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Thursday, 30 November 2017

写真に撮つても捨てられない

フライパンを買ひ換へたい。
ずつとさう思つてゐる。
いま使つてゐるフライパンがどうにももうダメさうだからだ。
しかし、思ひ出深いものでもある。
どうしたものだらうか。

愛着があつて捨てられないものは写真に撮る。
しかるのちに捨てる。
さうすればいい。
さう教へてくれた人がゐた。

なるほど、と思つた。
それで写真を撮つて捨ててしまつたものもある。
写真を撮るといふのはいいアイディアだ。
いまだつたら現像することもなくデータとして残せばいい。
これといつて物理的に場所が必要なことはない。
せいぜいPCのハードディスクに入れておくとか、消へると困るからバックアップをとつておくとか、それくらゐのスペースしか必要としない。
もちろん紙に印刷してもいい。それだつてたいした大きさではない。

フライパンもさうしやうと思つてゐた。
だがダメだつた。
写真を撮つて実体は捨てるといふことは、その質感はなくなつてしまふ。
取つ手を握つたときの感触。
手にしたときの重さ。
裏面の溝の手触り。
さうしたものがすべてなくなつてしまふ。

形あるものはいつかは潰へる。
ではせめて、このフライパンを買つた店で新たなものを購はうではないか。
さう思つたところ、その店はもうないのだつた。
閉店して久しいのらしい。
なんといふことでせう。

そんな感じでずつと捨てられずにゐる。
捨てられないので新たなものも買へない。
いまあるものを捨てないと置く場所がないからだ。

むう。

かくして新たなフライパンを買ひたいと思ひつつ一年以上たつてしまつた。
いい加減なんとかしなければ。

Wednesday, 29 November 2017

芝居のFOMO

毎年思ふことのひとつに、大掃除ができないといふこともある。
十二月になると、文楽があり、歌舞伎座・国立劇場・京都南座(は現在修築中なので今年はロームシアターだが)で芝居があり、土日はほとんど予定がうまつてしまふ。
掃除をしてゐる暇がない。
年末年始の休みになつてやつと時間ができたと思つたらもう大晦日だ。
大晦日に大掃除はするものではないのださうな。
ぢやあいつしろといふのか。
今年は十二月二十三日が土曜日なのでもともと休みだし振替休日もない。

世の中の人はどうしてゐるのだらう。
休みの日のあいてゐる時間をうまく使つて年賀状を書いたり大掃除をしたりしてゐるのだらうか。
芝居に行くとなると、昼の部だけや夜の部だけにしてもほぼ一日つぶれてしまふ。

やりたくないのにしなければならないと思ふからできない。
しかも予定が入りまくつてゐる。

予定はしかし、減らさうと思つてはゐる。
もうそんなにたくさん芝居を見に行かなくてもいいぢやんと思ふし、文楽も今回はさんざん考へて、鑑賞教室だけにしてしまつた。
しかし、これもまた「FOMO」なんだらうな。
「FOMO」すなはち Fear Of Missing Out、だ。

「FOMO」は現在ではSNSにアクセスせずにはゐられない状況をあらはすのに用ゐられてゐる。
SNSからはなれてゐるあひだに情報を逃してしまつた、とか、自分以外の友人たちで盛り上がつてゐて取り残されたやうな気分になつた、とか、さういふ状態をさすのらしい。

「FOMO」自体はSNS以前からあつた。
SNSに関係のない話でも用ゐられることもある。

やつがれの場合は芝居が完全にそれで、どうもあまりおもしろさうな気はしないけれど、でも見に行つたら案外おもしろいかもしれないし、といふのでチケットを取つてしまふ。
それで見に行つてやつぱりおもしろくなくて、「ああ、やつぱり来なければよかつた」と思ふこともある一方で、「案外おもしろかつたぢやん」とか「見に来てよかつた」と思ふこともないわけぢやない。
だからやめられないんだけどさ。

Tuesday, 28 November 2017

この世は不思議に満ちてゐる

ノールビンドニングのベレー帽は、ちよこちよこと進んでゐる。
頭のてつぺんから編んでゐて、ちやうど一周の目数が増えてきたところで、あまり進んでゐるやうには見えない。
本の指定より小さめにできてゐるかな。
そこは親指の大きさや引き具合に依存するとのことなので、そんなものなのかな、と思つてゐる。
ちよつと段数を増やせばいいだらう。

ノールビンドニングをしてゐるとしみじみ思ふことがある。
これを最初に考へついた人は天才だな。
そのことだ。

あみものにしても織りものにしてもマクラメにしてもさうだ。
一体誰がどうやつてこんなことを考へついたのか。
かうやつてかうやれば布地ができると、誰がいつ思ひついたんだらう。

酒見賢一の「泣き虫弱虫諸葛孔明」に、「真に偉大なことをした人間の名前は残らない」といふやうなことが書かれてゐる。
それつてかういふことなのかな、とも思ふ。

あみものは、棒針編みでいふと「かう作り目をすれば編める」とどういふ風に気がついたのかが気になる。
自然界にかういふ仕組みがあるのだらうか。
編んでゐても、どうやつたらかういふことを思ひつくのかさつぱりわからない。
不思議だ。

ノールビンドニングは、棒針編みともかぎ針編みともちよつと違ふ。
いつたいどこの誰が、親指に糸を巻き付けてできた輪に糸を通していくと編み地になることに気がついたのだらう。
編めば編むほど不思議な気持ちになる。

世の中は Sense of Wonder に満ちてゐるのだなあ。

Monday, 27 November 2017

フューシャ・パープルのカシミヤ・ストールを使うてみる

風工房の「まきもの いろいろ」に掲載されてゐるフューシャ・パープルのカシミヤ・ストールを使つてみた。

長く編みすぎたな。

編み終へて整形をして、だいたい二メートルちよいになつた。
本の指定とそんなに変はらない。
いいぢやあないかと思つたが、編み地はたてに伸びるのだつた。
巻いてゐるうちに、だんだん長くなつてくる。

この週末は比較的あたたかかつた。
飯田に行くといふので巻いて行つた。
飯田もあたたかかつた。
日暮れ後や朝のうちはやはり冷えたので、よかつたかなとは思ふ。

よかつたかなとは思ひつつ、やはり長い。
本だと首に一巻きして両端は片方を長めにとつて前にたらしてゐる。
この巻き方だと、端が長くてどうしやうもない。
仕方なく首にゆつたり巻いてみたり、両端を結んでみたりしてみた。
端を結ぶのはあまりよろしくない。
このストールの模様はたてに流れてゐる。
端は長く見せられた方がいいのである。
しかし、不便には変へられない。

さう思つてゐたらこは如何に。
Twitter の TimeLine に「ミラノ巻き」の結び方がRTされてくるではないか。
何度か目にしたので、「いい」と思つた人が多かつたのだらう。

