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Monday, 30 April 2018

予定外のものを編む

この連休は、これまでエミーグランデで編んでゐたかぎ針編みのスカーフを編み終へ、夏物のヴェストに手をつける予定であつたが。

なぜかこんなものを編み始めてしまつた。

Crochet Shawlette in Progress

林ことみの「エストニアで習ったレース」に出て来る三角形のスカーフである。
ハマナカのポーム無垢綿クロッシェを3/0号針で編んでゐる。
ポームは100g玉で、なにか糸を切らずに編めるものを編みたいと思つた結果、これになつた。
夏物としてはスカーフのやうな首元だけ覆ふやうなものがよかつたのだが、「これ!」といふものが見つからなかつた。

この三角形のスカーフはこれまでにも何度か編んでゐる。
本ではエステルヨートランドのオンブレで編んでゐて自然と色が変はるのがいい感じのスカーフである。
実際、これまでも段染めのくつ下毛糸で編んできた。
このスカーフの問題点は、編み始めるととにかく編み続けたい欲求にかられる模様だといふことと、大きくするにはかなりの量の糸が必要だといふことだ。

「編み続けたい欲求」に関しては、個人的なものだとは思ふ。
とにかくこの方眼編みの模様は adictive だ。
ノーストップで延々編めてしまふのだ。
今回使用してゐる針と糸との相性とがあまりよくないのか、ちよつと滑りが悪いのでそれがときにブレーキにはなるけれど、とにかく編めてしまふ。
いかん。
とてもいかん。

しかし、考へやうによつては、とにかくがんがん編んでしまへば、早く本来編むつもりでゐたエミーグランデのスカーフとヴェストとにとりかかれるのではないか、とも思つてゐる。

かういふやめられないとまらないものを編んでゐると、自分はあみものが好きなのだなあと思ふ。
だが、ほんたうに好きなのだらうか。
単に中毒になつてゐるだけなのではないか。
ほかにやるべきことがあるのでは?

さういふ不安に悩まされつつ、ひたすら編んでゐる。

Friday, 27 April 2018

自作自演の鬱状態

LOFT限定のPILOTのkakunoを買つてしまつた。

色は紫である。
ほんたうはペパーミントグリーンのやうな色合ひの方もほしかつたのだが、店頭にはすでになかつた。

ほしかつたけれど、実をいふと紫の方もまだ何色のインキを入れるのか決めてゐない。
とりあへず買つてしまつた。
いけない買物の仕方の見本のやうである。

いけない買物の仕方といへば、先日ハマナカのポームの100g玉を買つてしまつた。
ポームはいままで25gくらゐの小さい玉しかなく、ちよつと大きいものを編まうとするとしよつ中糸端の始末をしなければならなかつた。

そのポームの100g玉が売りに出されたといふ。
買ふでせう。
なにを編むか決まつてないけれど。

といふわけで、何年ぶりだらうか、なにを編むのかまつたく考へてゐない状態で糸を買つてしまつた。

なんだらう、この、なにも考へてゐない感じ。
感じ、ぢやなくて、なにも考へてゐない。
計画性がない。
ヤバい。

この分だと新しいkakno用にインキも買ふのだらう。
手持ちのインキを物色もしてみるけれど、記憶にあるかぎりこの紫色のペンに似合ふインキがない。
色彩雫の紫陽花か、はたまたエルバンのヴィオレ・パンセか。
プラチナのヴァイオレットブラックはチト違ふ気がするんだよなあ。

先日もセーラーの100色インキについても書いた。
100色の中から好きな色を選ぶか。
かうしてまたものが増えてゆく。

こんなことをしてゐるから未来に不安を覚えて気分がふさいでいくんだよなあ。
鬱の治療には生活をしていくのに不安のないくらゐの金銭的支援が一番だ、といふ話もあるほどだ。

不安になるのだから浪費は避けるべきだ。
わかつてゐるつもりなんだがなあ。

いまこれを書いてゐて、己の浪費を目の前につきつけられてしまひ、さらに不安がつのつてゐる。
愚かなことだ。

Thursday, 26 April 2018

録画機が壊れてしまつたので

TVの地方局で、「傷だらけの天使」の再放送を見てゐる。
録画機が壊れてしまつたので、放映時間に見てゐたのだが、これが案に相違して楽しい。

録画機が壊れるまで、TV番組は録画をしてから見るものだつた。
放映時間にTVの前にゐられないことが多いからだ。
TV番組を録画することに慣れると、放映時間にTVを見やうといふ気が薄れてくる。
放映時間に見るといふことは、束縛されるといふことだ。
番組の時間にあはせてほかの用事を済ませ、TVの前に座らなければならない。
録画機が我が家にくるまでは当たり前だつたことが、ひどく苦痛になつてゐた。

また、録画するとコマーシャルをとばして見ることができるやうになる。
さうすると、リアルタイムで見るときにコマーシャルを見るのがつらくなることがあるのだ。
とくに二時間ドラマや映画などで、話が進むにつれてコマーシャルの時間が増えるやうなとき、「とばせたらなあ」と思ふやうになる。

録画する番組は時代劇が多かつた。
日中再放送されてゐる番組である。
コマーシャルは「膝が痛い」だとか「髪が薄い」だとか「目が疲れる」だとかに効く商品のものが多い。
見てゐると、だんだん憂鬱になつてくる。
そして、毎回見るうちに、「もしかしたらほんたうにこの商品は膝の痛みに効くのかも」といふ気がしてくる。
ヤバい。
とてもヤバいのだつた。

「傷だらけの天使」くらゐの番組になると、当然DVD Boxも出てゐて、見たければそれを買へばいい、といふ話もある。

でもなー、違ふんだな。
見たい番組が、TVで放映されてゐる、といふのがいいのだ。
それも、何曜日の何時からとか、平日毎日何時からとか、定期的に放映されるのがいい。

おそらくこれつて紙芝居を待つこどもの心境なのだと思ふ。
あるいは次回の講釈を待つ人の心境か。

あめはないけれど、TVで放映する。きまつた曜日のきまつた時間、きまつたTV局で、見たい番組を見られる。好きな俳優が見られる。
それがいいんだと思ふんだな。

メディアを買つて、見たいときに見られるといふのももちろんいいし、そんなわけで「必殺仕掛人」のBoxは買ふつもりでゐるのだが。
でも、Boxを買つたとしとても、TVで再放送がはじまつたらまた見るね、「必殺仕掛人」。

