明易き夜に落語とか俳句とか
落語と俳句とはどことなく似てゐる。
ぱつと思ひつく類似点は季節感だ。
それも、ちよつと旧暦寄りの季節感だと思ふ。
たとへば八月になると秋めいてくる、とかさ。
いまは九月でもちよつとどうかと思ふくらゐ暑い日がつづくものの、暦の上では秋、みたやうな。
だから季語も秋のものが増えてくるし、秋のころの噺をかけるやうになる。
まだ暑いけれど。
落語を川柳(川柳ではなく)より俳句と結びつけたくなるのはそこだ。
また、忌日を偲ぶといふ点も似てゐる。
季語には個人の命日忌日に名前をつけたものがある。
人の名前をそのままつけた碧梧桐忌や安吾忌、作品名などにちなんだ河童忌・桜桃忌・菜の花忌。
落語も先日は新宿末廣亭で五代目柳家小さんの命日を含んだ十日間「小さんまつり」をやつてゐたし、三遊亭圓朝には圓朝忌がある。謝楽祭もその一環かな。
季節感と忌日といふ話になると歌舞伎もさうぢやん、と云はれるかもしれない。
でもですよ、今月歌舞伎座でなにがかかつてるつて、「菊畑」ですよ。
いつたい今が何月だと思つてゐるのか。
もしかして赤道の向かうの国の話なのだらうか。
それも、故人をしのぶ演目だとか襲名披露の「道成寺」だとかいふのならまだしも、さういふことはない。
え、團「菊」祭だから「菊」畑?
歌舞伎に関しては季節感が失はれて久しい。
文楽はいまの興行形態では季節感を生かすのはちよつとむつかしいのではないかといふ気がしてゐる。
季節感といふとやはり落語な気がする所以だ。
もうひとつ、落語と俳句とよく似てゐると思ふのは、受け手に投げ出す部分が大きいといふことだ。
俳句はいうても五・七・五の十七文字で完結せざるを得ない。
そこに云ひたいことをすべてつめこむことはできない。
だから季語といふさまざまな背景を持つことばを埋め込むのだが、それでもまだ足りないことはいくらでもある。
もともと連歌から派生したものだから、受け手側にあづける部分が多いといふ話もある。
だからといつて中途半端な作品を作つてもいいといふわけではない。
こちらは十分考へて作りました。
あとはおまかせ致します。
さういふ面が俳句にはある。
「春の海ひねもすのたりのたりかな」と聞くと、この人(蕪村か)、一日中海を眺めてゐたのかよ、と、やつがれなどは思ふ。
だつて「ひねもす」だよ。
実際は一日中は見てゐないのかもしれない。
たまたま海を見てゐたら波がゆつたりのつたりと寄せては返し寄せては返ししてゐるのを見て、なんだか悠久の時が過ぎ去つた気がした。
それが「ひねもす」といふ表現になつた。
そんな気もする。
きつと空と水平線との境もぼんやりと曖昧なのだらう。
だつて春だもの。
どこからともなくやつてきては帰つていく波ののんびりとした動きに気がついたらあつといふ間に時間がたつてゐた。
さういふことなのかもしれない。
落語も、なにもかも説明しないところがある。
八つつあんがご隠居さんのところに行つて話を聞く。
それを熊の野郎にも教へてやれといふのでご隠居さんの家をあとにするのだが、噺家は八つつあんがご隠居さんの家を出て外に出たとか、熊さんの家に行くあひだにどの道を通つてどう行つたとかいふことは語らない。
場合によつては間になんにもなくいきなり「よう、熊公」と戸を開ける身振りをしていつのまにか熊さんの家に着いてゐた、なんてなこともある。
それで客はついていけないかといふと、そんなことはない。
噺家の間や表現によつて、ちやんと「あ、八つつあんは熊さんの家にたどりついたんだな」とわかる。
心理的な面でもなにもかも語り尽くすといふことはしない。
「文七元結」では、長兵衛がいつ文七に五十両を渡すことにしたのかといふ点が、やつがれにはよくわからない。
さういふ流れになつちやつたんだよと感じることもあるし、この一点をわかりやすくするためにそこまでの流れをきつちり語ることもある。
なにも落語にかぎつた話ではなくて、芝居や映画・ドラマ・小説・まんが、なんでもさうだとは思ふ。
でも、落語はひとりで語るものであるがゆゑに、受け手に投げ出す部分が大きい気がするんだなあ。
受け手側が解釈する部分が大きいといふのか。
いままでは無意識のうちに自分を「あんまし勝手な解釈をするんぢやないよ」と戒めてゐた気がするが、句会で句についていろいろ妄想を働かせるやうに、聞いた落語についてもいろいろと妄想してもいいのかもしれない。
そのためにはもつときちんと聞き込む必要があるけれど。
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