早速巻き方を確認して、自分で編んだストールで試してみた。
いい。
模様はあまり見えなくなるが、端の長さを調整すればいい感じだ。
もうちよつと薄い編み地だともつといいのかもしれないが、そこもゆるめに巻いたりすればすこしはよからう。

この後も寒い日には重宝しさうだ。

Friday, 24 November 2017

収拾がつかない

荷物が重い。

減らすにはかばんを小さくするのが一番だ。
問答無用で入るものと入らないものとが出てくるからだ。
しかし、かばんに負担がかかる場合がある。
入るだけ入れやうとするからである。

普段から必要なものしか持ち歩いてゐないと思つてゐる。
必要なものが入りきつてゐないとさへ思ふ。
薬とかね。絆創膏とか、携帯用裁縫セットとか。
うつかり入れ忘れるとそのまま忘れつぱなしになつてしまふことが多々ある。
常に使ふから必要なのではない。
突然要りやうになるから必要なのだ。

その必要なものばかりの中で減らせるものがあるとしたら、それはペンだらう。

といふので、先日持ち歩いてゐるペンの棚卸しをした。
全部で二十二本あつた。
毎日全部使つてゐるわけではないが、一週間に一度は使ふものだけを選んでゐる。

ペンの名前を書きだして、用途別に分けた。
たとへば Bullet Journal の題名用だとか、読書記録用、かなりぽんこつではあるものの社会人としては黒いボールペンも必要だし、Moleskine 用には裏抜けのしないインキの入つたペンがほしい。こまごま書きたいときは極細字が向いてゐるし、赤いのインキも突然必要になることがある。

そんな感じで、書き出したところでかたまつてしまつたのだつた。
ペンが多いのは場合わけし過ぎてゐるからだといふことに気がついたからだ。
そしてそれを収拾することができない。

いつもこれなんだよなあ。
Mindmap を作ると、ものすごく大きいものができてしまふ。
わかれた枝も多く、情報がみつしりつまつたものになる。
作れば気持ちはいい。
書き出すだけ書き出せたとすつきりする。
だが、その先に進むことができない。
吐き出すだけ吐き出したら、次にはそれを集約しなければならない。
編集作業ができないのだ。

どうしたら混沌とした状態を収拾できるのかねえ。

手始めに、手帳にさしてゐるペンも含めて持ち歩くものを十七本に減らしてみた。
この先は七本差しのペンケースに入るものだけを持ち歩くやうにしたいと思つてゐる。
その日によつて持ち歩くペンは変へる。
収拾がつかないのだから仕方がない。
入れものを小さくして中身を減らすしか方法を思ひつかない。
荷物を減らすのにかばんを小さくするのとおなじことだ。

でもまあそれも、来週から、かな。

Thursday, 23 November 2017

ふり返りが足りない

いろいろ書くけど忘れてしまふ。

昨日も書いた Getting Things Done (GTD) では、頭の中にもやもやとある気になることをすべて紙に書き出すことによつてすつきりする、といふことからはじまる。
紙に書いた、それを確認すればいいのだから、頭の中にいつまでもおいておく必要はない。
極端な話、忘れてしまつてもかまはない。
さうやつて脳内の空き容量を増やす。

ここで問題なのは、「書いたことを忘れることもある」といふことだ。
GTDで肝になるのは、毎週・毎月のふり返りだ。レヴューと呼んでゐるかもしれない。
その週その月にしたことをふり返り、まだしてゐないこと、これからすることを確認する。
それで忘れることをふせいでゐる。

正確に云ふと、書き出すことだけで満足してはいけなくて書き出したものを定期的に見直すことで普段は頭の中から追ひ出してしまつてもいいやうにする、といつたところだらうか。

GTDはやつてはゐないが、ふり返りとかレヴューとか、大切だよなあと思つてはゐる。
自分でやつてゐるのは、手帳の昨日の分、一週間前の分、一ヶ月前の分を見返す、といふものだ。
しかし、これだと一ヶ月より前のことは対象にならないことになる。
それでは書いたことをすべて見返すのか、といふと、それもあまり practical ではない。

たまに積んである使用済みの手帳を取り出してぱらぱらとめくつてみると、「こんなこと書いてゐたのかー」と思ふことがある。
これを定期的にやるといいのかもしれないな。

で、先々週から使ひはじめた情報カードだ。
使つてゐるのは5x3サイズのカードだ。
このカードのいいところは手に取つて見返しやすいところにあると思つてゐる。
ちやうどトランプのやうにくつたりならべて見たりするのにいいサイズなのだ。
書き込んだカードは手に取りやすいところにおくやうにして、見返せるやうにしたいなあと思つてゐる。
それにはお菓子の空き箱とかがあるといいかな、といふので、なにかおいしさうなものを買へたらな、とも思つてゐる。

Wednesday, 22 November 2017

シャーロック・ホームズとGTD

出先で読む本がなくなつてしまつたので、Kindleに入つてゐた「緋色の研究」を読みはじめた。

読んでゐるうちに、ホームズのよく知られた逸話のひとつが出てくる。
ホームズは地動説を知らない、といふアレだ。

地球は太陽のまはりをまはつてゐる、とコペルニクスの学説を教へやうとするワトソンに、ホームズは「よけいなことを教へて」と文句を云ふ。

ホームズによると、脳といふのは屋根裏部屋のやうなものなのだといふ。
愚かな人はありとあらゆる材木(もしくはガラクタ)でいつぱいにしてしまひ、部屋を使へなくしてしまふ。
すべきことのわかつてゐる人間は必要な道具だけ用意して部屋にあきを作つておく。

「Getting Things Done (GTD)」といふものがある。
したいことをすべて書き出しふるひにかけて整理して実行しふり返る、といふ一連の流れによつて、ものごとを成し遂げていかうといふものだと理解してゐる。

GTD では最初に自分のしたいことや気になることをすべて書き出すことからはじまる。

すべて書き出してしまふと、頭の中がすつきりする。
それまで考への大半を占めてゐたどうにもならならいあれこれが紙に記されて、ここを見れば全部書いてあるといふ安心感が生まれるともいふ。

この、ものごとを吐き出して脳内にスペースを作るといふのが、先にあげたホームズのことばとおなじだ、といふ話はつとに聞くことである。

だが待てよ、と思ふのだ。
たしかに、頭の中に空き容量を作つて成し遂げたいと思つてゐることにあてる、といふところは一緒かもしれない。
でもホームズとGTDとでは明らかに違ふ点がある。
それは、ホームズは入力をも制御する、といふ点だ。

ホームズは天文学を知らない。文学も哲学もわからない。
それは、「自分には必要ない」といふのでホームズが情報を取り入れてこなかつたからだ。
ホームズにはどの情報が必要でどの情報が必要でないかがわかつてゐる。
もつといふと、ホームズには自分の求めるところのもの、かうありたいといふ姿がある。

人は新聞を読む。
本を読み、映画を見、TVのドラマやヴァラエティを見る。
いまだとスマートフォンでSNSに血道を上げる方が多いだらうか。

さうして自分に必要な情報を得ることができてゐるのか。
必要のない情報ばかり入手してゐるのぢやあるまいか。
でも自分に必要な情報つてなに?

