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Friday, 29 December 2017

今年読んだ本 2017

今年は八十冊ほど読んだのらしい。
何年か前は、「一月に五冊読む」といふ計画をたててゐた。
たてなくなつて久しい。
でもまあ、それくらゐは読むのだらう。

予定をたててゐたころといまとではなにが違ふことがあるのか。
たとへば、今年の四月は三冊しか読んでゐない。
でも予定をたててゐないので別段問題はない。
予定をたててゐたころは、なんとかしてあと二冊読まうとしてゐた。
予定をたててゐなくても、最終的な月平均はほぼ五冊。
予定をたてなくても読めるやうになつたといふことか。
あるいは、もともと予定なんぞたてなくてもこれくらゐは読むといふことなのか。

今年は久しぶりに電車を乗り過ごすかと思ふやうな本に出会つた。
Nabokov's Favorite Word Is Mauveである。
この本は、電子化された古今の名著をもとにどの作家・どの本でどんな単語が使はれてゐるか統計をとり、それについてあれこれ述べてゐる本だ。
これまで生きてきて、本がおもしろかつたので電車やバスを乗り過ごしたことは一度しかない。
地図帳を見てゐるときだつた。
それ以来のできごとだつた。
データが並べてあつて、そこからいろいろ妄想をめぐらせることのできる本が自分は好きなのらしい。
地図帳も似たやうなものだ。
この本を読んだあと、Lolitaも読んだ。
云はれてみると確かに「mauve」が何度か出てくる。
ナボコフといへば今年は「アーダ」の新訳が発売された。
これにもやつぱり「mauve」がたくさん出てくるのか知らん。

今年は再読した本も多かつた。
中でも「二都物語」は乗り過ごしはしさうになかつたものの、仕事中など読書を再開するのが待ち遠しい気分でいつぱいの本だつた。
多分再々読くらゐだと思ふ。
Nabokov's Favorite Word is Mauveを読んだあとだつたからだらうか、ディケンズの文体のリズムといはうか調子といはうか、読んでゐてとても心地よかつた。
もちろん話の内容もおもしろい。

Nabokov's Favotie Word is Mauveの前段にはThe Secret Life of Pronounsといふ本があつた。
これは代名詞や冠詞といつた普段はあまり着目されない品詞をどれくらゐどのやうに使つてゐるかについて統計をとり、あれこれ述べた本だ。
著書James Pennebakerは大統領選挙などのdebateや就任演説で各候補者や大統領の使用した単語の統計を取つて分析してゐたりする。大学の研究室でやつてゐるのかな。そんな感じ。
これがいつもおもしろい。きちんと読んでゐるわけではないが、更新されるたびに見にいつてゐる。
英語だと単語の切れ目がわかりやすいから統計もとりやすからう。
日本語でも似たやうなことを研究してゐる人がゐるらしいので、できたら読んでみたい。

なんとなく、以前よりも楽しく本を読めるやうになつてきた気もする。
予定をたてないやうになつたからかもしれないし、上にあげたやうな本や「読んでいない本について堂々と語る方法」や「文学の楽しみ」、「わかったつもり」などのおかげのやうな気もしてゐる。

来年もこれといつて予定をたてるつもりはない。
自分なりに楽しく読んでいけたらいいなあ。

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Thursday, 28 December 2017

今年見た芝居から 2017

この一年見た芝居をふり返つて、今年はどうも「これ!」といふものがない。

代はりに、いまさらながらあらためて劇団の力といふものを感じたことだつた。
五月と十月の菊五郎劇団には感じ入ることしきりだつた。
とくに五月ね。

菊五郎劇団にはこれといつて好きな役者がゐるわけではない。
中村時蔵は好きだけれど、萬屋は丸本の役者だと思つてゐるので、あの劇団で演じる役は必ずしも本来の役ではない気がしてゐる。
実際のところはどうだか知らないけれども。

尾上菊五郎はいい役者だな、とは思ふ、と以前ここにも書いたやうに記憶する。
見るたびにいい役者だなと思ふしいい男だなとも思ふ。
思ふが特別好きになつたりはしない。
これは昔からずつとさうで、きれいな女方だつたときもいまもさうだ。
菊五郎が好きだつたら観劇人生はもつと楽しいものだつたらうな、とも思ふ。
いまだと菊之助もかな。今月の国立劇場もよかつたよね。

悪いとは思はないし、どちらかといふといいなと思ひつつ格別好きといふわけではない。
でも、考へてみたら、いままで人から「歌舞伎を見てみたいんだけど」と云はれてつれていつたのはいづれも菊五郎の弁天小僧の「浜松屋」だつた。

やつがれは世話よりも時代の方が圧倒的に好きで、黙阿弥よりも南北の方が圧倒的に好きだ。
にも関はらず、はじめて歌舞伎を見に行く人を「浜松屋」につれていくといふのは、「これぞ歌舞伎」と思つてゐるからだらう。

とにかくなにもかも洗練されてゐる。
この間でなければならないといふどんぴしやの間ですべてが運ぶ。
そして舞台面がうつくしい。

菊五郎は絶妙な間のなんたるかを知つてゐる役者だ。
おなじ役をほかの役者がやつてゐるのを見ると、ほんの少し、たぶんにわづかばかりのバタフライ・エフェクトが発生したかのやうな違和感を覚えることがある。
おそらくちよつとばかり間が違ふだけなのだ。

そしてその絶妙な間をまはりが受け、また菊五郎が受ける。
芝居を見てゐるあひだはそんなことはまつたく感じないけれど、水も漏らさぬやうな完璧な応対なのだらう。
それは劇団といふシステムゆゑに成り立つてゐるのぢやあるまいか。

おなじことは近年の播磨屋の芝居にも感じる。
中村吉右衛門のところは劇団ではないけれど、ほぼおなじ面子で芝居が組まれてゐて、これが絶妙に機能してゐる。
一月の「沼津」しかり、九月の「逆櫓」しかり、今月の「御存梅の吉兵衛」しかり。

今月といへば「蘭平物狂」もあれは劇団の力だらう。
いままで「蘭平物狂」は菊五郎劇団か猿之助劇団でしか見たことがない。
右團次襲名のときにやらないかなと期待してゐたのだが、右團次自身が年を感じたのか劇団の応援を頼めなかつたのか、それはよくわからない。
やらないと次代に継承されづらいので、襲名より前のどこかの時点でやつた方がよかつたんぢやないかなあと思ふが、大きなお世話か。

猿之助劇団も「ワンピース」ではその力を存分に見せてゐたのだと思ふが、残念ながら席が取れずに見に行かれなかつた。
来年はなにか古典の作品で大立ち回りのあるやうなのを見せてくれないかなあと、これも毎年思つてゐるやうな気がする。

「これが好き!」といふ熱狂に突き動かされることなく、全体的に悪くいへば無難にまとまつてゐるやうな芝居をよしとする自分は、もう歌舞伎のことなんかそんなに好きではないのかもしれない。

とはいへ、熱狂的に好きといふわけでもないものがいいと思ふといふことは、さういふものも見に行かないと自分にとつていいものを見損ねるといふことでもある。
でもまあ来年はもうちよつと気楽に見に行けたらな、と、これまた毎年思つてゐることなのだつた。

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Wednesday, 27 December 2017

こんなことをしてゐる暇に書けばいい

年賀状は一枚も書けてゐない。
はがきは買つてある。
誰に出すかといふ選別からしなければならない。

この年末年始の休みをどう過ごすかは、だいたい決めた。
その中に年賀状に関する記述が一切ない。
いいのか、そんなことで。

例年、休みに入る前に土日のほかにもう一日休みがあつて、その休みに年賀状を書くやうにしてゐたのがいけないんだらうな。
今年は天皇誕生日が土曜日で、休みは土日しかなかつた。
いつもの「もう一日」がなかつた。
それで書く機会を逸してしまつたのだ。

暦のせゐにするのはどうよ、とも思ふが、十二月と一月とは観劇三昧で忙しい。
毎年十二月になると「もつと芝居見物の回数を減らさう」と思ふのだが、どうにもままならぬ。
敢へて減らさなくてもそのうち否が応でも減らさねばならぬときがくるのだがら、それまでは、といふ気もしてしまふ。

云ひ訳ならいくらも出てくるんだがな。
そんなことをやつてゐるうちに書けばいいのだが、書けない。
なぜ書けないのかといふと、書きたくないんだな。
年賀状を書くには人生は短すぎる。

