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Monday, 19 February 2018

誰にもあげない

先週はあまり編めてゐない。
火曜日と金曜日とに禁断の平日夜の落語会に行つたり土日と出歩いたりで、家にゐないことが多かつたからだ。

編んでどうしやうといふのか、といふと、実はあまり「かうしやう」とは思つてゐない。
たとへば、この技法を学んでさらなる段階に進まうとか、あの技法に取り組むにはまづこの技法とその技法とを身につける必要があるだとか、さういふことは考へない。
昔は考へてゐたやうな気もする。
編み込み模様をきれいに編めるやうになるといいな、だとか。
メリヤス編みも裏メリヤス編みもおなじやうにそろつた編み目に編めるやうになるといいな、だとか。

長年馴染んだ「不器用」のおかげもあつて、「ムリなものはムリ」と思ふやうになつたのだらう。

そんなわけで、自分で編んだものを他人に贈ることは滅多にない。
編んだものはすべて自分のもの。
自分には使へないやうなものも「編みたいから編む」といふことをやる。

自分で編んだものを他人に贈らないのには、ほかにも理由がある。
他人からもらつたものつて、なんとなく捨てづらいぢやあありませんか。

無論、世の中にはいろんな人がゐて、「他人からもらつたものだつて使へないものは即捨てる」といふ人もゐるだらうことは理解してゐる。
でも、なんか、ありませんか、いつまでも家にあるもので、なんであるのかよくわからないし滅多に使はないけれど、「でもねえ、お世話になつたあの人からもらつたのよ」といふやうなものが。
やつがれはもともとものを捨てられない捨てるのがめんどくさい気質のせゐか、他人にもらつたものは使はないものでもいつまでも捨てられずにゐる。
それを考へると、うまく編めるのならともかく、さうでもないものをあげてもなあ、と躊躇してしまふのだ。

先週、Yarn Harlot だつたらうか、亡くなつたご母堂の遺品を整理する話があつた。
編んであげたものが(すりきれたスリッパ以外は)すべて残つてゐた、といふ。
はじめて編んであげたセーターからすべて。

さういふ話に弱い。

Knitter's Magazine のコラムだつたかにも似たやうな話があつた。
そちらはご尊父だ。
まだあみものをはじめたばかりのころヴェストをあんであげた、といふ話だつたやうに思ふ。
父親が他界して、クローゼットを開けてみたら普段着るものがきれいに並んでゐるなかに、そのヴェストもあつた、といふ。

さういふ涙のもとになるやうなものをあげちやいけないよな、とも思ふのだつた。

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Friday, 16 February 2018

美美美美美ぃ

森茉莉の「ドッキリチャンネル」を読んでゐたら、こんなくだりがあつた。
世の中にはあまりにも美ならざるものが多く、気分なほしのために自分がうつくしいと思つた写真を切り抜いておいてある。
一枚は吉行淳之介の写真で、もう一枚は森茉莉曰くフランス人とおぼしき女の人の写真だといふ。
吉行淳之介の方はあまりによいので自分が持つてゐるよりも宮城まり子が持つてゐた方がよからうといふのであげてしまつた、とも書いてあつた。

森茉莉は建物にしても人にしても美ならざるものが多い、と書いてゐたやうに記憶する。
たまに桜木町に行くとランドマークタワーが如何にも邪魔だ。
はじめて神奈川県立図書館の窓からランドマークタワーが見えたときの衝撃はいまも忘れられない。
まえはあんなものはなかつたのに。
「逃げるは恥だが役に立つ」といふドラマでも横浜のあのあたりがたびたび舞台になつてゐて、もちろんランドマークタワーも映りこむことがあつたのだが、「ない方がいいのに」と常々思つてゐた。カメラの位置の具合で映らない場面になると「ほら、やつぱりない方がいい」と勝手に得意になつてゐた。

「白昼の襲撃」だつたか、いまから五十年くらゐまへの横浜が舞台で、いまとは全然違つた景色を見ることのできる映画だ。
元町のあたりから横浜駅方面を映した絵が出てきて、もうほんとに、いまある背の高い建物はなにもないといつても過言ではない状態で、横浜駅付近だらう、アドバルーンなんぞが浮かんでゐて、映画の内容はともかく、そぞろ郷愁を誘はれたものだ。

などと書いてゐるが、背の高い建物やランドマークタワーが美なるざるものである、といふわけではない。
こんなことを云ひながらランドマークタワーの写真はたびたび撮つてゐる。
ランドマークタワーが一人で立つてゐるやうな、そんな写真を好んで撮る。

切り取り方によつて美だつたりさうでなかつたりする。
さういふものなのではないかといふ気がする。

だいたい、森茉莉ではないので、世の中を見渡して「美ぢやない」などと思ふことはほとんどない。
そりやあ人の並んでゐる列に平気で横入りする人や電車の中でちよつと離れた席があいたと見るやその席の周囲の人を押しのけて座らうとする人なんぞを見たりしたら「うつくしくないなあ」とは思ふけれど、ぢやあなにかうつくしい絵なり写真を見たりして気分をとりなほしたいかといふと、そんなことはない。

