本当には必要ではないこと
結局、英語は必要ないといふことなんだな。
以前「日本人の9割に英語はいらない」を読んだときもさう思つたし、「日本語が亡びるとき」を読んだときもさう思つた。
そのことについてはここにも書いてゐる。
今回「史上最悪の英語政策」を読んだときもさう思つた。
必要なら覚える。
必要なら使へるやうになる。
しかるにできないといふことは、必要ないからだ。
この三冊に共通してゐるのは、乱暴にまとめてしまふと、「基本的な対人能力のないものに英語での会話はムリ」といふことなのだと思つてゐる。
たとえば、「史上最悪の英語政策」に出てくる「パーティの場などで英語で話すことができない」だ。
日本語でなんとかなるのは、日本が高文脈文化だからだ。
低文脈文化の中にはふりこまれたら、それなりの対応をするものだ。
パーティなら事前にどのやうな人々が出席するのかわかる場合もある。
さういふときは、予めあたりさはりなく話せるやうな話題を仕込んでおくものだ。
さもなければ、直接会話をしながら無難な話題を探る必要がある。
本に書かれてゐることはさういふことだと思ふ。
さういふ準備や能力なしには、文脈を異とする人々とのパーティでぺらぺら喋れたりはしないものだ、と。
さういふことがしたいのなら英語の実力とは別の力が必要だといふことだ。
成毛眞や水村美苗の云つてゐることは少し違つて、必要のない勉強をするくらゐなら日本語の良書をたくさん読め、である。
まとめかたが乱暴で恐縮だ。
でも、要するに「英語を勉強する以前に必要なことつてあるでせう」といふ話だと思つてゐる。
「史上最悪の英語政策」の著者・阿部公彦は、英語は必要なものではなく、あつたらうれしいといふ贅沢なものだ、といふ旨のことを述べてゐる。
なるほどなあ。
もうひとつなるほどなあと思つたのは、中高六年間英語を学んできて喋れるやうにならないといふ説に対する反論だ。
公立校では週に英語の授業は三〜五時間だといふ。
一年間で五.八日間ていどださうだ。
予習復習を含めても一年間に十日あるかないかだらう。
それで英語ができるやうにならうといふのは、そらまあムリだよな。
私立校には英語教育にもつと時間を割いてゐるところもあらうとは思ふ。
さういふ風にして格差がひろがつていくんだらうな。
個人的には、必要ないから楽しいんぢやん、と思ふのだが。
受験生ともなるとそんな余裕はないだらう。
とはいへ、受験勉強にも楽しみがあつてもいいとは思ふので、といふか、やつがれ自身は受験勉強をしてゐたころは世界史のノートを作るのが楽しくて楽しくて仕方がなかつたのだが、さういふ感じで英語を学習するといふのもいいとは思ふんだけれどもね。
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