死語を遣はう
文章指南の本などを読むと、手垢のついたやうな云ひ回しは遣ふな、とある。
手垢のついた云ひ回しとは、慣用句、クリシェの類だ。
たとへば「そんなの、赤子の手をひねるやうなものさ」とか「鬼の首を取つたやうに自慢げだ」とか。
ニュースの「立春とは云ひながらまだまだ寒い日がつづきますが」などもさうだらう。
遣ふな、と、いふのには理由がある。
かういふ慣用句を遣ふときといふのは、ほかにこれといつた表現が思ひつかないときだ。
思ひつかないことをごまかさうとして遣ふ。
耳慣れた表現だから、受け取る側もなんとなくわかつた気持ちになる。
でも実は具体的なことはなにも語つてゐない。
ゆゑに遣ふな、といふのだ。
文章で生きていかうといふ人にとつては、そのとほりかと思ふ。
しかし、遣はないことばは滅びる。
慣用句やクリシェは滅びてもいいといふことだらうか。
やつがれはさうは思はない。
文章で生きていかうとも思つてゐない。
誰も遣はないのならかへつて新鮮だともいへる。
だから「あの人は竹を割つたやうな性格の持ち主だ(そんな人物には実際のところ会つたことはないのだが)」だとか「蜂の巣をつついたやうな大騒ぎ」とか、どんどん書くやうにしてゐる。
とくに自分の手帳には書く。
さうしないと遣ひ方を忘れてしまふからだ。
死語を遣はう。
遣つてゐるあひだは大丈夫だ。
遣はなくなつて、「死語」とも云はれなくなる前に。
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