写真といへば、歌舞伎座で売られてゐる舞台写真を久しく買つてゐない。
写真家が変はつのただらうか、「これ!」と思ふやうな写真が全然ないのだ。
自分が好きな役者の好きな役の好きな場面の写真であつても「なんか違ふ」と思つてしまつて買へない。
これも森茉莉に云はせたら「美ならざるもの」なのだらうかなあ。
でもだからといつて過去に手に入れたお気に入りの舞台写真を見て気を紛らはせやうなどといふ気にはまつたくならない。

美かどうかといふのは、自分にとつてはそんなにたいした問題ではないかといふことか。

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Thursday, 15 February 2018

説明のつかない怖さ

といふわけで落語である。

2018/2/13(火)、銀座ブロッサムで「如月の三枚看板 喬太郎+文蔵+扇辰」を聞いてきた。

トリは柳家喬太郎で、「ぺたりこん」をやつた。
初めて聞く噺だ。
背後の席の人の話を側聞するに、三遊亭円丈作ださうな。

落語にもいろいろあつて、といふやうなことをあまり聞かない身で云ふのもおこがましいが、たとへば芝居になるやうな噺もあれば「まんが日本むかしばなし」でアニメになるやうな噺もあり、最近では「超入門!落語 THE MOVIE」といふ番組もある。

visialise に適した噺があるといふことだ。

最近歌舞伎ではほとんどかからなくなつたけれど、「明烏」なんかはさうなんぢやないかと思つてゐる。
澤村宗十郎が浦里をやつたときの写真を見たことがあるので、最後の上演はそんなに昔のことではないのぢやあるまいか。
浦里が縛られてゐる場面の写真で、いはゆる落語でよくかかる「明烏」の後段だと思ふ。

一方で、これ、落語だからいいのかも、と思ふ噺もある。
「心眼」なんかさうなんぢやないかな。
できないことはないけれど、語る芸の演目としてのよさがある噺だと思つてゐる。
喬太郎でいふと「孫帰る」とか「ウルトラ仲蔵」もさうだ。
「孫帰る」は見てわかるやうに作るとあの衝撃は薄れてしまふのではないかといふ気がする。
「ウルトラ仲蔵」はケムール人を知つてゐる方がいいが、「中村仲蔵」の世界と「ウルトラマン」の世界とがめまぐるしく入れ替はる感じは映像だとうるさくなるんぢやあるまいか。

といふわけで、「ぺたりこん」だ。
「ぺたりこん」も「落語ならでは」の噺だなと思つた。
「ぺたりこん」は登場人物のせりふにたびたび「不条理」といふことばが出てくるくらゐの不条理な噺た。
「今日、ママンが死んだ」「朝目が覚めたら毒虫になつてゐた」と、不条理といへばこのふたりといふ小説家の代表作の冒頭部分を織り交ぜるくらゐ不条理だ。

「ぺたりこん」には「それを画像なり映像なりで表現するのはむつかしいのではないか」と思はれるやうな場面が出てくる。
噺ならではの不条理劇で、どことなく sense of wonder を感じる。

噺のなかで喬太郎は「今年は「怪奇大作戦」五十周年」といふ旨のことをちらりと云つてゐた。
「ぺたりこん」は「怪奇大作戦」といふよりは「トワイライト・ゾーン」ぢやないかなあ。
誰も怪奇を暴かうとするわけぢやないからね。
科学的にどうかうといふ説明もつかない。
説明のないなんとも不気味な味はひの深い噺だ。

かういふ落語ならではの噺を聞くと、落語をもつと聞きたくなつてくるんだよな。

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Wednesday, 14 February 2018

敢て見せずに見せる法

筒井康隆に「走る取的」といふ小説がある。
いまWeb検索したら「世にも奇妙な物語」でドラマ化されてゐるといふ。
見てゐないのでドラマの評価はできないが、これも小説ゆゑのおそろしさを感じる話だつた。
橋爪功と野田秀樹とがふたり芝居で上演したのを見たことがある。
相撲取りを馬鹿にするやうなことを口にしたふたりが相撲取りから追ひかけられる。
相撲取りの姿は見えない。
見えないのに怖い。
見えないから怖い。
見えないけれど確かに追うてきてゐるのがわかる。
おそろしい芝居だつた。
ことばによつて成り立つ物語は、敢て見せないやうにvisualiseするといいのだ、と、このときはじめて知つた。

その後この「敢て見せない」手法がすばらしいことをあらためて確認することになつたのが、橋本治の「女賊」だ。
篠井英介のひとり芝居だつた。
江戸川乱歩といはうか三島由紀夫といはうかの「黒蜥蜴」をひとり芝居にしたものだ。
「黒蜥蜴」でいつも不満に思ふのは、緑川夫人こと黒蜥蜴がどうしても手に入れたいと思つてゐる一対のうつくしい男女が大変失礼とは思ひながら「え、普通の人々ぢやん?」と思へてしまふことだ。
もちろん、毎回美男美女がそろつてゐることは確かだ。
でも、黒蜥蜴がほしいと思ふ一対ですよ。
なんかもつとかう、この世のものならぬやうな空気とか雰囲気とかがほしいぢやあありませんか。
緑川夫人/黒蜥蜴がすばらしければすばらしいほど、一対の男女にがつかりしてしまふ。