世に「新聞を読め」「本を読め」といふ。
大きなお世話だ。
それが個人にどれくらゐ必要ある情報か、たれにわかるといふのだ。

だが、自分になにが必要か、自分はどうありたいのかを知るには、必要かどうかに関はらずさまざまな情報をたくさん仕入れる必要があるのだらう。

GTDには入力を制限するやうな機能はない。
GTDをやつてゐるとFOMO(fear of missing out)をどうにかしやうと思ふやうにはなるかもしれない。
そして「自分はこんなことがしたかつたのか」といふことが見えてくることもあるのかもしれない。

そこではじめて情報の取捨を制御できるのかもしれないなあ。

Tuesday, 21 November 2017

五里霧中

ノールビンドニングのベレー帽は、まだ増やし目の段を編んでゐるところだ。
昼休みのあいた時間にちよこちよこ作るだけなので、進み具合はまあそんなところだらう。
あひかはらず自分がやつてゐることがた正しいのか正しくないのかよくわからない。

はじめてのノールビンドニング」に載つてゐる写真と自分の手元にある編み地とを比べてみると、なんだか違ふ気がする。
本のベレー帽はターコイズ色の毛糸でできてゐて編み目がわかりやすいが、やつがれの方は染めてゐないんぢやないかと思はれるやうな毛を紡いだ茶と白との糸で編み目がいまひとつわかりづらいのだつた。
ダールビースティッチださうなんだが。
どうなんだか。

ベレー帽を編んでゐる途中で、ダールビースティッチになつてゐない部分があることはわかつてゐる。
ダールビースティッチは二つあるワーキングループのうちの一つは針を逆方向から入れることになつてゐる。
これを忘れてしまつてゐる箇所がいくつかある。
自分では正しく針を刺したつもりが間違つてゐたらしい部分もある。

それで本の編み地と違つて見えるのだらうと思へなくもない。

ここ何段かは気をつけてゐるので大丈夫だとは思ふのだが。

ノールビンドニングはここのところワークショップがいくつかあつたのらしい。
知つてゐたら行つたのになあ。
さうしたら正しいことをしてゐるかどうかわかるのに。

まあ、タティングレースも長いこと「自分がやつてゐることは正しいのだらうか」と疑心暗鬼の中でやつてきたので、さういふものと思ふことにするかな。

Monday, 20 November 2017

長いストール完成

風工房の「まきもの いろいろ」に掲載されてゐるフューシャ・パープルのカシミヤ・ストールを仕上げた。

フューシャ・パーブルのカシミヤストール

糸はリッチモアのカシミヤ、針は五号。
すべて本の指定どほりに編んだ、そのつもりだ。

できあがつたストールは、とてもあたたかい。

が。
問題もないわけぢやない。
これ、いつどこへ行くときに使ふよ、といふことだ。

ストールは2mを超える長さで、首に二重に巻いてもかなりのヴォリュームが出る。
通勤電車には向かないまきものなのだ。
無論、編む前にもこのことは考へてはゐた。
完成しても平日は使へないストールになるだらうことは想定内だつた。
でも編んでしまつた。
編みたかつたからだ。

できあがつてあらためて「通勤には使へないなあ」と思ふ。
土日に出かけるときに使へるかな、といつたところか。
土日だつて電車が空いてゐるわけぢやないけどね。
土日の方が運転間隔が空いてゐたり車両編成が短かつたりしてかへつて込み合つてゐることもある。

……使ふときがないではないか。

出番があるとしたら冬に飯田や京都に行くときくらゐだらうか。

糸はすこし多めに買つておいたので、おそろひの帽子でも編まうかと思つてゐた。
だが、やめた。
これくらゐ長いストールなら真智子巻きが可能だからだ。
最近真智子巻きをする人もゐないけどね。
編んでゐる最中に真智子巻きしてみたらこれが大変にあたたかい。
帽子はなしだな。

といふわけで、急遽思ひついたメビウス編みのネックウォーマを編むことにした。
メビウス編み、久しぶりだな。
久しぶりのせゐか異様に楽しい。
サイズから見てもこのネックウォーマの方が活躍するかもしれない。
できあがればの話だが。

Friday, 17 November 2017

なにせうぞくすんで

夜、なかなか就寝できないわけがわかつた。

布団に入らなければと思つた時点でやつてゐることが楽しいからだ。

眠くないことがない。
長いことさういふ状態である。
眠くないときもないわけではないが、ひどく少なくひどく短いあひだのことだ。
日々是眠気との戦ひといつても大げさではない。

眠気との戦ひは不毛だ。
眠ればいいのだ
幸ひなことに、やつがれは不眠症といふわけではない。
布団に入ればたいてい眠れる。
ここのところ寝付きは悪いし、なぜか夜中に突然目が覚めることもある。
しかし、薬が必要なほどではない。

だつたら早く布団に入ればいいだけの話だ。
さう思つてゐたのだが、これが案に相違してむつかしい。

TVは見なくなつた。
見たとしても、見たい番組だけ見たら消せるやうになつた。
以前だつたら家にゐるあひだは漫然と見るともなくTVを見て、見たい番組が終はつたあともだらだらとTVをつけつぱなしにしてゐた。

TVを見ることについては自分で制御できるやうになつた。
だつたら就寝だつてできるやうになるだらう。

さう思つたんだがなあ。
甘かつた。

先日、なんとか削れる時間がないものかと日々行動の記録をとつてゐる、と書いた。
なにかムダな時間はないか。
もつと効率的にできることはないか。
それを見つけやうと思つてゐた。

でもおそらく、その「ムダな時間」を過ごし「非効率なやり方」をしてゐる時間が一日の中で一番楽しいのだ。

時代劇や特撮番組を見、あみものをし、娯楽のためだけに本を読み、知らないことをWebで検索して、気のついたことを手帳やカードに書き出す。
NHKのラジオ講座を聞き、自分なりにこれを習ふ。

昼間はできないことばかりだ。
そして、やめられないほど楽しい。
眠たいにも関はらず、だ。
ラジオ講座のテキストを見返すと「眠い」とか「頭痛い」などと書き込んでゐたりするから、楽しいと思ひつつも眠たいときもある。

