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Thursday, 31 May 2018

字が汚いわけ

字が汚い。

なぜ汚いのか。

昔、「カリキュラマシーン」といふ番組があつた。
民放で放映されてゐた教育番組で、「りんごの数だけタイルを置かう」などと云つてりんごの数だけタイルを置いて数を数へてタイルは五個づつまとめるといつた算数的な内容や、「くつつきの「を」」だとか「♪ねぢれてねぢれて きゃ・きゅ・きょ」とだとかの国語的な内容などを取り上げてゐた。

「カリキュラマシーン」では、えんぴつの持ち方を教へることもあつた。
なかに、死にかけてゐるギャングのボスが手下に自分の云ふことを書き取らせるといつた状況でのえんぴつの持ち方講座があつた。
ボスは確か宍戸錠で、手下は渡辺篤史だつたか常田富士男だつたんぢやないかと思ふ。

手下が短いえんぴつを手にすると、ボスが怒鳴りつける。
「えんぴつは長いのを持て!」などと云つて。
また、手下のえんぴつの持ち方がなつてゐないと云つて叱りつけ、「えんぴつはな、かう持つんだ」と教へる。姿勢が悪い、とかもあつた。
そのうちボスはなにも伝へられずに死んでしまふ、といふやうな内容だつたんぢやなかつたかなあ。
違ふかもしれないけど。

こどものころ、やつがれはきちんとえんぴつを持てなかつた。
「カリキュラマシーン」を見てもムリだつた。
でも、正しいえんぴつの持ち方は「カリキュラマシーン」を見て知つてはゐた。

えんぴつの持ち方をなんとかしやう。
さう思つたのは、高校生になつてからだつたと思ふ。
字が汚いのはえんぴつの持ち方が悪いせゐなのではないか、と、遅まきながら気がついたからだ。

だが、えんぴつの持ち方を変へても、字はきれいにはならなかつた。
もしかしたら覚えてゐた内容が間違つてゐたのかもしれない。
さうも思つた。

その後、就職してから通信教育でペン習字を習つた。
このとき、やつがれ史上最高に字がきれいになつた。
練習するうちに、お手本に近いやうな字が書けるやうになつたのだつた。
そのころ旅券を新たに作つて、署名の字がお手本のやうになつてしまつて困つたことを思ひ出す。

さうなのか。
練習すれば、ある程度はきれいになるんだ。

だが、それも長くはつづかなかつた。
通信教育を終へて一年もすると、また字がもとに戻つてきてしまつたのだつた。
どうやら、日々お手本にあはせて練習しないと字といふのはどんどん劣化していくものらしい。
気がついたときには遅かつた。

その後もお手本を見ながら字の練習をしたりもしたけれど、定期的につづけて練習することができない。
もうあのときのやうな字を書くことはできないのだ。
そのときの字が自分の好きな字かといはれるとさうでもなかつたのでそれはそれでいいやうな気もするが。

でも読みやすい字が書きたいやね。

といふわけで、考へた。
なぜ字が汚くなるのだらうか。

ひとつは、書く前になにも考へてゐないからではないか、といふことだ。
書く前に、紙の上のどの位置にどんな字をどれくらゐの量書くのか。
さういふ見極めがないまま書いてしまふと、字の大きさや字と字との間隔、さうしたものがバラバラになつてしまふのではないか。
一休さんが、巨大な紙の上に「し」の字を書くといふ逸話がある。
一休さんは書く前に考へたと思ふのだ。
この大きな紙の上に「し」の字を書かう。
それにはどこから書き始めてどう書いたらバランスよくおさまるか。

あるいは毎年「今年の漢字」が発表されるときに清水寺のお坊さんがその字を書くときもさうなんぢやあるまいか。
この紙の上にこの字を書くにはどこから始めてどうまとめたらうまくバランスがとれるか。
さう考へてから書いてゐるものと思はれる。

だが、自分はそんなことはしてゐない。
文章全体もさうなら、一字一字についてもさうだ。
次にどんな字を書くか。
その字を書くにはなにに気をつけてどこから書き始め、どう書いたらうまくまとまるのか。
そんなことはまつたく考へないで書いてゐる。
だから字が汚くなるのぢやあるまいか。

ちよつとは考へてみたらどうだらう。
書き始める前に、いまから自分はなにをどう書くつもりなのか、そして、それを紙の上にバランスよくまとめるにはどうしたらいいのか。
さうしたら、すこしはまともな字が書けるのぢやあるまいか。

問題は、書きたいことといふのは書き出してから見つかることが多いといふことか。
つまり、書く前になにを書くかが決まつてゐないのだ。
だから行き当たりばつたりになつてしまふ。
それで滅茶苦茶なことになつてしまふんぢやないかなあ。

せめて次に書く一字のことくらゐはあらかぢめ予想して書くことにするか。
でもそれつてなんだかムカデが歩くときに自分の足の動きを意識するやうになつたら身動きがとれなくなつてしまつた、といふ話とおなじ結果になりさうな気がする。

書けなくなつたらそれはそれでいいのだらうか。

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Wednesday, 30 May 2018

わからないこともない「勘助住家」の段

四月の国立文楽劇場、五月の国立劇場と、文楽の「本朝廿四孝」がかかつてゐた。
文楽でも歌舞伎でも「本朝廿四孝」といふとよくかかるのが「十種香」とそれにつづく「奥庭狐火」の段だ。八重垣姫ね。
今回かかつたのは、俗に「筍掘」と呼ばれる「勘助住家」の段とその前段だつた。
今回襲名披露をした五代目吉田玉助の父・吉田玉幸が「勘助住家」の横蔵実ハ山本勘助をよくしたからといふのが理由のやうだ。

八重垣姫の話の方がよくかかるけれど、でもよく見てほしい。
外題は「本朝廿四孝」だ。
つまり、「二十四孝」がもとになつてゐる。
「二十四孝」といふのは、中国の話で、孝行ものの話を集めた本のことだ。
すなはち、勘助の話の方が主流といふことだと思ふのだ。

詞章にも出てくる「郭巨」といふのは「二十四孝」に名前の出てくる人物だ。
郭巨と妻とのあひだには幼い子供がゐて、郭巨の老母はこの孫をそれは可愛がつた。貧乏で日々の食事にも事欠くといふのに、老母は孫に食べるものを分け与へるのであつた。
それを見て郭巨は妻に云ふ。「こどもはまたできるかもしれない。でも母はほかに換へがきかない」と。
そこである日郭巨は自分の子どもをひそかに埋めに行く。
すると土の中から金の釜だか鍋だかが出てきて、「これは孝行ものの郭巨に与へるものだ。ほかの人間は盗つちやダメ」とか書かれてゐたのだつた。

なんとなく似てるでせう、自分の子どもを捨てに行く慈悲蔵に。

勘助の住家には黄庭堅の詩が襖に書かれてゐて、この黄庭堅も「二十四孝」の登場人物のひとりだ。

「本朝廿四孝」は文楽ではじめて通しで見た作品だつた。
このときは大詰めまでちやんとやつた。
わりと「奥庭狐火」の段で終はりになつたりするので、個人的には貴重な体験だつたと思つてゐる。
「奥庭狐火」の段で終はつた方がもりあがるから仕方がないんだけどね。
でも、大詰めまでやらないと犯人がわからないし、濡衣もちよつと浮かばれない。

犯人、と書いたが、「本朝廿四孝」の本筋は犯人探しである。
将軍が暗殺されて、未亡人が武田信玄と長尾謙信とに犯人を探させる、といふのが序段のあらすじだ。
三年のあひだに探し出せなかつたら、それぞれの嫡男の首を差し出せ、といふことにもなつてゐる。

だいたいね、信玄と謙信とで、犯人が探し出せると思ひますか?
ムリでせう。
仲が悪いもの。
序段を見た人は信玄と謙信とに任せたといふ時点で「あー、ムリムリ。犯人なんか見つかりつこないよ」と思ふといふ寸法だ。

そんなわけで、やつぱり犯人は見つからず、信玄の嫡子・勝頼はちやつちやと死んでしまふ。
これには裏があつて、実は信玄は勝頼が生まれるとすぐに花造りの簑作と入れ替へてしまつてゐて、死んだのは実ハ簑作だつたのだ。
といふのは「十種香」につながつていく話で、ここでは割愛する。

一方の謙信はそんなことはしてゐないものだから、嫡子・景勝は自分によく似た人物を捜し出して身代はりにしやうとしてゐる。
それが横蔵だ。

それとはまた別に、信玄も謙信も山本勘助といふ稀代の名軍師を麾下に迎へたいと思つてゐる。
それで信玄は高坂弾正を、謙信は越名弾正を、それとなく甲州の地に放つてゐたりもする。

横蔵は実は山本勘助の息子だつた。
父は今は亡く、母がその名をついでゐる。
横蔵には慈悲蔵といふ弟がゐて、これが実ハ直江兼続である。

はじめて見たときはびつくりしたねえ。
まだ「輝虎配膳」とか見たことがなかつたころだつたし。
「なんで山本勘助と直江兼続が兄弟なの!」と、これだけでこの話の趣向は十分だと思つた。
なんておもしろいことおもしろいことだらう。

慈悲蔵が親元に帰つてゐるのには理由があつて、将軍暗殺のときそばに居合はせながらなんの働きもなかつたからだ。
横蔵も実はそのときその場に居合はせて、将軍の一子・松寿丸の命を救ふため、さらつて逃げて自分の子として慈悲蔵夫婦に育てさせてゐる。

慈悲蔵が、みづから自分の子に手をかけるのは、子どもが敵方である信玄(この場では高坂弾正の妻・唐織)の手に渡つてしまつたら困るからだ。
自分は長尾家の武将なのだもの。

と、わかつてみれば「なーんだ、さういふことだつたのか」のオンパレードで、わからないことといふのはこの話にはそんなにない。
慈悲蔵がいい子ぶつてゐるのは三略の巻がほしいからだし、横蔵・慈悲蔵の母越路は邪険にしててもやつぱり慈悲蔵が可愛い。よくあることぢやん。

おまけに、横蔵は景勝の身代はりになんぞやつてやるもんかい、といふので自分の片目をつぶしてしまふ。
山本勘助が隻眼の理由はそれだつたのか!
よくぞ作つた!
あつぱれだ! 多分、近松半二!