いつそもう書くのはよさうと毎年思ふ。
やめられないのは芝居見物とおなじである。
芝居見物の方は「喉元すぎれば熱さを忘る」的なアレだが、年賀状の方は浮き世の義理的なアレだ。

なにかないだらうか。
年賀状を書かなくて済むやうな理由が。

それを探すくらゐなら書いた方が早い気はするのだが、さて。

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Tuesday, 26 December 2017

さえんなぁ

今年タティングレースではこれといつたことをしてゐない。

ショールはつなぎ間違へ多発ではふつてある。たぶん、続きは作らない気がする。うまく使へさうなところまでを完成として、またランナーとかかな、と思つてゐる。

その後作りはじめたポーチにするつもりのものは途中でとまつてゐる。
立体につながうとしたところまで、かな。
夏のあひだ昼休み後半になると照明が消へてしまふといふ難事があつて、やめてそのままだ。
これはつづけるかな。
しかし立体につなぐと整形が大変といふことに気がついてしまつたので、もしかすると放置してしまふかもしれない。

タティングレースをしないでなにをしてゐるのかといふと、ノールビンドニングだ。
ノールビンドニングをしてゐるとニードルタティングをしたくなることがある。

どうも世の中にはシャトルタティング派とニードルタティング派といふものがあつて、互ひに相容れない感じのするところがある。
たまたま反発し合ふ人々が目立つてしまつてゐるだけだとは思ふけれど。

以前ここにも書いたやうに思ふが、やつがれはシャトルもニードルも好きだ。
どちらも手の動きが好きなのだつた。
ニードルは針に糸のかかつてゐるあひだはほどきやすいのもいいと思ふ。シャトルだとかうはいかない。
ただ、ニードルの場合、スティッチの中に芯糸が二本とほることが多く、シャトルに比べると繊細さに欠ける場合があつたりはする。
それと糸の太さによつて針の太さも変へる必要がある。シャトルだとシャトルに巻けるならどんな太さの糸でもひとつでまかなへるんだよね。

それと、やつがれの手加減の都合だと思ふけれど、シャトルにくらべて仕上がりがやはらかい気がする。これは好き好きで、ものによつてはニードルの方がよかつたりシャトルの方がよかつたりするんぢやないかな。

と云ひつつ、ニードルタティングとはご無沙汰してゐる。シャトルタティングだつてやつてゐないのだもの、当然といへばさうなのだが。
針は外ではちよつとやりづらい気がして、な。
そんなことないかな。でもレース糸を使ふと針もそれなりに細くなるし、気にする人も多いかと思つて。

こんな調子で来年はどうなるのだらうか。
とりあへず、休みのあひだになにか小さいものでも作つてみやうかなあ。

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Monday, 25 December 2017

今年編んだもの 2017

今年編み終へたものを数へてみたら、八つあつた。

  • イェーガーマッチメイカーDKで編んだ指なし手袋
  • Regia のくつ下毛糸で編んだヨガソックス
  • ダルマのくつ下毛糸で編んだPar Five Socks
  • オリムパス金票40番で編んだスカーフ
  • パピーのピマデニムで編んだ Helix Scarf
  • オステルヨートランドの段染糸で編んだAmbitus
  • フィルトゥラ・ディ・クローサのZaraで編んだ木の葉模様のショール
  • リッチモアのカシミヤで編んだフューシャパープルのカシミヤストール
編めない編めないと云ひながら、なにかしら編んでゐたものらしい。

現在は Opal のくつ下毛糸でヴェストを編んでゐる。
昼休みはノールビンドニングのベレー帽をちまちま作つてゐる。
去年の冬から持ち越してゐる袖なし羽織はそのままになつてゐる。

寒くなつてくるとあれもこれも編みたくなる。
家にゐるときにあまりにも寒かつたので、Ambitus をつけてみたら、これがびつくりするほどあたたかかつた。
Ambitus は編み方によると並太のそれも少し太い糸で、といふ指定があつたやうに思ふ。
それを合太の糸で編んだのでちよつと小さめにできてしまつたが、それでも十分のやうだ。

Elizabeth Zimmermann の本などを見ると、胸当て(Dickey)といつて、タートルネックの首の部分とあとちよこつと肩や胸にかかる程度のネックウォーマのやうな作品が掲載されてゐる。
セーターやシャツの下につけるものとされてゐる。
Dickey も何枚か編んだ。
実に重宝する。
首と肩とがあたたまるとだいぶ違ふんだな。
通信販売でも売つてますよ、と教へてくれた人がゐた。
ありがたい話である。

半端にあまつてゐる糸は Ambitus や Dickey にしてしまはうか。
そんなことも考へてしまふ。

この年末年始の休みにはミトンを編みたいとは先週も書いた。
くつ下毛糸で編んでゐるヴェストも遅々として進みが悪い。
羽織はまた次の冬に持ち越しかな。

あと、夏に編んだ40番レース糸のスカーフは色を変へて編みたいな。あたたかくなつたとき用に覚えておきたい。

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Friday, 22 December 2017

飯田市川本喜八郎人形美術館 展示替見学 その二

二〇一七年十一月二七日月曜日、飯田市川本喜八郎人形美術館で、展示替へを見学した。
収蔵庫を見学した我々は、ふたたびホワイエに戻つた。

養生体験の準備のあひだ、ホワイエを見学した。

ホワイエでは、これまで展示されてゐた人形とこれから(も)展示される人形がきつちりわかれて置かれてゐた。
人形にはそれぞれ首から名札が提げられてゐて、今回展示されてゐたか否かと次回展示されるか否かとが記されてゐた。

この時点での配置はこんな感じ。
入口につづくエレヴェータのそばに「項羽と劉邦」などと書かれた段ボール箱がいくつかあつた。「項羽と劉邦」の人形は早々にかたづけられてしまつたのらしい。前日に会ひに行つて正解だつた。

入口からつづく階段に近い方から見て右側、中庭に面した窓付近の机の上にこれまで展示されてゐて今度は展示されない三国志の人形が、そのほぼ向かひの展示室入口付近の机の上にこれまで展示されてをらず今度展示される平家物語の人形が並べられてゐた。

三国志の人形の置かれたテーブルの先には作業台になつたテーブルがあつたやうに思ふ。これからの展示に必要な小道具を準備してゐるやうだつた。

展示室出口の向かひ付近の机にこれまで展示されてゐて今度も展示される三国志の人形がゐた。
張飛の馬が梱包されて箱に入つてゐるのも見えた。
このとき、張飛の馬は機械仕掛けで動いてゐたといふ話を聞いた。
赤兎と玄徳の馬である白竜とは人間が遣ふやうにできてゐるのだが、張飛の馬などは機械で動くやうにできてゐたといふ。
それでときどき脚の動きがメカ馬と似てゐるのだとか。

その奥にこれまで展示されてゐて今度は展示されない「蓮如とその母」の人形がゐた。みんな上から薄葉をかぶつた状態だつたのでよくは見えなかつた。からうじて老いたお蓮にちよつとだけ挨拶できた。

今度も展示される三国志の人形のテーブルのほぼ向かひ、川本喜八郎の一生のパネル付近も作業台になつてゐて、主にアイロン掛けが行はれてゐた。
アイロンは人形に着付けた状態の衣装にかける。
そのため、アイロン台代はりにちいさな板状のものを使つてゐた。
アイロンをかけたい部分の下にその板をあて、その上からアイロンをかけてゐた。
アイロンかけを待つ敦盛が乙女座りになつてゐて妙にかはいかつた。経盛がそばにゐたときもあつて、親子一緒ねー、などと思つたりした。
人形劇の経盛つて、ダンディなをぢさまといつた趣ですてきなんだよね。

アイロンといふと、以前、「馬に乗つてゐた人形の衣装には皺がよつてしまつてなほすのが大変」といふ話を聞いたなあ。半年ほどおなじ格好でゐるので、なかなか皺がとれないといふ話だつた。

作業は川本プロダクションの方々と美術館の方々とでおこなつてゐたやうだ。
川本喜八郎の「チェコ手紙&チェコ日記」に名前の出てくる人もゐたやうに思ふ。

養生体験は、張宝・曹仁・龐統に養生をほどこすといふ形で行はれた。

案内の方がまづ手本を見せてくださる。
最初に刷毛で人形からほこりを落とす。
そつと撫でるやうにはらつてゐた。
ケースの中にゐたからそんなにほこりはかぶつてはゐないといふ話だつた。
このとき、カシラの部分には刷毛を持つていつてゐないやうに見えた。

