敢て見せずに見せる法
筒井康隆に「走る取的」といふ小説がある。
いまWeb検索したら「世にも奇妙な物語」でドラマ化されてゐるといふ。
見てゐないのでドラマの評価はできないが、これも小説ゆゑのおそろしさを感じる話だつた。
橋爪功と野田秀樹とがふたり芝居で上演したのを見たことがある。
相撲取りを馬鹿にするやうなことを口にしたふたりが相撲取りから追ひかけられる。
相撲取りの姿は見えない。
見えないのに怖い。
見えないから怖い。
見えないけれど確かに追うてきてゐるのがわかる。
おそろしい芝居だつた。
ことばによつて成り立つ物語は、敢て見せないやうにvisualiseするといいのだ、と、このときはじめて知つた。
その後この「敢て見せない」手法がすばらしいことをあらためて確認することになつたのが、橋本治の「女賊」だ。
篠井英介のひとり芝居だつた。
江戸川乱歩といはうか三島由紀夫といはうかの「黒蜥蜴」をひとり芝居にしたものだ。
「黒蜥蜴」でいつも不満に思ふのは、緑川夫人こと黒蜥蜴がどうしても手に入れたいと思つてゐる一対のうつくしい男女が大変失礼とは思ひながら「え、普通の人々ぢやん?」と思へてしまふことだ。
もちろん、毎回美男美女がそろつてゐることは確かだ。
でも、黒蜥蜴がほしいと思ふ一対ですよ。
なんかもつとかう、この世のものならぬやうな空気とか雰囲気とかがほしいぢやあありませんか。
緑川夫人/黒蜥蜴がすばらしければすばらしいほど、一対の男女にがつかりしてしまふ。
それが「女賊」にはない。
一対の男女は登場しないからだ。
篠井英介演じる黒蜥蜴のせりふと演技とから一対の男女の姿が次第に浮かび上がつてくる。
それは、なんとうつくしいふたりであらうか。
黒蜥蜴がすばらしければすばらしいほど、一対の男女もまたこの世ならぬうつくしさを増してゆく。
なにもかも見せればいいといふものではない。
敢て見せない、でも見えるやうにする。
さうすることでより輝くものがある。
世の中にはさういふものもあるんだと思ふ。
たとへば落語とかさ、といふのはまた別の話。
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