それにしたつて荒唐無稽な部分も多い話ではあるが。
昔からかういふ話があるんだから、「戦国BASARA」にしても「なるほど、さういふ趣向できたか」などと思ふのだつた。

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Tuesday, 29 May 2018

武部源蔵 寺子屋の段

時計用のチェインをマクラメで作つてゐる。
マクラメといふか、丸四つだたみで作つてゐるのだが、先日、結んでゐる紐の長さが尽きてしまつた。
足さうと思ひつつ、足せてゐない。

をかしいな、とは思ふ。

ほかのことにしてもさうだ。
毎週日曜日、「これだけは片付けやう」と思つてゐることがある。
それがここ数週間できてゐない。
いや、週なんてものぢやなくて、もう数ヶ月できてゐないのぢやあるまいか。

をかしい。
たぶんをかしい。

しないからといつて、生活に支障の出るわけぢやない。
実際は出ているのだらうが、徐々に状態が悪化してゐるので気がついてゐないだけなのかもしれない。

多分、十月に感染症にかかつて体力が落ち、その後流感にかかつたり足が痛くなつて杖がないと歩けなかつたり別の感染症にかかつたりして、でも思ふやうに休息がとれなかつた、それが原因なんぢやないか。
さう思つてゐる。

具合が悪いなら休めばいいわけだが、働いてゐる身には有給休暇の制限といふものがあつて、さうさう休んでもゐられない。
それで、恢復したわけではないけれども外に出る。
全快したわけではないので帰宅すると疲れ切つてゐる。
なにもする気にならない。
日曜日はひたすら休むことに注力してしまふ。

片付かない道理だ。

をかしいと思つたら休む。
さうするのがいいと人は云ふ。
でも休んぢやゐられないんだなあ。
有給休暇が足りなくなつてしまふもの。

せまじきものは宮仕へ、とはこのことか。

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Monday, 28 May 2018

かばんを新調したので

「これは必要だ」といふので日曜日に急遽編み始めたものがある。
バッグ・イン・バッグだ。

バッグ・イン・バッグはすでにいくつか持つてゐる。
しかし、最近入手したひらくPCバッグnanoに向いたものがない。
ひらくPCバッグnanoは、かばんの口を開いたまま机の上に置いて使ふかばんだ。
かばんの中に入れたものが出し入れしやすくなつてゐる。
机の上が片付くし、かばんを持つて移動すれば必要なものを持ち歩くことができるといふ寸法だ。

ひらくPCバッグのころからほしいと思つてゐたのだが、大きすぎるといふので購入を見送つてゐた。
持ち歩くものから考へるとひらくPCバッグくらゐの容量がほしいのだが、電車に乗ることを考へると大きすぎる。
満員電車では邪魔だらうし、座れば膝からかばんがはみ出るといつた寸法だ。

その後、ひらくPCバッグminiといふ縦に細長くなつたかばんが発表された。
電車で座れたときに膝からかばんがはみ出ることはなくなつたが、今度は縦長といふことが気になつた。
縦長のかばんは、底に入れたものが沈みがちになる。
説明を読むと、ひらくPCバッグminiはそこのところも考慮した作りになつてゐるといふのだが、使つてみないことにはわからない。
これもまた購入を見送つてゐた。

ひらくPCバッグnanoは、横幅はひらくPCバッグminiより少し広く、縦につぶした横長のかばんだ。
ふだんPCを持ち歩かない人用のPCバッグ、といふ、「なにを云つてゐるのかわからないな」といつたところがある。
自分の持ち歩く荷物を考へると、これだと小さいな、といふ気がした。
いままで持ち歩いてゐたものから、筆入れを二つ減らし、文房具一式を入れてゐた合切袋をあきらめた。
それで日々職場に持つてきてゐる。

もう少し大きければ、と思ふこともあるが、通勤に使用するにはこれくらゐのサイズが最適かとも思ふ。
口を開いた状態で机の上に置いて使ふと、これが実に具合がいい。
手帳や筆入れの類を必要に応じて出し入れできるといふのがこんなにいいとはねえ。
いままでは、手帳や筆入れは机の上、端の方に出しておいて必要に応じて手元に持つてきてゐた。
それで不便を感じたことはないけれど、使はないときは片付いてゐて、使ふときに即取り出せるといふのは至極いい感じだ。
片付けの苦手な人間でもこれなら机の上がすつきりするんぢやあるまいか。

ただ一つ、困つたことがあつた。
それが、ひらくPCバッグnanoにちやうどいいバッグ・イン・バッグがないといふことだ。
社内でちよつと移動するときに持ち歩くものをまとめて入れておけて、さらにはひらくPCバッグnanoに入れて出し入れかんたんな入れものがない。

だつたら編めばいいんぢやない?
といふわけで編み始めてみた。
持つてゐたエミーグランデを0号針で編むことにした。
底は Granny Square を参考に真四角に編み、立ち上がりをつけるために細編みをすじ編みにして一周編み、側面は方眼編みの要領で編んでゐる。
ちよつとスケスケ過ぎるなーと思ふが、まあ、なにもないよりはいい。
ひとつ編んでみて、ダメだつたら別のものを編むといふ手もある。
方眼編みつぽい模様にしたのは、いちいち前の段の頭に針を刺さなくてもいい模様にしたかつたからだ。編むときの簡便性を取つたわけだ。

縫ひものが得意な人なら、ここで即布を用意してささつと縫つてしまふのだらうが。
縫ひもの、ダメなんだよなあ。
ミシンも壊れたままだし。

持ち手はしじみ袋の要領で編むつもりでゐるが、いつそこにたどりつくだらうか。
できれば早く使ひたいのだが。

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Friday, 25 May 2018

明易き夜に落語とか俳句とか

落語と俳句とはどことなく似てゐる。

ぱつと思ひつく類似点は季節感だ。
それも、ちよつと旧暦寄りの季節感だと思ふ。
たとへば八月になると秋めいてくる、とかさ。
いまは九月でもちよつとどうかと思ふくらゐ暑い日がつづくものの、暦の上では秋、みたやうな。
だから季語も秋のものが増えてくるし、秋のころの噺をかけるやうになる。
まだ暑いけれど。
落語を川柳(川柳ではなく)より俳句と結びつけたくなるのはそこだ。

また、忌日を偲ぶといふ点も似てゐる。
季語には個人の命日忌日に名前をつけたものがある。
人の名前をそのままつけた碧梧桐忌や安吾忌、作品名などにちなんだ河童忌・桜桃忌・菜の花忌。
落語も先日は新宿末廣亭で五代目柳家小さんの命日を含んだ十日間「小さんまつり」をやつてゐたし、三遊亭圓朝には圓朝忌がある。謝楽祭もその一環かな。

季節感と忌日といふ話になると歌舞伎もさうぢやん、と云はれるかもしれない。
でもですよ、今月歌舞伎座でなにがかかつてるつて、「菊畑」ですよ。
いつたい今が何月だと思つてゐるのか。
もしかして赤道の向かうの国の話なのだらうか。
それも、故人をしのぶ演目だとか襲名披露の「道成寺」だとかいふのならまだしも、さういふことはない。
え、團「菊」祭だから「菊」畑?

