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Friday, 30 March 2018

四月は聞いてみるつもり

今日で、遠山顕の「ラジオ英会話」は終はりなのださうな。
来月からは大西泰斗が担当することになるのだといふ。
遠山顕は「遠山顕の英会話楽習」といふ新しい番組をはじめるやうだ。平日毎日ではなく、週に三日の番組らしい。

「ラジオ英会話」は前身の「英会話入門」から聞き続けてきた。
一時聞いてゐない時期があつたが、職場の同僚に触発されてまた聞きはじめたのがかれこれ十五年以上は前のことだ。

「英会話入門」がはじまつたとき、楽しい番組だな、と思つた。
遠山顕と共演するふたりのアメリカ人との和気藹々とした雰囲気がとてもよかつた。
それまでのNHKラジオの語学講座といふのは、もう少しかつちりおかたい感じのするものが多かつたやうに思ふ。
マーシャ・クラカワーがメインで担当してゐた番組がすこし毛色が変はつてゐたやうに記憶するが、もう忘れてしまつて定かではない。

「英会話入門」は日々話は完結するので、いつ聞き始めてもいいといふのもよかつた。
「基礎英語」や「続基礎英語」はその週や月に学ぶ文法が決まつてゐることがあつて、たとへば形容詞の比較級・最上級を学ぶことになつてゐると、一日聞き逃すと比較級のところを学べないといふやうなことがあつた。
「英会話入門」にはそれもない。
さういふところが気に入つてゐた。

遠山顕といふのもなつかしかつた。
文化放送の「百万人の英語」といふ番組で馴染んだ声だつた。
野村陽子(奈良橋陽子)の「Far out!」といふ番組にアシスタントとして出演してゐたのが遠山顕だつた。
「百万人の英語」は、月〜土の放送だつたやうに思ふ。
曜日によつて担当が違つて、取り上げる内容も違つた。
土曜日の小林克也と木曜日の野村陽子とが楽しみだつた。
深夜番組であつたことと、我が家は文化放送の入りづらいところにあつたこととでいつのまにか聞かなくなつてしまつたが、あれはちよつとおもしろい番組だつたやうに思ふ。

「ラジオ英会話」をつづけるかどうかは悩んでゐる。
とりあへず四月は聞いてみて、それで決めるつもりでゐる。
五月から通勤時間が長くなるので、聞くラジオ講座も減らしていきたい。
しかし聞かなくなると学ぶ機会もなくなるしね。
どうしたものか。

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Thursday, 29 March 2018

人と人との交はりは

今月歌舞伎座の夜の部では「於染久松色読販」といふ芝居がかかつてゐた。
俗に「お染の七役」で知られてゐる。
ひとりの役者が七人を早変はりで演じるのが見どころだ。
ところが、今回は早変はりはなかつた。
七人のうちのひとり・土手のお六を中心とした場だけが上演されたのだつた。

いままで歌舞伎を見てきて、こんなことははじめてだ。
土手のお六といふのは「悪婆」と呼ばれる役どころで、世間では最下層にゐるやうな人物である。
ゆゑに衣装も地味だし、とりたててうつくしいといふこともない。
しどころだけはたくさんあるけれど、果たしてこれでおもしろいのか、と、見に行く前は思つてゐた。
なんでこの場だけ出すんだらう。
疑問だつた。

見に行つてみると、これが案に相違のおもしろさで、この場だけ出すことになんの抵抗もなかつた。
話の流れも登場人物たちの交はすせりふでおほよそ知れる。
「お染の七役」といふ芝居をを知つてゐるからといふこともあるけれど、人間関係がわかると、だいたいのことはわかるやうになつてゐるのが歌舞伎である。

冒頭、お六はもとの主人である竹川からの遣ひと話をしてゐる。
遣ひが竹川から来たこと、お六が竹川に恩義を感じてゐること、竹川には久松といふ弟がゐて、油屋といふ店に丁稚奉公に出てゐること、竹川は百両といふ金子を必要としてゐることがその会話から見えてくる。

そのしばらくあと、花道揚幕からお六の亭主・喜兵衛が男をひとり伴つて出てくる。
このふたりの会話から、喜兵衛の出自、なにかしら大事な刀の行方、そしてやはり百両が必要なことがわかる。
さらに、どうやら喜兵衛が主と頼む人と竹川とは敵対する関係にあるらしいことも知れる。

歌舞伎のせりふはわかりづらいと云はれるが、この部分のせりふはそれほどむつかしいものではない。
ただいきなりぽんと提示されるので、それが重要な内容を含んでゐるものだとは認識されづらい。
客の心も開演直後で浮き立つてゐる。
そんな調子で芝居が進んでいくから、「なんでこんな展開になるのかいまひとつわからないねえ」といふことになりがちなのだらう。

また、歌舞伎は、物語の中でふしぎに思へることは人間関係がわかると謎が判明するやうになつてゐることがある。
昨日書いた「切られ与三」で、なぜ和泉屋多左衛門はお富を助けながらまつたくお富に手をつけなかつたのか、といふ謎は、多左衛門とお富との関係がわかると氷解する。
「お染の七役」のお六と喜兵衛との場合は、人間関係がわかると百両を求める動機がわかるやうになつてゐる。
さういふ観点で芝居を見るのもおもしろさうだな、と、今月の「於染久松色読販」を見て思つた。

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Wednesday, 28 March 2018

死んだはずだよお富さん

シアターコクーンで上演されるコクーン歌舞伎は、今回は「切られの与三」といふ芝居をかけるのだといふ。

瀬川如皐の「与話情浮名横櫛」を元にした芝居だと思ふが、詳しいことは調べてゐない。
瀬川如皐は長い本を書くことで知られてゐて、如皐の筆を抑へるために「脚本(とは当時は云はなかつたが)は何ページ以内にすること」といふ決まりができたのだといふ。
如皐は紙を切り貼りしてその決まりに対抗したのだとか。

さういふ人の書く芝居だからとにかく長い。
現在では「源氏店妾宅の場」とたまにその前の「木更津浜辺の場」がかかるくらゐだ。
もつとたまにそのあひだの「赤間別荘の場」がかかることがあつて、ここまでは複数回見たことがある。
一度だけ、團十郎と先代の雀右衛門とでその先をかけたのを見た。
そんな芝居だ。

歌舞伎を見る前、この「与話情浮名横櫛」通称「切られ与三」をどうしても見てみたいと思つてゐた。
理由は、「お富さん」といふ歌にある。
春日八郎が歌つて大ヒットしたこの歌は、「切られ与三」の主に「源氏店妾宅の場」を歌つたものだ。
大層ヒットしたのださうで、当時小学校では「学校で「お富さん」を歌つてはいけません」などといふお達しを出したりもしたさうだ。

自分が学校に通つてゐるころ、どんなに売れた歌謡曲でも「学校で歌つてはいけません」などと指導される歌はなかつた。
従兄弟は幼稚園で「八時だよ全員集合」で歌つてゐた「ななつのこ」の替へ歌を歌つてはいけないといはれたのださうだが、それとこれとではわけが違ふ。
「ななつのこ」の替へ歌は、正しい歌が覚えられないからやめなさい、といふことだつた。
「お富さん」はさうではない。
「お富さん」を歌つたからといつて、「切られ与三」の内容を間違つて覚えるといふことはない。