それが「女賊」にはない。
一対の男女は登場しないからだ。
篠井英介演じる黒蜥蜴のせりふと演技とから一対の男女の姿が次第に浮かび上がつてくる。
それは、なんとうつくしいふたりであらうか。
黒蜥蜴がすばらしければすばらしいほど、一対の男女もまたこの世ならぬうつくしさを増してゆく。

なにもかも見せればいいといふものではない。
敢て見せない、でも見えるやうにする。
さうすることでより輝くものがある。
世の中にはさういふものもあるんだと思ふ。

たとへば落語とかさ、といふのはまた別の話。

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Tuesday, 13 February 2018

頑張れない

いつのまにか冬季オリンピックがはじまつてゐる。

TVは見ないのでオリンピックの中継なども基本的には見ない。
しかしニュースを見ると報道してゐる。
メダルを取つた人がゐると、くり返しおなじことを報道してゐる。
夕べ(だらう)は銀メダルを取つた人がひとり、銅メダルを取つた人がふたりゐたのだといふ。
めでたい。
めでたいのだが、頑張つてゐる人々の話をくり返しくり返し聞かされると、どんどん気が滅入つてくる。
なんで自分は頑張れないのか。

わかつてゐる。
オリンピックに出場するやうな世界でもその道では屈指の人々と我が身とを比べる方が間違つてゐるのだ。
わかつてはゐるけれど、たとへば今朝も電車の中で倒れた人がゐた。
ああ、この人も頑張つてゐる。
おそらく家を出る前から体調はよくなかつたはずだ。
不調を圧して出勤しやうとして、道半ばにして倒れてしまつた。
なんでそんなに頑張るのか。
なぜそんなに頑張れるのだらう。
ふり返つて我と我が身は。

などと考へてゐると、寒さもあいまつて暗い気持ちにしかならない。
たまたま Medium で「2018 Depression Olympics (revamped for Winter)」といふ記事を読んで、ちよつと気分が上向いたくらゐだ。

あみものやタティングレースをすると、落ち込んだ気持ちも上向くこともある。
毛糸が指のあひだを滑る感覚やつやつやとしたレース糸の輝きに気が紛れるのかもしれない。
針やシャトルを思つたやうに動かせるといふ一種の万能感がいいやうな気もする。

一方で、あみものやタティングレースをしてゐるとどんどん気持ちが落ち込んでいくこともある。
なぜ自分はこんなことをしてゐるのか。
なんでこんなに目がそろはないのだらう。
どうしてこれだけのことにこんなに時間がかかるのか。
さう考へ出すともう止まらない。
奈落の底へまつしぐらだ。

自分はほんたうにはあみものもタティングレースも好きではないのだらうと思ふのはかういふわけだ。

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Monday, 12 February 2018

メビウス・スカーフ試行錯誤

Seaweed Vest はなかなか進まない。
あまりに進まないので、メビウスマフラーを編み始めてしまつた連休だつた。
うまくいかないので三回ほどいたのでほとんど進んでゐないけれど。

Moebius Cowl in Progress

Cat Boldhi の Cashmere Moebius Cowl (Rav) をもとにしてゐて、これに Mercurial Moebius Cowl をちよつと加味したものにしやうとして試行錯誤してしまつた。

Mercurial Moebius Cowl はメビウスの輪の半分に分散増目、残りの半分に分散減目をほどこしたものだ。
増目側はひろがり、減目側はすぼまるので、ネックウォーマとして使ふなら襟元が閉ぢた状態にできるし、幅を広くとればケープのやうにもなる。
とても好きな形だ。

それにさらに裏表をつけやうとしてゐる。
メビウスの輪状に編むとき、たとへば半分はメリヤス編みにしてもう半分を裏メリヤス編みにすると、メリヤス編み側と裏メリヤス編み側とができる。
メビウスの輪のいいところは裏表がない点なのかもしれないとは思ひつつ、ここはちよつとゆづれないんだなあ。
裏表がないといふことは裏表がないやうに編む、裏表が気にならない柄で編むといふことだ。
でも Cashmere Moebius Cowl の模様はさうではない。
この Cowl はこれまで五枚ほど編んでゐるが、この点がいつも気になる。
身につけるときは半分に折ることも多い。さうすると表目側だけ見せることができるからだ。
今回は片側は広がりもう片側はすぼまるやうに編むので、半分にきれいに折れない。
それでちよつと工夫しやうと思つたわけだ。

糸はオリムパスのブランシェ。確かもう廃番になつてゐると思ふ。
毛九割モヘア一割のとても手触りのよい毛糸だ。
十玉購入して自分史上もつとも大きい三角ショールを編んだ。
そのあまりが三玉ある。
それで首回りのものを編まうと思つたわけだ。