歌舞伎に関しては季節感が失はれて久しい。
文楽はいまの興行形態では季節感を生かすのはちよつとむつかしいのではないかといふ気がしてゐる。
季節感といふとやはり落語な気がする所以だ。

もうひとつ、落語と俳句とよく似てゐると思ふのは、受け手に投げ出す部分が大きいといふことだ。

俳句はいうても五・七・五の十七文字で完結せざるを得ない。
そこに云ひたいことをすべてつめこむことはできない。
だから季語といふさまざまな背景を持つことばを埋め込むのだが、それでもまだ足りないことはいくらでもある。
もともと連歌から派生したものだから、受け手側にあづける部分が多いといふ話もある。
だからといつて中途半端な作品を作つてもいいといふわけではない。
こちらは十分考へて作りました。
あとはおまかせ致します。
さういふ面が俳句にはある。

「春の海ひねもすのたりのたりかな」と聞くと、この人(蕪村か)、一日中海を眺めてゐたのかよ、と、やつがれなどは思ふ。
だつて「ひねもす」だよ。
実際は一日中は見てゐないのかもしれない。
たまたま海を見てゐたら波がゆつたりのつたりと寄せては返し寄せては返ししてゐるのを見て、なんだか悠久の時が過ぎ去つた気がした。
それが「ひねもす」といふ表現になつた。
そんな気もする。
きつと空と水平線との境もぼんやりと曖昧なのだらう。
だつて春だもの。
どこからともなくやつてきては帰つていく波ののんびりとした動きに気がついたらあつといふ間に時間がたつてゐた。
さういふことなのかもしれない。

落語も、なにもかも説明しないところがある。
八つつあんがご隠居さんのところに行つて話を聞く。
それを熊の野郎にも教へてやれといふのでご隠居さんの家をあとにするのだが、噺家は八つつあんがご隠居さんの家を出て外に出たとか、熊さんの家に行くあひだにどの道を通つてどう行つたとかいふことは語らない。
場合によつては間になんにもなくいきなり「よう、熊公」と戸を開ける身振りをしていつのまにか熊さんの家に着いてゐた、なんてなこともある。
それで客はついていけないかといふと、そんなことはない。
噺家の間や表現によつて、ちやんと「あ、八つつあんは熊さんの家にたどりついたんだな」とわかる。

心理的な面でもなにもかも語り尽くすといふことはしない。
「文七元結」では、長兵衛がいつ文七に五十両を渡すことにしたのかといふ点が、やつがれにはよくわからない。
さういふ流れになつちやつたんだよと感じることもあるし、この一点をわかりやすくするためにそこまでの流れをきつちり語ることもある。
なにも落語にかぎつた話ではなくて、芝居や映画・ドラマ・小説・まんが、なんでもさうだとは思ふ。
でも、落語はひとりで語るものであるがゆゑに、受け手に投げ出す部分が大きい気がするんだなあ。
受け手側が解釈する部分が大きいといふのか。

いままでは無意識のうちに自分を「あんまし勝手な解釈をするんぢやないよ」と戒めてゐた気がするが、句会で句についていろいろ妄想を働かせるやうに、聞いた落語についてもいろいろと妄想してもいいのかもしれない。
そのためにはもつときちんと聞き込む必要があるけれど。

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Thursday, 24 May 2018

必殺無責任一代男

火曜日からTV神奈川で「新・必殺仕置人」の再放送がはじまつた。

「必殺仕置屋稼業」の最終回で護送中の市松(沖雅也)を逃がした中村主水(藤田まこと)は、「必殺仕業人」ではその咎で定廻り同心から牢屋見廻り同心に格下げになつてゐた。
#同じく牢屋見廻り同心の美川陽一郎がとてもすてきなのだがそれはまた別の話。

「新・必殺仕置人」の第一話では、主水が牢破りを未然に防いだことにより定廻りに戻されることになる。
「必殺仕業人」の最終回で仲間が無意味に死んでいくのを目の当たりにし、裏の稼業にも嫌気がさしてゐた主水は、本業に力を入れる気になる。

めでたしめでたし。
では物語にならない。
主水を定廻りに復帰させた与力・筑波重四郎(岸田森)は、ある理由から主水の存在を邪魔なものと思つてをり、仕置人に依頼して主水の命を取らうとしてゐた。

それを知つた主水は筑波と相対し、こんなセリフを口にする。

あたしは世の中といふものが、人間といふものが、一切信じられなくなりました。
あたしは今後徹頭徹尾手抜きでいきます。仕事なんか一切しやあしません。
うすぼんやりの、昼行灯で結構です。
と。

昔はむやみやたらとこのセリフにあこがれ、主水さんイカす、と思つてゐたものだが。
実際に自分が仕事をするやうになると、徹頭徹尾手抜きでいくことのむつかしさをイヤといふほど思ひ知つた。
だからよけいに主水さんイカす、と思ふのだが、どんなにあこがれたところで所詮自分にはできさうにない。

昼行灯は昼間だから無用なのであつて夜になれば役に立つ、ともいふ。
つまり昼行灯になるには、役に立つ人間・仕事のできる人間でなければならない。

中村主水を見てゐると、クレイジー・キャッツの「無責任一代男」を思ひ出すことがある。
この歌の主人公は、まぢめに仕事などしやしない。が、上役に取り入るためにはごまをすり、ゴルフや小唄、碁などをたしなむことに余念がない。
小唄といふのが時代だが、上司に取り入らうと思つたら、ゴルフや碁などはそれなりにできるやうにならないとダメだらう。
相手を気持ちよく勝たせるやうになるには、相当の力が必要なんぢやあるまいか。
この男は、仕事はしないかもしれないが、仕事をしないための労力は惜しまない。
こどものころから調子よく、要領だけで世間を渡つてきたと歌にはあるけれど、それつて才能だよね。

仕事をせずにぼーつとするためにはそれなりの才能・努力が必要といふことだ。
おそらく「努力」とは思はずにやる人が職場でうすぼんやりとしてゐても許されるんだらうな。

その才能もないし、ゴルフや小唄・囲碁を学ぶことを努力と思つてしまふ人間は、昼行灯や無責任社員になどなれはしないのだ。

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Wednesday, 23 May 2018

サルヴェイジしたい「座頭市物語(TV版)」

録画機が動かなくなつて久しい。
修理するか買ひ替へるかすればいいのだが、修理をするには修理の人を呼ばねばならず、買ひ替へるには手元不如意だ。

新しく買ふにしても、いまの録画機に録画されてゐる番組はサルヴェイジしたい。
サルヴェイジしたいのは主に芝居関連の番組と時代劇だ。
内蔵HDDの容量がないものだから、気に入つたものだけ残してあるのでよけいに惜しい。

TV版の「座頭市物語」とそれに続く「新・座頭市」とか、できれば残しておきたい。

「新・座頭市」だつたと思ふが、北村和夫の演じた僧侶が悪くて素敵でねえ。
しみつたれた悪だとかイヤラシい悪、色つぽい悪など、悪にもいろいろあるけれど、まれにそんな形容のつけやうのない、とにかく「悪」そのものとしかいへない悪がある。
北村和夫の僧侶がそれだつた。
記憶がすでに曖昧だが、信者といふか檀家といふかをすつかり操つてゐるカリスマ性(といふことばもいまは安くなつてしまつたが)のある僧侶だつた。
抗はうにも抗ひきれない悪の力。
なにをたくらんでゐるのか底知れない肚の底。
たまらないよなあ。

長い期間放映してゐたドラマなので、何度も出演してゐる俳優もゐる。
小池朝雄はやつがれが見たかぎりでは三回出てゐて、いづれも土地の親分さん的な役回りだつた。
ひとつは原田芳雄回で、原田芳雄が島送りになり到底戻つて来られないだらうといふこともあつて、その妻(赤座美代子)といい仲になる親分さん。恩赦があつて原田芳雄が帰つてきてさあ大変、といふ話なのだが、小池朝雄の演じる親分はこのドラマに出てくる多くの親分と違つてそれほど悪い人ではない。
運が悪かつたよね、といつたところか。
さういふ風情がまたよくてね。
この回は原田芳雄もよくて、かたぎの中には居場所がなくてやくざな道に入つたもののその中でも居場所が見つからない人間の役を云ひ訳をほとんど表現しないままそれが云ひ訳になつてゐる、みたやうな、実にいい役だつた。
原田芳雄もこのあと二回ほど出演してゐるのを見たけれど、そちらは云ひ訳が多すぎるやうに感じた。

小池朝雄のふたつめの役は仇と狙はれてゐる親分。
もとは武士で、碁敵とのもめごとから相手を殺してしまふことになり、その息子(竹脇無我)から命を狙はれてゐる。
人情のあるいい役で、でも思つてゐたことと真逆のことが起こつてしまふ。
いい人がいいことをしやうとして、でも報はれない。
「新・座頭市」の一回目か二回目かの最終話だつたと思ふが、とても印象深い。

みつつめの役は、一見人徳者ながら実は腹黒い親分といふ、まあ、ありがちな役どころながら、これまでの二役とまつたく違つた趣で、「これはもしかしたら小池朝雄の親分さん七変化を楽しむドラマなのではあるまいか」といふ気さへしてくる。

ある俳優を楽しむドラマ、といへば蟹江敬三だ。
蟹江敬三も「座頭市物語」「新・座頭市」には何度も出てゐる。
最初は兄貴分らしきところはあるものの三下のやうな役だつた。出番もちよつとしかなかつたと記憶する。
それがだんだんいい役がつくやうになり、最後の役は市とさしで対するやうになる。
蟹江敬三といふ俳優の成長を見るやうなところがこのドラマにはある。

蟹江敬三といへば石橋蓮司……と話はいくらでもつづけられるけれど、今回はこのあたりにしやう。

あー、やつぱりDVD-Boxを買つてしまはうか、DVDならMacBookでも見られるし。
と、心は千々に乱れるのであつた。

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Tuesday, 22 May 2018

なにも作らなくなる日

タティングはここのところほとんどしてゐない。

先週、ニードルタティングの本を見かけたのでちよつとやつてみたていどだ。それについては先週ちよこつと書いた。

ニードルタティングの本といへば、いままでまつたく知らなかつた本が出版されてゐることを知つた。
盛本知子の本に「こんな本が出てゐますよ」といふ紹介が出てゐたのを見た。
もしかしたら書店にはならんでゐないのだらうか。
だとしたら知りやうがないな、とは思ふ。