学校で禁じられるほどのヒット曲。
そしてその歌の元ネタ。
自分の中で、「切られ与三」への期待がどんどんふくらんでいつた。

「必殺仕事人III」の影響もある。
「必殺シリーズ」は番組冒頭にナレーションが入る。
「晴らせぬ恨みを晴らし許せぬ人でなしを消す」が「必殺仕掛人」。
「のさばる悪をなんとする」が「必殺仕置人」。
「どこかで誰かが泣いてゐる 誰が助けてくれやうか」が「助け人走る」。
といふ具合だ。
「必殺仕事人III」のナレーションは中村梅之助の語りで、〆の一言が「お釈迦さまでも気がつくめぇ」だつた。
「切られ与三」の有名なせりふである。
それも「お富さん」で覚えたといつても過言ではない。

歌舞伎を見たいのに見られない。
そんな中で情報だけは増えてゆく。
もちろん、最初に見やうと思つたのは「切られ与三」だつた。

見た感想は「………………」だつた。
「えっ……と……」といふ感じ、とでもいはうか。
このときは「木更津浜辺の場」と「源氏店妾宅の場」がかかつたのだが、見てゐてさつぱりなにがなにやらだつた。
團十郎の与三郎だから、最後に与三郎が出てくることはない。
お富をやしなつてくれてゐた和泉屋の大番頭多左衛門が実はお富の兄だつた、とわかつて、それで芝居は終はつてしまふ。
「だからなんなの?」とそのときは思つた。
いまはその先に話のつづきがあるから、とわかつてゐるからそれでいいと思ふ。
むしろ与三郎が出てきて「よかつたよかつた」で終はる演出の方がどうかと思ふくらゐだ。
あのふたりはさ、一緒になつても幸せにはなれないよ。
さう思ふからだ。

でも一等最初のときにはおいてきぼりにされたやうな気分になつた。
結局その後何度も何度も見ることになつて、それでこの芝居はかういふもの、といふことが身に染みたのだらう。
これといつてもりあがりのある話でなし、見所といへば与三郎の名せりふだつたりはするので、そんなに派手なところのある芝居ではない。

今後は上演回数も減るのかな。
なにしろ「源氏店妾宅の場」の与三郎の衣装は藍微塵と決まつてゐるのだが、この藍微塵がもう作られてゐないといふ話も聞く。
七之助はどうするのだらう。
藍微塵を手に入れるのか。
それとも別の柄でいくか。
そもそも藍微塵がもう作られてゐないといふのがでまかせか。

そんな、どうでもよいところばかり気になる「切られの与三」である。
「切られの与三」に限らずなんでもさうだけどさ、どうでもよいところばかりが気になるのは。

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Tuesday, 27 March 2018

目がそろふ

タティングレースではあひかはらずちまちまモチーフを作つてゐる。

捨てやうと思つてゐた本に、「これは作つてみたいぞ」といふモチーフがあつて、それを作つてゐる。
「Orchidees」と題名がついてゐる。蘭といふことだらう。

このモチーフをLisbeth #40で作つてゐる。
今回は濃いベージュといつたやうな色で、レースにするとどことなくアンティークな印象を醸し出す色だ。
この糸は結びやすい。
結びやすいせゐか目もそろふやうな気がする。
タティングレースの目(スティッチ)は、すこしつづけてゐればそろふやうになる。と思ふ。
手が機械的に動くやうになつてきたら、目もそろふやうになつてゐる。
とはいへ、不器用大王のやつがれの作るものなどは、ほかの人から見たら「それで目がそろつてゐるつて云ふの? 笑止!」とか云はれちやふ出来ではある。

タティングレースのなにがいいといつて、このそろつた目がきれいに並んでゐる様のよさだ。
レース糸の光沢のせゐで目のちいさなつぶが輝いて見えることがある。
美である。
それをすこしでも再現したい、近づけたいと思つて、いまはタティングしてゐる。

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Monday, 26 March 2018

TVを見ながら編む

レースものを編みはじめてしまつた。

ものは「風工房のクロッシェレース」に出てゐる黒いスカーフだ。
方眼模様の本体部分と両端にぶらさがつた葉のモチーフからなるスカーフである。
これをちよつと灰色がかつた紺色で編んでゐる。

かぎ針編みは、先週ちよこつと編んでみたのが久しぶりで、なかなか進まない。
もともとこのスカーフは何目か編んだら一度目から針をはづして下の段の細編みの頭を拾ひ、さつきはづした目を引き抜くといふ動作が至るところに出てくる。
細編み五目か六目おきに針を目からはづさねばならない。
途中に引き抜きピコもあるから、しよつ中目を確認しながら引き抜く必要がある。
そりや進まないよね。

土曜の夜はTVドラマ「パディントン発4時50分」を見ながら編んだ。
TV朝日系だと思ふが、そこはかとなく「火曜サスペンス劇場」を思はせるやうな作りだつた。
なにがさう思はせたのかといふと、ひとつには音楽だ。
BGMがなんとなく「火曜サスペンス劇場」風味だつたのだ。
あと、昔見た「土曜ワイド劇場」では大金持ちの邸宅でもどことなく使用感・生活感のある絵だつたやうな記憶があるのだが、今回のドラマに出てきた邸宅にはまつたく生活臭がなかつた。それが「火曜サスペンス劇場」つぽく感じられたのだと思ふ。

「パディントン発4時50分」は、ミス・マープルものだ。
つまり、探偵役が編むといふことだ。
今回ミス・マープルにあたる役を天海祐希が演じるといふので、見る前からとても楽しみにしてゐた。
ゆりちやん、編むか知らん。
ゆりちやんが編まなくても草笛光子が出るといふし、光子さんでもかまはない。
誰か編まないかなー。

期待して二時間見たが、結局だれも編まなかつた。
西田敏行が着用してゐたセーターはどれもおもしろかつたけれど、それくらゐだ。
だれも編まないなんて、ミス・マープルの意味がないぢやん。
話によるとミス・マープルものには「くつ下の踵(turning heel とかだつたかな)を編んでゐた」といふ証言からだいたいどれくらゐ時間がかかつたかを割り出すといふエピソードがあるといふ。
なのに、誰も編まないなんて。

翌日の「鏡は横にひび割れて」は見なかつた。
TV番組をリアルタイムで見ると、存外時間をとられると「パディントン発4時50分」を見てしみじみ思つたからだ。
最近、TV番組は録画したものしか見ない。
ゆゑに、自分が見たいときに見たいだけ、しかも見たいところだけ見ることができる。
これに慣れてしまふと、一時間ならともかく二時間もTVの前にしばりつけられてしまふのが、どうにも苦痛なのである。
その苦痛をすこしでもやはらげやうとあみものをするわけだが、世の中、マルチタスクは脳によくないといふ話もあるしなあ。

ミス・マープルはやつぱり編まないとね。
「パディントン発4時50分」は、天海祐希が演じた役を草笛光子が、前田敦子の演じた役を天海祐希が演じてゐたらもうちよつと違つた形になつたのかな、といふ気もしないではない。
草笛光子のミス・マープルはいいんぢやないかと思ふんだけどねえ。

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Friday, 23 March 2018

なにが贅沢か

昨日は「新たに手帳や筆記用具を買ふのではなくて、手持ちのものを使ひたい」といふやうなことを書いたが。

でも、万年筆に関しては、たくさん使つてきたので「かういふペンが好き」といふことがわかつた、といへる。
無駄遣ひの云ひ訳?
そのとほりだ。

万年筆がほしかつた、といふ話はここにも何度か書いてゐる。
なぜなのかはいまとなつては不明だが、高級感とブルーブラックのインキとがよかつたのだらうと思ふ。
いまこそボールペンにもブルーブラックのインキのものがいくつもあるが、やつがれがこどものころはなかつた。
ボールペンといへば黒・赤・青、あつて緑くらゐだつたと記憶する。
そこにブルーブラックだ。
いい色だ。
万年筆のインキにも黒や青、赤もあるけれど、ブルーブラックこそ万年筆だと長いこと思つてゐた。