楽しいことでも、やめて眠るべきだ。
しかし、楽しいことをせずになんの人生か、とも思ふ。

楽しいことだつて、睡眠が十分な状態でした方がより楽しいはずだ。
わかつちやゐるけどやめられない。

Thursday, 16 November 2017

PoICを取り入れてみる

情報カードを使ふことにした。

といふ話は先週の金曜日にちよこつと書いたとほりだ。

使ふことにしたのはいいとして、問題はどう使ふか、だ。

ひとまづは読んだ本の記録を取ることにしてゐる。
それともうひとつ、疑問に思つたことや興味を抱いたことを忘れないやうにできたら、と思つてゐる。

いま困つてゐることといへば、一度書いてしまつたらなかなか見直す機会がない、といふことだ。

手帳に書いたものは前日、先週、一ヶ月前とさかのぼれるかぎりの記録は見るやうにしてはゐる。
しかし、綴じ手帳・綴じノートといふのはリニアに書き記すしかないものである。
Mindmap などを使へばさうでもないのかもしれないけれど、Mindmap は経過だと思つてゐる。
Mindmap でたくさん情報を出しておいて、そこから内容を集約する。
さう使ふことになつてゐると思つてゐるので、経過を何枚も見せられてもなあ、と思つてしまふのだ。
もちろん、経過を追つてみることが肝要なこともあるけれども。

で、リニアに書き記しつつもノンリニアな展開のできるものとして、情報カードを選択した。
情報カードなら日付や通し番号を記すことでリニアに整理もできるし、それは無視して自由にならべ替へることもできる。
これは使へるのぢやあるまいか。

といふわけで、二年前に文房具カフェのイヴェントで見かけた kamiterior の memottala+(メモッタラプラス)を買ふことにした、とは昨日書いたとほりである。

カードはいまのところLIFEのカードの書き心地が気に入つてゐる。
高校生のときに使つてゐたのが罫線入りだつたので、今回も普通に罫線のカードを使用してゐた。

ところで memottala+についてくるカードは5mm方眼だ。
先週情報カードのことを書くときにちよつとWeb検索をかけたところ、PoICといふものをはじめて知つた。
とても参考になる情報が多く、何度か読み返してゐる。
PoICではカードは方眼用紙を使ふことになつてゐる。
そして、左上のブロックを塗り分けることでどんな種類のカードだかわかるやうにしてゐる。
左から二番目のブロックが塗りつぶされてゐたら日記などの記録カード、三番目ならアイディアなどの発見カードといつた具合だ。

このタグづけはいいな、とちよつと思つた。
カードを集めて上から見たときにどんな内容のカードがあるかぱつと見てわかるからだ。
だが、罫線のカードでこれを実践するのはむつかしい。

memottala+についてきたカードを使ふ間だけ、PoICのこのシステムを試してみることにした。
試して、最初の三枚くらゐで「これはいい!」と思ふやうになつた。
やつぱり「ぱつと見てわかる」といふのは神なのだつた。
そこで、せつせと金曜日から書き始めた罫線のカードにもおなじやうに印付けをした。
二年ほど前に作つたカードにはしてゐない。枚数が多すぎてどうにもならないからだ。

PoICではカードを正として残すといふ。
やつがれはどちらかといふと、カードにいろいろ書き散らして、あとでまとめて綴じ手帳(あるいはシステム手帳)に残したいと思つてゐる。
情報カードはまだ使ひはじめたばかりでこの先どうなるかわからないが、とりあへずはどんどん書いて行かうと思つてゐる。

Wednesday, 15 November 2017

kamiterior の memottala+を使ふ

情報カードを使ふことにした。

といふわけで、二年前に文房具カフェのイヴェントで見かけた kamiterior の memottala+(メモッタラプラス)を買ふことにした。

memottala+

memottala+は5x3カードをたくさん持ち歩けるジョッターである。
kamiterior のカードであれば50枚入れることができるといふ。

文房具カフェで見たとき、これはいいなと思つた。
情報カードを使ふ際の問題のひとつに、如何にして情報カードをたくさん持ち歩くか、といふのがある。
リヒトラブからいい感じのケースが出てゐるし、Moleskine ポケットサイズのポートフォリオにはさんで持ち歩くのもいいかもしれない。
memottala+のいいところは、カードをたくさん持ち歩けるし、ジョッターでもあるから即メモを取ることができる点だらう。

赤にしたのは、かばんから取り出すときにぱつとわかりやすいだらうと思つたからだ。
実際、目にも鮮やかな赤で、即取り出せるのがよい。
色はほかに黒・紺・白無地・白模様とあるようだ。

memottala+は紙製ではあるものの、頑丈な作りで、ジョッターとして使ふときも安定して書き込むことができる。
ジョッターを使用する際裏側に回るカード入れからカードが出てきてしまひさうな不安はあるが、指で押さへれば問題なささうだ。
どちらかといふと、書いてゐるときよりもジョッター面を開くときにカードが落ちないやうに注意する必要がある。

サイズは Moleskine のポケットサイズよりちよつと小さいくらゐだらうか。
携帯しやすい大きさである。
内側にクリップのあるペンを収納することも可能で、パイロットのデシモやユニボール・シグノのRT1などをはさんで持ち歩いてゐる。

memottala+

実際に使つてみて困つたのは、情報カードを取り出しにくいかな、といふことだ。
これはカードを入れすぎなければいいのかもしれない。今後検討していくつもりだ。
もうひとつは、使用前のカードと使用後のカードとの区切りがわかりづらいこともある。
これも仕切を入れるとかなんとか工夫してゆきたい。

使用後のカードはできれば一週間くらゐは持ち歩きたいんだけどな。
未使用のカードと使用後のカードとでは違ふ入れ物に入れるべきだらうか。
これも要検討課題だな。

kamiterior の情報カードは、インキの吸収がよいやうだ。
中字のペンで書いても細字かと思ふくらゐ細い線が書ける。
どちらかといふと、もうちよつとすらすらと書ける紙が好みなので、情報カードは今後は別のものを使ふつもりでゐる。

Tuesday, 14 November 2017

ノールビンドニングに使へさうな糸

ノールビンドニングのベレー帽は少しづつ進んでゐる。

ノールビンドニングのベレー帽 in Progress

立ち上がりの目がなく、ぐるぐる編むのでどこまでで一周したのかわからなくなつてゐるが、だいたい勘で「このあたりで次の段だらう」とあたりをつけて編んでゐる。

……ノールビンドニングは「編む」でいいのだらうか。

「はじめてのノールビンドニング」には編み地が平らにならなくても整形するときに平らにすればよい、といふ旨のことが書かれてゐるので、気にしないことにしてゐる。

糸はマノス・デル・ウルグアイのウールクラシカを使つてゐる。
ノールビンドニングでは糸を足すときに、ちよつと撚りをほぐした糸端と糸端とを合はせて撚りなほす、と本にはあつた。
ダイヤエポカではそれでえらい苦労したのだけれど、ウールクラシカだとそれほどでもない。
気をつけてゐればなんとかなる。

この糸のつなぎ方をロシアン・ジョインだと思つてゐたけれど、どうやら違ふのらしい。
ロシアン・ジョインといふのは、糸端を針に通してもう片方の糸端に縫ひ込むやうにして糸を足す方法のやうだ。

でもなー、レース糸をつなぐときは確か糸端と糸端とを合はせて撚りなほしてたやうな気がするんだけどなあ。そしてそれをロシアン・ジョインと呼んでゐたと記憶してゐる。
勘違ひだつたのかもしれない。