ニードルタティングの本を見て、ひとつくらゐはきちんとなにか作つてみたいとは思つてゐる。
さうだなあ。なにがいいかなあ。
どうもニードルタティングのときは手がゆるくなるやうなので、やはらかくできあがつても使へるものがいいだらう。
さう思つて本をぱらぱらと見てはみるのだが、なかなかはじめやうとはしない。
よくあることである。

今週は、月曜日から出かけることが多くてまづなにかに着手するなんてことはできさうにないし、着手したとしてもまつたく進まないまま終はつてしまふだらうから、やはりはじめない方がいい気がする。

ニードルタティングはせつかく本を買つたのだから、なにか作つてみたいんだけどねえ。針も手元にあることだし。況やレース糸においてをや。

しかし、ここのところ昼休みにマクラメをしてゐる関係で、シャトルタティングの方もお留守になつてゐるのだつた。

あみものもしてゐないし、なんかここのところ低迷してゐるなあ。
わかつてはゐるけれど、どうにもならない。

もしかしたら今後はずつとこんな状態なのかな。
ふとそんなことを思つたりする。

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Monday, 21 May 2018

理屈はどうでもよくて

先週は林ことみの「エストニアで習ったレース」に掲載されてゐるかぎ針編みの三角スカーフをちよこつと編んだくらゐだ。
そろそろ終はりが見えてきてゐて、さうなると段々と編む手がにぶる。
ちやつちやと編む場合もあるけれど、仕上げのことを考へ出すとどうしたらいいか考へてしまつて、なかなか先に進めないのだつた。

この三角スカーフはそんなにきつちり整形しなくてもそのまま使へるので、あんまし仕上げのことは考へなくてもいいんだけどね。

そんなわけで、先週危惧したやうなリカちやんサイズのものばかりがんがん編んでしまふのでは、といふことはなかつた。
エミー・グランデや金票40番の在庫があまりないから、といふことはあるかもしれない。

ところであみものをしてゐると、「買つた方がやすい」だとか「売られてゐるものの方が堅牢だ」だとか「編んだものは洗ふのがめんどくさくて」だとかいふ考へが脳裡をかけめぐることがある。

くつ下を編んでゐると「Walmartでは一足一ドルで売られてるわよ」と云はれる、といふ話は Socknitters から折に触れ聞く話だ。ほんたうにそんなことがあるのかどうかは知らないけれど。

そこら中で安価に売られてゐるやうなものをなぜ編むのか。

編みたいから。

それに尽きる。

時折「手編みのセーターは機械で編んだものよりずつとやはらかくあたたか(くて着やす)いし、さらには糸も手で紡いだもので編んだらさらにさう」みたやうな話を耳にする。
手で作つたものが機械で大量生産されるものよりも尊い。
さういふことは確かにあるとは思ふ。

編んだものはほどくのが容易だからリサイクルにも向いてゐる。
それも確かにさう。

でも、だから手編みをするのだ、といふ人がどれくらゐゐるのか不明だ。

もちろん、手編みをする理由のひとつとして、さういふことをあげることもあらうとは思ふ。
でも、さういふのは、なんかこー、副産物といふかさ、二次的な理由なんぢやないのかなあ。

楽しいから編む。
好きだから編む。

さうなんぢやないの?
それに一々ほかの理由をつけなければいけないやうな世の中なのかもしれないけどさ。

ちなみに、最近はめつきりしなくなつてしまつたが、自分で紡いだ糸で編んだこともあるけれど、手入れが大変なのがちよつとなー、と思ふ。
市販の糸の方が洗濯に耐へる気がする。
毛の状態でスーパーウォッシュのものもあると聞くけど、さういふ毛で紡いだらいいのかなあ。

くつ下に関して云ふと、くつ下用毛糸で編んだものはかなり堅牢で、洗濯機でがんがん洗つても数年は使へる。
以前ここにも書いたやうに、手で編んだものは履き口をゆるめに編んだりそれでゐて脱げないやうにしたりが可能なので、さういふ点では市販のくつ下にまさつてゐると思つてゐる。
だから編むわけぢやないけどね。

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Friday, 18 May 2018

長命ななんでも帳

十一月の末から、LEUCHTTRUM1917 のポケットサイズを使つてゐる。
自分では「なんでも帳」と呼んでゐて、だいたい一ページ一内容でそのとき頭に思ひ浮かんだことをばーつと書き出すといふ使ひ方をしてゐる。

これまでなんでも帳はだいたい二ヶ月から三ヶ月で一冊使ひ切るやうなペースで書いてきた。
六ヶ月といふのはかなり長い。もしかするとなんでも帳を書き始めて一番長いかもしれない。

LEUCHTTRUM1917 が悪いわけではない。
これまでなんでも帳には Moleskine のポケットサイズや Smythson の Panama といつた通帳サイズの手帳を愛用してきた。
文庫本サイズのものも何度か使つてみたけれど、一番しつくりくるのが通帳サイズだ。
いま使つてゐるLEUCHTTRUM1917 は Moleskine よりちよつと大きいくらゐで、使ひやすいサイズであることに間違ひはない。
紙質も気に入つてゐる。なにしろ手持ちの万年筆で書いても裏抜けしない。
Moleskine を使つてゐたころは休めがちだつたペンもどんどん使へてゐる。

使ひやすいサイズだからどこにでも持ち歩く。
持ち歩かないことがないくらゐの勢ひだ。

それでゐて書けてゐない。

ここ三年ばかり、スケジュール帳はシステム手帳のバイブルサイズで Bullet Journal にしてゐて、さらに去年の十一月から5×3カードでPoICをはじめたことで、なんでも帳に書くことが減つてゐるのかもしれない、とは思ふ。

書く内容は違ふんだけれどもね。
Bullet Journal のメモと5×3カードに書くこととはかなりかぶつてゐて、そのとき手元にある方に書いてしまふこともある。
なんでも帳には Bullet Journal のメモや5×3カードに書いたことからふくらませた内容であることが多い。
メモをふくらませる時間がない、といふことはあるかな。

システム手帳のバイブルサイズはチトかさばるので、芝居見物のときには持つて行かないことも多い。
実際、芝居見物のときは幕間くらゐにしか書く時間がとれない。その幕間も忙しいことがある。
ゆゑに芝居見物の日は「今日は書く時間がとれさうにないなあ」と思ひつつも、なんでも帳だけはかばんに入れる。

なんか、それでいいのかな、といふ気がする。

手帳は持ち歩くことに意義がある。
どこにでも持参することに意義がある。
書き込むことは二の次だ。
書きたいと思つたときに書けることが重要で、実際にどれだけ書いたかは問題ではないのかも。

その LEUCHTTRUM1917もそろそろ使ひ切りさうだ。
次のなんでも帳はひさしぶりに Smythson の Panama にしてみやうかと思つてゐる。
ここのところなんでも帳には Moleskine がつづいてゐた。
そこに LEUCHTTRUM1917 をはさんでみたので、次はまた Moleskine、といふことも考へないでもないのだが、最後に Panama を使つてからずいぶんたつからなあ。

かうして次の手帳について考へるのもまた楽しい。

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Thursday, 17 May 2018

読書考

本を読めと人はいふ。

とくに昨今、スマートフォンばかり見てゐないで、本を読みなさい、と勧められる。

本を読むとなにがいいのか。
生きてゐるだけでは体験できないことを擬似的に体験できるのがいい、といふ話がある。
そこから敷衍して、他人の気持ちがわかるやうになるとか、視野が広がるといふ説もある。

ところで、本を読むといふ習慣が広まつたのはいつごろのことだらう。
江戸時代になると貸本業とかあつたやうだから、それなりに本を読む人もゐたのだらうか。
それは人の集まるところだけの話で、鄙の地ではさうでもなかつたのかな。

いづれにしても、本を読むといふ習慣はせいぜいここ二百年ばかりのあひだに広まつたものなのではないかと推測する。
広まつたばかりのころは、ほかにこれといつた娯楽もなくて、本を読むといふのは楽しいことだつたのではないか、とも思ふ。
「あまり本など読むものではない」と昔は云はれた、といふ話も聞く。ほんとかどうかはわからないけれど。

それでは、本を読む習慣がなかつたころの人はどうしてゐたのだらうか。
読まうにも、本が手に入らない、入つても字が読めない、そもそも本といふ存在を知らない、そんな人がたくさんゐた時代は、どんな状況だつたのだらうか。
人は、他人の体験を知ることもなく、相手の気持ちを思ひやつたり視野を広げたりすることもできなかつたのだらうか。

視野は広げられなかつたかもしれない。
でも、おそらくそれで困ることはなかつたらう。

おなじことは新聞にもいへて、いまの人は新聞を読め新聞を読めといふけれど、ぢやあ新聞のない時代はどうだつたのか、とも思ふ。
時代が変はつたから読まねばならぬのだらうか。
新聞のない時代の人々は読むことはできなかつた。だからといつていまの時代の人間より劣つてゐたといへるだらうか。

本にしても新聞にしても、読め、といふ根拠が曖昧な気がしてゐる。
ほんとに読んだ方がいいの?
読んでゐない人よりも読んでゐる人の方がいいことつて何?
スマートフォンといふこれまでなかつた技術に対して嫌悪感を抱く人が云つてゐるんぢやないの?
その証拠に昔は「TVばかり見てゐないで本を読みなさい」といつてゐたはずだ。

