大向ふ考
今月歌舞伎座の演目のうち、坂東玉三郎が出演・演出する芝居では大向ふの会に対し「声をかけないやうに」といふお達しがあつたのださうだ。
伝聞である。
確認したわけではない。
大向ふの会といふのは歌舞伎の芝居の合間合間にかけ声をかける人々の会だ。東京にはいくつかあると聞いてゐる。
役者の出入りまたはせりふのちやうどいいタイミングで「何々屋!」と屋号を叫ぶ人がゐる、さういふ人々を大向ふと呼ぶ。
大向ふの会の人は木戸銭御免で芝居を見る。立ちつぱなしで芝居を見て、そして声をかける。
お達しについてはいくつか噂を聞いた。
曰く、大向ふの会に所属してゐない客に対しては禁じてゐるわけではない。なぜといつてお金を払つてゐる客に対してどうかうすることはできないからだ。
曰く、大向ふの会に所属してゐない人が、声をかけないやうにといふお達しのある芝居で声をかけた場合、幕間に係員が「かけ声はお控へください」などと説明しにいく。
もし後者がほんたうなら、場内アナウンスなり貼り紙なりで周知すべきことだ。
それをしてゐないんだから、前者の方が正しいのだらうといふ気はしてゐる。
これまた原典のない話で恐縮だが、江戸時代には拍手といふものは存在しなかつたのだといふ。
拍手はなくて、でも「いまの演技、とつてもいい!」だとか「なんとしても誉めたい!」といふ感情が大向ふを生んだ。
大向ふといふのはさういふものだと理解してゐる。
時は流れて、いまや歌舞伎の芝居でも客席から拍手が起こるし、場合によつてはカーテン・コールやスタンディング・オベイションまであることもある。
もしかしたら、大向ふは、もうその役割を果たし終へてしまつたのではあるまいか。
芝居の彩りとしては魅力があるし、なにしろ昔からあるものなので「もう不要です」とはいへない。
さういふ存在なのではあるまいか。
歌舞伎は、隆盛を極めたその昔にはいはゆる大衆芸能だつたらう。
大衆芸能だつたものが時代を経てなにかもつと高尚なものに変はりつつある。あるいはもう変はつてゐるのかもしれない。
客側も変はつてきてゐる。
拍手をするやうになつたことはもちろん、歌舞伎を見る以前にクラシック音楽の演奏会やいはゆる赤毛ものの芝居などにたくさん通つた経験のある客が多くなつてゐる。
さうすると、江戸時代にはあたりまへだつたらう上演中のお喋りや飲食は「とんでもないこと」になる。
客はしづかに鑑賞して、要所要所で手をたたくもの。
いまの歌舞伎の客はさうなつてゐる。なつてゐない部分もあるけれど、さうあることが望まれてゐる。
でもたまに昔の素性が出てしまふこともあるんだらうな。
今月の国立劇場の芝居では、二幕目以降、しよつ中隣の席の人とお喋りしてゐる一団がゐた。
「テレビを見る感覚」とののしる人もゐるけれど、あれは先祖帰りなんではあるまいか。
芝居のどこかに江戸のころの雰囲気が残つてゐて、それが客のお喋りしたい気分を呼び覚ます。
そんなこともあるんぢやあるまいか。
どちらかといへば大向ふには残つてもらひたいし、できれば会に入つてゐない人のかけ声も聞きたい。
建てなほす前の歌舞伎座にゐたんだよね。
自分の好きな役者の出る演目に一度だけ声をかける人とか。
いい声で、絶妙のタイミングでね。
しかし、かうして隠然と「大向ふ禁止」といふお達しが出て、しかもこれがはじめてでもないことを考へると、大向ふにはゐなくなつてほしいと思つてゐる勢力があるのではないかといふ気がしてくる。
あからさまに禁止するわけではなく、噂を流すことによつて人の疑念を呼び、大向ふを敬遠するやうな雰囲気を作る。
これがただの気のせゐであることを願つてやまない。
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