はじめての万年筆は、モンブランのマイスターシュテックはショパン・エディションだつた。
建て替へ前の日本橋丸善で求めた、といふ話も以前書いたやうに思ふ。
これが実に書きやすいペンで、なあ。
長いこと一番自分らしい字の書けるペンとして君臨してゐた。

はじめてのペンがすばらしいペンだつたのだから、それ以上求めるものはない。
理屈でいへばさうなる。
しかし人生は理屈どほりにはいかないのだつた。

ペリカンがペリカーノJr.といふ習字用の万年筆を出してゐるといふことを聞きつけて、どんなものなのかと買つてみたところ、これがまたいい。
白いキャップの時代のペリカーノJr.で、青い軸のものを買ひ、ターコイズのインキを入れた。
これが至極使ひやすい。
廉価なので気軽に使ひやすいし、インキの色も明るくていい。なにより書きやすい。
ここから、気になるペンを買ひまくるやうになつた。

ファーバー・カステルのペルナンブコを手にしたとき、その書き味のやはらかさにびつくりした。
ペン先自体がやはらかくしなふといふ印象はなかつた。
ただ、紙にペンを滑らせたときのなんとも云ひ難いやはらかな感触に、陶然とした。
いまでもする。
このときに、自分はやはらかな書き味のペンが好きなのだな、とやつとわかつたのだつた。

しかし、好きなペンと書きやすいペンとはまた違ふ。
そこでプラチナ萬年筆である。
あるいは中屋万年筆。
そんな感じで、いまは中屋万年筆の中軟が、一番自分らしい字の書けるペンになつてゐる。

去年は久しぶりに大物を購入して、その後はペンに対する物欲はおさまつてゐる。
いまは手持ちのペンでもつと書きたいし、もつと書く時間がほしい。
それが一番贅沢なことなのかもしれない。

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Thursday, 22 March 2018

手持ちの文具を使ひたい

一年のいまごろ文房具店に行くと、新学年に向けてノートや筆記用具などが麗々しく並べられてゐるものだ。

どうもここ二、三年、さうした華やかな印象から遠ざかつてゐる気がする。
三月も終はりにさしかかつたころに文房具屋に行つても、心浮き立つやうな光景を見たといふ記憶がない。

単に、自分が新学年とはまつたく関係のない立場だからかもしれない。
それと、ノートやら筆記用具やらは、もうたくさん持つてゐるから、といふこともある。

先日も文房具屋に行つて、買つたのは消耗品ばかりだつた。
システム手帳のリフィルに付箋、万年筆のインキカートリッジ、以上。
いづれも現在使つてゐてそろそろなくなりさうなものばかりだ。
いまの時期は四月はじまりの手帳などもたくさんならんでゐて、いちいち目移りするものだ。
でも、新しいものはなにも買はなかつた。

いまの自分に必要なのは、手持ちのノートや筆記用具を使ふことだ。
わざわざ文房具屋まで出向いて消耗品しか買つてこなかつたことに気づいたときにさう思つた。

活用する、とはあへて云はない。
手帳やノートの類はいくつも持つてゐるし使つてもきたけれど、活用してきたとは思つてゐない。
たぶん、今後も活用することはできないだらう。
活用はできなくても手帳は日々必要だし、ノートにもあれこれ書き込んでゐる。
それでいいぢやあないか。

活用することはあきらめて、しかし、では手元にある膨大な量のノートブックや筆記用具を如何せん。
がんがん使へばいい。
そのとほり。
でもどのやうに?
結局、手帳やノートの空白を筆記用具で一文字一文字埋めていくしかない。
絵を描いてもいいけれど、どちらかといふと字で埋める方が好きだ。

さうすると、そんなにたくさんノートといふものは必要ないことに気がつく。
やつがれの場合、Moleskineのポケットサイズ一ページを埋めるのにだいたい15分くらゐかかる。
書きながら手が止まることはほとんどない。ほぼ一気呵成くらゐのいきほひで一ページ書く。
さうすると、調子のいいときにはまた別に書きたいことを思ひつくので、次のページにあれこれ書く。
といつた具合だ。
書きながら手を止めることがほぼないので万年筆を愛用できてゐるのだらうとも思ふ。

問題は、書き始めるまでに助走が必要だといふことか。
助走といふか、準備期間といふか、「書かう」と思ひたつこととでもいはうか。
職場にゐるあひだはさうあれこれ書けはしないし、通勤途中も然り。
落ち着いて書けるのは家にゐる時間だけといふことになる。

ほんたうに、ひとりの人間にとつてノートや筆記用具といふのはそんなにたくさん必要ではないのだ。
しかるに手元には未使用のノートがたくさん積まれてをり、出番を待つてゐる筆記用具が山とある。
どうしたものかなあ。

それでもいつかは使ふつもりでゐるので、手放すことができない。
いつになつたら手放すふんぎりがつくだらう。
どうしたらつくのだらうか。

などと考へてゐるあひだに字を書けばいいのだとわかつてはゐるのだが。

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Wednesday, 21 March 2018

印刷したやうな文字

科挙 中国の試験地獄」を読んだ。
科挙にはすごいことがいろいろあるのだけれども、中に「印刷したやうな字を書くこと」がある。
この本にも答案の写真が出てゐて、「これ、ほんたうに人が書いたんだらうか」としみじみ思ふ。
なにがすごいつて、答案の最初から最後まで印刷したやうな字で書かれてゐるといふことだ。
途中で乱れることがない。
あるのかもしれないけれど、おそらくはごくわづかな乱れなのだらう。
さうでなければ試験に通らないからだ。
人間つて、ここまでできるんだ。

小学生の同級生にさういふ子がゐたことを思ひ出す。
国語のテスト用紙の裏に漢字の練習が出てゐることがあつた。
お手本の字があつて、その下に練習用のマスが三つほどある。このセットが10個ほど並んだものだ。
テストの時間があまつたらやりなさいといふやうなものだつた。
テストを提出するときは教卓にテスト用紙を裏返して出すことが多かつた。
さうすると漢字の練習したさまを見ることがある。
その中に書いた文字がお手本と寸分たがはぬ児童がゐた。
成績優秀品行方正な子だつた。
世の中にはかういふ人もゐるのだとそのとき知つた。

科挙に通るのはひどく狭き門であつた、といふことだが。
受けやうといふ人はたくさんゐたわけで、中には字の汚い人もゐたらうけど(「字が汚いから科挙に落とされて一生懸命字を練習した」といふ人の書の展示を見たことがある)、結構な確率で印刷したやうな字が書けるやうになるもののやうに思はれる。
あるいは役人になつて栄耀栄華をこの手に、といふ目標があるからさうなれるのだらうか。

字をきれいに書けるかどうかには、ふたつの要素が必要だと聞いたことがある。
ひとつは審美眼だといふ。
「かういふ字が美しい」といふ認識があつて、はじめて美しい字が書ける。
もうひとつは器用な手先だ。
手先が器用であつてはじめて「かういふ字が美しい」といふ字を再現できる。