糸端と糸端とを撚り合はせるにしても片方をもう片方に縫ひ込むにせよ、編み上がつたときに糸端の処理が少なくて済むのはよい。
糸のムダも少ないし。

それに、もしロシアン・ジョインが可能なら、撚り合はせにくい糸でもノールビンドニングが可能なんぢやあるまいか。
可能だな。

いままでは「ノールビンドニングをするには自分で一から糸を紡がねばならぬのだらうか」と悩んでゐたけれど、ロシアン・ジョインができる糸なら使へさうだ。
ちよつとやつてみただけだけれども、ノールビンドニングの編み地はとてもあたたかい。
首・手首・足首をあたためるやうなものが編めたらなあと思つてゐる。
その際に糸の選択肢が広がるなら、こんなにいいことはない。

そのまへにこのベレー帽を仕上げないとなー。

Monday, 13 November 2017

ヴァーチャル・モバイル・ニッティング

風工房の「まきもの いろいろ」に掲載されてゐるフューシャ・パープルのロング・ストールを編み始めて一ヶ月がたつた。
まだ編んでゐる最中である。

まだ編んでゐる最中ではあるものの、ゴールは見えてきた。
すくなくとも指定どほりに編むとすれば、あと四十段も編めば編み終はることになる。

編んでゐる最中に一番よく見たTV番組は「助け人走る」なのだが。
昨日「シン・ゴジラ」を見ながら編んだので、できあがつたあかつきには「ああ、これを編んでる最中に「助け人走る」とか「シン・ゴジラ」とかを見たなぁ」と思ふのだらうなあ。
そのほかにも、「大江戸捜査網」とか「ドラゴンボール超」とか「ねほりんぱほりん」とかを見ながら編んでゐる。
でもきつと思ひ出すのは「助け人走る」と「シン・ゴジラ」。
そんな気がする。

世に「モバイル・ニッティング」といふものがある。
編んでゐるものを持ち歩いて、編めさうなときに編む。
医者や銀行、役所などの待ち時間などが編めさうなとき、だな。
よく旅行に行く人などは電車や飛行機を待つあひだや旅先でちよつと時間のあいたときなどに編むのだらう。
そして編んだものをあとから見て「ああ、これはどこそこ行つたときに編んでゐたものだ」となつかしく思ひ出すのだらう。

残念ながらやつがれはあまりあちこちに出かけるたちではないし、最近はあみものは持ち歩かない。それでなくても荷物が大きいからだ。
くつ下なんかは持ち歩いて編んでもいいかな、と思はないでもないけれど、実践には至つてゐない。

その代はりといつてはなんだが、編みながらTVを見る。
TV番組を録画したものを見るのだが(「シン・ゴジラ」のTV放映はリアルタイムに見たが)、これがおそらく旅先で編むのと似たやうな状態になつてゐるやうに思ふ。

いま編んでゐるストールを見るとなく見るときに、山村聡演じる頭領清兵衛の笑顔や田村高廣演じる文さんのどこからどう見てもをつさんなのにこどものやうな身軽な動きや中谷一郎演じる平さんの煙管の煙とともにあらはれる姿や宮内洋演じる龍のどこか志穂美悦子感のある表情や野川由美子演じるおきちの可愛さとか津坂匡章(当時)演じる利吉の存外頼りになるところとかを思ひ出す。
おそらく思ひ出す。
あるいはこの先また「助け人走る」を見ることがあつたら、「あのときは長いストールをせつせと編んでゐたよなあ」と思ふだらう。

それがなによと云はれたらそれまでだが、さうした記憶のよすがになるものがやつがれにとつては大切だ、と、それだけの話である。

Friday, 10 November 2017

5x3カードとの出会ひ

情報カードとの出会ひは高校の国語の授業だつた。

教師が指定したのは5x3のカードだつた。
当時は京大式カードが主流だつたのぢやあるまいか。
後にさう思つた。
なにしろ情報カードといふものがはじめてだし、教師からこれにしろといはれたので5x3カードを手にした。
Meadのものだつたと記憶する。

学校で習つたのは、参考文献と引用の書き方だつた。
著者名、書名など記述する順番から句読点の打ち方など厳しく教へられた。
実際に作文をすることはなかつたが、書くつもりで主題を選び、その主題に関する文献の名前を集めるといふところまでやつた。
生徒は図書室につれていかれて、雑誌目録で主題を探し文献を書き出すやう云はれた。
主題はリシュリューにした。

さきにも書いたとほり、採点は厳しかつたし、なんの役に立つのかさつぱりわからなかつたが、とつても楽しかつた。
雑誌目録なんてものがあるのもはじめて知つた。
調べたいことがどの雑誌の何年何号の何ページに出てゐるとか一発でわかつてしまふのだ。
いまだとネット検索でわかるのかもしれないけれど、分厚い本をめくつて知りたい情報に出会ふといふのが異様に気に入つた。

この授業の後しばらくは、読んだ本の情報やその中の気に入つた文章などを5x3カードに書き出してゐた。
そのうち、情報カードにも蔵書管理用のフォーマットがあることを知つて、一時は使つてゐたこともある。
でもまた単に罫線の引いてあるカードに戻つた。

二十歳を少しすぎるくらゐまではさうしてゐたと思ふ。
いまでも探せばそのとき使つてゐたカードが出てくるはずだ。捨てた記憶はない。
ただ、腐海の底に沈んでゐて取り出せない。捨てたも同然か。

このころアルバイト先で Macintosh に出会ひ、FileMaker といふものを知つて、「これだ!」と思ふのだが、いまに至るまで FileMaker を持つてゐたことはない。
Macを買つたらハイパーカードがついてゐたからそれで十分かな、と思つた、といふのはまた別の話。

5x3カードでは小さすぎると思ふときもあつて、京大式カードも使つてゐたことがある。
京大式カードは大きすぎた。
情報カードのよいところは、書いたものをシャッフルして並べ替へたりひろげたりして見ることができるところだと思ふ。
5x3カードだとつねに携帯してメモとして使ふのも容易だし、手の小さいやつがれでも取り扱ひやすい。
京大式カードはたくさん書けるけど、携帯性はさほどよくないし、取り扱ふのも大変だ。
一枚のカードには一内容だけ書くといふのが鉄則だしね。

いまでも5x3カードはポケットサイズの Moleskine に常時四、五枚はさんでゐる。

5x3カードが手放せないのは、主に持つたときの心地よさによる。
何枚か重ねてトランプのやうにパラパラとやるのがとても楽しい。
意味はない。
意味はないのだが、そこがいいんぢやない、といふ気もする。

ここのところ手帳の補助としてしか使つてゐなかつたが、またちよつと5x3カードを使つてみやうかな、と思つてゐる。

Thursday, 09 November 2017

美しい水車小屋

「美しい水車小屋の乙女」といつた場合、「美しい」はどこにかかるのか。

さう考へさせるやうな云ひ方書き方はしてはいけない、といふのが正解かな。

この場合、「美しい乙女」といひたいのだらうが、「美しい水車小屋」である可能性も捨てられない。もしかしたら「美しい水車小屋の美しい乙女」といひたいのかもしれない。
どちらが正しいのかはそのことばを発した本人にしかわからない。本人さへわかつてゐないことも考へられる。