春物や夏物のことを考へることができない。
この冬はここのところとても冷えるといふこともあるし、手元に毛糸がありすぎるからといふこともある。
去年もあまり春夏物は編まなかつた。パピーのピマデニムで夏用のスカーフを編んだくらゐかな。
今年の夏はモチーフを編みためるかくつ下を編んで過ごさうと思つてゐる。

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Friday, 09 February 2018

Bullet Journal 試行錯誤

一月から Bullet Journal への書き方をすこし変へてみた。
たとへば、Collection Log をいくつか作つてみた。
読書・芝居見物・映画・編んだものの履歴をそれぞれ取るやうにした。
本・芝居・映画については、Collection Log のあとに感想を書くやうにした。
この、感想を Daily Log とわけて書くといふのがどうもいけない。

やつてみる前はその方がいいと思つてゐた。
Daily Log の中に突然感想が入つてくると、日々の予定やタスクが見づらくなる気がしてゐたからだ。
また、感想が長くなるとあひだに Daily Log が入つたりなんだりしてページが飛ぶことがあるのも気になつてゐた。
綴じ手帳で Bullet Journal をやつてみるのならさうなるのも仕方のないことである。
だがやつがれはシステム手帳を使つてゐる。
システム手帳のよいところは、内容によつてリフィルやセクションをわけられる点にある。
これはやつてみない手はない。

さう思つて今年から感想は Daily Log とはわけて書くやうにしたのだが。
うーん、どうもしつくり来ない。

おそらく、Bullet Journal のよさの中には時系列である、といふこともあるのだらう。
読んだ本や見た芝居・映画もまた Daily Log の一環なのだ。
すくなくともやつがれにとつてはさうなのだらう。

Bullet Journal では各ページにページ数をふる。そのページ数を参照することでどこになにを書いたか把握できるやうになつてゐる。
感想セクションを別にもうけて、Daily Log には感想セクション内のページ数を書くやうにしてゐたのだが、これもしつくりこなかつた。
多少予定やタスクが見づらくなつても感想は Daily Log 内に書く。
見づらくならないやうにタイトルの書き方を工夫するやうにする。
これで二月はやつていかうと思つてゐる。

読書録や観劇録は別のノートに書くといふ手もある。
以前はさうしてゐたこともあつて、ずいぶんつづいたこともあつたけれどいつの間にか記録は絶えてしまつた。
Bullet Journal はこの二月で三年目に入る。
ずつとつづいてゐる。
なんでもひとつの手帳に書く、時系列に書く、といふのが自分にはあつてゐるんだらうな。

あとはもうちよつと日々のメモを充実させたいところだ。
今月も Bullet Journal の試行錯誤はつづく。

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Thursday, 08 February 2018

読書の効用など

十一月に飯田に行つたときに、「読書をする学生の論文は論文の体裁を為してゐるが、読書をしない学生の論文はコピー&ペーストだらけで最後に申し訳ていどに自分の感想かが書いてあるだけといふことが多い」といふやうなことを云つてゐるテレビ番組を見た。
「林先生が驚く初耳学」とかいふ番組だつたかと思ふ。
筑波大学の情報系の研究室での調査結果だといふ話だつた。

この番組ではいくつもの内容を扱つてゐて、この調査結果も詳しく放映されたわけではない。
「論文には構成があつて、本を読む習慣のある人はそれを自然と身につけてゐる。なので「この人の考へを土台にしてあの人の考へを屋根にしてちよつとつけ足す」といつた具合に論文を組み立てることができる」といふ話があつた。本を読む習慣のない人には論文の構成が身についてゐないのでうまく書けない、といふことなのだらう。

しかし、ほんとかな。
論文には構成がある、といふのはそのとほりだと思ふ。
かういふ順番で書く、といふきまりがあつて、それを学べば読書の習慣如何に関はらず書けるんぢやないかな、と思ふのだが、甘いだらうか。
もちろん、達意の文章の書けない人といふのはゐて、それはまた別の話だ。
本を読んでゐればさうした文章が書けるかといふ話とはまた別の気がする。杜甫は詩はすばらしいけれど文章はなに云つてるのかわからない、と杜甫選集だかで読んだ記憶がある。杜甫が本を読まなかつたとは思へないので、さういふこともあるのだらう。

また、コピー&ペーストばかりの論文(それを「論文」と呼ぶとして)を書くのは読書をしない学生ばかり、とはこの調査結果からは云へない。
実際の調査にはもつと細かい決めごとがあつて、結果ももつと細かく書いてあるのだらう。
テレビ番組でとりあげるから、わかりやすい部分だけ放映されたのに違ひない。

とはいへ、なるほど、読書にもさうした効用があるのだな、とは思ふ。

昨日、「読書の効用、とくに小説や物語を読む場合の効用として、自分以外の人間の気持ちや立場を理解できるやうになる」といふことをあげた。
もしほんたうにさうなら、世の中の人は小説や物語を読まない人ばかりなのだな、と思ふ。
通勤電車に乗つてゐるととくにさう思ふ。
無論、「自分以外の人間の気持ちや立場のわからない」やうな人ばかりが目立つので、それでさう思ふのかもしれないが。