次に、ベビーパウダーを人形の右手につけ、薄葉を巻くといふ作業をした。
人形の手はフォームラバーでできてゐて、そのままにしておくと指同士がくつついてしまふのだといふ。
それをふせぐためにベビーパウダーをつけてさららさらな状態にしておくのださうだ。
ベビーパウダーは筆にとつてつけた。
衣装にベビーパウダーがかからないやうに使つてゐない手で防ぐといいと教はつた。
このあと、左手にもおなじことをし、両足を薄葉で包んで、最後にカシラに薄葉を巻く。

ほこりを落とす担当、右手担当、左手担当、右足担当、左足担当、カシラ担当といふ感じで見学者は申し込んだ順番に養生の手順を体験した。
自分は龐統の右手を養生した。
手でベビーパウダーが飛び散るのを防ぐのを忘れてしまつたり、薄葉をうまく巻けなかつたりした。
緊張してしまつて。
といふのは云ひ訳で、有り体に云ふと不器用だからである。

でもまあ、緊張したのもほんたうのことだ。
今を去ること三十有余年前、「関羽の死」の撮影を見学に行つたとき、最後に孔明と握手した、あのときのことを思ひ出してゐた。
あの日伏龍の手を握り、いま悠久のときを経て(大げさ)、鳳雛の手に触れる。
人間、生きてゐるといいこともあるものだ。

龐統の右手を養生したあと、おなじく左足とカシラも養生した。順番の関係だらう、毎回偶然龐統にあたつてゐた。
足に薄葉を巻くときにちらつと下に着てゐるものが見えた。カーキ色とでもいふのだらうか、淡い茶色に黒で格子模様の入つた生地だつた。

下に着てゐるものといへば、今回李儒のものも頼んで見せてもらつた。
以前の展示で、李儒の下着(といはうか)がちらりと見えてゐたことがあつたからだ。
灰色がかつた淡い紫色で、上品なあんこのやうな色なのだつた。
ほかの人のも見せてもらふんだつたなあ。惜しいことをした。

その後は、またしばらく人形を見るなどした。
飯田の頼朝、好きだなあ、とかね。
この話は今度の展示を見に行つたときに絶対するのでその機会に。

曹操と孔明とが並んで立つてゐたのが印象深い。
普通の展示だつたらあり得ない構図だ。
赤と黒とのコントラストもいい。
本によつては「三国志演義」では曹操に対する人物は孔明であらう、と書いてあるものもある。
草森紳一の「少年曹操」がさうだし、酒見賢一の「泣き虫弱虫諸葛孔明」もそんなやうな気がするし、その参考文献にあがつてゐる「詩歌三国志」もさうだと思ふ。

ケースの向ふにゐる人形ではなく、こちら側の人形を見ることができるといふのもまたとない機会だ。
考へてみると、新宿高野での展示はケースはなかつたやうに思ふ。
あるいは人形によつてケースがあつたりなかつたりしたのかもしれない。
なぜかといふと、高野での人形展のときにうつかり丁原に触れてしまつて係りの人に注意を受けたことがあるからだ。
すくなくとも丁原はケースの外に飾られてゐたことになる。
貴重な展示だつたのだなあ。

展示替へ見学については、次回があるかどうかはわからない。
今回参加できてほんたうによかつたし、企画してくだすつた美術館の方、人形たちと真剣にむきあつて作業しつつも部外者の立ち入りを許してくだすつた関係者各位、そして一緒に見学することのできた方々には心から感謝したい。

今度の展示はいつ見に行かうかな。

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Thursday, 21 December 2017

今年入手した萬年筆 プラチナ萬年筆のラヴァンド

プラチナ萬年筆のラヴァンドも、当初買ふつもりのないペンだつた。

Platinum Lavande

なぜ買つたのかといふと、丸善の文房具・洋書用ポイントカードが廃止になつたからである。

ポイントカードが廃止になつたといふので、それまでたまつてゐたポイントを丸善の商品券に替へた。
そこそこの金額があつたので、「ぢやあラヴァンドを買はう」といふことになつたのだ。

ラヴァンドも、発売されることは知つてゐて、きれいなペンだなと思つてゐた。
でも買ふことはないかなと思つた。
アウロラのネブローザを買つたばかりだし。
でも棚からぼた餅の商品券を手にして、「ぢやあ買つてもいいかな」と思つたのだつた。

商品券なら、別段あせつて使はなくてもいいぢやあないか。
さう云ふ向きもあらう。
この商品券には使用期限が設定されてゐた。
発行から一年と一ヶ月だつたと思ふ。
「期限までに使はなくちや」と思ひつづけるのがイヤだつた。
だつたらポイントと交換なんかするなよ、といふ話だが、そこはそれ、人並以上に greedy なやつがれである。
正直云つて、ラヴァンドを求めたときに商品券を全部使つてしまつて、気持ちがすつと楽になつた。すくなくともそんな気がした。
これでもう使用期限について悩まなくて済む。
それに、もともとほしかつたものを買つたのだ。
ほしかつたけど、さまざまな理由であきらめてゐたものを買ふきつかけができた。
かういふこともあるのだなあ。

ある時点から透明軸にはあまり惹かれなくなつた。
と書きながら、今年はKAKUNOの透明軸を入手してゐるが、それはそれ、だ。
でもラヴァンドのやうにうつすらと色がついてゐるのはいい。
とくに、ラヴァンドの紫色は主張しすぎないところがある。

試し書きをして、中字を購入した。
プラチナ萬年筆のペンは書き味が硬いといふ印象がある。
でも、やつがれのラヴァンドはそれほどでもない。
中屋万年筆の昇竜は中軟で、軟といいながらも硬いところがある。
それとあんまし変はらない気がするんだなあ。
中字だからかもしれない。

インキはほんたうはプラチナ萬年筆の古典インクを入れたかつた。
しかし、ラヴァンドに合ふと思へる色がなかつた。
ラヴェンダー・ブラックとか、名前はいいけれど、ラヴァンドに入れるにはちよつと赤みが強い。
いろいろ悩んで、パイロットの色彩雫は紫陽花を入れてゐる。

ところで、ポイントと商品券との交換の際、ポイントの端数が一定の数に達してゐると、丸善のレトルトカレーと交換することができた。
いいこと考へたな、丸善。
思はず対応してくれた店員の方に「いいですね」と云つてしまつた。
カレーはこの年末年始にでも試してみることにしたい。

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Wednesday, 20 December 2017

今年入手した萬年筆 アウロラ ネブローザ

久しぶりに萬年筆を買つた。
アウロラのネブローザである。

Aurora Nebulosa

「久しぶりだなんてまたまた」と云はれるかもしれないので確認してみた。
一万円を超える、いや、五千円を超える萬年筆は、ここ四年ばかり一本も買つてゐない。
その間、Pilot の KAKUNO は何本か買つてゐるが、それくらゐだ。
今年はエルバンのヴィオレ・パンセも買つた。
でも、KAKUNO もエルバンのペンも「万年筆」ではあつても、「萬年筆」と呼ぶにはちよつと気が引ける。
といふわけで、久しぶりに「萬年筆」と呼んでもいいかなといふペンを購入したのだつた。

ネブローザは最初から買はうと思つてゐたペンではなかつた。
発表されたのは知つてゐたし、きれいなペンだなとも思つたし、自分の好みにぴつたり合ふ色だなとも思つた。
でも買ふつもりはなかつた。
最後に「萬年筆」と呼ぶにふさはしいと思ふペンを買つたのは、2013年のこと。ペンは中屋万年筆の昇龍だつた。
昇龍は、現在手元にあるペンの中でおそらく一番自分らしい字の書けるペンだ。
もうしばらく萬年筆は買ふまい。
買つたときさう思つた。

ところでネブローザに先立つてアウロラからシガロといふ萬年筆が発売された。
これはほしいと思つた。
やつがれは煙草は吸はない。
いまだかつて吸つたこともない。
家族はみんな吸ふか吸つてゐたかなので、受動喫煙はさんざんやらかしてゐると思ふが、つひぞ煙草を口にしたことはないのだつた。