係り受けがわかるやうにしたいのなら「水車小屋の美しい乙女」にすればいい。
あ、水車小屋が美しい場合はむづかしいね。
「美しい水車小屋にゐる乙女」とかかね。
でもこれ、水車小屋のことが云ひたいんぢやないんだよね。
云ひたいのは乙女のこと。
なぜさう思ふかといふと、最後に来てゐるからだ。
「乙女」の上についてゐるものは「乙女」を修飾することば。
さういふ判断がはたらくからだらう。

さうすると「美しい水車小屋の乙女」でもいいのかなあ。
いや、云ひたいのは「乙女」についてだけれども、「美しい」がどれにかかるのかはそれだけでは判断できない。
ただの水車小屋ぢやなくて美しい水車小屋にゐる乙女と云ひたいのかもしれないぢやあないか。
やはりここは「水車小屋の美しい乙女」とするのがいいのだらう。

水車小屋のことを云ひたかつたらどうすればいいのか。
「乙女のゐる美しい水車小屋」とかかな。

かうして係り受けのわかりやすい表現を心がけていくと、そのうちAIにも理解しやすい表現といはれるやうになつたりするのだらうか。

先日朝日新聞で中高生の読解力の低さをとりあげてゐた。
その記事がちよつと気になつて、国立情報学研究所のプレスリリース(pdf)をちよこつと読んでみて、そんなことを考へてゐた。

Wednesday, 08 November 2017

なくても通じる五・六段目

今月歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」の五段目・六段目がかかつてゐる。
早野勘平の悲劇を描いた段で、討ち入りとは直接の関係はない。
五段目と六段目とはまるまるなくても赤穂浪士の討ち入りの話としてはなんの問題もない。
しかるに五段目・六段目は人気演目である。

浄瑠璃にはかういふことがしばしばある。
「菅原伝授手習鑑」といふのは、菅原道真が藤原時平に陥れられて流罪にされる話だ。
でも人気がある段は「寺子屋」。
道真にゆかりはあるものの時平に仕へてゐる松王丸とその妻子と、道真から筆法を伝授されはしたものの不義の罪で解雇されてしまつた源蔵とその妻を描いた話である。
源蔵は筆法を伝授されてゐるので話の主流に乗るべき登場人物ではあるのだが、「寺子屋」の段はまるまるなくても物語を語るうへでなんの支障もない。

新歌舞伎ながら「元禄忠臣蔵」の中でよく上演されるのが「御浜御殿」といふのもその伝だ。
「御浜御殿」の主役はのちの六代将軍である甲府宰相綱豊卿で、己が心中と大石内蔵助のそれとを照らしあはせて述懐する場面がクライマックスだが、この話がなくても「元禄忠臣蔵」は成立する。
真山青果の本はせりふが多くて理屈つぽいが、かういふところに古典めいた雰囲気がある。骨太な感じがするのもこのためだらう。

かういふ、「どーでもいい話」「ゐなくてもいい登場人物」をfeatureするところが浄瑠璃・歌舞伎のいいところなんだよなあ。

脇役なんだよ。
勘平にしても、松王丸にしても、忠信にしても。
歴史の教科書に赤穂浪士や菅原道真、源義経のことを書くとして、どんなに詳しく書いてもせいぜい名前くらゐしか出てこないやうな人々ばかりだ。松王なんか名前すら登場しない可能性が高い。

それをとりあげる。
そして人気演目になる。

本筋に関係ないからいくらでも話をふくらませることができるといふのがいいのぢやあるまいか。
お軽と勘平との仲なんてほんとにどーでもよくて、勘平に「色にふけつたばつかりに」とかいはれると、「そのとーりだよ。なに悲劇の主人公ぶつてるんだよ」と苛々してしまふこと必至だが、さうした色恋の取り沙汰があると話に艶が出るしメリハリもつく。
本筋には関係ないから、本筋を知らない人にも楽しめる。

全体的な物語の中で端役をfeatureしたりすると、いまの世の中では受け入れられないのかもしれない。
「そんなことしてないで早く話をすすめろよ」と云はれてしまふこともあらう。
でも大河ドラマでいへば「新選組!」の「ある隊士の死」なんかよかつたしなあ。
大河ドラマとか朝の連続テレビ小説なんかは長い分、かういふ遊びがあつてもいいと思ふんだよね。

二次創作なんてのも、「本筋とは関係のない人をfeatureしたらおもしろさう」といふところから生まれてくるものもあるんぢやないかな。

Tuesday, 07 November 2017

ノールビンドニングでベレー帽

はじめてのノールビンドニング」に掲載されてゐるベレー帽に挑戦してみることにした。

このベレー帽にはダールビー・スティッチといふ名前の編み方をするといふ。
そこでまづダールビー・スティッチを練習してみた。

ノールビンドニングの練習

……例によつて正しくできてゐるのかどうかわからない。
これまではブロディエン・スティッチばかり編んでゐた。
ブロディエン・スティッチはワーキング・ループと呼ばれる目の三目とサム・ループと呼ばれる目と四目に糸を通して作るスティッチだ。
段にするときはさらに下の段のコード・ループと呼ばれる目を二目拾ふ。
そんな感じでたくさんの目を一度に拾ふためか、できあがる編み地はとてもあたたかい。

一方のダールビー・スティッチはといふと、ワーキング・ループは二目しか拾はないし、段にするときのコード・ループも一目しか拾はない。
そのためかブロディエン・スティッチより伸縮性があるといふ。
編み地も若干薄い、かな。

さらに、ベレー帽を編むにはぐるぐる円に編めねばならないと思ひ、これは多少慣れてきたブロディエン・スティッチでまづ練習してみた。
慣れてきたとはいへ、やはり正しくできてゐるのかどうかはよくわからないのだが。

最初に円にする方法は、かぎ針編みでも使ふことがあるのでそんなにむつかしくはなかつた。
コード・ループを拾ふときに違ふ目を拾つてしまつてゐたりもしたが、まあ、できないことはない。
問題は、段の切り替へなしにぐるぐる編むので、どこが段の編み始めかよくわからないことだなー。
ベレー帽なのであるていどは平らになるやうに編む必要上、分散増目や分散減目をしないといけないし。
ここはスティッチマーカーの出番だらうと思ふのだが、さて、どこが段のはじめなのやら……。
むつかしい。

でもまあひとまづやつてみるにかぎるか。
といふわけで、編み始めたのがこれである。
糸は指定されてゐるマノス・デル・ウルグアイのウールクラシカだ。色は気に入つたものにした。

