思しきこと呟かぬは
Twitter は、ライフログのやうなものだと思つて使つてゐる。
呟いたことは一日単位で Evernote に記録するやう設定してゐる。
以前は、都度入力した内容を日ごとにひとつのノートとして登録してくれる Evernote 用のiPhoneアプリケーションがあつたのだが、Evernote や iPhone の仕様変更についていけなかつたのかいつしか使へなくなつてしまつた。
このEvernote用のアプリケーションがあつたら、もしかすると自分は呟かなくなるかもしれない。
第一の目的は「記録に残すこと」なのだから、さうなるだらう。
去年のいまごろは一日にかなりの回数呟いてゐた。
多いときは七十回、少なくても三十回は呟いてゐたやうだ。
いまは一日に十回呟くかどうかといつたところだ。
なぜさうなつたのかといふと、呟く前に呟きたいことを手帳に書き出すやうになつたからだ。
それで結構満足してしまつて、呟かなくて済むやうになつた。
呟くか否かといふ選択をしなければならないが、そこも記録に残したいと思へば呟くし、さうでなければそのままだ。
Twitter で呟くといふことは、全世界に向けて発信するといふことだ。
個人的な記録を残すためだけに呟くなんて、どうかしてゐる。
さうも思ふのだが、そこは自己顕示欲が介在するのかもしれない。
手帳に書く効用といふと、ほかには公には云へないことも表現できる、といふ点か。
Twitter ぢや云ふのに躊躇するやうなことも、手帳になら書ける。百四十字の制約に縛られることもない。
だつたらすべて手帳に書いておしまひにすればいいのだが。
さうできないのは業なのか。
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