さう思ふのは、本を読むといふことは個人的なことだと感じてゐるからだらう。
どんな本をどう読まうが、読まうが読むまいが、そんなの個人の好き嫌ひの問題だ。
他人に押しつけられるものぢやあない。
読みたいときに読みたいものを読みたいやうに読めばいい。
といふか、さうさせてくれよ。
切実にさう思ふ。

だいたい、ほんたうに読ませたいのなら、「本なんて読んぢやいけませんよ」と禁じた方がよほど効果的なのぢやあるまいか。
「ここにはねえ、いけないことがいろいろ書いてあるんですよ」「あ、ダメ、それ以上読んぢやいけませんつて」とあふれば、人は読むのぢやないだらうか。
それともこの手法はこどもだましに過ぎないか。

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Wednesday, 16 May 2018

体力不足

体力がない。

高校生のときにはじめて定期券を手にして、移動範囲が広がつたのがうれしくて休みのたびにあちこち出かけてゐたら、あつといふ間に熱を出して寝込むことになつた。
当然学校も休んだ。
このとき母に「体力がないんだから、そんなにあちこち出歩いちやダメよ」といふやうなことを云はれた。
なるほど、自分には体力がない。

だからといつて「体力がない子」として育てられたわけではなかつた。
喘息持ちだつたから、とくに冬場の長距離走などは参加できなかつたこともあつたけれど大抵は走つてゐたし、体力がないといふ理由でなにかをしなかつたりなにかをしたりした記憶はない。
体力をつけろ、とは云はれたけれど、それは体力のある子でも云はれることだらう。

思ふに、いままで生きてきて体力があつた試しがない。
多分、人生の早いうち、こどものころのどこかで「体力がない人間なりの生き方」を身につけるべきだつたのだ。
あるいは人並みに体力をつけてゐればよかつた。
いや、若いうちに人並みに体力をつけたしても、もともとないんだから維持できたとは思へない。
やはり「体力がないなりのに生き方」を身につけねばならなかつたのだ。

自分は「普通の子」として育てられた。
普通の子がすることをするやうに、普通の人がたどるだらう道筋をたどるやうに育てられてきた。
それが、いまここに来てムリだな、と思へてならない。
もつと、自分にできることをできる範囲でやつて、それで生きていけるやうに育ててくれればよかつたのになあ。
さう思つてしまふ。

いまさらなにを云つてゐるのだ、成人したらあとは自分の責任だらう。
そのとほりかもしれない。
でもいま自分にできることをできる範囲でやらうとしたら、といふよりは、いましてゐることをやめてしまつたら、おそらく生きていかれない。

いざ生きめやも、か。

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Tuesday, 15 May 2018

久しぶりにニードルタティングと思ひしが

疲れ切つてゐる。
どれくらゐ疲れ切つてゐるかといふと、シャトルタティングとニードルタティングとの比較をするのにこのていどしか作れないほどだ。

Needle Tatting

以前はちやんとモチーフを作つて比較したのだつた。
その時の記事はここにある。

この記事と中にリンクされてゐる記事とを見て、はじめてニードルタティングをしたのは2009年だつたことを知つた。
ほぼ10年前ぢやあないか。
Time flies like an arrow. とはこのことだねえ。
その間、ニードルタティングはほとんどしてゐない。
もつぱらシャトルタティングをしてゐた。
そのシャトルタティングの方もお寒い状況といへないことはないけれども。

久しぶりにタティング用ニードルを手にしたのにはわけがある。
本が出版されたからだ。
はじめてのニードルタティング」といふ本である。

ニードルタティングの本は絶えて見たことがない。
高嶋タティングが近いといへばさうだが、こちらはいはゆる Crotat だ。使用するのもかぎ針だ。
長い縫ひ針のやうな針でのタティングの本は、海外で出版されたものしか見たことがなかつた。
針自体も見かけないしね。

高嶋タティング用のかぎ針と同様、タティング用の針はできるだけ太さが一定なものがよい。
普通のかぎ針や縫ひ針を見ると、大抵針の部分の太さが場所によつて変はつてゐるのがわかる。
縫ひ針でいふと針穴部分が一番太くて針先に向かつて細くなつてゐるはずだ。
タティングをする場合は針に糸を巻きつけてスティッチを作るので、場所によつて太さが違ふとスティッチのサイズも変はつてきてしまつて都合が悪い。

この本では針の入手先も紹介してゐる。
はじめたい人にはよさそうだ。

この本の特徴は、タティングで用ゐる技法をできうるかぎり紹介してゐることだ。
スプリットリングやモックリング、チェインの上にリングを作る方法やビーズをあしらふ方法も載つてゐる。
これを見れば、従来のシャトルタティング用に出版された本に掲載されてゐる作品をニードルタティングで作ることも可能だらう。
さういふ点ですばらしい本だと思ふ。
自分ではまださういふ技法に挑戦してはゐないので、この本を見ただけでできるやうになるのかどうかは不明だが、ステップごとに写真を掲載してゐるのでなんとかなるんぢやあるまいか。

ニードルタティングのむつかしいところは、糸と針との太さに相性があつて、うまいこと相性の合ふ組み合はせを見つけることが案外むつかしいことだらう。
上にも書いたとほり、ニードルタティングでは針に糸を巻きつけてスティッチを作る。
スティッチの大きさは糸の太さと針の太さと手加減とに依存する。
たとへば本ではオリムパスの金票40番はNo.7の針でタティングするやうになつてゐるが、やつがれの持つてゐるNo.7の針穴にはオリムパスの40番はちよつと太すぎるんだなあ。
糸通しを使つてもちよつと糸を通すのがむつかしいと感じる。
かといつてNo.7より太いNo.5だと針自体が40番を使ふには太すぎる気がする。

それでもやつてみたいと思つたのは、2009年ごろ、YouTube でニードルタティングをする人の手元を写した動画を見たからだ。
手の動きがとてもリズミカルで、楽しさうだつたのだ。
今回久しぶりにやつてみて、あのリズミカルさは蘇らなかつたけれど、本を見ながらモチーフでも作つてみるかな、と思つてゐる。
調子が戻つたら、だけど。

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Monday, 14 May 2018

人形サイズのものを編む

先週の月曜から通勤先が変はつた。
これまでより時間もかかるし混んでゐる。そのうへ先週は一日たりともまともに電車の動いた日がなかつた。

そんなんでもうへとへとで、自宅に帰り着いてもぼーつとしてしまひ、なにもできない状況である。
そんな状態なので、あみものも全然進んでゐない。
あまりにも進まないので、こんなものを編んでしまつた次第である。

Dress for Dolls

ものは「週末で完成! かわいいかぎ針編み リカちゃんのオールシーズンクローゼット」に出てゐるワンピースである。
色は違ふが指定糸のエミー・グランデをおなじく指定針の0号で編んだ。
スナップが手元にないので完成してはゐない。
あ、あと肩のストラップを編み忘れてゐるな。
日曜日に編みはじめて、とりあへずここまでは編めた。

もともと、あみものを再開したのは人形のものを編みたかつたからだ。
人形サイズだと毛糸も少なくて済むし、即できあがる。
それになにしろモデルがいいものだから、多少アレな出来でも着せるとそれなり出来に見える。

人形サイズのものを編むといいことに、とりあへず全行程を短期間でこなすことができる、といふことがある。
それまで人間サイズのセーターは完成させたものより挫折したものの方が多かつた。
さうすると脇を綴ぢるとか襟ぐりの目を拾ふとか、経験が足りない技術が増える。
作り目ばかりうまくなつたりね。

人形サイズのセーターだつたら、糸と針とは細いものの、前身頃も後ろ身頃もあつといふ間に編みあがるし、短いながらも脇の綴ぢもあり、肩のはぎもあり、襟ぐりを拾つて襟を編むこともできる。
まあ、正直云ふと、人形サイズだつたらセーターは最初から輪にして編んで綴ぢはぎのごろごろとした目のできないやうにしたいところだが、練習としては最適なのではないかと思つてゐる。

そんなわけで、しばらくは人形ものばかり編んでしまふかも。
その前にスナップを買つてくる必要があるがな。

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Friday, 11 May 2018

自前の索引

記憶することは全部コンピュータにまかせて、人間は創造的なことをしやう。
さういふ話がある。

人間の脳は、ものでいつぱいになると動きが鈍るといふ。
部屋や机はものでいつぱいになると作業をするスペースがなくなる。
脳もそれと一緒で、記憶ばかりしてゐると作業スペースが足りなくなるのらしい。

それではまつたく記憶する必要はないのか。
記憶しやうとしなくても、生きていくのに不可欠なことは脳は勝手に記憶する。
それ以外のこと、たとへば九九だとか歴史上のできごとはいつどこで起こつて誰が関与しただとかイオン化傾向だとか、さういふことはまつたく覚えなくていいのか。

やつぱりなにがしかは覚えておきたいやうな気がする。

なんで覚えておきたいかといふと、なにかのときに必要になる気がするからだ。
正確に覚えておく必要はないと思ふ。
正確なところはWeb検索でもかければいい。
でも、「なんとなくこんなこと」「はつきりしないけどあんな絵」「一部分しかわからないけどこんな曲」みたやうなことは覚えておきたい。