ところで「傷だらけの天使」が終はつて、今度は「探偵物語」がはじまつた。
見るでせう。見るよね。

録画機が壊れてゐてもしばらくは楽しく暮らせさうだ。

Wednesday, 25 April 2018

周瑜のカシラのモデルは検非違使

飯田市川本喜八郎人形美術館に行くと、飯田のケーブルTVが撮つた川本喜八郎へのインタヴュー番組の録画を流してゐることがある。
番組には主に「人形劇三国志」について語つたものと、「平家物語」について語つたものとがある。

主に「人形劇三国志」について語つた方の番組で、川本喜八郎は周瑜のカシラのモデルは検非違使である、と語つてゐる。

さうだつたのか! 周瑜は検非違使!
はじめて聞いたときに、痛く感銘を受けた。
ほかの人形のカシラも多かれ少なかれ文楽の人形のカシラをモデルにしてゐる、とも語つてゐた。

検非違使といふと、「義経千本桜」の知盛とかかな。
カシラのことはよくわからないが、知将的なイメージのあるカシラだと思ふ。

このとき、美術館の方とちよつとお話をしたのだが、ほかの人形のカシラがなにをモデルにしてゐるのかはわからぬ仕舞だつた。
とりあへず、孔明のカシラのモデルは孔明でないことは確かだ、といふ点では意見の一致を見た。

勝手に想像すると、関羽のカシラは文七を元にしてゐると思ふ。
張飛は与勘平だらう。
このふたりについてはほぼ間違ひないんぢやないか。
あとがわからないんだよなー。

話を聞いてゐると、川本喜八郎は最初は玄徳のカシラは孔明(文楽のカシラの方ね)をもとに作るつもりだつたのではないかといふ気がする。
文楽の孔明のカシラのイメージは、分別のある品のよい壮年といつたところか。
それだとロマンスもある主人公としてはちよつと、と云はれて、おそらくは源太か若男あたりをモデルにして作つたのが実際の玄徳のカシラなんではないかと思つてゐる。

黄忠と黄蓋とはよく似てゐるけれど、カシラをよく見ると、黄忠は鬼一、黄蓋は大舅なんぢやないかといふ気もしてくる。黄忠の方がちよつとやさしげなんだよね。

趙雲も源太か若男かといつたところか。劉琦さまは若男かなー。
そしてやはり孔明のカシラのモデルがわからない。

川本喜八郎本人に訊けるうちに訊けたらよかつたのに、と思ふが。
秘密だつたかも、といふ気もする。
いづれにしても、「この人形のモデルはなんだらう」と考へながら見るのはまた楽しい。
袁紹とかなんなんだらう。陀羅助かなあ?

Tuesday, 24 April 2018

旅の友

四月二十一日土曜日に御園座に行つてきた。
こけら落としかつ白鸚・幸四郎襲名興行を見に行くためだ。
種々の理由のため、朝から行つて昼の部だけ見て帰ることにしてゐた。

そこで、新幹線の中でちよつとタティングしてみやうかなと思ひ、朝糸をボビンに巻いて家を出て、新幹線の中で撮つた写真がこれである。

Tatting in Progress

ここから、Mary Konior の Tatting in Visual Patternsに掲載されてゐる Curds and Whey を作りはじめた。

別になににしやうと決めてはゐない。
ただ旅の友としてなにか作りたかつただけだ。

新横浜から途中ぼんやりしつつ、浜名湖にさしかかるくらゐまでちまちま結んでゐたらうか。
前の夜は心持ち早めには寝たものの、寝不足であることにはかはりない。
浜名湖の競艇場を過ぎたあたりから記憶を失つて、「次は名古屋」といふアナウンスで目が覚めた。

御園座では結ばなかつた。

御園座ではB席に座つた。
足下は広いものの、座席の横幅はお世辞にもゆつたりしてゐるとはいへない。
お隣のお年寄りが、体力がもたないのだらう、姿勢を保てないやうすでやつがれ側の椅子の仕切に時折肘をつくのだが、さうするとこちらのわき腹にあたる仕組みになつてゐた。
そんな状況でタティングはチト無理だ。

これが帰りの新幹線に乗つたときに撮つた写真。

Tatting in Progress

それほど進んでゐないのは、結びはじめの糸端の始末をしながら進めたからだらう。
今回は行きも帰りも富士山が見えた。
結んだり休んだりしながら品川駅手前で撮つたのがこの写真である。

Tatting in Progress

だからどう、といふ話ぢやないが、たまにはかういふのもいいかもしれない。

このあと、もう半分だけ模様を足して、糸がなくなりさうなのでそこで終はりにした。
まだ仕上げはしてゐない。
この連休中、遠出をするつもりはないが、するやうだつたらまたかういふ感じでなにか作つてみやうかと思つてゐる。
今度はマクラメかなあ。

Monday, 23 April 2018

葉つぱに飽いたら

この連休に編むつもりのヴェスト用の糸が届いた。
ハマナカのFlax K で編むつもりだ。
といふわけで、現在編んでゐるかぎ針編みのスカーフを早く仕上げてしまひたい。
だが、思ふやうには進んでゐない。

「風工房の小さなクロシェレース」に掲載されてゐるスカーフを編んでゐて、やつと本体部分を編み終はり、縁につける葉のモチーフを一枚つけたところだ。

かぎ針編みのスカーフ

この葉を、合計三十枚つける。
三十枚……
ちよつと気が遠くなつてゐる。

もともとはこのアイリッシュクロシェの葉のモチーフが編みたくて編みはじめたスカーフだ。
それを目標に本体部分の目から針をはづして下の段の目に針を通して休めてゐた目を引き抜くのくり返しに耐へられたのだと思ふ。
そういえば、引き抜きのピコットもだいぶうまく編めるやうになつた。
今回の収穫はまづそれかな。
引き抜きのピコットがほんたうに苦手で、これを遣つた作品は編みたくないくらゐだつたのだが。
今回は細編みに引き抜くピコットだつたのでまだましな方なのかもしれない。
鎖編みの途中で引き抜くピコットがこれまた苦手でなあ。