ノールビンドニングの練習

できてゐるのだらうか。
とりあへずそれらしくはなつてゐるので、できてゐると思ふことにしたい。

これまではダイヤエポカを使つてきた。
ダイヤエポカだと糸のすべりがよく、ループに糸をとほして引くのもそんなにたいした作業ではなかつた。
ウールクラシカは違ふ。
糸を引くときにちよつと力がいる。
かういふ糸がロシアン・ジョインに向くのか知らん。

さう、指定糸を使ふ理由は、「これならロシアン・ジョインをやりやすいのでは」と思つたからだ。
まだ糸をつなぐところまで到達してゐない。
はたしてウールクラシカでのロシアン・ジョインや如何に。
それは次回の講釈で。

Monday, 06 November 2017

長過ぎる

現在編んでゐるストールは五百段を超えた。
指定どほり編むことにすると、あと百三十段ほどで編み終はる。

編んでゐるのは風工房の「まきもの いろいろ」に掲載されてゐるフューシャ・パープルのストールだ。
指定糸を指定針で編んでゐる。
毛糸の消費量もほぼ指定どほりなのではないかと思つてゐる。
一玉で五十段とちよつとくらゐ。
これだと十二玉とすこしで指定段まで編めるんぢやないかな。

なにもなにもほぼ指定どほりなのだが、ひとつだけさうでもないものがある。
長さだ。
指定どほり編むと二メートルを超える長さになるはずなのだが、半分くらゐ編んだところで一メールに達してゐなかつた。
さういへば幅ははかつたことがないな。
整形すれば指定の長さになるのだらうか。
もとが長いストールなので、本に載つてゐるとほりの長さにならなくてもいいのだが、ちよつと気になつてゐる。

気になるといへば、そろそろ整形のことが気になつてゐる。
二メートルを超える長さのものを広げて乾かす空間が我が家にあるだらうか。

ないな。
たぶんない。

編み始める前から整形の際のスペースがないぞ、といふことは気にしてはゐたのだが、編みたいので編んでしまつた。
いまのところ後悔はしてゐない。

円形のショールを編んだときは、半分に折つて整形した。結果、
あまりいい形にはならなかつた。
が、円形のショールを円形のまま使ふことはほぼない。
半分に折つて半円にして使ふばかりだ。
これはこれでよしとした。

しかし、長方形で長いもの、なあ。
どうしたものだらうか。
広げられるだけ広げて、すこしづつ形をととのへるしかないか。
メビウス編みのときはさうするわけだし。

整形のことが気になりだすと、編む手もためらふやうになる。
なんとかがんがん編み進みたいものだ。

Friday, 03 November 2017

commonplace book といふかおことば帳

Commonplace book を辞書で引くと「備忘録、書き抜き帳」などと書いてある。

My Commonplace Books

自分では「おことば帳」と呼んでゐる。
書き抜き帳とはすなはち、読んだ本や見た映画・ドラマ、たまたま耳にした見知らぬ人の会話など、気になつたことばや表現を書き記す帳面だ。

はじめてのおことば帳は Smythson の SCHOTT'S MISCELLANY DIARY(以下、SCHOTT'S) だつた。
もともとおことば帳の面ももつてゐる SCHOTT'S に、さらに自分で気になつたことばを書き抜かうと思つたのだつた。

なにを書いてゐたかと SCHOTT'S を見返してゐたら思はず読みふけつてしまつた。
ぱつと開いたところには

笑うのも泣くのも、ほかにどうしようもないとき人間がやることです。 
「ローズウォーターさんあなたに神のお恵みを」カート・ヴォネガット 解説
だとか
不機嫌は感染する。 
「おみごと手帖」中野翠
執念の先にこそ解脱がある。とらわれ、こだわって追い求めていかないと解脱は見えて来ない。そんな気がするんです。 
川本喜八郎 NHKのドキュメンタリー番組
だとか書いてある。
だからなに、とも思ふけれども、いま見てもおもしろい。

SCHOTT'S をおことば帳として使つてゐたときは、読む本の大半は図書館で借りた本だつたため、読んだ端から書き抜くことが多かつた。
おなじ本からの書き抜きがたくさんあるのはそのせゐでもある。
草森紳一の「少年曹操」からの書き抜きなどは「そこまで書かなくても」と思ふものもないわけではない。
でも

ただ人には、誤解の自由がある、というよりは正解と思いながら誤解していき、それが物事を予想外なところへ運んでいく。これが世の中の面白さ、つらさである。
とか書いてあると、「さうだよなー、誤解してもいいんだよな。誤解なくしてなんの読書・観劇・whatever」と心強く思ふ。

おことば帳のなにがいいかといふと、自分のことばではないものが書いてあるところだ。
以前、美篶堂のハードカバーノートを買つてもつたいなくてなかなか使へなかつたといふやうな話を書いたが、おことば帳にすることにしたら書き込むことへの抵抗がきれいさつぱりなくなつた。
こちらはB6サイズでつねに持ち歩くといふわけにはいかないものの、折にふれ見返してゐる。
SCHOTT'S を使つてゐたころと違ふ点は、読んでから書きぬくまでにちよつと時間をおくやうにしてゐることだ。
買つた本なら付箋を貼る。さうでない場合は BULLET JOURNAL に書き出す。
すこしあひだを置いて見返しながら「これは書き抜く」「これは書かない」とふりわける。
かういふ作業は読んだものなどを記憶に定着させるにはいいんぢやないかと思つてゐる。
さう云ひながらすぐに忘れてしまふんだけれどもね。

見返すことが前提になつてゐるので、おことば帳には比較的丁寧に字を書くやうにしてゐるのもいいのかもしれない。

余裕がなくなると書き抜かなくなるし見返さなくもなる。
余裕のバロメータとしても使へるおことば帳である。

Thursday, 02 November 2017

記録を見返して知る余裕のなさ

日々、なににどれくらゐ時間がかかつてゐるのか記録をとつてゐる。

朝は何時に起きて何時に出かけ、何時に職場について何時に帰途につき、家についた時間、食事の支度や食事、後かたづけ、入浴などをはじめた時間と終はつた時間、それに就寝時間。
さういふ記録を見てゐると、余裕がないな、と思ふ。

先日、あまり調子がよくなくて夕飯を食べなかつたところ、なんだかとつても時間に余裕がある気がした。
そりやさうだ。
食事の時間だけでなく支度や後かたづけも必要ないのだから、その時間分まるまるあく。

さう、なにもしないでいい時間を作らうと思つたら、もう夕飯の時間を削るしかない。
そんな気がしてゐる。

夕飯を食べ終はつてから就寝するまで三時間はあけなければならないといふ。
夕飯直後の入浴も避けねばならない。
さうすると、夕飯を食べてから入浴までの時間と夕飯を食べてから寝るまでの時間は必要だといふことになる。
実際に記録を見ると、夕飯を食べ終えてから就寝するまでのあひだは平均でだいたい三時間半だ。
三十分も無駄な時間があるのか、と思ふ一方で、それくらゐの誤差はでるだらうとも思ふ。

ぎちぎちにつめてあれこれしたいわけぢやない。
一日のうち、ぼんやりする時間もほしい。
できれば帰宅後だらう。
朝はあまりにも時間が足りない。
それに、夕飯から就寝時間までのあひだに三時間は必要といふことは、そのあひだにすることを早起きして朝にまはしてもあまり意味はない。
やることを朝に回して夜はぼんやりする?
睡眠時間だつてもうこれ以上は削れない状態なのに?