索引のやうなものを脳内に構築できたらなあ。
もしかすると、単に暗記するより索引を作る方がむつかしいのぢやあるまいか。
そんな気もする。
だいたいどんな索引が必要なのかもよくわからない。

今後はちよつとさういふことを考へていかうかな。

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Thursday, 10 May 2018

フライパンと過去に遡る旅

今朝、これまで遣つてきたフライパンを廃棄した。
気分的には「フライパンと別れた」といふ気持ちだ。
周囲に人がゐなかつたら「さよなら」のひとことも口にしたかもしれない。
家でさんざん吠えたでないか、といふ話もあるが、「いままでありがたう」ともう一度フライパンに告げたかもしれない。
長いこと遣つてきた道具とは別れづらい。
それで部屋の中が片づかないのではとも思ふが、それはまた別の話。

このフライパンは、家族と一緒に買ひに行ったものだ。
あるホームセンターに車でつれて行つてもらつた。
その前に遣つてゐたフライパンは安物で、すぐだめになつてしまつた。
それですこしだけ値の張るフライパンを買ふことにした。

実際に遣つてみると、これが実に遣ひやすい。
しかも洗ふのも楽だつた。
「やつぱり値段だけのことはあるね」といふ旨のことを口にしたら「さうだらう」とまるで自分の手柄ででもあるかのやうな返事が返つてきたことを覚えてゐる。

あれから多分十年近くたつ。
購入したばかりのころはあんなに遣ひやすかつたフライパンも、いまではかなり油を引かないとすぐに焦げ付くやうになつてゐた。
フッ素加工もはげてきてゐて、あまり遣つてゐてよいやうな状態ではない。

それでも遣ひつづけてゐたのは、買つてきたときの思ひ出があるからだ。
あまりにも思ひ切れないので、せめておなじホームセンターで新しいフライパンを買はうと思つてゐたところ、そのホームセンターは閉店して久しいと聞かされた。

結局新しいフライパンはクレジットカードのポイントと交換して手に入れた。
驚くほど遣ひやすいフライパンだ。
やつがれ程度の腕前でもきれいなたまご焼きがかんたんにできる。
それまで遣つてきたフライパンを買つてきた当時のやうに。

かうして道具に対して執着しがちなくせに、ものを大事にしない。
フライパンも、大事に遣つてゐればもつともつたのかもしれない。
この矛盾した性格をどうしたものだらう。

ものに対して執着しがちな性格は、やたらと書きたがる性格と結びついてゐる。
さう思つたのは、Why You Should Write Things Down: Experience and Information といふ記事を読んだからだ。

この記事ではなにかを書き留めることは、そのときの思考過程を残すことだ、といふ。
読み返すと書いた時点でなにをどう考へてゐたのかを思ひ出す、そしてそこからなにかを生み出すことができる、といふ。
時間旅行をするやうに。

道具もおなじで、長いこと一緒に過ごしてきた道具を見ると過去に戻ることができる。
はじめて店頭で見つけたときのこと、はじめて遣つたときのこと、最初はうまく遣ひこなせなかつたこと、はじめて作つたもののこと。
さまざまなことを思ひ出す。
捨ててしまつたら、もう過去に戻ることはできない。
まつたくできないことはないけれど、これほど鮮明な記憶は蘇つてはこないだらう。
さう思ふと、遣へなくなつたものでもなかなか捨てられない。

それまでぞんざいに扱つてきたくせに、いざとなるとふんぎりがつかない。
どうしたら捨てられるのだらう。
写真を撮るといいと聞いたので、一時は捨てる前に写真を撮るやうにしてゐた。

だが、写真では触覚を得ることはできない。
匂ひもしない。
このフライパンの持つたときのこの重さ、ぼろぼろになりはじめてゐる取つ手の先、さうしたものは写真ではよくわからない。

いづれにせよ、これまでフライパンを捨てられなかつた云ひわけにしかならない。
そして捨てられないのはフライパンだけではないのだつた。

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Wednesday, 09 May 2018

役に立つのか反訳トレーニング

外国語習得は、自分の意見を持たない人間にはできないことなのだらう。

去年の四月からNHKラジオ講座の「高校生からはじめる「現代英語」」といふ番組を聞いてゐる。
ニュース記事を高校英語程度でわかるやう書きなほしたテキストで勉強する講座だ。

この講座の特徴は反訳トレーニングを推奨してゐることだ。
反訳トレーニングとは、テキストの英語本文を日本語で訳した文章を見て英語の文章を組み立てなほす練習である。
大変骨のあるトレーニングではあるが、つづけると必ず力がつきますよ、と講師の伊藤サムはいふ。

半信半疑のまま、この反訳トレーニングをやつてみた。
最初のうちはこの講座で扱つたテキストだけ、今年に入つてからはほかのNHKラジオ講座のテキストでも折りにふれ挑戦してみた。

去年の四月から一年とすこし、反訳トレーニングについては慣れてきたな、といふ気がしてゐる。
以前はできるやうになるのにかなり時間がかかつたし、「できるやうになつた!」と思つても一週間後にはもとにもどつてゐた。
あまりにも時間がかかるので、反訳できるやうになつたといふよりは暗記してしまつたといふ方が正しいのではないかと思ふこともしばしばだつた。

それが最近になつて、記憶したわけではなく日本語を見て「かういふ英文だらう」と反訳できるやうになつてきたといふ実感がわくやうになつた。
「高校生からはじめる「現代英語」」の日本語訳の文章は、反訳トレーニング用なのかかなりいびつな文章ではある。
ことばの並びが英文そのままだつたり、反訳を助けるやうな直訳に近いものになつてゐたりする。
また、とりあげる内容はニュースなのでさまざまではあるものの、おそらく文章を書いてゐる人はさう何人もゐないやうに見受けられるので、その人の書く英文の癖を覚えたからできるやうになつてきたのではないかといふ疑念もある。
それで別の講座でも反訳を試みるやうにした。

ものすごくよくできるやうになつたとはいへないものの、以前よりはトレーニングにかかる時間も少なくなり、過去のものも前よりはスムースにできるやうになつてきた。
少なくとも反訳トレーニングに関しては。

ぢやあ英語力がついたのか、といふと、どうもさういふ気はしない。
英語力がついたかどうか確認する術がないせゐもあるが、英語ができるやうになつたといふ実感がない。
もしかすると、反訳の力がついたわけではなく、単に記憶力がよくなつただけなのかもしれない。

「高校生からはじめる「現代英語」」にはもうひとつ英語力をつける方法として、ニュースでとりあげた話題について英語で話し合ふといふトレーニングをあげてゐる。
最近の講座ではサウジアラビアで女の人も車を運転できるやうになつたといふニュースを扱つてゐた。
何人かでディスカッションするといいし、それができない場合は一人二役でやつてもいいですよ、と講師は云ふ。

これはやつたことがない。
ニュースを聞いて、自分の意見を述べることなど長いことしたことがないからだ。
英語はおろか、日本語でさへろくなことが云へない。
まづは日本語で意見を述べられるやうにならないと、英語でなど到底云へるやうにはならないだらう。
道は遠いな。

さうすると、苦労してやつてゐる反訳トレーニングも無駄な気がしてくる。
どうしたものかなあ。

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Tuesday, 08 May 2018

あひかはらず「タッチング」

昨日も書いたやうに、この連休中タティングレースもなにも進まなかつた。
代はりといつてはなんだがマクラメをはじめてみた。これも仕上がつてはゐない。

「1日でつくれるマクラメアクセサリー」といふ本に掲載されてゐるブレスレットを選んでみた。
メルヘンアート マイクロマクラメコードを遣つてゐる。
マイクロマクラメにはだいぶ以前から興味があつて、そのものずばり「Micro Macrame」といふ本も持つてゐるし、その本を見て化繊の糸といふか紐といふかを買つてみたりもした。
その感じからいふと、メルヘンアートのマイクロマクラメはだいぶ太いやうな気がする。もうちよつと細くないと丸小ビーズなんかは遣へないんぢやないかなあ。

名前に比して太いものの、マイクロマクラメは結びやすい。
結んだあともそれほどほどけてこないやうに思ふ。

ところで、「タッチングレース」が「タティングレース」と呼ばれるやうになつてしばらくたつ。
もう「タッチングシャトル」といふ人はさうゐない気がするし、本の題名も「タティング」に統一されてゐるやうに思ふ。
まれに老舗とおぼしき手芸屋に行くと「タッチングレースですね」と確認されることがあるが、それももう十年は前のことかなあ。

かくして世の中の「タッチング」は「タティング」に塗り替へられたわけだが、ここに一カ所、「タッチング」といふ呼称を残しているものがある。

マクラメだ。

マクラメのタッチング結びはあひかはらず「タッチング」で「タティング」に変更されさうなやうすはない。
その結び目はどこからどう見ても「タティング」なのだが、先日出版されたばかりの「1日でつくれるマクラメアクセサリー」にも「タッチング結び」と書かれてゐる。

外来語の読み方が分野などによつて異なることがあるのはさうめづらしいことでもないとは思ふ。
化学の世界では「キラル」と読むが物理学の世界では「カイラル」と読む、とかね。
キラル化合物とはいふがカイラル化合物といふことばはあまり聞かない気がするし、キラル対称性よりカイラル対称性の方が少なくともやつがれにはなじみがある(どういふものかはわからないけれど)。

