年を経たからだらうか
日々時代劇の再放送を予約録画して見てゐる。
録画なのでコマーシャルはとばすやうにしてゐるが、古い番組のせゐかときどきコマーシャルをとばす機能がうまく働かない。
さうすると、早送りするにしてもコマーシャルをちらりと見てしまふことになる。
「膝が痛い」「しつこい便秘に」「かすむ目に」
さういふコマーシャルがくり返しくり返し放映される。
すこし前ならグルコサミン、その前なら皇潤だつたらうか。
毎日見てゐたら、「もしかしたら効くかも?」といふ気にもならうといふものだ。
しかも、人間年を取るとどこかしら痛くなつたり不具合が出たりする。
時代劇の再放送をいまのやうに繁く見るやうになるまでは、「グルコサミンとかいはれてもねえ」とか「青汁なんてほんとに健康にいいのか?」と思つてゐた。
人は苦手なものでも毎日見てゐるとそれを好ましく思ふやうになるものである、とは先日も書いた。
それとおなじ効果がほぼ毎日見てゐるコマーシャルにもあるやうな気がしてならない。
あみものも、年寄りの手芸と見なされることがある。
あるいは長いことさうだつたのかもしれない。
あみもの雑誌に載る作品は流行を取り入れたものだが、購読者層と合致するかといふとさうでもなかつたやうな気がする。
雑誌にある読者の投稿コーナーで雑誌に掲載されてゐたセーターなどを実際に編みましたといふので送られてきた写真を紹介するものがあつたが、被写体は作成者の娘であつたり孫であつたりすることが多かつた。
でも最近の「毛糸だま」を見ると、なんといふか、雑誌自体が変はらうとしてゐる空気を感じることがある。
英語で書かれた編み方を見ながら編んでみませうだとか、新作毛糸の原材料と編み心地だとか、贅沢をいへばもうちよつと前にほしかつたな、と思ふやうな内容を読むことができる。
読者からの要望もあらうし、編集者の工夫もあらう。
などと思つてゐたが、さう思ふのは単に自分が年寄りになつたからなのではあるまいか。
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