読書の効用はそれだけではなく、文章の組み立て方が自然と身につくといふこともある、と思ふと、ちよつといいやうな気がする。

まあでも、実際は「効用」なんぞを考へずにただただ読むのが楽しくていいやうな気がするがな。

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Wednesday, 07 February 2018

「こころ」再読

夏目漱石の「こころ」はマウンティング小説だといふ記事を見かけた。
リンクはしない。
「夏目漱石 こころ マウンティング」でWeb検索をかければ出てくることと思ふ。

「こころ」は高校生のときに読んだ。
国語の教科書に一部が抜粋されてゐて、残りは各自読むやうにといふことになつてゐた。
親の「漱石全集」の「こころ」を手にした。

このとき授業で国語の教師が「Kには落ち度はないのか」といふ問ひを発した。
この問ひとその答へばかりが印象に残り、あとのことはよく覚えてゐない。
あー、でも同級生たちが「馬鹿だ。ぼくは馬鹿だ」とか云ひあつて遊んでたりはしたなあ。
教室には修学旅行のをりにだれかが買つてきたとおぼしきちいさな虎の置物の「小李徴(コリチヨウ)」もゐた。
いまはなにもかも懐かしい。

そんなわけで読み返してみるか、と思つたのだが、もしかしてこの「「こころ」の賞味期限は切れてゐる」「男同士のマウンティングを描いた小説である」といふインパクトの瞬間ヘッドの回転するやうな話つて、いはゆる「ステルス・マーケティング」といふアレなのではあるまいか、といふ疑念が脳裡をかすめた。

しかし、「こころ」である。
漱石だ。
いまさら「ステマ」とやらでもあるまい、といふので、青空文庫の「こころ」を読み返すことにした。

…………こんな話だつたつけか。
「先生」と「私」との出会ひはおぼろげながら記憶にあるものの、そのあとの「先生」の奥さんに会つたりだとかなんだとか、教科書に載つてゐなかつた部分は「えー、さうだつけかー」の連続だつた。
新鮮な気分で読めたともいへる。
さすがに「先生」の手記の部分はもうすこし記憶に残つてはゐたものの、前半はほとんど覚えてゐなかつた。
墓石に掘られた漢字が西洋人の名前にむりやりあてたもの、みたやうなどうでもいいことは覚えてゐたりする。
漱石、読み直してみるかなあ。

読んでゐて思つたのは、自分は「マウンティング」といふものがどういふものだが理解してゐないといふことだ。
「こころ」には「もしかして、かういふのが「マウントを取つてゐる」やうに見えるのかな」といふやうな部分もないわけぢやないけれど、なんだかよくわからないのだ。
さういへば、先日NHK教育の「ねほりんぱほりん」といふ番組でいはゆる腐女子のことをとりあつかつたときに、「腐女子のマウンティング合戦」とかいふ感想があつて、「え、どこらへんがさうだつたの?」とふしぎに思つたものだつた。

「こころ」がマウンティングを描いた小説なのかどうかなどわかるはずがないのだつた。

読んでゐてショックだつたのは、「先生」の覚えたであらう衝撃を覚えることができなかつたことだ。
「先生」は絶対この上ないほどの衝撃を受け、ほとんど立ち直れない状態になつただらうと思はれる場面があつた。
でもなぜかその実感が薄い。
「先生」の気持ちにならうとすればならうとするほど衝撃が遠のいてゆく。

物語や小説を読むことの効用として、「他人の気持ちがわかるやうになる」といふのがあるといふ。
そんなことを考へて本を読む人もなからうが、いはれてみれば、自分とは一切関はりのない人物たちのあれこれを描いた文章を読むことは、自分以外の人間の気持ちはともあれ事情や状況を理解しないことには読めないとは思ふ。

でもなあ、あのとき、自分はただの傍観者で、単に記録を淡々と読んでゐるだけ、といふやうな、むなしい気持ちになつてしまつたんだよなあ。
また日をあらためて読めばそんなこともないのかもしれないけれど。

「こころ」は全然覚えてゐなかつたし、読んでゐておもしろかつた。
これだけ覚えてゐないと、昔一度読んだきりの小説はみな新鮮におもしろく読めるのではあるまいかといふ気がしてくる。
新刊を読んでゐる場合ぢやあないのかもしれない。

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Tuesday, 06 February 2018

夏はモチーフ編み

ノールビンドニングをするやうになつてからといふものタティングレースにはほとんど手をつけてゐない。
このまましなくなるのではないかといふ気もするが、あたたかくなつてきてノールビンドニングの編み地の暑さに耐へられなくなつてきたら自然とタティングレースに戻るのではないかと思つてゐる。

ところで、この夏はモチーフつなぎに挑戦してみんやうかと思つてゐる。
モチーフつなぎといつても、つなぐのは涼しくなつてからにする。
夏のあひだはひたすら小さいモチーフを編みためる。
さういふことにしてはどうかと思ふのだつた。