おそらく、本邦でタティングレースをする人々はフィンガー・タティングはあまりしないんだらう。
フィンガー・タティングとはシャトルや針など道具を遣はずにするタティングのことだ。
えうするにマクラメのタッチング結びとおなじことをするわけだ。

フィンガー・タティング人口が多ければ、マクラメのタッチング結びといふ呼び方をちよつと奇異なものと思ふ人も多くなるのではないかといふ気がする。
なんとなくだが、マクラメもタティングレースもするといふ人が少ないのかもしれないとも思ふ。
そもそも糸を結ぶ手芸に興じる人口が少ないか。

いづれにせよ、マクラメのタッチング結びははこのままタッチングのままなのだらう。
"A rose by anyh other name would smell as sweet." とジュリエットも云つてゐる。

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Monday, 07 May 2018

達成感なし

この連休中はなにも仕上がらなかつた。

風工房の小さなクロッシェレース」に載つてゐるスカーフも仕上がらなければ、林ことみの「エストニアで習ったレース」に出て来る三角形のスカーフも編み始めただけで終はつた。

なんとなく、なにか仕上がらないと休みを取つた気がしない。
実際は休みのあひだになにか仕上げることができることの方が少ないと思ふのだが、この気持ちは如何ともし難い。

この連休は、どうやら思つたやうには過ごせなかつたやうだ。
休みの日でないとできないことをしやうとして、それはできたと思ふのだが、その結果、時間に追はれるやうに過ごしてしまつた。
それが理由だらう。

以前も何度か書いてゐるやうに、出かけるには何時にどこに着かねばならないかを考へる。
そこから逆算して、何時の電車に乗ればいいかを考へ、それには何時に家を出ればいいか、そして何時までに支度を終へるか、何時に起きるか、それには前の晩に何時に寝るか、とどんどん遡つていく。
これが苦痛でならない。
タスク管理の話などを読んでいくと、かういふ逆算をするのはあたりまへのことなのださうである。

なんでもさうか。
夕飯を作るのにも、何時までに全部用意するには何時に支度をはじめる必要があり、それにはまづ材料が揃つてゐなければならず、なければないなりにどうにかするかどうにもならなければその前に買物に行かねばならない。それには何時までに行く必要がある云々。

この逆算が苦痛なので、普段あみものやタティングレースに関しては「いつまでに何を作る」と考へないやうにしてゐる。
「いつ作りはじめる」は考へることもあるけれど、終はりは考へない。
逆算しないといけないからだ。

タスク管理の話ではあたりまへとされてゐるこの逆算を、通常はやつがれもそれとなくこなしてはゐる。
ただ、時々逆算することに疲れてしまふ。overwhelmedといつた気分になつてしまふ。

ものごとを成し遂げるには絶対必要なことなんだがなあ。
だからなにも成し遂げられないのか、とも思ふ。

といふわけで、気分は上々とはいへない。
もうちよつと休みたかつたな、といふのが正直なところだ。

こんな気持ちで九月の連休までもつだらうか。

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Friday, 04 May 2018

ひとり飲み考

一昨日、学校に通つてゐた時分の友人と会つてお酒を飲んだ。
さんざん飲んで喋つて別れた。

外で酒を飲むことにはかういふ効用もある。
すなはち他人との交流だ。
その一方で、以前から憧れてゐる飲み方がある。

ある日、帰宅途中の車窓から、居酒屋のカウンター席に座りひとりで飲んでゐる人の後ろ姿を見かけた。
かたはらにとつくりなどを置き、その人は文庫本を読んでゐた。
いいなあ。やつてみたい。
そのときさう思つた。

やつてみることもある。
飯田に行くと夕食はお酒を出すお店でとることになりがちだ。
ゆゑに本を携へて行つて、読みながら飲む。いや、飲みながら読む。
問題は、居酒屋といふところは照明が暗いことが多い、といふことか。
本を読むといふ前提がないからだらう。あたりまへのことかもしれないが。

世間的には「外にお酒を飲みに行く=他人との交流をはかる」なのらしい。
「新宿そだち」といふ歌がある。
奇数番は男声、偶数番は女声で、それぞれ「女なんて」「男なんて」と歌ひつつ、やはり相手がゐないとね、みたやうな歌だ。
一番では「女なんて嫌ひだけど、ひとりで飲む酒はまづい、ぢやあいつもの子を指名しやうかな」と歌ふ。
指名しやうといふことは、相手はそれを商売にしてゐる人だらう。
プロなのだから、おそらく客であるこちらをいい気持ちになるやうもてなしてくれるはずだ。
つまり、相手にかまはれる、といふことにほかならない。
いやー、なんていふか、はふつておいてほしいんだけどなー、やつがれ的には。

もつとそのものズバリ「悲しい酒」といふ歌もある。

ひとりで飲む酒はまづいだらうか?
ひとりで食べる食事はおいしくない?
さう思つたことがない。
ひとりで飲んでもうまい酒はうまいし、おいしい食べ物はおいしい。

これも以前何度か書いたことに北村薫の小説に出て来る逸話がある。
主人公は、おいしいお菓子を食べるときには本があるとうれしい、といふやうなことを云ふ。
小説ではいただきものの缶入りの洋菓子だつたやうに記憶する。
おいしいお菓子はただ食べるのはもつたいない。
本と一緒に、できればおもしろい本と一緒に賞味したい。

他人との交流といふことでいへば、本を読むことも他人との交流だらう。
山本夏彦的にいへばさういふことになる。
小説であれば登場人物たちと、さうでなくても著者と交流する。

だつたらなにも外で飲む必要はなくて、ひとりで家で飲めばいいぢやあないか。
結局さういふことになる。
酒はともかく家で用意する肴がおいしいかどうかといふ問題もないではないが。

そんなわけで今日もたのしくひとり酒だ。
いや、僭越ながら司馬子長と飲むことにするかな。

でも美空ひばりの歌を聞いてゐると思はないこともない。
ひとりで飲む酒を悲しいと思へるほどの人生経験を積んでゐないだけなのではないか、などと。

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Thursday, 03 May 2018

出かけたくなるには

映画館や劇場は好きな場所だと思ふ。
映画や芝居を見ることは基本的にひとりですることだ。
誰かと一緒に見に行くといふことはあるけれど、でも見てゐるときにはひとりだけである。
上映中・上演中にとなりの人と interact することはまづない。
さういふところがとても気楽でいい。

問題は、映画館や劇場への行き来だ。
出かけるのがいやで仕方がない。
大抵は家の外に出てしまへばなんとかなるのだが、ときに道中気持ちが落ち込んでどうにもならないこともある。
一昨年京都は先斗町歌舞練場の顔見世興行に行つたときなどは、京都駅からバスに乗つた時点でも気持ちが晴れず、あやふく泣くところだつた。
なにがそんなに気に入らないのか、自分でもわからない。
歌舞練場に着いたら気分が沈みきつてゐたことなどすつかり忘れ去つてゐたのだが。

前売券を入手してゐるかどうかはあまり関係ないことがこれでもわかる。
前売券を買つたといふことは、決まつた日に出かけることは予定に織り込み済みだといふことだ。
心構へができてゐれば出かけるのもそれほど苦ではないのではあるまいか。
さう思つた時期もあつたが、どうやら事前に予定してゐるかどうかは気分の落ち込みとはほとんど関係ない。
月曜日にラピュタ阿佐ヶ谷に行くのも、直前まで「やめやうかな」「行つてどうといふこともないわけだし」と悩んでゐた。

だつたら行かなければいい。
前売券を買ふのもやめればいい。
もう一切出かけるのはやめる。
完全にひきこもることはできないにしても、休みの日くらゐ、家でぼんやりしたらどうだらう。

この連休はさうやつて過ごす日が思つてゐたより少ないことにいまさら気づく。
せめて残りはできるだけ出かけずにぼーつと時の過ぎるのまかせて過ごしたい。

それにしてもどうしてこんなに出かけたくないのだらう。
別段居心地のいい家に住んでゐるわけではない。
ゴミ屋敷のやうなところだといふのに。
外に出た方が環境のよいところはいくらもあるといふのに。

ひとつは、出かけるにつき時間に追ひまくられるのがつらい、といふことだとは思つてゐるのだが。
出かけるとなるどうしても「何時までに何処其処に着く必要がある、それには何時発の電車に乗るから、家を何時までに出なければならない。それには用事を何時までに済ませないと無理だから、何時には起きなければ。それには前の晩に何時までには就寝しないと」と考へねばならない。
これがどうにもつらくて仕方がないことがある。
かういふのつてなんとかならないのか知らん。
予定の逆算が苦にならない方法つてないのかな。

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Wednesday, 02 May 2018

大事なことは描かない

月曜日にラピュタ阿佐ヶ谷で岡本喜八の「斬る」を見てきた。
山本周五郎の原作を映画にしたものだ。
天保の世、上州のさる藩で城代家老が暗殺される。
実行犯は藩の若人八人。
首謀者は藩の重役(神山繁)である。
若人たちはその重役からの命で城代を襲ふ。藩をよりよくしやうといふ志にあふれたものたちだ。
だが、重役は腹黒かつた。
邪魔な城代を殺して自分が藩の実権を握らうとしてゐた。
浪人を募つて若人たちを殺させ、その浪人たちは藩のものを殺したといふことで皆殺しにする、そのすべてを隠密裏にやつてしまはうと考へてゐた。