ゆゑにシガロがほしかつた。

シガロは葉巻に着想を得たペンである。
ゆつたりと手にしてのんびりとなにごとかしたためる。
ときに葉巻を吸ふかのやうに口元に近づけてもいい。
そんなペンだと思つた。

それがなぜ突然ネブローザになつたのか。

理由のひとつは実相寺昭雄である。

購入当時、渋谷ユーロスペースで「実相寺昭雄の光と闇」といふ特集を組んでゐた。
見に行くうち、ネブローザの惹句の中に「光と影」といふ文言があることを知つた。
ネブローザとはイタリア語で星雲のことだといふ。
星雲の織りなす光と影とを表現したペン軸、とでもいつたところか。

光と闇。
光と影。

いいぢやあないか。

さう思つて文房具屋に赴くと、ネブローザとシガロとが陳列してあつた。
どちらもこの店舗では最後の一本であるといふ。
試し書きさせてもらつた。

ネブローザの書きやすさといつたらどうだらう。
一方のシガロは高級感のある重厚さで、ずつと持つて書き続けるのはチトつらさうであつた。
しかも、書き味がいまひとつであつた。
これがふたつめの理由である。
ネブローザは圧倒的に書きやすかつた。
そして最後の一本であつた。

そんなわけで、とても書きやすいと思ひつつ使つてきたのだが、ここのところ首軸からインキが漏れてきてゐるやうだ。
修理に出すやうだ。
保証期間内だからなんとかなるんぢやないかと思つてゐる。

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Tuesday, 19 December 2017

Infinite Diversity in Infinite Combinations

ノールビンドニングのベレー帽は、減らし目の段の二段目に入つたところだ。
減らし目の段に入つたらさくさく進むかと思つたが、案外さうもいかないのはまだ減らしはじめたところだからだらう。

さくさく進まない理由にはもうひとつある。
ダールビースティッチだからだ。
ダールビースティッチは二本目のワーキングループには逆側から針を通す。このとき、うまいこと一度で針を通せないことがあるのだつた。
慣れればうまくいくのかと思つてゐたけれど、どうもさうでもない。逆側から針を刺すときにどうしても一呼吸必要だ。

はじめてのノールビンドニング」に掲載されてゐるほかのスティッチは針を刺す方向を変へるものはない。ブロディエンスティッチなどは、さくさく刺すことができる、と、練習してゐたときには思つた。いまやつたらまた元に戻つてゐて、「うまくいかない」と思つてしまふかもしれない。

ダールビースティッチなどと書いてゐるが、どうもダールビースティッチを正しく編めてゐる気がしない。
本に載つてゐる写真と似たやうなところがないからだ。
もちろん、間違つて編んでしまつた部分もある。
とくに最初のうちはうつかりして逆側から針を通すところをおなじ方向から通してしまつて別のスティッチ(たぶんオスロスティッチ)になつてしまつてゐる部分もある。
これは以前も書いたか。

そしてこれまた以前も書いたとほり、途中からは気をつけて編んでゐるし、ここのところはもうすつかり慣れたので、ちやんと逆側から針を通すやうになつてゐる。

然るに、目の前の編み地と本に掲載されてゐる編み地の写真とは違ふもののやうに見えるんだよなあ。

最初のうちは、自分の使用してゐる毛糸がちよつとスティッチのわかりづらい糸だからだらうかと思つてゐた。
でもどうやら違ふ。
自分はなにかまつたく違ふスティッチを編んでゐる。
そんな気がしてならない。

それならそれでいいやうにも思ふ。
ノールビンドニングには一千種以上のスティッチが存在するといふ話もある、と「はじめてのノールビンドニング」にはある。
自分が編んでゐるのはそのうちのひとつかもしれないぢやあないか。

逆側から針を通すスティッチとさうでないスティッチとがあるといふことは、このふたつを組み合はせたらまた違ふ編み地が生まれるといふことでもある。

なんだかどんどん世界が広がつていく気がするなあ。

とはいへ、いまは目の前のベレー帽に取りかからねばならない。
ノールビンドニングではリストウォーマやくつ下も編んでみたいと思つてゐる。
それにはノールビンドニングに向いた糸を探さないとなあ。
いつそのこと自分で紡ぐか。
長期計画になるなあ。

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Monday, 18 December 2017

年末年始は

この年末年始はミトンを編みたいなあと思つてゐる。
まだ手に入れてはゐないが、「ベルンド・ケストラーのミトン」を購入するつもりでゐる。
ベルンド・ケストラーの本はこれまでにマフラーやくつ下を編む本が発売されてゐる。
あと表目と裏目とだけ編むさまざまなものが掲載されてゐる本もあつたか。
いづれも心引かれつつ買つてゐないのは、どことなく「それつて、毛糸が楽しいからでせう」といふのがあつたからだ。
使つてゐる毛糸が段染めの毛糸で、それで模様の出てくるのが楽しいといふ作品が多いのではあるまいか、と思つたのだ。

それぢやあミトンの本はなぜ買ふのか、といふと、有り体に云ふとミトンを編みたいからだ。
現在使つてゐるのは指なし手袋が二対だ。
どちらも自分で編んだものだ。

で、今度はできれば指のあるミトンを編んでみたなあと思つたのだつた。
手袋でもいい。
ただ、手編みの手袋といふのはどうしても軍手じみるところがあつて、なかなか「これ!」といふデザインが見つからないのだつた。
サンカ手袋とかならいいのかもしれないが、合ふ毛糸が手持ちにない。

で、ベルンド・ケストラーのミトンはなんだか楽しさうだな、と思つたのだつた。
これなら編んで楽しいかな、と。
まあ、まだちやんと本を見たことがあるわけではないので詳細は不明だが。

年末年始はほかにやることがあるだらう。
さうも思ふが、今年はカレンダー的にぎりぎりまで働くやうだし、大掃除をしやうと思つてももう大晦日になりさうだし、だつたらミトンを編んでもいいかな、と思ふのだつた。

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Friday, 15 December 2017

価値がないのはどつちだ

ちかごろ、近所のスーパーマーケットではいつ行つてもハーゲンダッツのアイスクリームを安売りしてゐる。

以前は、ちやんと安売りの期間があつた。
それが、最近はいつでも安売りをしてゐる。
安くしないと売れないのだらうか。
たぶんさうなのだらう。

安くしないと売れないといふことは、その商品に定価分の価値がないといふことだ。
理屈ではさうなのだが、ではハーゲンダッツのアイスクリームに定価分の価値がないのかといふと、そんなことはないと思ふ。
だつておいしいし。
それは「ハーゲンダッツのアイスクリームだからおいしい」といふ思ひ込みなのかもしれないけれど、でもおいしいと感じるのはほんたうのことだ。

安くしないと売れないといふことは、買ふ側にものの価値がわかつてゐない、といふことなのではあるまいか。
本来この値段でしかるべき品質の商品なのに、その値段では売れない。
買ふ側に見る目がないからだ。
買ふ側に定価分の価値がない。
買ふ側は本来ハーゲンダッツのアイスクリームにふさはしくないのだ。
すなはち、分不相応である。

無論、定価にふさはしくない商品といふのもないわけぢやない。
でも、今後「定価だつたら買はないな」と思ふものと出会つたら考へることにしたい。
定価にふさはしくないのは商品か。
あるいは自分か。

そんな余裕はないかな。

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Thursday, 14 December 2017

フェイク忠臣蔵

赤穂浪士の討ち入りの日だ。

と書いて、毎年躊躇する。
あれは旧暦のことのはずだ。
すなはち今日のことではない。
でも暦の上ではディセンバー。
もとい、今日といふことになつてゐる。

以前、門前仲町のあたりに勤務してゐたことがある。
一帯の自治会だらう、この時期になると義士祭みたやうな催しがあつたり、本所の吉良邸後から泉岳寺まで歩く催しがあつたりした。
なので、やはり十二月十四日でいいのだらう。

忠臣蔵といひ赤穂浪士といふ。
そこからして曖昧だ。
忠臣蔵は「仮名手本忠臣蔵」からきてゐるのだらう。
虚構である。
登場人物の名前で実際に討ち入りに関はつたもののうち本名なのは不破数右衛門くらゐなものだ。
ほかは史実にさういふ名前の人物がゐたとしても江戸時代の人の名前ではない。
のこりは元の名前をもぢつたやうなものばかりだ。