無事本体も編み終はり、やつと念願の葉のモチーフに入つたわけだが。
思ふやうに編めない。
暗い色の糸だからだらうなあ。
老眼恐るべし。

あと、糸端の始末がやはりめんどくさい。
編みはじめの糸は編みながら始末していくからいいけど、編み終はりの糸はどうにもならないからなあ。
果たして連休までに編み終はることができるのだらうか。
#まづ無理だと思つてゐる。

葉つぱに飽いたらヴェストのゲージでも取るかなな。

Friday, 20 April 2018

片づけられない片づかない

部屋が片づかない。

片づける能力がないといふのがひとつ。
もうひとつは、「片づけてゐる暇があつたらほかにしたいことがある」だ。

ほかにしたいことをするにも、片づけてからした方がはかどるし、気分もいいだらう。
さうは思ふができない。
歌の文句にあるぢやないか。
「明日ありと思ふ心の徒桜夜半に嵐の吹かぬものかは」つて。

片づけて、きもちよくなつてから好きなことをしやう。
さう思つても、明日はもう来ないかもしれない。
この世の最後にしたことが片づけになるやもしれぬ。
それよりもしたいことをしやうや。

云ひ訳である。

といふわけで、この連休にはちよつと片づけをしやうと思つてゐる。
まあ、すこし長い休みのときは毎回さう思ふんだけれどもね。
毎回ちよつと片づけをして、すぐ息切れしてしまつて、つづかない。
捨てるものや取つておくものが床に散乱し、収拾がつかなくなる。これを片づけないことにはなにもできない。
そして、懲りてしまふのである。
「もうしばらく片づけなんぞはしたくない」
さう思つてしまふ。

片づかないのは、ものを捨てないからだ。
これが一番大きな理由かと思ふ。
最近は日によつて捨てられるゴミがわかれてゐて、それによつてゴミの分別が迫られる。
これは可燃ゴミ、これは不可燃ゴミ、これはリサイクルごみ、と、わけておいておくと、あつといふ間に床の上が混沌としてくる。
そのうちどこまでが可燃ゴミでどこまでがリサイクルごみなのかわからなくなつてきてしまふ。

これをふせがうと、手にゴミ袋を持つて片づけをするのだが、やはりうまくいかない。
ゴミ袋がすぐいつぱいになつてしまふからだ。
やはり箱を用意する方がいいのかなあ。
とりあへずとつておくもの用と捨てるもの用とふたつ箱があればいいだらうか。
それにかたつぱしからものを入れていつて、あとで選別する。
それでいいやうな気もする。

なぜ箱をいままで用ゐてこなかつたのかといふと、適当な箱がないといふのが大きい。
そして、箱に入れることにすると、わざわざ箱のある場所まで移動しなければならず、それだけで疲れきつてしまひさうな気がしたから、といふのもある。

さらに、先ほど日によつて捨てられるゴミが細かく分かれてゐると書いたが、不要なものをまとめてもゴミの日まで捨てられない。
それまでものだつたものがゴミとして家の中にある。
その状態がどうにも気に入らないといふこともあるな。

いづれにしても云ひ訳だ。
箱に入れることにすれば、箱の中は片づかなくてもとりあへずそのまま入れておけばいい。
箱なら重ねられもしやう。
といふわけで、まづは適当な箱を入手するところからはじめるやうだな。

Thursday, 19 April 2018

休みの日には休みたい

五月の連休中にしたいことを書き出してゐる。

Bullet Journal に「連休中にしたいこと」といふタイトルのページを作り、思ひつくままに書き付ける。
いまのところ「最初の二日間はとにかく寝る」とか「それ以降は早寝早起き」、「パシフィック・リムを見に行く」などが並んでゐる。
部屋の片づけもするべきなんだがなあ。
一応書いてはみたけれど、するかどうかはアヤシい。

Bullet Journal はかういふ遣ひ方に向いてゐる。
ここ二年ほど、五月や九月の連休や正月休み前には大抵かうして書いてきた。
書いてなにかいいことがあるのか、といふと、まあ「すつきりする」といふのはある。
「あれもしやう」「これもしやう」と頭の中だけで考へてゐるあひだはもやもやとしたものが、紙に書き出すとなんとなく具体的になつた気がして気分がすつきりするのだ。
書き出したことは考へなくてもよくなるしね。
あとは長い休みを有意義に過ごせる気がする。

でも休みなので、なるたけすることは減らす。
することをあるていど書き出したら何日にやるかをおほまかに割りふるが、このときにいつぱいいつぱいにならないやうにする。
なにも割りふらない日をできるだけ増やす。
なにも割りふらないからといつて、なにもしないわけではない。
割りふれない予定といふのもあるからだ。
たとへば五月の連休でいふと、毎年冬に着た毛糸ものを洗つて乾かし片づけるのだが、これは天候に左右されるので何日にするとは決められない。
また、読書やあみものは一日限定ですることではない。
さういふことをあいてゐる日に心ゆくまでする。
予定が入つてゐないからといつて、なにもしないわけではない。

などと云ひながら、五月は連休後に予定が入りまくつてゐるから連休中にできることはなるたけすませたいし、平日に休みがあるのでさういふ日には銀行に行きたいし、ラピュタ阿佐ヶ谷で岡本喜八特集もあるし、結局予定がどんどんうまつていくのであつた。

もうちよつとのんびり過ごしたいものなのだがなあ。

Wednesday, 18 April 2018

「犬神家の一族」と「八つ墓村」

Twitter で「犬神家の一族(以下、「犬神家」)」と「八つ墓村」とを混同する人が多い、といふつぶやきを見かけたせゐか、ここのところなぜこのふたつの判別がつきにくいのかについて考へてゐる。

いまのところ、「雰囲気が似てゐるから」だらう、と考へてゐる。

実を云ふと、「犬神家」と「八つ墓村」とが似てゐるとは思つてゐない。
かたや石坂浩二、かたや渥美清ではないか。
全然違ふぢやあないか。
どちらの映画にも出演してゐる俳優といふのも、主要なところでいふと二人くらゐしかゐないのではあるまいか。

と、いきなり映画の話になつたのには訳がある。
「犬神家」と「八つ墓村」とを混同する場合、よく出てくるのが沼からつきでた二本の足と頭に巻いた鉢巻にはさんだ蝋燭とか懐中電灯とかだからだ。
そのふたつの映像または画像を見たことがある人が、どちらがどちらだかわからない、またはどちらも実はおなじものだと認識してゐる、といふことなのだと思つてゐる。