モチーフつなぎが苦手といふことはここにも何度か書いた。
挑戦しては挫折のくり返しだ。
できあがつたものもあるけれど、小さいものばかりで、大きいものは極わづかしかない。
なぜモチーフつなぎがうまくいかないのか。
糸端の始末が苦手だからだ、と、これもつとに書いてゐることである。
それともうひとつ、あみものにしてもタティングレースにしても、ちいさいものをいくつも作るより延々と編み結ぶものが好きといふことがある。
どうやら糸端の始末云々よりもこちらの方が原因としては大きいやうだ。

あみものにドミノ編みといふ技法がある。
四角形を編みながらつないでいくもので、一見モチーフつなぎのやうに見えることもある。
ドミノ編みは編み方によつて糸を切らずに延々編んでいける場合と四角形ひとつ編むごとに糸を切りながら進む場合とある。
やつがれは圧倒的に前者を好んでゐる。
ドミノ編みを輪に編む場合、糸を切りながら編み進むことが多いのだが、これできちんと編めたのつてベレー帽くらゐなんぢやないかなあ。
手提げのやうなものを編まうとして放置してある。

おそらく、やつがれのやうな嗜好のあみもの好きがゐたのだらう。
一見モチーフつなぎだが連続して編める方法を編み出した人がゐる。
タティングレースでもできるだけ糸を切らずにドイリーを作る方法がある。
どうもやつがれは少数派ではない模様だ。

モチーフ編みのなにがいいかといふと、小さいものを作りためておいてあとでつなげて大きくできるといふことだ。
ちよつとした空き時間にひとつまたひとつとモチーフを作り、まとまつた時間のできたときにつなげる。
いいぢやあないか。

といふわけで、この夏はあみものでもタティングレースでも小さいモチーフを作りためてあとでつなげることを考へてゐる。
なにかいいモチーフはないかなあ。

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Monday, 05 February 2018

カシミヤだとか麝香牛だとか

Seaweed Vest をせつせと編んでゐる。

Seaweed Vest in Progress

Brave New Knits」に掲載されてゐるヴェストだ。
裾からわきの下まで輪で編み、わきの減らし目から前後にわけて編むやうになつてゐる。
その輪編みの部分をまだ延々と編んでゐる。

模様は12段6目で、三回くらゐくり返したところでそれとなく模様が見えてきた気がする。
表目と裏目とだけで編む模様で、1目だけどの段も表目の目が自然と左右にうねるのがおもしろい。
灰色だから「海藻」といふ感じはしないが、おもしろい模様だと思つてゐる。

ところで寒い。
四国などでも雪の降る寒さだといふ。
四国といふと、あたたかいところといふ印象がある。
小学校の地理の時間に「香川県は温暖で雨が少なく、水不足にそなへてため池がある」とか「高知県は冬でもあたたかいので二毛作がさかん」とか習つたせゐに違ひない。
徳島県と愛媛県とは個別に学んだ記憶がないが、根拠もなく「あたたかいんだらう」と思つてゐた。
それが寒いのらしい。

寒くなると自分で編んだものを出してきて身につけてみる。
いやー、カシミヤに限りますな。
あと、麝香牛の毛。
我が家にあるものではこのふたつがダントツで暖かい。
なんでも麝香牛の毛は羊毛の八倍あたたかいといふ話だ。
どうやつて計測するのか知らないが、なるほど、身につけてみると羊毛の毛で編んだものの比ではない。
なにしろ麝香牛の毛で編んだものは編み地が薄い。なのにあたたかい。これはカシミヤも同様だ。
さうしたらさあ、あとはもうこれで編むしかないんぢやない?
さう思へてくる。

いまも、カシミヤで編んだストールを巻いた状態でこれを打つてゐる。
「助け人走る」を見ながらせつせと編んだ長いストールだ。
合太相当の糸でレース模様を編んでゐて、編み地は結構薄いしレース模様なので穴もあちこちにある。
しかしあたたかい。

編み地が薄くて済むといふことは、糸もそんなにたくさんは使はないといふことだ。
すなはち仕上がるものは軽くなる。
セーターなどを着て「重たくて肩が凝る」といふ話を聞くが、カシミヤで編めばまづそんなことはあるまい。
問題は、カシミヤの糸は高価でさうさう手に入れることもできない、といふことか。

などと考へつつ、羊毛を紡いだ毛糸でヴェストを編んでゐる。
カシミヤや麝香牛と比べるから悪いのであつて、羊毛だつてあたたかい。
それに編みやすい。
カシミヤや麝香牛の毛を紡いだものに比べて糸に弾力があるからだらう。

二月いつぱいは寒いのらしい。
そして三月は長期予報によると例年よりあたたかいといふ。
今月中に仕上がるかなあ。
仕上がらない気がするなあ。
それでも袖のないヴェストだから、まだ出番はあるかな、と思つてゐる。

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Friday, 02 February 2018

Kindle で読むと目が滑る

Kindle で本を読んでゐると、画面の上を目が滑る感じがする。

さういふ研究結果があるのださうだ。
Solitudeで知つた。
電子デヴァイスで文章を読む場合、アラームを切り通信を遮断してゐても、推測した結果を導き出したり理論的に考へたりする力が落ちるのらしい。
PCで文書を作成する際、必ず紙に印刷して誤変換や誤表記を確認しろ、といふのも、根拠のないことではないやうだ。