赤穂浪士といつてもどこまでほんたうのことなのか。
「風誘ふ」ではじまる浅野内匠頭の辞世の歌だつて偽作といふし。
そもそも、なんで赤穂浪士は吉良義央を討つたのか、その理由もはつきりとはしない。
大石内蔵助はほんたうに昼行灯だつたのか。
赤垣源蔵(といふ名前からしてもぢり名前だが)は帰らぬ兄を待つてひとり酒盛りをしたのか。
大高源吾は橋の上で「明日待たるるその宝舟」と宝井其角に返したのか。

疑つてかかるとなにもなにもアヤシい。
いいのか、ほんたうに。
十二月十四日に赤穂浪人たちが徒党を組んで本所吉良邸に討ち入つた、といふことで。

いいんだらう。
なにがほんたうでなにがうそなのかとか、赤穂義士伝の前ではどうでもいいことなのだ。
浄瑠璃や芝居、講談に残る数多の話は、どれも作りごとなのかもしれない。
でも作りごとだつたところで、誰も困りはしない。

あー、まあ、吉良家の人々にとつては、さうも云つてゐられないか。
でもそれは松の廊下の刃傷事件の後始末が間違つてゐたから仕方がないことなのだと思ふ。
恨むならそこを恨むしかない。
吉良上野介が「そのご裁断はまちがつてゐる」「自分の身に覚えはないことは確かだが、だからといつて浅野家への仕打ちはむごすぎる」と声をげてゐたらどうだつたらうか。
むろん、そんなことばは通らなかつたらう。
通らなかつたらうけれど、すくなくとも赤穂の浪士たちに討ち入られることにはならなかつたのぢやあるまいか。
とはいへ、自分が吉良上野介だつたらどうしたかといつたら、やはり意味も分からず斬りつけてきた相手にのみご処分がくだつたことに安堵してなにもしなかつたとは思ふけどね。

今年は「フェイク・ニュース」などといふことばも流行り、Twitter などではちよつと間違つたことをつぶやくと四方八方から攻撃されるやうな世の中だ。
でも「忠臣蔵」くらゐ大らかでもいいんぢやあるまいか。
ダメなのかな。

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Wednesday, 13 December 2017

先達不在につき

宿でTVをつけてゐたら、ザ・フーの「ピンボールの魔術師」が流れてきた。

ザ・フーかー。
こどものころ通らなかつた道なんだよなあ。

先達がゐないといふのはかういふことかとも思ふ。

一番最初にみづから聞きはじめたのはザ・ビートルズだつた。
……「ザ・フー」だから「ザ・ビートルズ」と書いてみたものの、なんだか違和感があるな。「ザ・」は取るか。

当時はFMラジオでビートルズを流す番組をできるかぎり聞いて、ローリング・ストーンズとかも聞くやうになつた。洋楽ベスト100みたやうな番組を聞いてゐると、サイモン&ガーファンクルなんかもひつかかつてくる。ビーチボーイズとかね。

そこからレッド・ツェペリンとかディープ・パーブルとかも聞いたし、クイーンも聞いた。エマーソン、レイク&パーマーとか。懐かしい。

なぜビートルズを聞き始めたのかといふと、当時ちよつと気の利いた同級生は聞いてゐたからだと思ふ。
たいていはお兄さんやお姉さんのゐる子で、本人も兄弟も成績のいい子が多かつたやうに思ふ。
さういふ子は兄・姉が聞くから自然と聞くやうになるやうだつた。
兄・姉のゐる人に負けてたまるか。
So it goes.

さういふ相手ととくに仲のいいわけでもなく、音楽の話をするでもなく、とにかくまつたく未知の世界に道しるべもなく踏み出した。
それで出会へた曲もあるし、さうでない曲もある。
ザ・フーは後者だつた。
イエスもだいぶあとだつた。「(Owner of) The Lonley Heart」で知つたんぢやなかつたらうか。

先達のゐる人はかうはならないのぢやあるまいか。
ちやんと「次はこれを聞くといいよ」とか、助言がもらへたりするのぢやないか。
それで、妙な抜けなどはなかつたりするんぢやないのかなあ。

と思ふのは、先達のゐないものの羨望の念のなせる技なのか。

まあでもおかげで serendipity と呼んでもいいやうな出会ひもあつたのだと思ふ。
洋楽ベスト100のやうな番組を聞いてゐると、アバなんかも聞くしね。
ホリーズ、レターメン、ブラザーズ・フォー、ピーター、ポール&マリー、ジャニス・ジョプリン……

どちらかといふと時代をさかのぼつてしまつたので、ポール・アンカやニール・セダカといつた50年代60年代の歌手の歌や、もつと前のビッグバンドなども聞いたりしてゐた。
ベニー・グッドマンとかグレン・ミラーとかね。デューク・エリントン、カウント・ベイシー。
ルイ・アームストロングも聞いたなあ。
でも、チャーリー・パーカーとかジョン・コルトレーン、セロニアス・モンクを聞くやうになつたのはもつと後のことだ。
このあたりが自分の限界だつたのかもしれない。
あるいは当時はまだ出会ふべき時ではなかつたといふだけのことかもしれない。

ほかの人はどうやつて音楽に出会ふのだらう。
親・兄弟が聞いてゐるから。
ともだちが好きだといふから。
TVなどでたまたま流れてゐたから。
そんな感じなのかな。

さういや、三原順のまんがに出てくる歌は追ひかけたものだつた。
ELPもそのひとつだし、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルとか、ビージーズもあつたな、あれは「ルーとソロモン」だつた気がする。

さういふのも serendipity だつたのだらうか。
少なくとも、三原順がある種「先達」であつたことは間違ひない。

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Tuesday, 12 December 2017

忘れる技法

ノールビンドニングのベレー帽は減らし目段に入らんとしてゐるところだ。

結局、「はじめてのノールビンドニング」に指定のあるとほり、九段目までは目を増やし、十段目からは減らすことにした。
減らし目をするには編み地がもうすこし大きい方がいいのだが、整形すれば大きくなりさうだし、毛糸が足りなくなつても困るので減らすことにする。
といふわけで、まだ減らしてはゐない。

年内にはムリな気がするが、この冬のあひだにはできあがるだらう。

ところで、ノールビンドニングに向いてゐるとおぼしき毛糸をもらつたので、早速試してみやうと思つたらこはいかに。
作り目の仕方を忘れてしまつてゐるではないか。
なんといふことだ。
あれだけ何度も何度も作り目ばかり作つてゐて、本を見なくても目を作れるやうになつてゐたといふのに。
ちよつとやらないだけでこれだからなあ。
年を取つてから覚えたことつてかうなのかもしれない。

棒針編みの場合、指にかけて作る作り目は忘れない。
どれだけブランクがあいても作り目だけは作れる。
Twisted German Cast-on だと、時間があくとちよつと戸惑ふこともある。
ゴム編みの作り目は大丈夫だな。ゴム編みの作り目はくつ下を編んでゐたころかなり作つたからかもしれない。

伏せ目も普通の伏せ目は、まあ普通に編むのとそんなに変はらないこともあつてか忘れることはない。
ゴム編みの伏せ目も、一目ゴム編みは大丈夫。二目ゴム編みはときどきちよつとアヤシいことがある。

考へてみるとくつ下を編むといふのは作り目や伏せ目の技法を体得するといふ意味ではとてもいいんだな。

ノールビンドニングの作り目は、それでも本を見ればすぐ思ひ出すので、まだましかもしれない。
最初からいきなりベレー帽などといふ大きいものを作らずに、さつさと作り目をして完成させられるものを作るんだつたな。
さうしたら作り目の方法も忘れることもなかつたらう。

ノールビンドニングははとても楽しい。
やつてゐると脳内麻薬が出るタイプの手芸だと思ふ。
ただ、糸をつなぐのが手間なんだよなあ。
もつと手早くかんたんに糸をつなぐことができればいいんだが。
糸をつなぐのが大変だから輪に編むときに段ごとに糸を変へ、追ひかけるやうに編む方法があるのだらう。
本では二色で編むことになつてゐるが、一色でこれをやつてみるかなあと思つてゐる。

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Monday, 11 December 2017

編みなほす

くつ下毛糸で編んでゐたヴェストは、結局最初から編みなほすことにした。

糸が足りなくなりさうな予感がしたからといふのがひとつ。
横幅が大きくなりすぎる気がしたからといふのがひとつ。
それで編みなほすことにしたのだつた。

編みなほすにあたつて、いままで編んできた編み地からゲージを割り出した。
編みはじめる前にゲージをとらなかつたのかつて?