あとは双子の不気味なお婆さんとかね。
マスクをつけた不気味な人物(佐清)とかね。
ヴィジュアルありきなのだ。
多分、どちらも1970年代に公開された映画にまつはる映像/画像を見て「どつちかわからない」というてゐるのだらうと推測する。

似てゐるといふと思ひ出すことに、浅見光彦シリーズがある。
やつがれはあまり浅見光彦シリーズといふものを評価してゐない。
理由は、「これ、おもしろいから読んでみて」と勧められて読んでみた本が二冊とも納得いかなかつたからだ。
片方は「良寛さんと一休さんつて似てるよね」といふ話で、もう片方は「「赤い靴」と「青い目の人形」つて似てるよね」といふ話だつた。

どこが?
全然似てないぢやん。
や、「全然」は云ひ過ぎか。
でも似てゐない。
「赤い靴」と「青い目の人形」とは、まあ、百歩譲つて似てゐるところもある、と云へないこともない。かたや女の子かたや人形が海を渡つて異国の地に行くといふ歌……と書いて、やはり「どこが似てゐるんだらう」と首を傾げざるを得ない。

ところがこれを勧めてくれた人は、「云はれてみれば似てるよねえ」といふのである。
さう云つた人はもうひとりゐて、ふたりとも浅見光彦シリーズの大ファンだつた。

さう考へると、「犬神家」と「八つ墓村」とは人が云ふほど似てゐないと思ふ、やつがれの方に問題があるのではないかと思へてくる。
世の中の人は些細な違ひをあげつらつて「似てない」などと云はないのだ。
石坂浩二と渥美清とが「些細な」違ひかどうかはともかく、推理ものにおける探偵役といふのは狂言廻し的な役回りに落ち着いて、案外目立たないものだつたりもする。
だつて「犬神家」や「八つ墓村」といつたときに思ひ出すのつて、沼から突き出た二本の足とか不気味な双子のお婆さんとか狂気の表情で洞窟内を走るをぢさんとかなんでせう。
金田一耕助ぢやあないのだ。

だから、「犬神家」と「八つ墓村」とは取り違へるほどによく似てゐるのである。
やつがれにはなぜだかわからないけれど。

ところで、どちらかといふと、「犬神家」と似てゐるのは「獄門島」なんぢやないかなあ、とも思ふ。
どちらにも三つの見立て殺人があるからだ。
似てゐると思ふ点はそれしかないが。
あと一応映画では石坂浩二の、TVでは古谷一行の金田一耕助で見たから、といふこともあるかもしれない。
個人的には「獄門島」はささやななえ(当時)のまんがなんだけれどもね。

Tuesday, 17 April 2018

貴族鼠

絹穴糸でタティングレースをしてゐる。
あまりにもうまくできないので、「仕方がない、今回は練習といふことにしやう」とあきらめた。

タティング練習

糸は、都羽根の貴族鼠といふ色である。
色が飛んでしまつてわかりづらいな。
わりと黒みがかつた灰色だ。
落ち着いた、いい色だと思ふ。

いい色なのだが、どうもうまく結べない。
スプリットリングにしたのがよくなかつたかなあ。
やつがれの技術ではスプリットリングは無理といふことか。

なぜか二つ目のシャトルで結んでゐるときの方が目がそろふ。
以前はそんなことなかつたんだけどなあ。
もしかしたら、いまこの状態でメキッキオヤをやると目がそろつていいかもしれない。
メキッキオヤは以前挑戦して、スプリットリングの二つ目のシャトルの要領で結ぶのに疲れきつてしまひ、モチーフをひとつ作るのがやつとだつた。
しかもきれいにできなかつたし。

とりあへず、糸が尽きるまでは練習といふことで、つづけるつもり。
なにごとも修行だよな。

この連休のあひだは、ちよつとマクラメなどやつてみやうかと思つてゐる。
マクラメについては長い休みの前には「この休みにはマクラメでもするか」と思ふのだが、つひぞやつたことがない。
今回は、ダルマの鴨川糸も買つたし、刺繍糸もいくつもあるし、挑戦してみやうと思つてゐる。

Monday, 16 April 2018

手がきつすぎる

レース編みのスカーフは本体を指定段数まで編んだのだが、長さが足りない。
10cmは足りないだらうか。
いませつせと編み足してゐる。

かぎ針編みのスカーフ

編んでゐるのは「風工房の小さなクロッシェレース」に掲載されてゐる方眼編みのやうに見えるスカーフだ。
スカーフの短い方の両端にアイリッシュクロシェの葉を編みつけることになつてゐる。
この葉を編みたくて編んでゐるのだが、なかなかそこまでたどりつかない。
本体部分はここにも何度か書いたやうに、一旦編み目から針をはづして下の段の細編みの頭に針を差し入れ休ませてゐた目を引き抜くといふのを数目に一度する必要がある。
その間に引き抜きピコットもある。
途中で挫折するんぢやないかとも思つたが、編んでいくうちに次第に調子に乗つてきたやうだ。
あと数段、このまま編めるだらうと思つてゐる。

ところでかぎ針編みのときは手がきつい。
棒針編みのときはゆるいんだがなあ。
かぎ針編みも、レース糸を編むときにきつくなるやうに思ふ。
以前ホビーラ・ホビーレのレース糸のキットを買つて方眼編みがベースのショールに挑戦したことがある。
すこし編み進んだときに店頭に飾られてゐる完成品を確認しに行つたところ、なんだか自分の編み目と全然違ふ。
もつとゆつたりとしてゐるのだ。
さういふものなのかなあ。
ショールなので糸が続く限りは気にいつた大きさまで編み足せばいいわけだけれども、軽くショックだつた。

この連休は、春夏糸で棒針編みをするつもりでゐる。
でもなんとなくこのままかぎ針編みをつづけたい気もするんだよなあ。
オリムパスの金票40番を買つてあるので、それでアイリッシュクロシェのモチーフなんぞを編みたい。
連休がもつと長ければいいのだが。

Friday, 13 April 2018

死語を遣はう

文章指南の本などを読むと、手垢のついたやうな云ひ回しは遣ふな、とある。
手垢のついた云ひ回しとは、慣用句、クリシェの類だ。
たとへば「そんなの、赤子の手をひねるやうなものさ」とか「鬼の首を取つたやうに自慢げだ」とか。
ニュースの「立春とは云ひながらまだまだ寒い日がつづきますが」などもさうだらう。