Kindle で読んだ和書は酒見賢一の「陋巷に在り」の数巻と、池波正太郎の「真田太平記」の数巻、山田風太郎、神林長平がそれぞれ数冊、あとは中島敦、芥川龍之介、坂口安吾が数点といつたところか。
過去に読んだことのあるものばかりだ。
Kindle でしか読んだことのない和書は「訓読みの話」くらゐだと思ふ。
紙の本で読んでゐたら「これはいい表現だなあ」「いきな云ひまはしだ」などと感じるだらうところも、Kindle で読んでゐるとするつととほりすぎてしまつてゐるのぢやあるまいか。
実は伏線がはられてゐたところを気づかずに読み進めてゐるのぢやあるまいか。
そんな気がしてならなかつた。

ところで、去年読んで一番おもしろかつた本は Nabokov's Favorite Word Is Mauve で、これは Kindle で読んだ。
また、「二都物語」は日中仕事をしてゐてもつづきを読むのが楽しみで仕方がなかつた小説で、これも Kindle で読んでゐた。
どちらもハイライトを引いた部分も多く、メモの打ちづらい Kindle であれこれ書き込んだ部分もある。

つまり、紙の本で読むときとそれほど遜色なく読めてゐたといふことではあるまいか。
Kindle で読んでもそれほど目の滑る感覚を覚えることなく読める本もあるといふことだ。

サンプルが少なすぎて断定はできないが、おそらく外国語の本を読んでゐるときにさういふ状態になるのだらうと思ふ。
外国語なのでよく読まないと理解ができない。
よく読んでも理解ができないともいへる。
それをできるだけ理解しやうと思つて読むので、電子デヴァイスで読んでもそれほど目が滑る感覚を覚えずに読めるのぢやああるまいか。
もしかしたらいまではさういふ研究結果もあるのかもしれない。

といふわけで、自分にとつては Kindle では洋書を読むのがいいといふことになる。
Kindle はもともとさういふ用途に向いてゐるといふ。
わからない単語を選択すれば辞書が意味を教へてくれるし、Word Wise といふ機能もある。

でも、できれば日本語の本も読みたい。
いま読んでゐる「ドッキリチャンネル」などは700ページを超える大部で、電書だったらもつとかるくてすむのに、と思つてしまふし、「陋巷に在り」とか「真田太平記」とかまだ読み終へてゐない物語もある。
なんとかして、洋書を読むときのやうな感覚を和書を読むときにも取り入れることができないだらうか。
日本語がわからない気分になつて読めばいいのかな。

今年の課題がいま見つかつた。

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Thursday, 01 February 2018

病中歓あり

インフルエンザにかかつてしまつた。

日中、どうにも悪寒がする。
冷えのぼせかもしれないと思ひつつ帰宅して熱をはかつたところ38.3度あつた。
翌朝はかると37.8度だつた。
いやな予感を抱へつつ医者に行くとインフルエンザA型だと診断された。
その場でイナビルといふ薬を処方されて吸引し、それで終はつてしまつた。
熱はその日のうちにほぼ下がり、寝る間際に37度をちよつと越えはしたものの、もらつたとんぷくは37.5度以上のときに飲むやうにと云はれたので、そのまま飲まずに過ごしてゐる。
今日はずつと36度前後なので、熱はさがつたやうだ。

インフルエンザにはかかつたことがない。
もしかしたらあるのかもしれないが、さう診断されたことはない。
何年かに一度38度を超すやうな熱を出すことがある。
でもとくにインフルエンザと云はれたことはないんだよなあ。
前回高熱を出したのは職場でのことだつた。
その日の朝、職場のある建物の一階にあるコンビニエンスストアで昼食を求めたとき「今日はおなかが空いてゐるからちよつと多めに買はう」と思つた。
ところがエレヴェータに乗つて自分の席についてみるとなんだかをかしい。
あれよあれよといふ間に具合が悪くなつて、いまからでは午前の診療時間には間に合はないと判断して午後一番で医者にいくと、40度近い熱があつた。
昼食にと買つたものはこのときはまつたく食べられず、持ち帰つて薬を飲む前に仕方なくすこし食べた。
このときもインフルエンザとは云はれなかつたし、処方された薬も多分インフルエンザの薬ではなかつたやうに思ふ。

高熱を出すのは、欲求不満のたまつたときだ。
おそらくさうなんではないかと思つてゐる。
欲求不満といはうか、睡眠不足の果てのことのやうに思ふ。
まあ、欲求不満ではあるか。睡眠不足といふことは眠りたいのに眠れてゐないといふことだものな。
そのせゐか、熱の下がつたあとに妙に爽快な気分になることもある。