科挙を受けやうといふ人々には「かういふ字が正しい」といふ認識はあつて、さらに手先の器用な人が及第する要素のひとつを手にしてゐた、といふことなんだらう。
記憶力がよくて文章を書くことにすぐれてゐても手先の不器用な人といふのはいくらもゐさうな気もするが。
なんでもできる人といふのはなんでもできるものなので(上にあげた同級生も然り)、科挙を受けやうといふ時点で字のうまいへたなんぞといふ問題はクリアしてゐた人ばかりだつたのかもしれないなあ。

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Tuesday, 20 March 2018

手芸本は捨てられない

アイリッシュ・クロシェをしたいのでいろいろと本を探してゐたところ、タティングレースの本もいろいろ発掘することになる。
中には「なんでこんな本を買つてしまつたのか」といふものもある。
タティングをはじめたばかりのころは Amazon も米国から送つてもらふしかなかつたりして、中身がよくわからない本を買つてしまつてゐた。
その名残だらう。

いらない本は処分しやうかと中身を見てみると、どんな本にもひとつくらゐは作つてみたい作品が掲載されてゐたりする。
さうなると捨てやうといふ心もにぶるが、ここは作りたいもののパターンの写真だけ撮つて処分するか。

手芸の本は自分は不要だと思つても、もしかしたら誰かほしい人がゐるかもしれないとも思ふ。
ハードカヴァでちよつと洒落た表紙の洋書だつたりするとインテリアにといふ人もゐるかもしれないし。
以前は手芸書専門の古書肆があつたけれど、閉店してしまつたと聞く。
残念だ。

あみものの古書などは、当時の流行を取り入れてゐるのでいま見ると古臭く見えるものも多い。
でも、いまは見なくなつた編み方や製図が載つてゐたりしておもしろいこともある。
そんなんで一時蔵書をかたづけたときも捨てられなかった手芸本は多い。
手芸本には手をつけまいと思つてもゐた。
洋雑誌の解体しやすいものは電書にしやうと思つてゐたけれど、何冊かやつていまは放置状態だ。
そんなことをしてゐる暇があつたら編んだり結んだりしたいもんね。

とはいへ、それではエントロピーが増大するばかりなのでどうにかしなければとは思つてゐるのだが、さて。

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Monday, 19 March 2018

春だから

卒然として、かぎ針編みがしたくなつた。
それもアイリッシュ・クロシェ。

実をいふと、具象的なものを編むのは好きではない。
あみものにしてもタティングレースにしても、抽象的な模様や形のものが好きだ。
クロススティッチをしないのは、おそらくさういふとこなのだと思つてゐる。
スウェーデン刺繍は一時かなりはまつた。幾何学的な模様を刺すものだからだらう。

なのにアイリッシュ・クロシェ。
見るからに花だとか葉だとか実だとかわかるものを編むものだ。
しかもいちいち端糸の始末が必要なモチーフを編むときてゐる。

どこかをかしいんぢやあるまいか。
春だしな。

本を探したところ「風工房の小さなクロッシェレース」が出てきた。
この本で使用してゐるレース糸はオリムパスの金票40番かエミーグランデである。
エミーグランデ、好きな糸なんだけど、在庫にはあまりない。
ほぼ使ひきつてしまふからだ。
40番もほとんどない。
白の100g入りが手つかずであるくらゐで、あとは去年編んだスカーフの残りがあるくらゐだ。

さう。
あるぢやあないか。
去年の残りが。

といふわけで、出してきてみると、これが緑色の糸だ。
わかつてゐたけど。
これで葉を作るのはともかくとして、花はどうだらう。

作つてみた。

Irish Crochet Motifs

うーん、やはり緑で花は無謀だつたな。
葉も、白だの黒だの生成だので作るからいいのであつて、緑で作つてしまふのはなんだか違ふ気がする。

そして40番といふのも無謀であつた。
やはりもう少し太い糸で試すのであつた。
久しぶりのかぎ針編みが40番といふのは、不器用な人間には細すぎる。

といふわけで、エミーグランデなど買つてみやうかと思つたわけだが。
エミーグランデ、高くなつたからなあ。
金票40番の50gも同様だ。
レース編みをしなくなつた所以は、レース糸の価格の高騰にあるといつても過言ではない。
ちよこつと作るだけなら糸の量もそんなに使はないだらうなどと云ふなかれ。
そのちよこつと作るにも糸玉ひとつが必要なのだ。
さうさう気軽にははじめられない。

手持ちの中細毛糸で編むかなあ。

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Friday, 16 March 2018

「浪曲子守唄」を読む

「傷だらけの天使」の再放送を見てゐると、当時巷に流れてゐた歌謡曲をそのまま聞くことがある。

ぴんから兄弟の「女のみち」だとか、殿さまキングスの「なみだの操」だとか。
ホーン・ユキ演じる浅川京子が梓みちよの「二人でお酒を」を鼻歌で歌つてゐたりだとか。

それとは別に、劇中で使つてゐる曲もある。
「神田川」のインストゥルメンタルがBGMとして使はれてゐたり、寿々木米若の「佐渡情話」のレコードをかけたり、「浪曲子守唄」が流れたり。

「浪曲子守唄」なんてそんなに好きぢやないのに、第三話、第四話とつづけて使用してゐるもんだから、気がつくと歌つてゐることがある。

なぜ「浪曲子守唄」がそんなに好きではないのか。
未練たらしいからだ。
「未練はないが」とわざわざことはるところがかへつて未練だ。

さう思つてゐたのだが、今回自分で歌つてゐるうちに、これは別に未練だから云ふんぢやないんだな、といふことに思ひ至つた。

説明してゐるのだ。
なんで自分は赤子を抱へて子守唄なんぞを歌はにやならない境遇にゐるのか、と。
それは女房が逃げてしまつたからなのだ、と、簡潔に説明してくれてゐるのである。
そして、自分は女房に逃げられるやうな男なのだといふこともそれとなく匂はせてゐる。

でもなー、だつたら、「女房が逃げた」でいいんぢやないか。
「未練はないが」なんて云ふからいけない。
そこんとこが好きになれないんだなあ。
これはもう好みだから仕方がない。

一番の歌詞のあと、語りが入る。
そこにも逃げた女房のことを「薄情」などと云ふせりふが入つてゐる。
未練たらしいでせう?

でもこの歌詞はおもしろい。
かうしていろいろ考へることができるからだ。
歌詞は、そんなに長くできるものではない。
普通単文で、しかも短いことばでさまざまなことを伝へる必要がある。
その短くときに説明不足の文章から、いろいろ読みとることになる。
楽しい。
これが実に楽しい。
中条きよしの「うそ」とか、如何様にも考へやうがあつておもしろい。

さう思つて聞くと「浪曲子守唄」も悪くない。
歌の主人公である男のことを考へてゐると、そら女房も逃げるよな、といふ読みもある。
さうやつて考へていくと、この歌はやつぱり好きにはなれないけれど、おもしろい。
やはり好きにはなれないとわかるところがおもしろい。

かうやつて考へてみると句会つてやつぱり楽しいのかもしれないなあ。
参加してみるかなあ。

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Thursday, 15 March 2018

すがれた色のインキ

プラチナ萬年筆の古典インクは、六色全部試した。
あまり使はないだらうなと思つてゐたシトラスブラックを一番使つてゐることに気づき、マイスターシュテックに入れることにした。
いまは、カシスブラック以外は日々使ふペンに入つてゐる。
カシスブラックを使はない理由は、似たやうな色合ひのモンブランのバーガンディレッドを使つてゐるからだ。使ひわけの工夫を思ひつかないので、いまは使つてゐない。最近バーガンディレッドを見かけないのでそのうちカシスブラックを使ふやうになるのではないかと思つてゐる。