遣ふな、と、いふのには理由がある。
かういふ慣用句を遣ふときといふのは、ほかにこれといつた表現が思ひつかないときだ。
思ひつかないことをごまかさうとして遣ふ。
耳慣れた表現だから、受け取る側もなんとなくわかつた気持ちになる。
でも実は具体的なことはなにも語つてゐない。
ゆゑに遣ふな、といふのだ。

文章で生きていかうといふ人にとつては、そのとほりかと思ふ。
しかし、遣はないことばは滅びる。
慣用句やクリシェは滅びてもいいといふことだらうか。
やつがれはさうは思はない。
文章で生きていかうとも思つてゐない。
誰も遣はないのならかへつて新鮮だともいへる。
だから「あの人は竹を割つたやうな性格の持ち主だ(そんな人物には実際のところ会つたことはないのだが)」だとか「蜂の巣をつついたやうな大騒ぎ」とか、どんどん書くやうにしてゐる。
とくに自分の手帳には書く。
さうしないと遣ひ方を忘れてしまふからだ。

死語を遣はう。
遣つてゐるあひだは大丈夫だ。
遣はなくなつて、「死語」とも云はれなくなる前に。

Thursday, 12 April 2018

歌は世につれ

「傷だらけの天使」の再放送を見てゐてなにが楽しいといつて、当時巷に流れてゐた流行歌を聞くことだ。

中でも一番グつときたのがリンリン・ランランの「恋のインディアン人形」である。
「恋のインディアン人形」だよ。
最後に聞いたのいつだよ。

「おんなの道」だとか「なみだの操」、「襟裳岬」に「二人でお酒を」などといつた歌は、折りにふれて聞く。
……最近はさうでもないか。でも聞かないことはない。
「恋のインディアン人形」を最後に聞いたのはいつのことだらう。
ひよつとすると、二十年ではきかないくらゐ以前のことではあるまいか。

「恋のインディアン人形」が流れるのは第三話「ヌードダンサーに愛の炎を」だ。
ヌードダンサーたちの踊る背後に「恋のインディアン人形」が一瞬流れる場面がある。
かういふのがたまらないよねえ。

「傷だらけの天使」といふドラマ自体はどちらかといふと浪曲寄りにできてゐるやうに思ふ。
少し前の時代の歌にも関はらず「浪曲子守唄」が流れる回が何話かあるうへ萩原健一演じる木暮修が劇中で口ずさむ場面があるし、寿々木米若の「佐渡情話」をfeatureした第八話「偽札造りに愛のメロディーを」といふ回もある。
浪曲なんて古い、と、ドラマの放映された1974年時点でもすでにさうだつたのではあるまいかと思ふのだが、このころはまだまだ浪花節的なものが世間に残つてゐたのだらう。

そこに「恋のインディアン人形」ですよ。
異色。
違和感。
異世界。
と、そこまで云つたら云ひ過ぎなのは、これがヌードショーのBGMとしてかかるからで、半年前にリリースされた流行歌を取り入れたといふあたりが淫靡のはずがどこか明るい催しにぴつたりだ。
「あなたにあげる」とか「好きになつた人」とか、若い歌手の歌もないわけぢやないけれど、「恋のインディアン人形」にはじめつとした湿気がない。
見逃した回もあるので断言はできないが、このドラマの中ではちよつとめづらしい歌だ。
だからよけいに心わしづかみにされるんだよなあ。

そんなわけで、「傷だらけの天使」を見ながら「うわ、「浜昼顔」なんて久しぶり」だとか「「くちなしの花」だわー」とか、ドラマとは全然違ふところで盛り上がつてしまふ。
ドラマを作つた人たちの意図とはかなりはづれた見方だらうなあ。
でも楽しいからいいか。

Wednesday, 11 April 2018

貧しさに負けた

四月八日の朝日新聞Webで、「大分県で65歳以上の人の万引きが増加してゐる」といふ記事を読んだ。

なぜ大分県にかぎつてゐるのか、とか、その発生率は人口における65歳以上の人の割合と比してどうなのかとか、確認したいことがないわけぢやない。

個人的に衝撃を受けたのは、「所持金はあるが、こんな商品に遣いたくなかった」といふ万引きをした人の談話だ。
「こんな商品に遣いたくなかった」って……だつたらなんで万引きなんかしたんだよ。
さう思つたからだ。

いけないとはわかつてゐても、生活が苦しくなつたら万引きしてでも生き延びていくかもしれない。
自分はさういふタイプだと思ふ。
お金がなくなつて生命を維持するに足る食料もそこをついたといふことになつた場合、盗んででも生きていかうとするのがひとつ、お金がないんだからそのまま餓死するといふのがひとつの道だと思ふ。
自分はどうも耐へて飢ゑ死ぬタイプではないと思ふんだよなあ。
金がすべての世の中が悪い。
さう屁理屈をこねて、悪事に手を染める。
さうなる自分が目に見えるやうだ。

でも「こんな商品にお金を遣ひたくない」から万引きする、といふのはちよつと考へづらい。
さういふものは最初から買ひたいと思はないからだ。

その価値に見合ふ代金を支払ふ気にはならないが、でもほしい。
かういふ風に考へてみると、世の中にはさういふ商品もないわけぢやないかな、とは思ふ。
でもこの場合は、「もつと入手しやすい金額だつたら買ふのに」といふ意味だ。
たとへば楽器。
「時価」とか書いてあるファゴットをほしいと思ふことはあるが、でも買へない。
入手しやすい金額だつたら買ふのにな、と思ひつつ、でもさうなつても買ふか否かかなり迷ふと思ふ。
なくても暮らしていけるし、そもそも手元にあつても吹く場所がない。
贅沢品とか嗜好品とか、さういふものなんぢやないかなあ、「その価値に見合ふ代金を支払ふきにはならないけど、ほしいとは思ふ」ものつて。

モラルの低下といふ話もある。
貧すれば鈍すとはこのことか、ともいふ。
今朝も六月から小麦粉の価格が上がるとニュースで聞いた。
今後ますます高齢者の万引きが増えるといふことか。