今回はどうかなあ。
今回は、熱はあるのに頭はそんなにぼんやりしなかつた。
普段からぼんやりしてゐるから、といふ話もあるが、また同時に目も疲れてはゐない。
いつもだつたらPCやスマートフォンを見るのもイヤになるくらゐ目がやられてしまふのだが、今回はさうしたことがない。
なにしろ医者に行くにも岩波文庫から出たばかりの「文選」を持つて行つて読んだくらゐだ。
多分、傍から見たらどこもをかしくないやうに見えたのに違ひない。
常に元気のないやうすだから余計にさう見えたらう。

おかげで、休んでゐても退屈せずに済んでゐる。
図書館から借りてきて、貸出延長をしても読みきれないかと思つてゐた森茉莉の「ドッキリチャンネル」をせつせと読み、時折寝る。

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1月の読書メーター

1月の読書メーター
読んだ本の数:8
読んだページ数:1830
ナイス数:32

若手歌舞伎若手歌舞伎感想
昔の「演劇界」の劇評などを読むと「かくかくしかじかの所作はこの役の性根と違う」などという話が出てくる。自分が芝居を見るようになってからの劇評ではあまり見たことのない指摘で「最近の劇評家はそういう見方はしないのかなあ」と思っていた。どうやらそうではないらしいことがこの本の「跋」に述べられている。若手役者の評、近年上演された芝居の評が多く、読んでいて思い出しやすいところが大変いい。想定読書層もまちつと若い層を狙うとなおよかったかと思うが、若い層は劇評など読まないとの判断だろうか。
読了日:01月02日 著者:中村 達史
How To Think: A Guide for the PerplexedHow To Think: A Guide for the Perplexed感想
ヒトの脳は考えることを忌避するのだという。面倒だからだ。それでも考えようとする人は異端なのではないかなあ。「人間はひとりで考えることはできない」という話が書いてあるというので読んでみた。先にカーネマンを読んでおくべきだったかもしれない。
読了日:01月10日 著者:Alan Jacobs
あのころ、早稲田であのころ、早稲田で感想
「「日本のローザ・ルクセンブルク」と呼ばれた」と「ウテナさん祝電です」の著者紹介にあったことを鮮明に覚えている。この本にはそんな姿はまるで見えない。「戦後民主主義の中で育ってきた」とあるのを読むと、戦後民主主義というのは戦中以前のことはすべてダメだったとするだけでものの本質はそのころとまったく変わっていなかったのではないかという気がする。
読了日:01月11日 著者:中野 翠
慶應志木高校ライブ授業 漢文は本当につまらないのか(祥伝社新書)慶應志木高校ライブ授業 漢文は本当につまらないのか(祥伝社新書)感想
題名が惜しい。おもしろいと思う人もいればそうでない人もいるし、おもしろいものもあればそうでないものもあるというのが実のところなのではないかと思うからだ。生徒たちが段々白文を読めるようになっていく様がおもしろいと思った。こういう授業を受けられる人もいるんだな。うらやましい。
読了日:01月14日 著者:橋本陽介
統計学が最強の学問である統計学が最強の学問である感想
Excelを使ってちょっといろいろやってみようかな、と思った。内容とは関係ないけれど、紙質のせいでページがめくりづらくて難儀した。廉価にして大勢に読んでもらおうということなのだろうけれども。
読了日:01月17日 著者:西内 啓
精神の政治学 (中公文庫プレミアム)精神の政治学 (中公文庫プレミアム)感想
昨今スマートフォンの使用を控えネットに接続する時間を減らそう、そうすることで自分本来の時間を取り戻そうなどという説を目にするけれど、そんなことは、ほかのたいていのことがそうであるように、昔から云われていたんだな。
しかし、人間はその技術の進歩に見合った精神状態にあったことがあるのだろうか、とも思う。それと、この講演を聞きにきたのはどういう人で、どういう反応があったのかも気になるなあ。
読了日:01月20日 著者:ポール・ヴァレリー
史上最悪の英語政策—ウソだらけの「4技能」看板史上最悪の英語政策—ウソだらけの「4技能」看板感想
中高六年間といえど週に三〜五時間の授業では一年間で五.八日間にしかならない、という主張には「それじゃあできるようにはならないよね」とは思う。「英語、できるようになりたいけど、でも(英文法とかは)違うんだよね」という発言に違和感を覚えていたのだが、「そういうことだったのか」という指摘もある。
しかし、ことばのことを書き文章の書き方について云々しているわりには誤変換を超えた誤表記がある(普段そういうことにあまり気づかない質なのだが気がつくレヴェル)のが残念。
読了日:01月24日 著者:阿部公彦
朱子学と陽明学 (岩波新書 青版 C-28)朱子学と陽明学 (岩波新書 青版 C-28)感想
「暗闇仕留人」でナックル星人……ぢやなくて成瀬昌彦が「論語集注」を読んでいるのを見て気になっていた朱子学。基本書として勧められて読んでみたが、学校の世界史でやった「宋 朱子学 性即理」「明 陽明学 心即理」ていどの知識ではとても太刀打ちできなかった。仏教や道教の影響のくだりはしかし読んでいておもしろかった。李卓吾の場合は回教の影響ももっとあったのではないかと思うが、そこは紙幅が許さなかったのか。
読了日:01月31日 著者:島田 虔次

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