カーキブラックは、使ひはじめた当初はあまり使はないかもしれないな、と思つてゐた。
セピアブラック、カーキブラック、シトラスブラックは、時間をおいたときに似たやうな色になるだらうと思つてゐたからだ。

また、カーキブラックはセピアブラックに比べて色が淡い。
字を書くにはもうちよつと黒みがかつた色の方がいいのではないか。
さうも思つた。

それが使ひつづけてゐると、この色の淡さがいい感じなんだなあ。
主張しない色なのである。
ちよつと存在感の薄いところがとてもいいのだつた。
書いたあとはだんだん黒くなつてくるので存在感を増しはするのだが、でもほかの色ほどではない気がする。
褪色したやうなところもあつて、実に風情がある。
すがれた感じとでもいはうか。
いいなあ、カーキブラック。

使ふ前は、ラヴェンダーブラックとセピアブラックとを使ひつづけるやうになるんぢやあるまいかと思つてゐた。
使つてみないとわからないものだねえ。
フォレストブラックも実にいい色だし。
それぞれに金ペンを用意するやうだらうかと思ひつつ、いまのやうに廉価なペンに入れてゐるので気兼ねなく使へていいのかもしれないとも思ふ。

古典インクはスチールペンで使ふとペン先がさびたりなんだりする、といふが。
もうしばらくはこのまま使ひつづけてみるか。

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Wednesday, 14 March 2018

Bullet Journal 向きのノート

Bullet Journal をはじめたのが二年前の二月のこと。
我ながらつづいてゐる。

最初に使つてゐたのは、MIDORI の MD NOTEBOOK の新書サイズだ。

Bullet Journal に使ふノートにはほんたうはA5サイズくらゐの大きさがほしい。
百歩譲つてB6サイズだらうか。
Monthly Log を一ページにおさめるにはA6サイズではチト小さい。見開きにすればいいかもしれないけれど、さうすると月ごとのToDoリストは別のページを見ることになつてしまふ。

A6サイズを Bullet Journal として使ふなら、Rollbahn の手帳がいいのではないか。
カレンダー型の月間予定表があらかじめ一年分(おまけもあるかもしれない)ついてゐて、残りは全部方眼罫のページだからだ。

A6サイズの Rollbahn の手帳がよささうと思つて試してみたことがないのは、MD NOTEBOOK のあとバイブルサイズのシステム手帳にうつつたかからだ。
これが自分にはちやうどいい感じで使へてゐて、なかなかほかのノートに移らうといふ気分にならない。

Bullet Journal にはあるていど大きいノートが向いてゐるだらうと思ひながら新書サイズのノートにしたのは、持ち歩くことを考へたからだ。
必ずしもA5サイズのノートの入るかばんを持ち歩くとは限らないし、そもそもA5サイズではかさばることもある。
持ち歩かなくなると手帳は使はなくなる。
逆に持ち歩くとなると、どんどん使ふやうになるし、愛着もわいてくる。

これは Smythson の SCHOTT'S MISCELLANY DIARY (以下、SCHOTT'S) を使つてゐるときに覚えたことだ。
SCHOTT'S はほぼ貯金通帳サイズで、薄いのににぢみも裏抜けもほとんどしないやうな紙でできてゐて、ゆゑに手帳自体も薄い。
手持ちのどんなかばんにも入るし、いつでも持ち歩ける。
結果、しよつ中書き込むやうになるし、しよつ中確認するやうにもなる。

ほぼ日手帳カズンの例もある。
ほぼ日手帳カズンはA5サイズの分厚い手帳だ。
書き込みたい気持ちをとてもそそる作りの手帳である。すくなくともやつがれの書き込みたい気持ちはとてもそそられる。
でも、ほとんど書き込むことはなかつた。
持ち歩かないからだ。
大きくてかさばり、分厚く重たい。
結果、あまり活用することなく一年が過ぎてしまつた。

さういふことがあつたので、Bullet Journal をはじめるときにはできるだけ小さくて、でも Bullet Journal として使つてムリのないサイズのノートを選ばうとした。
そこで新書サイズといふことになつた。

結論からいふと、新書サイズだとやはりちよつと小さすぎる。
メモを書き始めるとあつといふ間に見開きが埋まつてしまふからだ。
もちろん、めくつて次のページにうつることになんの問題もないのだが、なんとなくできれば一日の記録は見開きていどにおさめたいやうな気もする。見やすいからだ。

それに、MD NOTEBOOK はページ数もそれほど多くない。
通常のノートに比べれば多いが、できれば二百ページくらゐはほしいところだ。

それでも「これはいい」と思つたのは、持ち運びが便利なこと、そして、「これ一冊持つてゐれば大丈夫」といふ安心感のあるところだ。
システム手帳をバイブルサイズにしたのも、持ち運ぶことを考へてのことだ。

とはいへ、その他のサイズのノートにも興味はある。
A5はムリでもB6なら持ち歩けるかなあ、だとか。
でも Bullet Journal にはあるていどページ数もほしいからB6だと重たくなるかな。

といふ感じで、結局バイブルサイズのシステム手帳からはなれられないのだ。

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Tuesday, 13 March 2018

なぜかうまくいかない

北尾惠美子の「タティングレースのちいさなドイリー」に載つてゐる三角形のスパイラルのモチーフをまた作つてゐる。

タティングレースのモチーフ in progress

今回も使用してゐる糸は Lisbeth #40 だ。
前回は淡い水色で作り、今回は牡丹色で作つてゐる。

おなじ Lisbeth #40 で、シャトルもおなじ、モチーフもおなじ、作る人間もおなじなのに、なぜか今回の方が苦戦してゐる。
なぜだらう。

どのあたりに苦戦してゐるかといふと、リングの糸を引き過ぎてしまひがちな点だ。
前のモチーフを作つたときは、目をつぶさないやうにリングの糸を引き締めることを目標に作つてゐた。
それはまあまあうまくいつて、でもリングの大きさがそろはなかつた。
今回は糸の引き加減に気をつけつつリングの大きさにも気を配る。
そのつもりでゐた。

なのに、なぜか糸を引きすぎてしまふ。
いや、どちらかといふと、糸が引けてしまふ。
そんな感じで作成に時間がかかつてゐる。

久しぶりなので、やつがれの手が安定してゐないのか。
それはありうる。

でもなあ。
糸はおなじなのになあ。
違ふところといへば色くらゐか。

色か。
色が違ふすなはち染料が違ふとこんなにも結び心地が違ふものなのだらうか。

もちろん、現在サンプルは二点だけなので、一概に色のせゐばかりとはいへない。
でも、レース糸つておなじ製品でも色によつてちよつと違ふよね。

といふのもやつがれ個人の体験のうちのことなので、サンプルは大したことはない。
ゆゑに絶対さうとは云ひきれない。
でも、おなじ糸でも黒い糸はちよつとかたくて糸がひきしまつてゐて針金に近いやうな感じがするし、緑の糸はほかの糸にくらべて乾燥してぱきぱきとした感触がある。
オリムパスの金票40番でいふと、段染め糸のあはい色にはほかの糸にはないやうなぬめり感がある。
色が違ふから、すなはち染料が違ふからなんぢやないかと思つてゐるのだが、なかなかサンプルが増えないのではつきりとはいへない。