Tuesday, 10 April 2018

色の名前と番号と

編み気が高まると結び気も高まるもので、手持ちの都羽根など出してきて「どーしよーかなー」などと考へたりしてゐる。

手持ちの都羽根の絹穴糸は、すべて京都の高島屋で求めたものだ。
顔見世などで京都に行つたをり、寄れるときは寄るやうにしてゐた。
糸が増えすぎてしまつてここ二、三年行つてゐない。

都羽根の糸にはひとつひとつ色の名前がついてゐる。
もう手元にないからしかとは覚えてゐないのだが、「紅碧」といふ名前の色の糸があつて、これが名前からは想像のつかないやうな鮮やかな紫色なのだつた。
いまWeb検索をかけて見たらまたちよつと違ふやうな色が出てきたけれど、紫系であることにかはりはないやうだ。
栗色なんてのはこつくりといい茶色だし、都鼠は紫といはうか灰色といはうか微妙な色合ひで同系色のビーズを探してきて一緒にしたらさぞかし渋くてよいだらうといふやうな色である。

さう、つまり、都羽根の絹穴糸は糸を見てゐるだけでものすごく楽しいのである。
それでなんだか満足してしまつて、その先に進まないのであつた。

セーラー万年筆が100色の万年筆用インクを発売したといふ。
これまでセーラー万年筆のインクには、名前のついたものもあつた。
スカイハイだとか、海松藍、月夜の水面、極黒や青墨なんかも仲間に入れていいかと思ふ。
百色のインクには名前はないのださうだ。
番号がふられてゐるだけだといふ。
それをもつて「趣がない」といふ向きもあるだらう。
しかし、番号だけの方がイメージが広がるのぢやあるまいか。
名前がついてゐれば名前に縛られてしまふ。
「月夜の水面」と名前のついたインクを使ふたび、しづかな湖水に浮かぶ月の絵を思ひ描いてしまふかもしれない。
それはそれでいいけれど、もしおなじインクが37番といふ名前だつたらどうだらう。
インクは万年筆の中で熟成されていく。
書き始めと書き終はりとで、また趣の違ふ色になることもある。
それを見て、さまざまなことに思ひを馳せることも可能だ。
37番といふだけであるならば。

まあ実際には背番号37番の誰某だとか、37階からの展望だとか、番号だけでもいろいろなことを想起してしまふのかもしれないが。

色を見てあれこれ思へるのは、番号だけのそつけない名前の方かもしれないな、と思ふのだつた。

Monday, 09 April 2018

編み気高まる

レース編みのスカーフは、遅々として順調に進んでゐる。
エミーグランデを2/0号針で編むといふ、自分比としては細い糸を編んでゐることもあり、また、苦手な引き抜きピコットがあることや逐一針を目からはづして編む必要があることなどを考へ合はせると、遅々とするのは当然のことで、ゆゑに順調に進んでゐるといへる。

「風工房の小さなクロッシェレース」に掲載されてゐるこのスカーフは、本体部分が方眼編みのやうな模様になつてゐて、両端に葉のモチーフを編みつけることになつてゐる。
本体部分はあと30段も編めば終はる。ちよつと短いかなあとも思ふが、もともとそんなに長いスカーフにはならない。さういふデザインだ。
考へてみても、どういふ場面で使ふスカーフなのかよくわからない。
防寒にはならないと思ふ。
これからの季節、冷房除けのスカーフを使ふ機会も増えるが、このスカーフだと方眼編み部分の穴が大きすぎて、風をふせいではくれない気がする。
もう、アイリッシュ・クロシェによくある葉のモチーフを編みたいばかりに編んでゐるといつてもいい。

「風工房の小さなクロッシェレース」には、アイリッシュ・クロシェのモチーフをつないだネックレスやブレスレット、カフスなどが掲載されてゐて、「使ふ場面が思ひつかないよ」と思ひつつ、なんとなく編んでみたい気分にさせられる。
といふか、編んでみたいと思ふときは、かなり編み気が高まつてゐるときだらう。
金票40番で編む葡萄と葉のモチーフをつないだネックレスとか、いつ使ふよ。
替襟のやうな感じで使へばいいのだらうか。

でもちよつと編んでみたいよな。
ネックレスくらゐならそんなにたくさんモチーフを編まなくてもいいし。
飽きたらそこでやめて、あとはチェインを長めに編んでごまかすこともできさうだし。

といふわけで、気がついたら編んでるかもしれないな、アイリッシュ・クロシェのネックレス。

その前に、ヴェスト的なものが編みたいのだが、この糸でこれを編みたいといふものがいまのところない。
編み図でも探してみるかなあ。

Friday, 06 April 2018

好みの店のパラドクス

今年も五月の連休はおとなしくしてゐるつもりだ。

などと云ひつつ、ちよつと遠出をしてみたいと思ふのも人情で、しかし、いまからだともう宿が取れない。
取れてもお高くてどうにもならない。
この機会に敢て普段は止まることのできないやうな宿に泊まつてみるといふのも手かもしれないな、とは思ふ。
だが、道路が混んでゐるだらうし、電車の乗車券も手に入りづらさうだ。

さうやつて云ひ訳ばかりして、結局出かけないのだらう。
連休中は人も多さうだしなあ。

空いてゐるといいなあと思ふ。
気に入る飲食店はほぼさうだ。
いつ行つてもそんなに混んでをらず、のんびりと食事を楽しめる、そんな店を好む傾向にある。
味は二の次、と行きたいところだが、さういふ店は大抵味の方も好みに合つたりする。
ところが、ある日行つてみると閉店したといふ張り紙に出くはす。
さうか、あれではお客さんが足りなかつたのだな、とそのときになつて思ふ。
かういふ目にあはないやう、気に入つた店にはせつせと通ふやうにしてゐるが、こちらにも都合といふものがある。
さう毎度毎度行けるものでもない。
さうして久しぶりに行くと違ふ店になつてゐて、ひどく込み合つてゐたりするのだ。
人が少ない方がいいのに、人が少ないと廃れてしまふ。
さみしいがほんたうのことである。

