この世は不思議に満ちてゐる
ノールビンドニングのベレー帽は、ちよこちよこと進んでゐる。
頭のてつぺんから編んでゐて、ちやうど一周の目数が増えてきたところで、あまり進んでゐるやうには見えない。
本の指定より小さめにできてゐるかな。
そこは親指の大きさや引き具合に依存するとのことなので、そんなものなのかな、と思つてゐる。
ちよつと段数を増やせばいいだらう。
ノールビンドニングをしてゐるとしみじみ思ふことがある。
これを最初に考へついた人は天才だな。
そのことだ。
あみものにしても織りものにしてもマクラメにしてもさうだ。
一体誰がどうやつてこんなことを考へついたのか。
かうやつてかうやれば布地ができると、誰がいつ思ひついたんだらう。
酒見賢一の「泣き虫弱虫諸葛孔明」に、「真に偉大なことをした人間の名前は残らない」といふやうなことが書かれてゐる。
それつてかういふことなのかな、とも思ふ。
あみものは、棒針編みでいふと「かう作り目をすれば編める」とどういふ風に気がついたのかが気になる。
自然界にかういふ仕組みがあるのだらうか。
編んでゐても、どうやつたらかういふことを思ひつくのかさつぱりわからない。
不思議だ。
ノールビンドニングは、棒針編みともかぎ針編みともちよつと違ふ。
いつたいどこの誰が、親指に糸を巻き付けてできた輪に糸を通していくと編み地になることに気がついたのだらう。
編めば編むほど不思議な気持ちになる。
世の中は Sense of Wonder に満ちてゐるのだなあ。
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