いづれにしても、牡丹色では苦労してゐる。
紫系のほかの色でもかうなのか、それともたまたまこの糸がかうなのか、ちよつと試してみたいものだ。
手持ちにさういふ糸がないのでムリだけれどもさ。

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Monday, 12 March 2018

わかつてゐたことだけれど

暖かかつたり冷えたりする日がつづいてゐる。
寒いと編むもので、メビウス編みのネックウォーマも最後の三玉目に入つた。
毛糸が足りなくなるのが怖いので、さつさと縁を編むことにした。

ここで問題が発生した。
いや、発生することはわかつてゐた。
わかつてゐたが、見栄えを重視してしまつたのだつた。

もともとの編み方では、ネックウォーマの主要な部分はメリヤス編みで編むことになつてゐる。
さうすると、メビウス状になつてゐるので、着用するときに表目部分と裏目部分とが両方見えることになつてしまふ。
それを避けるために、今回は目数の半分はメリヤス編み、もう半分は裏メリヤス編みにした。
かうすると、首にかけたときに表目側だけ出すことができるからだ。もちろん裏目側だけ出すこともできるし、両方見せることもできる。

このネックウォーマは、かけ目と減らし目とで斜めの柄が出るやうになつてゐる。
元々の減らし目は左上二目一度で編むことになつてゐる。
この編み方だと表目が浮き上がるやうに見える。
表目が左上二目一度の場合、裏目はどうなるかといふと、減らす二目の目の向きを変へて左側から右の針を差し入れて二目一度を編むことになる。
すなはちめんどくさい。

それで編む前はさんざん悩んだのだが、結局そのままめんどくさい編み方をすることにした。

ところが、縁はかけ目と二目一度とを交互にくり返して一段編むことになるんだね。
もちろん、知つてはゐた。
面倒なことになるんたらうな、と思つてゐた。
だから編む前に悩んだのだ。
でも見栄えを重視してしまつた。

ここから先、またなかなか進まなくなるのだらう。
とりあへずこのネックウォーマを編み終へてからこの秋冬のあみものを終はりにしたいぞ。

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Friday, 09 March 2018

想像の外

日曜日、突如として昼からお酒を飲むことになつた。
呼び出されたからだ。
相手は学校に通つてゐた時分の友人で、年に三、四回は一緒に飲むことがある。

学校に通つてゐるころ、相手はこんなことを云つてゐた。
「約束してなくても、会ひに行つたらそのままお酒を酌み交はしたりできるのつていいよね」と。

電話の普及この方、さういふことはほとんどなくなつてしまつたと云つていいと思ふ。
当時でさへ、あらかじめ約束してゐない友人とはその日のうちには会へないといふことが多かつた。
むしろその方が普通だつた。

電話の普及する前は、編集者などは事前の約束などないまま担当する作家のもとに赴き、不在の場合は近くに住んでゐる別の作家のところに寄る、そこも不在だつたらまた別の作家のところへ行く、などといふことをしてゐたといふ。
それがあたりまへだつたし、ほかにしやうもなかつたらう。

さういふ時代は、友人に会ふにもおなじやうな感じだつたのに違ひない。
会ひに行つても相手はをらず、仕方がないのであたりをぶらぶらしたり、別の友人宅に向かつたりする。

それがいいかといふと、やつがれにはちよつとムリな気がしてゐる。
誰かと会ふときは事前に連絡して、約束をとりつけてから会ふ。
それが当然で、行つたらゐなかつたではがつくりしてしまふと思ふのだ。

そんな感じで、昔の人の気持ちになれないこともある。
最近は古い映画や古いドラマしか見ないので、家には普通に黒電話があり、巷には公衆電話ボックスがあり、たばこの自販機もたくさんあつて、町中のあちらこちらに喫煙してゐる人がをり、駅の改札口には伝言板がある、といふのを目の当たりにして、「昔はさうだつたよなー」などと思ふ。
でもそれは、経験したことがあるからさうなので、生まれてこのかたあつてあたりまへのものがない状態のことを考へるのはとてもむつかしい。

かういふことは、歌舞伎を見たり落語を聞いたりしても多々あるはずなのだが、「昔は昔」と思つてゐると見過ごしてしまふんだらうな、といふのはまた別の話。

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Thursday, 08 March 2018

クリアーキャンディの思ひ出

A.S.Manhattaner's とセーラーとのコラボレーション製品のひとつであるクリアーキャンディ万年筆にインキを入れた。

クリアーキャンディ

セーラーのクリアーキャンディ万年筆には思ひ出がある。
昔から万年筆がほしかつた。
母のおさがりを何本かもらつたりはしたが、いづれもインキがない。
瓶入りのインキがあつたので、当時はつけペンのやうにして使つてゐた。

入学のをりに誰か万年筆をくれたりしないかなと思つてもゐた。
兄弟は叔母からもらつてゐた。
クレージュの万年筆とボールペンとのセットだつたと記憶する。
ひどくうらやましかつた。
就職もして、でも誰も万年筆を送つてくれることはなかつた。

とにかく万年筆にあこがれてゐて、そんなをりに発売されたのがセーラーのクリアーキャンディ万年筆だつた。

ほしかつたねえ。
真つ赤な軸にポイントとして白やピンクがあしらつてあるものや、逆の色味や、目にもあざやかなペンが店頭に並んでゐた。
六百円くらゐだつたらうか。
お小遣ひでは買へなかつた。
貯めれば買へる。
しかし、ほかにもほしいものはいくらもあつた。

親にねだることもなかつた。
あるいはねだつたところ、おさがりをもらつたやうにも思ふ。
結局クリアーキャンディを手にすることは一度もなかつた。

クリアーキャンディ万年筆は何年か前に復刻されて、それは買つた。
A.S.Manhattaner'sとのコラボレーション製品は、それより前に販売されたものだ。
絵柄もかはいいし、なにしろあのクリアーキャンディの末裔だ。
即購入した。

プラチナ萬年筆がプレピーを出し、パイロットがkakunoを売り、廉価な万年筆はそれなりに市民権を得てゐるやうに見受けられる。
最近店頭でクリアーキャンディをあまり見かけないのがなんとも惜しい気がしてしかたがない。
プレピーともkakunoとも違ふ魅力のあるペンなのに。

もつとも売られてゐたらつひ買つてしまふにきまつてゐるので、懐のためにはいまの状態の方がいいのかもしれない。

クリアーキャンディ

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Wednesday, 07 March 2018

つくしペンケース: 荷物minimumの友

最近、荷物ミニマムのときは、つくしペンケースだけで出勤してゐる。

以前は、Pen & message.の三本差しのペンシースやコクヨのネオクリッツの薄いタイプを使つてゐた。

三本差しだと三本しか入らない。
ネオクリッツでもkakunoが五本がいいところだとは以前書いた。

つくしペンケースだとkakunoが十二本は入る。
それでネオクリッツの薄いタイプとそれほどかさばり具合は変はらない。
筆立てのやうに使ひたいときはネオクリッツ、さうでないときはつくしペンケースといふ風になつてきてゐる。

つくしペンケースは長いことほしいと思つてゐた。
でもその「ほしい」といふ気持ちが強くなるときとさうでないときとある。
たまたま店頭で出会つたのは後者のときだつた。
文房具カフェに行つたら売られてゐたのだつた。
そのときに、買はうかどうしやうかさんざん悩んだ。
そして見送つてしまつた。
これ以上ペンケースを増やして持ち歩くペンを増やしてどうする。
そのときはさう思つたのである。

