solitude実践
昨日は、午前九時台から午後九時台まで、cyberspace には行かないやうにしてゐた。
Solitude といふ本を読んだからである。
これまでも、休日の一日一歩も外に出ず、誰とも会はず話さずに過ごすことといふのはあつた。
しかし、さういふ日も、MacbookやiPhoneからネットにアクセスはしてゐた。
Twitter を眺めてときに呟き、ちよつと疑問に思つたことは即Web検索するなどしてゐた。
それは solitude とはいへない。
本を読むとどうもさういふことらしかつた。
loneliness と solitude とは違ふものである。
日本語に訳してしまふとどちらも「孤独」といふことになる。
loneliness は孤独であることを否定的にとらへる際に使ひ、solitude は孤独であることを楽しむ際に用ゐる。
Solitudeからはさう読みとれた。
たぶん、自分は「孤独」を「solitude」と呼べる方だと思ふ。
大型連休になると二日くらゐは誰とも会はないこともある。
それで痛痒を感じることはない。
むしろ、積極的に誰とも会はない状況を作らうとすることもあるくらゐだ。
三日にしないのは、出かけないと足が弱るからだ。それでなくても体力は衰へがちである。
今回も二日にしてみやうとしてやめたのは、歩きに行かないと体力がつかないと思つたからだ。
半日通信を絶つてなにか特別なことをしてゐたかといふと、そんなことはない。
いつもひとりで過ごすときと同じやうに、酒を飲みながら本を読み、録画を消化し、ときに手帳や情報カードにあれこれ書き付ける。
いつもしない特別なことといつて、出しそびれてゐた年賀状を書いたことくらゐだ。
いつもなら本を読んだり録画を見たりしてゐるときに「これだ!」と思ふことがあると呟いてゐたところは、紙に書き記してみた。
最近は、呟かうかなと思つても、とりあへず手帳に書いてみて、それで満足したらそれまでといふことも多い。
そんなわけで、通信を絶たうが絶つまいが、やつてゐることはおなじで、とくに不都合は感じなかつた。
とくにいまどうしても「これを知りたい!」といふことに出会はなかつたからかもしれない。
あつたらやきもきしたかもしれないな。
これからも誰とも会はない日を作るつもりでゐる。
なんかわかんないけど、さういふ日が必要なんだよ。困つたことに。
でも、そのときに通信を絶つかどうかはわからない。
今回やつてみてあんまりいつもと変はらない気がしたからだ。
半日と云はず、朝起きてから夜寝るまでアクセスしなかつたら違ふのかなあ。
機会があつたら試してみるか。
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