それとも俺が悪いのか
昨日、Twitterで見かけたつぶやきに「以前は職場の書類はいまよりもずつと短く簡潔だつた。すべて手書きだつたからだ」といふことが書いてあつた。
以前といふのは1980年代くらいまでのことか。
つぶやいた人のいふ当時の文書を読んだわけではないので定かではないが、手書きするんだからそんなに長くは書けなかつたらう。
漢文が簡潔だといはれる所以は、紙のない時代に竹や木に書いてゐたからともいはれてゐる。
書きづらく修正も面倒なものに書くとしたら、書き出す前に内容を練つてから書くだらう。
PCで書くやうになつて「まづは書きはじめやう」といふ習性が身についた。
そんな可能性もある。
でも、それだつたら推敲すればいい話だ。
PCのワードプロセッシング・アプリケーションなりテキスト・エディタなりで書いた方が短くしやすいだらうに。
PCで文書を書いた場合、下書きは下書きとして別ファイルに残しておける。
別ファイルを推敲して短くしていく方が手書きで下書きを書いて短くしていくより楽なんぢやないか。
やりすぎたなと思つたら下書きファイルに戻ればいい。
ちよつとした修正ならCtrl+Zを押すといふ手もある。
画面上で推敲するのは紙で書いたものを読んで推敲するよりむつかしいとは思ふ。
なぜか画面上の文章を読むと「目が滑る」やうな印象を受けることがある。
読んでゐるつもりで読んでゐない。
見落としが発生しやすいのだ。
でもそれは誤字脱字のやうな細かい修正の話で、段落全体を削るとか、云ひまはしを変へるとか、さういふことならそんなに変はりなくできるんぢやないかなあ。
人は書いたものを削りたがらないものなのかもしれない。
せつかく書いたのにもつたいないと思つてしまふ。
だからどんどん文書が長くなつていく。
文書が長くなるといふことは、読む時間も長くなるといふことだ。
職場であれば仕事する時間が増えるといふことになる。
人間の仕事を楽にするために導入されたはずのPCが人間の時間を奪ふことになつてゐる。
昨日はあんなことを書いておいてなんだが、AIが職場に入つてきても、おなじやうなことになるのぢやあるまいか。
チト楽天的にすぎるかな。
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