今朝、NHKのニュースで純喫茶を特集してゐた。
あれを見たうちの何人かは純喫茶に行つてみやうと思ふだらう。
純喫茶はさういふ客によつて活力を得るのかもしれない。
得た活力で営業を続けられるやうになることもあらう。
それはいいことなのだと思ふ。
TVを見て来たからといつて、うはついた客ばかりとは限らない。
ちやんと個々の店の雰囲気を尊重する人もあらう。
それでお気に入りの店が存続の危機をまぬがれるのなら、古参の客にとつてもいいことのはずだ。

と、理屈ではわかつてゐても、ちよつと客のまばらでぼんやり落ち着ける店がいいなあと思つてしまふんだよなあ。

Thursday, 05 April 2018

苦手な文具

苦手な文具がある。

付箋と蛍光ペンだ。

学校に通つてゐる時分はどうしてゐたのかといふと、付箋はとにかく使はない。
ノートになにか書き足したい場合はメモ用紙のやうなものに書いてのりやセロテープなどでノートに貼りつけてゐた。
蛍光ペン代はりに色鉛筆を使つてゐたことはここにも書いたやうに思ふ。
いろいろ使つてみてファーバー・カステルのポリクロモスが一番気に入つてゐる。
贅沢な話だ。

蛍光ペンはいまだに苦手だが、付箋はそれほどでもなくなつてきた。
最近では読んでゐる本に印をつけるのに常用してゐる。
お気に入りはココフセンの細長いものだ。
赤・黄色・水色・緑のものが一番気に入つてゐる。
最近ではクリップに貼りつけて本の表紙にはさんで使つてゐる。
ココフセンを使ふやうになつた結果、付箋に対する心の障壁が瓦解したのだらう。
その他の付箋も使ふやうになつた。

付箋も蛍光ペンも「これ見よがし」なところがダメだつた。
如何にも勉強してます風なところ。
目立ち過ぎるのである。
また、蛍光ペンについて云ふと、褪色が激しいのも気になる点だ。
色褪せてうつくしいのならいい。
どうも蛍光色といふ目にも鮮やかな過去の栄光にしがみつくやうな、そんな色合ひになるのが気に入らなかつた。
いまはさうでもないのかなあ。

付箋を使ふといまでも「これ見よがし」な感じになるが、それよりも使ひ勝手の方が勝つてゐる。
本を再読する際、以前は付箋を貼らなかつた部分に付箋を貼る。
そのとき一瞬脳裡に飛来する「なぜ過去の自分はここを見過ごしてゐたのか」「なぜ自分はいまここに付箋を貼らうとしてゐるのか」といふ他愛もない疑問。
さういふのがいい。

今後は手帳の見直しをする際にも付箋を使つていきたいなあと思つてゐる。
あれこれ書き足して、付箋を貼りつける。
以前はメモ帳に書いてのりで貼つてゐたが、付箋があるのだから付箋を使へばいいぢやあないか。

あるいは、marginalia 代はりに付箋にあれこれ書いて読んでゐる本に貼る、とかかな。いいかもしれない。

Wednesday, 04 April 2018

トラベラーズノートを使ひたい

トラベラーズノートをもつと使ひたい。

いままでトラベラーズノートを使つたなあと思つたことは二度ある。
日々なんでも書き込む「なんでも帳」として使用したことが一度、NHKラジオ講座の復習用として使用したことが一度だ。

「なんでも帳」のときは、A5スリムサイズといふ大きさを生かして、講演会や美術展でもらふA4サイズやA3サイズの資料を貼り込んでゐた。
基本的に「なんでも帳」は、Moleskine のポケットサイズくらゐの手帳を好んで使つてゐるが、このサイズの手帳にはちよつとできない芸当だ。

芝居や映画のチラシはもらつても始末に困る。
クリアファイルに綴じればいいのだが、たまつてくるとファイル自体の管理もしなければならないし、なにかと面倒だ。
最近ではWeb上に画像のあるものはそれをダウンロードすることが多い。
さうして取つておいた方が検索も可能だし、なにしろ物理的に場所をとらない。

しかし、それも日誌代はりのノートに貼りつけるとなつたら話は別だ。
チラシや展示物一覧などと一緒に感想その他を書くことができるといふのが大きい。
実際には、先に感想めいたことを書いて、あとからチラシや展示物一覧の端だけにのりを付けて感想を書いた上に貼つてゐた。
チラシ等をめくると感想が出てくるわけだ。
チケットの半券などもさうやつて貼つてゐた。
貼り込んでいくうちにノートが分厚くなるので多少使ひづらくはなるが、なにもかもひとところにまとめることができるといふのがよかつた。

いまは感想は Bullet Journal に書いてゐるからなあ。
Bullet Journal なので箇条書きだから、それを文章にまとめたものをトラベラーズノートに書くやうにすればいいだろうか。

ラジオ講座の復習用は、なんとか半年使ひつづけたが、あまりうまく使へたとは思へなかつた。
やつたことといつて、ダイアローグを書き写して、単語の意味や文法的な指摘事項を書き加へるやうにしてゐた。
まつたくためにならなかつたかといふとそんなことはなかつたと思つてゐる。
というか、思ひたい。
ただ、リフィルをそのまま縦にして一日一ページ使用するやうにしてゐたので、なんとなく手狭な感じになつてしまつたことは否めない。
見返しても読みづらいといふかね。

見開きで使ふとかリフィルを横にするとかしたらもうちよつと見やすいものができるかなあ。

月曜日からNHKラジオ講座も新年度といふことで新たな番組がはじまつた。
「なんでも帳」は現在ロイヒトトゥルムを使つてゐる最中なので、またラジオ講座用のリフィルを復活させてみるかなあ。

Tuesday, 03 April 2018

それでも続ける

タティングレースのモチーフをちまちま作つてゐる。

いまは、「目をそろへる」「リングの大きさをそろへる」「芯糸を引きすぎない」を目標に作つてゐる。
一枚モチーフができたので、いま作つてゐるモチーフをつないでみたらこはいかに。
なーんかチェインのカーヴがうまく出ないんだよなあ。

タティングをはじめて……えー、多分二十年くらゐだらうか、未だにこんなことができない。
教へてもらへればできるやうになるのだらうか、と思はないこともない。
しかし、その他手を使ふやうなものごとを教はりにいつて満足にできるやうになつた試しがないことを考へると、タティングもまたさうだらうことは想像に難くない。