実際につくしペンケースを手にしてみて、持ち歩くペンを増やすことになることもあるが、減らすことにもなることに気づいた。
冒頭に書いたとほり、荷物を最小限にまとめたいときに、つくしペンケースに入るものだけ入れて持ち歩くやうになつたからだ。
kakunoやセーラーキャンディといつた万年筆七、八本のほか、uniのStyle*fitの三色ペンが二本、修正テープとフリスクフォンといふのが最小限の布陣だ。
ここに一本差しのペンシースに入れた中屋万年筆のペンやラヴァンド、マイスターシュテックなどを入れることもある。
それでも十分薄いしかさばらない。
もつと早く入手しておくのだつた。

ファスナーがほぼ三百六十度ぐるりと開くのもいい。
ペンを取り出すときは頭の部分だけ開けて取り出すことが多い。
便利に使つてゐる。

手芸をたしなむ人は、つくしペンケースに刺繍をほどこしたりするのださうな。
タティングレースのモチーフなどはりつけてみたいやうな気もするけれど、さうするとこのシンプルな味はひが失はれてしまひさうな気もする。
むつかしいところだ。

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Tuesday, 06 March 2018

タティングレース: できたことできないこと

久しぶりにタティングをしてみた。

あたたかくなつたからといふこともあるし、ここ最近にはめづらしく「作つてみたいな」と思ふ作品が掲載されてゐる本に出会つたからといふこともある。
北尾惠美子の「タティングレースのちいさなドイリー」だ。

タティングレースのドイリー

写真はその本に載つてゐるスパイラルのモチーフだ。
Lisbeth #40 で作つた。
クロバーの通常サイズのシャトルにはみださない程度に目一杯糸を巻いて、ほぼ使ひきつた。

まーね、リングの大きさがそろひませんね。
ピコのサイズは云はずもがな、だ。
自分なりに気をつけてはみたけれど、根のいい加減さが全面に出てしまつた感がある。

ピコのサイズについては、本ではピコゲージを使ふといい、と書かれてゐる。
ピコゲージ、持つてはゐるけれど使つたことはない。
今度は使つて作つてみるか、と思ひつつ、持参するのを忘れてしまつた。
吁嗟。

それなりにできたな、と思ふ点は、目がつぶれないやうに芯糸を引く点だらうか。
ブリッジだと手加減しやすいが、リングは芯糸を引いて丸い形を作るせゐか、えいやつと引いてしまひ、目がつぶれてしまふことが往々にしてある。
とくに滑りのよくない糸を使つてゐるときは力任せに芯糸を引いてしまひ、「あーあ」といふ出来になることもしばしばだ。

そこで今回は「糸を力任せに引かない。やむを得ず引いたときも目がつぶれないやうに芯糸を戻す」を心がけて作つてみた。
幸ひ今回使つた糸は滑りの悪いといふこともなく、力任せに引くことはなかつた。
次もこの点に気をつけて作るつもりだ。

さう、おなじモチーフをまた作つてみるつもりでゐる。
かういふ風車型の模様が好きなんだな。
Mary Konior のこぶりなドイリーも何度も作つてゐるし。
あみものでは、ベルント・ケストラーのミトンも最初に作つたのは風車型だつた。毎段増し目があるので忘れないからといふのもあるけれど、形としても好きである。

それにしても、タティングレースは楽しい。
久しぶりだからかもしれないけれど、光沢のある糸で作るスティッチのやはらかな輝きがいい。
美だねぇ。
やつがれ風情の作つたものでもさうなのだから(手前味噌との話もあるが)、世のすばらしい作品を作る人々が作つたタティングレースはさぞや、と思ふ。
美だよねぇ。

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Monday, 05 March 2018

年を経たからだらうか

日々時代劇の再放送を予約録画して見てゐる。
録画なのでコマーシャルはとばすやうにしてゐるが、古い番組のせゐかときどきコマーシャルをとばす機能がうまく働かない。
さうすると、早送りするにしてもコマーシャルをちらりと見てしまふことになる。

「膝が痛い」「しつこい便秘に」「かすむ目に」
さういふコマーシャルがくり返しくり返し放映される。
すこし前ならグルコサミン、その前なら皇潤だつたらうか。
毎日見てゐたら、「もしかしたら効くかも?」といふ気にもならうといふものだ。
しかも、人間年を取るとどこかしら痛くなつたり不具合が出たりする。

時代劇の再放送をいまのやうに繁く見るやうになるまでは、「グルコサミンとかいはれてもねえ」とか「青汁なんてほんとに健康にいいのか?」と思つてゐた。

人は苦手なものでも毎日見てゐるとそれを好ましく思ふやうになるものである、とは先日も書いた。
それとおなじ効果がほぼ毎日見てゐるコマーシャルにもあるやうな気がしてならない。

あみものも、年寄りの手芸と見なされることがある。
あるいは長いことさうだつたのかもしれない。
あみもの雑誌に載る作品は流行を取り入れたものだが、購読者層と合致するかといふとさうでもなかつたやうな気がする。
雑誌にある読者の投稿コーナーで雑誌に掲載されてゐたセーターなどを実際に編みましたといふので送られてきた写真を紹介するものがあつたが、被写体は作成者の娘であつたり孫であつたりすることが多かつた。

でも最近の「毛糸だま」を見ると、なんといふか、雑誌自体が変はらうとしてゐる空気を感じることがある。
英語で書かれた編み方を見ながら編んでみませうだとか、新作毛糸の原材料と編み心地だとか、贅沢をいへばもうちよつと前にほしかつたな、と思ふやうな内容を読むことができる。
読者からの要望もあらうし、編集者の工夫もあらう。

などと思つてゐたが、さう思ふのは単に自分が年寄りになつたからなのではあるまいか。

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Friday, 02 March 2018

認知心理学と与太郎

ダニエル・カーネマンの「ファースト&スロー」を読んでゐる。

「ファースト&スロー」には、System 1とSystem 2 といふことばが出てくる。
System 1は、本能的・反射的な反応で、直感といひかへてもいいかもしれない。速い思考ともいふ。
System 2は、直感ではさばききれない、頭を使はないと考へられないやうなことを考へる能力だ。遅い思考でもある。
本には、九九の計算はSystem 1(もちろん、考へないとできないこともあるかもしれないが)、24×17はSystem 2を使つて答へを得る、といふやうなことが書かれてゐる。

一月早々に読んだ「How to Think: A Guide for the Perplexed」には、人間の脳は考へることに向いてゐない、と書かれてゐる。
「ファスト&スロー」の例を引いてきて、System 2といふのは労力を必要とするもので、普段はみなSystem 1でものごとを処理してしまふ、と云ふ。
ここで出てくる例はシャーロック・ホームズだ。
「ボヘミアの醜聞」(確か)に、ホームズがワトソンに下宿の階段のステップ数を尋ねるが、ワトソンにはわからないといふ場面が出てくる。
そこでホームズはワトソンに云ふ。「You see, but you do not observe.」、と。
観察をするにはSystem 2が必要だ、といふのだ。
ここでワトソンはホームズが「階段は17段だ」と云つた、といふ話でおしまひにしてしまふが、それもまたSystem 1しか使つてゐないことになるのぢやあるまいか。確認しに行つてはじめてSystem 2を使つてゐることになるのぢやないかと思はないでもないが、それはまた別の話。