といふわけで、かなり煮詰まつてゐる。

世の中の人はやはり睡眠時間が少ないのかな。
自分のつけた記録を見ながらさう思ふ。
やつがれはたいしたことはなにもしてゐない。
それでゐてこんなに時間がない。
もつと細かくスケジュールをたててそのとほりにものごとをこなしていけばいいのだらうけれど。
でも、それをやつてゐたら、なんだかものすごくむなしい気持ちになつてしまつて、なあ。
なんのためにこんなに時間に追はれたやうな暮らしをせねばならぬのか。
有り体に云つて睡眠時間を確保するためなのだが、でもそれにしたつて、むなしすぎる。

とりあへずもう少し記録をとつてみて、あいてゐる時間を見つけたいと思つてゐる。
そんなものがあれば、だけど。

Wednesday, 01 November 2017

察しない世の中

Twitterを見てゐると、自分のTimeLineには「人に対して「察しろ」などと云ふな。求めることはちやんとことばにして伝へろ」といふ旨のつぶやきが多い。

もしそれがあたりまへになつたら「子供の遣ひぢやあるまいし」といふ表現もなくなるんだらうな。
ちやんと指示をしなかつた方が悪い。
さういふ世の中になるのなら大歓迎だ。
なぜといつて、やつがれは子供の遣ひしかできない人間だからだ。
「察しろと云ふな。ことばで伝へよ」と主張する人は、そこまで考へてゐないんぢやあるまいか。
そんな気もする。

世の中は「云はないけど察してくれ」といふドラマにあふれてゐる。
赤穂浪士に立花左近といふ人物が出てくる。
討ち入りまぢかで江戸へと下る大石内蔵助は立花左近といふ偽名を使つてゐる。
すると関所でほんものの立花左近と出くはしてしまふ。
よくあるのは内蔵助が白紙の道中手形を立花左近に見せるといふ話。それで立花左近は事情を察して自分の方が偽物だと云ふ。
これ、ダメでせう。
もし「察しろと云ふな。ことばで伝へよ」といふのがあたりまへの世の中になつたら、「なにも云はれてないのになんでわかるの?」になつてしまふ。
現実と虚構とは違ふ?
さうだらうか。

浄瑠璃「一谷嫩軍記」の「熊谷陣屋」では「一枝を伐らば一指を剪るべし」といふ高札を見て、熊谷次郎が「これは平敦盛を助けてこの熊谷の一子を身代はりにしろといふ命令だ」と悟る。
「察しろと云ふな。ことばで伝へよ」といふのがあたりまへの世の中だつたら、こんなことあり得ない。
最初からさう云へよといふ話だ。
いまはまだまだ「云はなくても察しろ」といふ世の中だから、見る方もわかる。
察しないのがあたりまへの世に育つた人だつたらどうだらう。
「なんで熊谷はそんな考へに至つたのか」と不思議に思ふのぢやああるまいか。
そこは云はなくてもわかるだらうつて?
さういふ姿勢がいけないつて話なんぢやないのかな。

10月の読書メーター

10月の読書メーター
読んだ本の数:8
読んだページ数:1905
ナイス数:19

The Annotated Lolita: Revised and UpdatedThe Annotated Lolita: Revised and Updated感想
冒頭の「アナベル・リー」が何をか言わんや。なぜアリスはありでロリータはなしなのか。アリスは劣等感にはつながらないがロリータは直結するからか。などと考えながら読んだ。確かに「mauve」、何度か出てくるなあ。注釈はざっと眺めたていどだが、やはりあるとありがたい。読み返すときに注釈もじっくり読むつもり。
読了日:10月03日 著者:Vladimir Nabokov
大学生・社会人のための言語技術トレーニング大学生・社会人のための言語技術トレーニング感想
初読のときに「理屈っぽい人間は嫌われる。そうでない社会を作らないと言語技術は広まらない」と書いたが、でもやっぱり自分に足りないのはこういうものの見方なんではないかと思って再読。
読了日:10月06日 著者:三森ゆりか
面白くて眠れなくなる化学 (PHP文庫)面白くて眠れなくなる化学 (PHP文庫)感想
前書きに「その日やったことを夕食の時に生徒が家族に話すような授業を目指す」という旨のことが書いてあって、それだけでOKという気分。中学の時の理科の教師はよく「理科の先生は命がけだ」と云っていたけれど、そのとおりだ。時折「ここにもうちょっと説明があれば」と思うところもあるけれど、このヴォリュームだから仕方がないか。
読了日:10月08日 著者:左巻 健男
弟子弟子感想
孔子の泄冶評を知ったのはこの話でだったと記憶している。それまで儒教というのはあるじへの絶対といっていいような服従を強要するものだと思っていた。「ベンチがアホやから野球がでけへん」でもいいんだ、と思った。その後、尽くすに足る相手を見つけることができるなら、そして自ら働くことができるなら。主人公にはそこのところを理解してほしかったな、と当時も思った。
読了日:10月11日 著者:中島 敦
牛人牛人感想
元ネタは何度か読んでも覚えられないのにこれだと一発で覚えてしまう。それでも時間が経つと「はて自分はいったいなにでこの話を読んだのだろう」と悩むことがある。でも話は忘れない。
読了日:10月12日 著者:中島 敦
和歌でない歌和歌でない歌感想
三十前なのかー。
「和歌」とはなんだろう。いま「和歌」と呼べる歌がどれほどあるのか。などと考え乍ら、自分もまた喘鳴をわれと聞きつつ読んだ夜を思い出す。
読了日:10月12日 著者:中島 敦
論語 (中公文庫)論語 (中公文庫)感想
中島敦の「弟子」を読んだ勢いで再読。でも通読するような本じゃない気がする。全部一気に読むことも必要だけど、ゆっくり時間をかけて読んだ方がよさそう。そこから一字一字を問題にするようになったらおしまいではあるけれど。世の中、探せば出てくることは覚えなくてもいいという風潮があるが、覚えておいた方がいいこともある。この本に書かれていることもそのうちの一つなんじゃないかな。著者独自の新釈もあるけど、出版年が古いのでどれくらい「新」なのかはわからず。
読了日:10月19日 著者:孔子,貝塚 茂樹
老子 (講談社学術文庫)老子 (講談社学術文庫)感想
この本の解説とは違うけれども、無にたどりつくにはとにかくあれこれつめこむことが必要なのではあるまいか。ひたすらつめこんで、つめこんだ先にあるのが無なのではないか。そんな気がした。
読了日:10月23日 著者:金谷 治

読書メーター

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