれない。

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5月の読書メーター

5月の読書メーター
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脇役本 増補文庫版 (ちくま文庫)脇役本 増補文庫版 (ちくま文庫)感想
好きとはどういうことなのか、時折考える。この本は「好きとはこういうことさ」という一つの答えになっているように思う。好きなことを公にするとそのことに関する情報やものが集まる。そうしてさらに内容が膨らんだ結果がこの本なのではあるまいか、と。読んでいたり持っていたりする本が何冊かあるのは歌舞伎役者も取り上げられているためだろう。こんな作者でも「圧倒された」という本があるというのもすごい。世の中なんでも上には上があるということか。
読了日:05月06日 著者:〓田 研吾
超ひも理論をパパに習ってみた 天才物理学者・浪速阪教授の70分講義 (KS科学一般書)超ひも理論をパパに習ってみた 天才物理学者・浪速阪教授の70分講義 (KS科学一般書)感想
異次元の気持ちはさっぱりわからなかったが、「なにかとてもおもしろい話をしている」という雰囲気は伝わってきたのでまったく理解しないまま読んでしまった。全然わからないけれどなにか楽しい話をしている感じって、好きなんだよな。円周と球の表面積の話はちょっと「そーゆーことだったのか!」だった、かな。
読了日:05月07日 著者:橋本 幸士
元素をめぐる美と驚き──アステカの黄金からゴッホの絵具まで(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)元素をめぐる美と驚き──アステカの黄金からゴッホの絵具まで(上) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)感想
化学的な知識がなくてもおもしろい。文学とか芸術とか歴史とか、そういう方面の知識があった方がおもしろい本なのかもしれない。読んでいて、理科の実験のことを思い出した。教師から得体の知れない液体の入ったビーカーを渡されて、どんな元素が入っているのか同定するという実験だった。教師は思うような水溶液が作れなかったらしく、時間も足りなくてほとんどなにが入っていたのかわからなかった。この本を読んだいま、あの実験を再現できたらと狂おしく思う。
読了日:05月11日 著者:ヒュー オールダシー=ウィリアムズ
MacbethMacbeth感想
悲劇とは、不幸や悲惨な出来事を題材とし、最後は絶望や破滅で終わる演劇のことだという。この芝居は、主人公の破滅で終わるけれど、それでは主人公の不幸や悲惨な出来事とはなんだったのだろう。眠りを殺したことか。予言を聞いてしまったことか。野心を抱いて王を殺したことだとすると陳腐に過ぎる。読んでいて「マクベス殺人事件」を思い出した。そうか、罪を着せられたこと? というのはもちろん冗談。
読了日:05月16日 著者:William Shakespeare
外国語を身につけるための日本語レッスン外国語を身につけるための日本語レッスン感想
なぜ外国語を習得できないのかと考えるとこの本に書いてあることにたどりつくのだが、では果たして好きなことに対して逐一「なぜならこうこうこうだからです」だとか考えなければならないことに慣れることができるだろうかと思うと到底無理な気がする。あと、ここに書いてあるようなものの書き方をすると、AIに理解しやすいような文章になるのではという危惧はある。
読了日:05月20日 著者:三森 ゆりか
元素をめぐる美と驚き──アステカの黄金からゴッホの絵具まで(下) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)元素をめぐる美と驚き──アステカの黄金からゴッホの絵具まで(下) (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)感想
上巻よりも化学的な内容は控えめで芸術や文学に言及する度合いが増えてるように感じながらも上巻より読みづらく感じたのはなぜだろう。上巻下巻とも巻末に周期表が掲載されていて、折に触れ見返しながら読んだ。願わくば周期表には希ガスとかアルカリ土類とかかわるように色つけか網掛けがほしかったなあ。
読了日:05月24日 著者:ヒュー オールダシー=ウィリアムズ
短歌と俳句の五十番勝負短歌と俳句の五十番勝負感想
作者の生い立ち等と作品とは別と思っているので、ことあるごとに自身の背景を語る堀本裕樹は苦手と思っていたけれど、五十首・五十句続けて読むと、やはり写実の方が強いのかなあという気がしてくる。穂村弘の歌の世界の方が好きだけど、続けて読んでいるとどうしても「これ、なんとなく前のと似てる」という気がしてくるのだった。似ていて悪いわけではないか。
読了日:05月25日 著者:穂村 弘,堀本 裕樹

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