取らなかつた。
おなじOpal のくつ下毛糸で編んだくつ下を参考に目数段数を割り出した。
輪に編むのと平らに編むのとでは手加減に違ひが出るとわかつてゐて、さうした。

それで、ほぼ想定したサイズになつてゐたのだが。
それだと大きすぎたんだね。
最初に想定してゐた身幅とかが大きすぎたのだ。
参考にするヴェストをはかつたら、もつと小さかつた。

つまり、今回の問題はゲージを取らなかつたことではない。
「これだけ必要」と割り出したサイズが間違つてゐたのである。

編みなほすにあたつて、ほどきはしなかつた。
ほぼ一玉編み終へる寸前だつたからだ。
毛糸だまの逆端から編み始めて、すでに編んだ編み地をほどきながら編んでゐる。
これだと糸が絡むこともないし糸を巻きなほす必要もない。

昨日編みなほしはじめて三十段ほど編んだ。
いつごろできあがるかねえ。

ほかにも編みたいものが出てきてはゐる。
去年編み始めた袖なし羽織も途中のままだ。
時間がほしいねえ。

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Friday, 08 December 2017

ミスのなくならないすごい文章術

毎日新聞・校閲グループのミスがなくなるすごい文章術」を再読した。
仕事で誤字・脱字のチェックをする機会がありさうだつたからだ。

前回読んだときも思つたけれど、「違和感を与へるうちは(そのことばの使用を)やめた方がいいでせう」なんてな場合、どうすればいいんだらう。
違和感を感じる人がゐるかどうかつて、どうやつたらわかるんだ?
書いてみなければわからないのではないだらうか。

書く方は違和感がないから使ふのだ。
「ら抜きことば」に対して「さ入れことば」といふのがある。
「やらさせていただく」とか「行かさせていただく」とか、「さ」が余分に入つてゐることばである。
文章で書いてあるのはあまり見た記憶がないが、耳からはよく聞く。
坂東玉三郎といふ歌舞伎役者がよくこれをやらかす。
玉三郎が云ふからだらう、それに続く若い役者もよくこの「さ入れことば」を使つてゐる。

玉三郎も若い役者たちも、「やらさせていただく」と口にして、違和感を覚えないのだと思ふ。
若い役者はとくにさうなのだらう。
だつて玉三郎が云ふのだもの。
違和感のあるわけがない。

「ら抜きことば」がすでにかなり浸透してゐるのとおなじやうに「さ入れことば」も自然なものに感じる向きが増えてゐるやうに思ふが、それに対して「違和感を覚える人も多いんですよ」と云つてもあまり効果はないやうな気がする。
だつて周囲の人々は使つてゐるのだもの。

「「さ入れことば」は文法的に間違つてゐますよ」と教へることはかんたんだ。
でもそれで「さ入れことば」を使はなくなるかといふと、それはないんぢやないか。
だつて遣ひなれたことばなのだもの。

そんなわけで、この本を読んだらほんたうにミスのない文章が書けるのかといふと、その限りではない。
漢字の使ひわけについても、「常用漢字表を見ろ」といふわりには「常用漢字表にしたがつてゐればいいわけでもない」とも書かれてゐる。

おそらくミスのない文章を書くには「自分の書いたことを疑つてかかる」こと、それにつきるのだらう。
内容はもちろん、ことば遣ひ、文字の選び方に至るまで、疑つてかかる。
さうすれば、あるていどミスを防げるのではあるまいか。
でも、疑つて、なにが正しいかつてどうやつて確認すれはいいのだらう。
辞書だつて人間の作つたものだ、絶対正しいとは限らない。
文法にしたつて人によつて説が違つたりする。

ミスのない文章など書けるわけがない。
さういふことなのだと思ふ。

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Thursday, 07 December 2017

持ち歩くペンを減らしてみたものの

持ち歩くペンを二十二本から十一本に減らしてみた。

半分になつたのに、荷物の重さは変はらない気がする。
減らした甲斐がないので、そのうちもとに戻るかもしれない。

内訳はこんな感じだ。
ナガサワ文具センターの七本差しペンケースに七本と丸めてできたところにもう一本で八本。
あとは手帳のペンホルダに一本、ペンサムに二本はさんでゐる。こちらの三本はあまり持ち歩いてゐるといふ意識がない。手帳についてゐるからだらう。

ペンを減らすことの第一目的である「荷物を軽くする」は達成できてゐない。
物理的には達成できてゐるはずだが、体感的に達成できてゐない。そこが重要なのに。

持ち歩かないペンの使用も減つてゐる。
起きてゐるうち一番長い時間を過ごしてゐるのは職場だ。
そこにないペンはなかなか使ふ機会がないのだ。

あと、いままで「かういふときにはあのペンを使つてゐたのに」といふペンが手元にないことがある。
持ち歩いてゐないのだから、そりや当然だ。

といふわけで、結局もとに戻すかなあ、と考へてゐる。

まあ、いいこともないわけぢやない。
机の上のスペースが広くなつた。
これまでは七本差しのほかにおなじくナガサワの五本差しペンケースと、あと三本差しのペンシースを持ち歩いてゐた。
それが机上に出てゐる状態だつた。
うまいことおいてゐるつもりでゐたけれど、なくなつてみると使へるスペースがひろがる。
バイブルサイズの HIRATAINDER を広げたまま置いても邪魔ではなくなつた。
これはいいことだ。

それで作業効率があがつたか、といふと、それはさうでもない気もするけどもね。

持ち歩くペンは日々入れ替へればいいとは思ふが、なかなかそれをしてゐる余裕がない。
なにを持ち歩くか決めるといふことは、そこで決断力を使ふといふことだ。
朝一番にしたいことではない。
できれば寝る前に明日持ち歩くペンを用意する時間がとれればいいのだが、夜になるとなけなしの決断力が底をついてゐる。

むつかしいねえ、歌さん。
と、つひつひ成田三樹夫の声でひとりごちてしまふ。

以前考へた「七人の侍」フォーメーションとかで持ち歩いてみるかなあ。
それには七郎次や平八にインキを入れる必要があるのだが、さて。

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Wednesday, 06 December 2017

その後の情報カード

情報カードを使ひはじめてもうすぐ一ヶ月がたつ。

5×3サイズのカードに一枚につき一内容と決めてなにか書く。
それが百五十枚ほどたまつたところだ。
PoICを参考にしてゐるが、予定やToDoなどは Bullet Journal に書いてゐるのでカードにはそれほど書かない。
出先で情報カードしか手元にないときに書くくらゐか。
ToDoに関しては、長期にわたつてすることや達成に時間のかかることはカードに書いて持ち歩いてゐる。

目下の悩みは「自分のカテゴリ分けはこれでいいのだらうか」といふことだ。

PoICでは記録・発見・GTD・参照と四種類のカードがある。
このうちやつがれのよく使ふのは記録だ。
記録も Bullet Journal に書いてゐるのだが、「これはカードに書いてもおもしろさうだ」と思つたことはカードにも書く。
この「これはカードに書いてもおもしろさうだ」といふ判断が入るあたりに、なかなかカード数が増えない原因があるのだが、それはまあいいかな、といふ気がする。

参照も多い。
本を読み、TV番組を見、気になることばなどを書き出してゐる。
読書記録も参照に含めてゐる。
「記録」なのだから読書記録は記録かなとも思ふが、最初に書いたのが参照だつたのでそのまま参照として残してゐる。

「これは記録なのか発見なのか参照なのか」と悩むことは多い。

本を読んでゐて思ひついたことは発見なのか。本を読まなければ思ひつかなかつたことだし、本にも半ば書いてあるやうなことだからやはり参照なのか、とか。

あることを体験して思ひついたことは記録なのか発見なのか。
思ひついたんだから発見ではないのかと思ふ一方で、でもそのあることをしなければ思ひつかなかつたのだからやはり記録なのか、とか。