云ひ訳?
さうかもしれない。
しかし、結果の出ぬ可能性の高いことに割く時間はもうあまり残つてゐない。

元来不器用なので、なにかひとつできるやうになるのにも異様に時間がかかる。
時間をかけてやつと人並みになるならまだしも、人並みまで行かないんだよなあ。
英語なら「I can tat.」といへる、といふくらゐにしかならない。
でもこれつて刷り込みなのかな、とも思ふ。
自宅や学校でさんざん云はれてきたので、「自分には手を使ふ仕事を人並みにこなすことはできないんだな」といふ思ひ込んでゐるだけなのかも。

でも、手芸系のイヴェントに行つて、したことのない手芸を習つたりするときに、周りの人はすいすいときれいに作つてゐるのを見、翻つて自分の作つてゐるものを見ると、「手芸が好きな人つて、もともと手先が器用なんだな」とつくづく思ひ知ることになる。

でも、あみものもタティングもやめるつもりはない。
数多ある手芸の中でやつがれにできる、いや、やつがれがしたいと思ふ数少ない手芸だからだ。
やつてて楽しいしね。

Monday, 02 April 2018

流れの途切れ

レース編みのスカーフをちまちまと編んでゐる。

ものは「風工房の小さなクロッシェレース」に掲載されてゐる、方眼編みの本体に葉つぱのモチーフをつなげたスカーフだ。
こんな洒落たものを使ふのか、といふ問ひはさておき、編みたいのだから仕方がない。

編みたいとはいつても、この編み方、ちよつと我慢を強いるところがある。
先週も書いたとほり、前の段につなぐときに一度目から針をはづして前段の目に針をとほし、しかるのちにいまの段の目に針を入れる必要があるからだ。
これが場所によつて九目または六目ごとにおとづれる。
針をはづすたびにそこで一旦流れが途切れる。
この途切れた流れにどう対処するか。
そこにこのスカーフを完成させられるかどうかの鍵がある気がする。

「流れなんか途切れて当たり前」といふ人もあるだらう。
モチーフ編みや編み込み模様を好む人はさうかもしれない。
モチーフ編みはモチーフをひとつ編むごとに流れが途切れるし、編み込み模様は段ごとに糸を変へるときに流れが途切れる。
やつがれのやうに、ただひたすら延々と編むのを好むものとは、おのづから「流れの途切れ」に対する意識が違ふのだと思ふ。

考へてみれば、くつ下を編むのが好きなのは、ほとんど流れが途切れることがないからだ。
編み込み模様やバスケット編みなど特殊な場合をのぞいて、くつ下を編んでゐて流れが途切れると思ふことはほとんどない。
一本の糸をただひたすら編んでいく。
かかとやつま先はもう「さういふもの」と思つてゐるので途切れのうちには入らない。
糸端の始末に至つて、やつと「途切れたな」と思ふ。
ベルント・ケストラーのミトンもさうだ。

いまのところ、レース編みのスカーフは順調に編めてゐる。
針をはづすことが当たり前になつてきたのかもしれない。
まだ本体部分さへ半分も編めてゐないけれど、この調子なら完成するのではないかな。
といふか、完成させたいものである。

Sunday, 01 April 2018

3月の読書メーター

3月の読書メーター
読んだ本の数:5
読んだページ数:1758
ナイス数:28

新釈漢文大系 120 史記(列伝七)十四新釈漢文大系 120 史記(列伝七)十四感想
最終巻ということで列伝用の索引がついていて、これを読んでいるだけでも面白い。讃を読みながら思い出せない話が多いことに落ち込みつつ、「忘れたらまた読めばいいし」と思うことにする。
貨殖列伝はしかしそんなに司馬遷の意図を慮らねばならない内容なんだろうか。素直に「お金儲けした人にも素晴らしい人もいる」じゃダメなのかな。ダメなのか。
読了日:03月11日 著者:青木 五郎
Thinking, Fast and SlowThinking, Fast and Slow感想
最近「反射的にものごとをこなすのではなくよく考えて行動しよう」という趣旨の記事を読んだ。この本を読むと、本能的反射的なSystem 1をそんなに忌避しなくてもいいんじゃないかという気がしてくる。どうせ無理なんだし。
今年に入ってから読んだ認知心理学の本三冊すべてに引用されている本なので読んでみた。ほんとはこれを先に読むとよかったんだな。一度では覚えきれないので、機会があったら再読するつもり。
読了日:03月15日 著者:Daniel Kahneman
科挙―中国の試験地獄 (中公文庫BIBLIO)科挙―中国の試験地獄 (中公文庫BIBLIO)感想
才能があってとにかく努力して、結果を分かつのは最終的には人柄になってしまうというのはなんとなくわかる気がする。もうそこしか頼る場所がないからだ。その割には世の中よくならないのは、いい人がいい政治をするとは限らない、いい人がたくさん集まってもいいことは起こらないということなのだろうか。あるいは個人の栄達は必ずしも国家の繁栄にはつながらないということか。科挙導入の理由やその科挙のもたらしたものごとが書かれているのがいい。昔新書を読んだんだけど、それとは別ものなの? 新書も読むしか?
読了日:03月19日 著者:宮崎 市定
AI vs. 教科書が読めない子どもたちAI vs. 教科書が読めない子どもたち感想
読解力の方に興味を惹かれて読んだ。未来も心配だけれど、いま現実に目の前にいるマニュアルを理解できない社員や顧客とはどう付き合っていけばいいのだろうか。と悩むほど自分が読めているという感覚はこの本を読んだいまとなってはない。「マニュアル人間」っていうけど、読めてるだけいいんじゃない、という気にすらなる。マニュアルの外のことを読めてはじめて「読解力がある」というのだろうけれど。
読了日:03月24日 著者:新井 紀子
義太夫を聴こう義太夫を聴こう感想
「浄瑠璃を読もう」でも思ったことに、「詞章って大事」ということがある。とくに義太夫はそうなんじゃないかという気がする。義太夫を聞いて帰る道すがら、覚えた文句を口にしたくなる、それは義太夫が歌だから、という趣旨のことが書かれていて、「詞章より音楽なのでは?」という向きもあろうが、でもそれなら三味線の手を再現したい(「ツツテン」とか)と思うかというと、そうでもない。「山の段(歌舞伎だから「吉野川」か)」に挫折した話はおもしろい。人は寝てお浄瑠璃を覚えるのかもしれない。
読了日:03月27日 著者:橋本 治

読書メーター

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