総合すると、人はたいていSystem 1を使つてゐて、System 2は滅多に使はない。
たとへば、混雑してゐるスターバックスコーヒーの店内で四人ほどでコーヒーを飲んでゐるとする。食べるものも頼んだのでひとりひとりの前にそれぞれトレーがある。
さて帰るぞ、といふので立ち上がつてゴミ箱に向かふ際、先頭に立つた人はともかく、それ以降の人がどうふるまふか。
なにも考へずに先頭の人について行くのがSystem 1、ほかにすいてゐる道はないかと探すのがSystem 2なのぢやあるまいか。

この場合、System 2を使ふと反応が少し遅くなる。
もしかしたらこの人は普段から「のろま」と云はれてゐる部類の人かもしれない。
でも実は、System 1だけでなんとかなる場面でもSystem 1に頼りつきりではなく、System 2を起動する人なのぢやあるまいか。

落語に与太郎といふ人物がよく出てくる。
ちよつと考へることの苦手な、いはゆる mentally-challenged な感じの人物だ。
噺家によつてその描写は多少ことなる。
立川談笑の与太郎は、mentally-challenged といふよりは、ことばの裏を読まない人間といつた感じがする。
表を掃除してゐて「箒で掃く前に水をまけ」と云はれると部屋の中でも水をまいてしまふ。
そして、あとでひとりごちる。
「家の中で水をまいちやいけないんだつたら最初から「表を」とひとこと付け加へればいいのにな」、と。
「云はなくてもそれくらゐわかるでせう」といふのが通じない人物なのだ。
暗黙の了解が通用しない。
ある意味、「グローバル人材」だな、と思ふ。
日本での暗黙の了解をまつたく知らない人だと思つてつきあふと多少はうまくいく気がするからだ。

談笑のやうな与太郎がありなら、System 1よりもSystem 2を優先して使ふ与太郎もありなのではないか。
一見のろまでちよつと足りないやうに見えるけれど、実はほかの人間よりよつぽどものを考へてゐる。
そんな与太郎といふのもありなのではあるまいか。
どの噺の与太郎に適用できるのかはやつがれ風情の噺の知識ではわからない。
あるいはもうさういふ与太郎を演じてゐる噺家もゐるのかもしれない。

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Thursday, 01 March 2018

紳士は走らない

「A gentleman will walk but never run.」とはスティングの「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」の一節だと記憶してゐる。

紳士たるもの走るものではない、といふのは、なるほど、と思ふ点もないではない。
紳士といふと思ひ浮かぶのは、トップハットに白いネクタイ、燕尾服、だらうか。
古いか。
いづれにしてもそんな出で立ちの人間が、発車間際の電車に駆け込んでくるやうなやうすはチト考へ難い。
たぶん、さういふ人は発車のベルの鳴る中、おもむろに歩みつつ電車のドアの前に立ち、落ち着いた面もちで閉まるドアを見るともなく見つめるのだらう。

動作と心境とは呼応するものなのだといふ。
とくにおもしろいことがないときでも微笑むと心持ちがよくなるといふ。
微笑むことはない、唇の両端を持ち上げるだけで気分が明るくなるともいふ。

キリキリしてゐるときはゆつたりとした動作をとるといい。
さうするとふしぎと心も落ち着いてくる、といふ。

わかつてはゐるが、どうしても急いでしまふんだよなあ。
だいたい早足で歩いた方が健康にいい、といふ話もあるではないか。
#え、ない?

鷹揚にのんびりとした足取りで歩みたい。
とくに歌舞伎座から有楽町駅に向かふときにさう思ふ。
晴海通りの信号は車にあはせて切り替はるのらしく、どんなにがんばつて歩いても次の信号に着くころには歩行者用の信号は赤に変はつてゐる。
イライラするんだよねえ。
周囲の人のやうすから見て、やつがれの歩みが格別遅いとも考へられない。
複数人で喋りながら歩いてゐる人が多いので、むしろ速い方かと思ふ。
それなのに、目の前で信号が赤に変はる。
納得がいかない。

が、これも、ゆつたりのんびり歩くやうにしたら解決するのではあるまいか。
せかせか歩くから赤信号にイライラするのだ。
紳士にでもなつたつもりで悠々と歩いていけば、そんなことは気にならなくなるのではあるまいか。

やつてみやうと思ひつつ、これがなかなかむつかしい。
だいたい夜の部のあとは早く帰りたいしね。

うーん、今度やつてみるかなあ。

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2月の読書メーター

2月の読書メーター
読んだ本の数:5
読んだページ数:2106
ナイス数:23

こころこころ感想
「マウンティングの書」と話題になっていたので高校のとき以来の再読をしてみたが、全然覚えていないことに愕然としつつも大変おもしろく読めた。小説や物語を読むことの効用の一つに「自分ではない人間の気持ち・立場を理解することができること」があるという。おそらく「先生」が激しい衝撃を受けたであろう場面でそうと知りつつその衝撃を想像することができなかったことにちょっと落ち込んだ。高校のときの「Kには落ち度はなかったのか」という教師の問いが忘れられない。
読了日:02月07日 著者:夏目 漱石
ドッキリチャンネル (I)  森茉莉全集第6巻ドッキリチャンネル (I) 森茉莉全集第6巻感想
大好きというわりには三週に一度しか見ていないTV番組があったり結構見逃していたりするのがおもしろい。そして思い込みが激しいせいか「それは間違いなのでは」と思うこともある。なにもかも正確でないと気のすまない人には勧められないが、この魅力には如何とも抗しがたいものがある。誰か「この番組はこれ」とか「ここに書かれている映画はこの映画」とか注釈をつけて出版しなおしてくれないかなぁ。
読了日:02月10日 著者:森 茉莉
The Knowledge Illusion: The myth of individual thought and the power of collective wisdom (English Edition)The Knowledge Illusion: The myth of individual thought and the power of collective wisdom (English Edition)感想
人は誰しも自分が思っているよりものを知らないという。実際には自身で知識を保有しているのではなく、自分の所属する共同体や最近ではインターネットなどにある知識や情報を自分は保持していると思い込んでいる。最後に筆者の一人のこども二名の話が出てくる。片方は自分の知らないことを(わりと)わきまえている子、もう片方は自分が無知なことに気づいていない(と思われる)子。どちらがよりよいかというと、どちらもよいのだ、という。救われるようなそうでもないような。
読了日:02月15日 著者:Steven Sloman,Philip Fernbach
浄瑠璃を読もう浄瑠璃を読もう感想
江戸時代の作品について「現代的」であると書いてとき、橋本治は「でも明治以降の人間がそれを歪めてしまった」と云いたいのではないかと邪推してしまう。「江戸時代人は大人だ」と書いているときは「でも明治以降の人間はそうじゃないよね」と云っているのではないかと思う。おそらくは「浄瑠璃は古臭いものとされてしまったけれど実は全然そんなことはないのだ」と云いたいのではないか。
読了日:02月21日 著者:橋本 治
The Reading Mind: A Cognitive Approach to Understanding How the Mind ReadsThe Reading Mind: A Cognitive Approach to Understanding How the Mind Reads感想
文章を読むとき、人はどのように内容を理解するのか。黙読するにしても単語の音が重要というのがまずおもしろい。ヨーロッパ各国の状況として、フィンランド・イタリア・スペインといった綴りと発音とがほぼ一定の言語の国ではフランスやイギリスに比べて小学一年生の段階では間違いなく音読できる子どもが多いが、小学四年生になるとその差がなくなるというのも興味深い。それにしても、書籍というものが手に入りにくかった時代・識字率の低かった時代はどうだったんだろうというのはこの手の本を読むといつも思うことではある。
読了日:02月27日 著者:Daniel T. Willingham

読書メーター

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