悩んだときは、より近さうなカテゴリにわけることにしてゐる。
ここにまた判断が入ることによつてカードを書く機会が減るのだと思ふ。

発見したと思ふことでもきちんと裏付けを取りたいものもある。
さういふものはGTDに割り振つてゐる。
調べたら「Done」にする。

これはしばらくつづけてやうすを見るしかないな。
自分がわかればいい、自分で使ひやすければいいはずなので、あまり悩む必要はないのかもしれないし。

もうひとつの悩みは、情報カードが入手しづらいことだ。
たまたま入手できた方眼罫のカードがコレクトのものだつた。
ところが、これがなかなか見つからない。
先日飯田に行つたときにキング堂に寄つてみたが、ライフの情報カードがあるだけで、それも5×3は無地だけだつた。

その後、ライフの方眼罫のカードは見つけることができたのだが、方眼のサイズがコレクトとは違ふのだといふ。
コレクトは5mmだがライフは6mmなのださう。
さうすると、PoICでやつてゐるタグ付けの位置が変はつてきてしまふ。
仕方なく機会を見てはコレクトの情報カードを探し回つてゐる。

問題点もないわけぢやあない情報カード生活だが、楽しいのでつづいてゐる。
結局楽しいかどうかなんだよなあ。

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Tuesday, 05 December 2017

九段目

ノールビンドニングのベレー帽は、ちまちまと大きくなりつつある。

「はじめてのノールビンドニング」では増やし目の段は九つ編むことになつてゐる。
途中、「もつと編まねばならないのぢやあるまいか」と思つてゐた。
現在九段目を編んでゐるのだが、それなりに大きい。
整形したらもつと大きくなるだらう。
しかしやつがれは頭がムダに大きい。
九段目ができたら何段増やすかどうか考へることにしたい。

九段目か。
十二月に九段目ときたら「仮名手本忠臣蔵」だよなあ。
「仮名手本忠臣蔵」全段は、九段目のためにあるやうに思へてならない。
通して見ると、すべては九段目を目指して作られてゐるやうに感じるんだなあ。
たとへお軽と勘平とのどーでもいい話にしても。

ノールビンドニングに限らず、あみものやタティングレースなども一目一目作つてゐる最中は、「いつたい自分はなにをしてゐるのか」といふ気分に陥ることがある。
とくに大きなものを作つてゐるときや、なにを作つてゐるのかよくわからない状態のとき。
棒針編みであみぐるみを編んでゐるときにありがちだ。
かぎ針編みとちがつて、棒針編みのあみぐるみはパーツを編むといふ感覚が強い。
かぎ針編みだとパーツパーツを編んでゐても、「いま頭部のこのあたりを編んでゐる」だとか「脚がほぼできた」とかよくわかる。
棒針編みでもそれはできるのだらうが、展開図から編むことが多いのでよくわからないのだ。
平らに編んでできてから筒状や球状にする。
編んでとじてみないとなにができるのかわからない。

そんなときは完成予想図を見るといい。
有り体にいへば、本などに載つてゐる写真だ。
「いま編んでゐるこの得体の知れないものはかうなるはずなのだ」といふことがわかると、やる気も違つてくる。

今年は「九段目」を見ることはなささうだ。
代はりといつてはなんだが赤穂浪士の映画はなにか見に行かうと思つてゐる。
それまでにベレー帽ができあがるかといふと、まあ、まづ無理だなー。

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Monday, 04 December 2017

無謀とわかつてゐたけれど

先週の火曜日、くつ下毛糸でヴェストを編みはじめた。
Opal のくつ下毛糸が三玉あり、これだけあれば着るものも編めるだらうと思つたのだつた。

着手する前から、我ながら無謀だなと思つてはゐた。
編みはじめた直後も「やつぱり無謀だな」と思つた。
現在でも「無謀だつたな」と思つてゐる。

なぜなら糸が細いからだ。
そして針も細い。
針は三号を使つてゐる。
糸が細いことも針が細いことも編みはじめる前からわかつてゐたことだ。
わかつてゐたからなかなか着手できなかつた。
いまのところ、後ろ身頃のそでぐりの減らし目にまだ到達してゐない。

くつ下毛糸で着るものを編みたいとは以前から思つてはゐた。
くつ下毛糸は洗濯機で洗ふことができる。
手入れがかんたんだ。
ただ、編みたいと思つたときにはくつ下毛糸はおなじ色おなじロットの毛糸だまを複数調達するのがむつかしかつた。
単色の糸のさまざまな色をそろへて編むといふ手もあつたが、今度は色にヴァリエーションが足りなかつた。

最近はおなじ色の毛糸だまでも三つ以上まとめて買ふことも可能だ。
単色の糸も色が増えてきたやうに思ふ。

そんなわけで Opal のくつ下毛糸を同色で三玉購入して、しばらく寝かせてあつた。
最初は、二玉ですこし大きめのショールを編んで、残りの一玉でくつ下を編むつもりでゐた。

だが待てよ。
これだけあればヴェストなら編めるのぢやないか。

魔が差したのである。

そんなわけでせつせと編んで、平日だと一日十段進むかどうかといつた状態だ。
週末もせつせと編んだが、減らし目段まで進まなかつた。

できあがるのだらうか。
その前に、毛糸は足りるのか。

三玉使へばなんとかできるのではないかと見積もつてゐるのだが。

進まない進まないといひつつも、ちよこちよこ編んでゐればいづれはできあがるはずだ。
問題は、編み図もなにもなしに編んでゐる、といふことだが、それはまた別の話。

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Friday, 01 December 2017

飯田市川本喜八郎人形美術館 展示替見学 その一

2017年11月27日月曜日、飯田市川本喜八郎人形美術館で、展示替へを見学した。

展示替へを見学できるといふ話は三月に行つたときに聞いた。
十二月十日まで有効の入館手形を購入すると参加できるとのことだつた。
手形は開館十周年を記念して発売されたものだと記憶する。

秋になつて、詳しいお知らせを受け取つた。
見学のほか養生も体験させてもらへるのだといふ。
しばらく悩んで、参加したい旨を連絡した。

当日、参加者は自分も入れて七名だつた。
岡山駅から新幹線を乗り継いで来たといふ人、京都から車で来たといふ人、地元の人、さまざまだつた。

案内は展示替へを企画したといふ美術館の方だつた。
てきぱきと手際よく、説明は明快でわかりやすかつた。
まことにありがたいことだ。

飯田市川本喜八郎人形美術館の入り口は建物の二階にある。
展示室は三階だ。
展示室の前にホワイエがあつて、当日午後の主な作業はまづはホワイエで行はれる模様だつた。
当日朝のやうすは公式サイトに詳しい。

三階にあがるとホワイエがてんやわんやな状況になつてゐる中、飯田のケーブルTVの取材が行はれてゐて、我々は展示室の中に入つた。
展示室のケースは空で、人形の載る台があるくらゐだつた。
各ケースにA4の紙が貼つてある。次回展示の配置図だつた。
配置図には人形の名前とともに、人形の載る台の大きさも記されてゐる。
60×50×20、とかね。おそらくセンチメートル単位だ。
各台の裏にもその台のサイズが書かれてゐる。こちらは600×500×200とかで、おそらくミリメートル単位だ。
配置図はスペースに限りがあるからセンチメートル単位なんだらう。

ケースの清掃のやうすは公式サイトに写真が掲載されてゐる。
展示中は清掃できないといふ話だった。
さうだよなあ、人形がゐるところに入つて行つて掃除はできないよなあ。
水族館の餌付けのダイヴァが入るやうな余裕はないもの。

ケーブルTVの取材がつづいてゐるといふので、先に収蔵庫に行くことになつた。
収蔵庫の扉は重く、見たところ天井や壁は桐のやうで、枠組みは金属のしつかりした造りのやうだつた。
空調管理はしつかりしてゐて、冬は収蔵庫があたたかくて気持ちいいのださう。
中は二階建てで、一階の棚はがらんとした感じだつた。
奥には「死者の書」のものだといふかなり大きなセットが置かれてゐた。
当麻寺のものだといふ大きな屋根や壁があつた。
屋根の瓦はひとつひとつちやんと葺いてあるやうに見える。
かういふのを見ると「死者の書」を見返したくなつちゃふよなー。

二階の棚はかなりぎつしりとつまつてゐた。
棚はスチール製だらう、二段になつてゐて、今回・前回と出番のない人形たちが並んでゐる。
頭にはキルティング製の袋をかぶせてあり、躰は薄葉といふパラフィン紙のやうに薄い紙で覆はれてゐる。
キルティングの袋をかぶつてゐない人形もゐた。蔡夫人とか。
キルティングの袋の下は薄葉なので、顔は見えない。
顔は見えないのになぜどの人形かわかるのかといふと、写真付きの名札を首からさげてゐるからだ。
「三国志百態」の写真を使つてゐるのかな。
曹豹は張飛に殴られたあとなのか床にへたりこんでゐるやうな写真が使はれてゐて、そぞろにあはれを覚える。