主人公はそんな藩に足を踏み入れてしまつた元・侍の渡世人(仲代達矢)と浪士組に入つて侍にならうとする元・農民(高橋悦史)なのだが、主人公の話はしない。

重役の計画はかうだ。
山の上の孤立した砦に若人たちを拠らしめる。
そこに浪士組を送り込んで若人たちを斬り殺させる。
そして若人たちも浪士組も、藩のものを集めて作つた鉄砲隊・弓矢隊で遠くから全滅させる。

この遠隔攻撃隊の二番手に島田(天本英世)といふ男がゐる。
島田にはセリフらしいセリフがない。
重役に集められたときも、もの思はしげな表情をするばかりだ。
これからやらうとすることに疑義を抱いてゐることは明らかだが、なぜかはわからない。
でも状況からなんとなくわかる。
おそらく島田は若人たちに sympathy を抱いてゐるのだ。
だが云へない。
こんなことはやめませう、だとか。
自分はこんなことはしたくない、だとか。
みんな、やめやう、だとか。
さういふことは一切口にしない。

主人公の為したことによつて浪士隊を疑ふ遠隔攻撃隊の一番手は、数名とともに浪士隊に抗議をしに行き、殺されてしまふ。
砦にたてこもつた若人たちの首領格(中村敦夫)は云ふ。
「島田ならわかつてくれるはずだ」と。
首領格の若人は島田に向かつて叫ぶ。
こだまとなつたその若人の声を聞いて、島田は立ち尽くす。
周囲には手に手に銃や弓矢を握つた侍がゐる。
苦悩する島田の顔が大写しになり、その後ろ姿が映つたところで場面は切り替はる。

島田がなにを云つたのか、どう行動したのかは、一切描かれない。
描かれないけれど、わかるやうになつてゐる。

岡本喜八の映画はそんなに好きなわけではない。
映像といひ音といひ、騒がしすぎるからだ。
「斬る」にも祭や女郎屋での大騒ぎが挿入されてゐる。
画面狭しと人々が暴れまはり、騒々しく歌ひわめき、めまぐるしくカメラが切り替はる。
Too much なのだ。

なんだけれども、だいたい一作品につき一度は「描かない」場面が出て来る。
「激動の昭和史 沖縄決戦」でいへば対馬号の撃沈だらうか。
「着流し奉行」だと主人公と悪の黒幕との対決場面。まあこれは原作自体もさういふ描き方でもあるが。
そして「斬る」はこの島田の場面。

いづれも重要な場面だと思ふ。
「かうなりました」と描かれることを見る方はそれとなく期待してゐる。
だがさういふ場面はばつさり切り捨てられてしまふ。
ゆゑに印象に残る。

これが見たくて岡本喜八の映画を見るといつても過言ではない。

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Tuesday, 01 May 2018

4月の読書メーター

4月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:1429
ナイス数:16

Weaponized Lies: How to Think Critically in the Post-Truth EraWeaponized Lies: How to Think Critically in the Post-Truth Era感想
グラフを見るときは目盛りに気をつけること、グラフに表示されていない部分についての憶測は避ける(予想はいいけど)など、具体例が多い。Webサイトなどの記事の信頼性はいいけど、マジシャンの云うことが正しいのか否かあたりにくると「そこまで考えなくても……」と思ってしまうのは、やはりcritical thinkingというものが基本的にはめんどくさいものだからだろう。
読了日:04月05日 著者:Daniel J. Levitin
編集兼発行人 (中公文庫)編集兼発行人 (中公文庫)感想
自分の知らぬ過去と自分とは思っているほど断絶しているわけではない。犬養毅は西郷隆盛と同時代人で、孫の犬養道子は祖父から西郷どんの噂を聞いたろう、ならば犬養道子にとって西郷どんは他人ではないという旨の文章を読むと、明治は遠い昔のことではない気がしてくる。先祖といえば、自分がいま一生懸命芝居だのなんだのを見ているのは見られなかった先祖のうらみを晴らしているのかもしれない、という考え方にはピンとくるものがある。芝居といえばこの本で「鳴神」を見たことがないとある。二世松緑が復活させる前に書かれたものだろう。
読了日:04月06日 著者:山本 夏彦
黒死館殺人事件 (ハヤカワ・ミステリ 240)黒死館殺人事件 (ハヤカワ・ミステリ 240)感想
そういや黄色いアレキサンドライトを見てみたいなあと思ったものだなあと思いつつ読み返す。緑だけど黄色味の強い石があるのだろうと思っている。赤というのも見たことがなくて、あれはどう見ても赤紫だと思うのだが、きっと赤味の強い石があるのだろう。という感じといったところか。
読了日:04月13日 著者:小栗 虫太郎
ネットカフェ難民―ドキュメント「最底辺生活」 (幻冬舎新書)ネットカフェ難民―ドキュメント「最底辺生活」 (幻冬舎新書)感想
やむにやまれぬ理由などなくネットカフェ難民になった著者による体験記。一度労働による収入を得てしまうとそれが途切れそうになったときに情緒不安定になる、とあって、それなら最初から収入などなければ不安など覚えぬのかというとそうでもないんだろうなあと思う。著者には帰れるところがあったからいいけれど、やむにやまれずネットカフェ難民になるということは如何なものだろうか。この本の出版から10年以上たつ。現状はどうなっているのだろう。
読了日:04月13日 著者:川崎 昌平
Frankenstein (AmazonClassics Edition)Frankenstein (AmazonClassics Edition)感想
陳腐な感想と思いつつ、いまだったらAIなんだろうなと思ってしまう。原作を読むと不思議とボリス・カーロフの印象は薄れて、なにかもっと原型的なものを想像してしまう。こどものころは怖いと思っていたけれど今回読んでみてそうでもなかった。外国語で読むと合理的な判断力が働くらしいから、そういうことなのかもしれない。
読了日:04月24日 著者:Mary Shelley
The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde (English Edition)The Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde (English Edition)感想
「フランケンシュタイン」を読んで、手紙ものといえばと思いついて読んでみた。読んでみたら結構好きな文体だった。これは収穫。善と悪とに引き裂かれた結果、善の方に決断力がなくなる、という話があったように思っていたけれど、あれは「スタートレック」だったかなぁ。
読了日:04月30日 著者:Robert Louis Stevenson

読書メーター

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お道具のありがたみ

ここのところタティングレースではこれといつたものを作つてゐない。
職場の引越しにともなつて荷物を片付けてゐたところ出てきた職場用タティングシャトルに残つてゐた糸で Mary Konior の Curds and Whey を作つてはリングの大きさをそろへる練習をしたくらゐだ。

最近はもつぱら化繊の糸で丸四つだたみを作つてゐる。
糸といふか、コード、かな。
C-Lon Bead Cord といふコードを使つてゐる。
7年くらゐ前、Micro Macrame を知つたときに入手したもので、そのままはふつてあつた。
なんだかもつたいなくて使へなくてね。
丸四つだたみの組み方は「1日でつくれるマクラメアクセサリー」を見て覚えた。
ハマナカのくみひもディスクを持つてゐるので、それを使へばいいのに、わざわざ手で作つてゐる。
くみひもディスク自体は邪魔にならなくていいお道具なのだが、道具なしにはかなはない。

最初はよくわからなかつたが、何度かやるうちにだんだん丸四つだたみの仕組み(といふか)がわかつてくる。
これはくみひもディスクだと少しむつかしいかもしれない。
くみひもディスクの場合は何番にかけた糸を何番にかけなほして、次に別の番号にかけてあつた糸をさらに別の番号にかけなほし……をくりかへしていくとできる。
手順ばかり追つてゐて、なにがおこつてゐるのか、紐同士がどう組み上がつていくのかといふことまではなかなか気が行かない。

一方で、手だけで丸四つだたみを作つてゐると、お道具のことがありがたく思へることも事実だ。
それまでも、くみひもディスクはすばらしい道具だと思つてゐた。
なにしろ、直径15cm、厚み1cmていどの道具だけで組紐が作れるのだ。
くみひもディスクが世に出る前、「おしゃれ工房」で組紐をとりあげたことがある。
テキストには風呂場で使ふ椅子がいいと書いてあつた。
まんなかに穴が空いてゐるのでそこにできた組紐を垂らしていく。
おもりは適当な重さの石を見つけてきて紙粘土で覆つてあつかひやすい形にする。
「なるほどねー、それで組紐の道具ができあがるわけね、」と当時は感銘を覚えたものだつた。

くみひもディスクは風呂場の椅子のやうな大きな道具は不要だ。
おもりもあつた方がいいときもあるけれど、当時はフィルムケースにコインなどをつめればよいとあつた。当今ではフィルムケース自体を見なくなつたのでなにか別のものを考えなければならないが。
組み具合は、糸の引つ張り加減で調整する。

手で組む場合はおもりはあると邪魔だ。
組み具合を糸の引き具合で調整するところはおなじだが、くみひもディスクの場合はディスクに糸をはさめばよいので比較的かんたんに調節できるのに比べ、手で組む場合はゆるんでくることもある。また毎回おなじ力加減で引くのも大変だ。

でも手だけでやつてしまふんだよなあ。

いま作つてゐる丸四つだたみの紐はできれば時計のチェインにしたいと思つてゐる。

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