漫然とただ漫然と
あひかはらず足は痛い。
ちよつと脅されてゐるので医者や看護師のいふとほりにしてゐるのだが、回復してゐるといふ感覚はあまりない。
素人判断としては「安静にしてゐないのが一番悪いんぢやあるまいか」と思つてゐるが、さて。
といふわけで、いまも「痛いなー」と思ひつつこれを打つてゐる。
そのていどの痛みといふことでもある。
さういへば先日看護師さんから「痛みにお強いですね」とほめられてゐる患者さんがゐた。それつて「鈍感ですね」つてことなんぢやないの、と思つたが口に出しては云はなかつた。
そのていどには痛いといふことでもある。
昨日、「自分にとつて痛み止めを飲むといふことは「蠅を飲み込んだ老婦人」の歌に出てくる「飲み込んだ蠅をなんとかしやうとして蜘蛛を飲み込むことと同義」といふやうなことを書いた。
痛くても用事その他ができてゐるから云へることだ。
痛くて痛くてなにもできないといふ場合には適用できない。
そんなことを点滴を受けながら考へてゐた。
たとへばいまのやつがれのやうな状態に、いはゆるマインドフルな人が陥つたとする。
マインドフルな人はどうするだらう。
マインドフルなのだから、ひたすら痛みに集中するか。
それとも痛みで気が散るから痛み止めを飲んでその他のことに集中するか。
おそらくマインドフルな人が選ぶのは後者だらう。
一方やつがれはといふとマインドレスな性分なので、「痛いなー」と思ひつつ「助け人走る」の再放送などを見たりする。
「痛いなー」と思ひつつ編み、「痛いなー」と思ひつつ手帳にあれこれ記入する。
全然ものごとに集中できてゐない。
痛くないときだつて集中はできないのであまり気にならない。
結局さういふことなのかもしれない。
なにごとかに邁進する人、目的意識を持つた人は痛み止めを飲むといふ選択をするのかもしれない。
こちらはといふと日々漫然とぼんやりしてゐるので、それで飲まうといふ気にならないのかもしれないなあ。
どうも「Zen」だとか「マインドフルネス」といふのは功利的なにほひがして胡散臭く感じてしまふ。
功利的でなにが悪い。
なぜ功利的なにほひを自分は嫌ふのか。
などといふことをまた点滴のときにでも考へやう。
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