十一月三十日からの展示は人形劇については「平家物語」が主なので、収蔵庫には「平家物語」の人形はゐないやうだつた。

さらに奥に行くと、スチール製の引き戸や引き出しのついたキャビネットの上に木製のケースがあつた。
ケースには人形アニメーションの人形がゐた。こちらも薄葉で覆はれてゐるので見えないが、いばら姫や「花折り」の大名の名前が見えた。
キャビネットの前には人形アニメーション用の背景とおぼしき四角いものが置かれてゐたりもした。

キャビネットには人形劇の小道具などが納められてゐた。
長坂坡で趙雲が抱へてゐた阿斗もゐた。
顔立ちがまさに阿斗の赤ん坊の人形で、かなり立派な衣装にくるまれてゐる。思つてゐたより大きい。

小道具はお菓子の空き箱に納められてゐるものもあつた。
貂蝉の名前の書いてある箱もある。
孔明が草蘆でかぶつてゐた巾もあつた。
ぱつと目についたものに「孔明の白羽扇」と書かれたお菓子の箱があつた。すこしはなれたところに「(プリン)」と書いてある。
気になつて訊いてみたけれど、なぜ「(プリン)」なのかはわからず仕舞だつた。
白羽扇は緑の柄のもので、「あつたあつた、この白羽扇」となつかしい気分でいつぱいだ。

その奥には段ボールで作つた莢をさらにエアマットで覆つたものがいくつもあつて、槍など得物をしまふやうになつてゐるとのことだつた。
いまは十一月二六日まで展示されてゐたものが多いので中は空なのだとのこと。

小道具を入れたキャビネットの前には覆ひのかかつた人形が何体か並んでゐた。台座に「NHK」と書いてある。
「三銃士」の人形とのことだつた。
生憎とダルタニアンと三銃士、ロシュフォールとミレディー、そしてたぶんプランシェとケティは出張中なのださうだ。
三十三間堂の千手観音のやうだ。
「三銃士」の人形もケープのやうなものがかぶせられてゐたりキルティングの袋をかぶせられてゐたりした。
今回はルイ十三世やアンヌ王妃、バッキンガム公、コンスタンスとボナシューとを見せてもらへた。
ルイ十三世はもつとそばで見ておくのだつた。

「三銃士」の兵士の人形を持たせてもらへた。
木製とのことで、展示室にある誰でも持つてみることのできる「三国志」の人形とくらべると重たい。
肩当てや脛当てがちよつとくすんで暗いターコイズブルーのやうな兵士で、「三銃士」のどこに出てきたのか記憶がない。護衛隊とは違ふんだよなあ。

収蔵庫にゐる人形を見せてもらへる、といふので、まづは白い衣装の孔明の薄葉を取つてもらふ。
ああ、しかし、カシラはホワイエにあるのだつた。
カシラのあるべき部分は、ゴムのやうなチューブで覆はれてゐた。
白いといひながら、どことなくクリーム色がかつた衣装に見える。
照明で焼けるからー、とか、普段はなかなか白い衣装は見られないんですよねー、とか、見学者はみなさんお詳しい。

ほかに、水鏡先生(カシラだけ)、魏延、あと、宮廷服(といふのだらうか)の周瑜を見せてもらつた。
宮廷服(推定)の周瑜!
ゐたんだねえ。
しかもカシラもついてゐる。
ホワイエには鎧姿の周瑜がゐるのに。
ほかの人形も案外かうなのか知らん。
衣装は替はつてもカシラは髪を結ひなほしたり冠をかけなほしたりしてすげかへてゐるのだと思つてゐたよ。
さういふ人形も多いのだらうけど。

衣装の黄色はだいぶ褪せてゐて往時のきらびやかさには欠けるものの、華やかさは一寸たりとも欠けてゐないのが周瑜である。
この周瑜を展示室で見られる日は来ないのか。
来ないのかもしれないなあ。

棚の脇にはあやつり人形がかけてあつたりもした。どういふ人形なのかはよくわからなかつた。
二階にあるさうした人形のそばにはインドネシアのワヤン人形のパンフレットもかけられてゐて、そのあたりにあるものはどうやらワヤン人形らしかつた。
かういふ寄贈されたのだらう人形もあちらこちらにある収蔵室をあとにして、見学者一行はまたホワイエに戻るのだつた。

つづく。

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11月の読書メーター

11月の読書メーター
読んだ本の数:7
読んだページ数:1954
ナイス数:24

A Tale of Two CitiesA Tale of Two Cities感想
同じことばのくり返しの生み出すリズムに乗せられてぐんぐん読めてしまう。再々読くらいだと思うけれど、おどろくほど記憶にない部分と一字一句覚えている(という気になるだけでほんとはそんなに覚えてなどいない)部分とがある。この何日間か、電車に乗るときに読むようにしていて、電車に乗るのが待ち遠しかった。そんな小説。
読了日:11月02日 著者:Charles Dickens
シナリオの構成シナリオの構成感想
構成についてはもちろんシナリオに関する考察などおもしろい。「シナリオは会社勤めのような気持ちで書くのがもっともよい」と規則正しい執筆生活を勧めるあたりは最近のライフハックにもよく見られる話だ。シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」、自身の「裸の島」、原作と映画両方の「エデンの東」の構成の解説がおもしろい。溝口健二について書いた文章も興味のある向きにはおもしろいのではないかと思う。
読了日:11月06日 著者:新藤 兼人
トップランナーの図書館活用術 才能を引き出した情報空間 (ライブラリーぶっくす)トップランナーの図書館活用術 才能を引き出した情報空間 (ライブラリーぶっくす)感想
12人のトップランナーへのインタヴュー集。学術文体で書かれた著者によるまとめにもあるとおり、みな図書館に対して肯定的というのがおもしろい。そうなるだろうと考えて選定したわけではないというが、無意識のうちにそう選んでしまったようにも思える。図書館以外の話も大変興味深い。自分の図書館とのつきあいについて記憶を掘り起こしてみようかな。
読了日:11月09日 著者:岡部 晋典
先生は教えてくれない大学のトリセツ (ちくまプリマー新書)先生は教えてくれない大学のトリセツ (ちくまプリマー新書)感想
卒業後のことを見据えて大学時代を過ごそう、という内容なのだと思う。いったん卒業して就職してしまったらほぼ不可逆な現状を考えるともっともなことではあるのだが、大学に入学した時点でどうなりたいかわかっている学生ってどれくらいいるんだろう、とも思う。恵まれた環境に育った人なら選択肢もたくさんあろうがなあ。それとは別に講義中の学生の私語について書かれていたのが興味深い。何しに大学に行ってるの?
読了日:11月11日 著者:田中 研之輔
今夜ヴァンパイアになる前に―分析的実存哲学入門―今夜ヴァンパイアになる前に―分析的実存哲学入門―感想
原題は"Transformative Experience"。あることを経験したらいまの自分とはまた違う自分になってしまうようなことを体験するかどうか決める際に何を決め手に判断するのか。例えばヴァンパイアになれるとして、なるかどうかどう判断するのか。解説によるとこの本を読んだあと「ジョジョの奇妙な冒険」を読み返すといいのだそうな。
読了日:11月14日 著者:L・A・ポール
警視庁草紙 下 山田風太郎ベストコレクション (角川文庫)警視庁草紙 下 山田風太郎ベストコレクション (角川文庫)感想
今世紀の初め頃この話を原作としたTVドラマがあった。上巻はともかく、下巻の趣はあのドラマにはなかったように思う。ドラマはドラマでおもしろかったんだけどね。話がどんどん収束していって、読み直すと「これがああなるのか」とか「この人とあの人とが関係あるのか」というのが見えておもしろい。ときどきメタになるのも実は好きだ。
読了日:11月20日 著者:山田 風太郎
A STUDY IN SCARLET (annotated)A STUDY IN SCARLET (annotated)感想
そういやブリガム・ヤングが出てくるんだったっけか、と思いながら読み返す。当時はこういう受け取られ方をしていたのか知らん、とか。
読了日:11月25日 著者:Sir Arthur Conan Doyle

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