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Tuesday, 31 October 2017

ロシアン・ジョインに苦しむ

ノールビンドニングは筒状に編めるやうになつてきた。

Nalbindning in Progress

はじめてのノールビンドニング」を見ながらちよつとづつ進めてゐる。
これは一応リストウォーマにしやうと思つて作りはじめた。
糸はダイヤエポカ。考へてみたら洗濯機で洗へる毛糸だ。すなはちロシアン・ジョインには向かない。

ロシアン・ジョインといふのは糸をつなぐ手法で、糸の端の撚りをほぐして端と端同士を合はせて撚りあはせる。
おそらくフェアアイルものを編むやうなシェットランドの毛を紡いだ糸とかだとそんなにむつかしくないんだと思ふ。
しかし、スーパーウォッシュの毛糸とかには向かない。
最近はあまり毛糸売場に行かないのでしかとはいへないが、現在本邦で売られてゐる毛糸はあまりちくちくしないやうなものが多い。さういふ糸でロシアン・ジョインはかなりむつかしいんぢやないかなあ。

「はじめてのノールビンドニング」で紹介されてゐる糸はロシアン・ジョインのやりやすい糸なのだらう。
手紡ぎ糸も向いてゐるといふので自分で紡いだ糸で試してみたところ、細すぎて無理だつた。
本には細い糸でノールビンドニングをすると透け感のある編み地になると書いてある。
でも、初心者には無理。
すくなくともやつがれには無理だつた。
初心者は太くて色の明るい糸がいい。
今回よくわかつた。

といふわけで、糸をつなぐことに毎回苦労してゐる。
あと、なんとなくできてゐる気はするけれど、正しいかどうかさつぱりわからないといふのが地味につらい。
地味につらい思ひをしつつ、ノールビンドニングのくつ下を編んでみたいなあと思つてゐる。
帽子もいいな。

Monday, 30 October 2017

目標を設定できない

風工房の「まきもの いろいろ」に掲載されてゐるストールを編んでゐる。
先週はあまり編めなかつた。
長さも半分を過ぎ、ちよつと飽きてきたんだな、これが。

編んでゐるのはフューシャパープルのストールで、はじめと終はりに四段づつガーター編みがあり、模様部分は六三六段編むことになつてゐる。
長さは、あるていど編んだら好きにしていいかなとは思つてゐる。
ただ一段に百三目あるので、それなりに長くないと形が悪い。

二分の一に達するところまでは案外いいペースで編めた。
進まない理由は模様編みに飽きてきたからといふのもあるけれど、二分の一を越えたところで目標がなくなつたからではないか。

最初のうちはまづ十段、模様がひとつできるまで(十二段)、ふたつ、みつつと数へては達成感を得ることができる。
四分の一、三分の一、ちよつと刻んで五分の二、そして二分の一と、すこしづつ達成感を覚えながら編み進んできた。

二分の一を越えたところでそれがなくなつてしまつた。
五分の三とか三分の二とか刻めばいいとは思ひつつ、それがなかなかできない。
三分の一は目標になるのに、三分の二はならない。
ふしぎなことだがどうやらさういふことらしい。

土日と出かけなかつたので、あともうすこしで三分の二といふところまでは編めた。
このあとは四分の三、六分の五と刻みながら目標を設定するつもりだ。

ところで、この土日の目標は四百段までは編む、だつた。
土曜日に編んでゐたときには、到底たどりつけさうにない感じだつた。
日曜の朝も同様で「でもとりあへず編むだけ編まう」と編みはじめてみたらこはいかに。
午前中のうちに三九十段まで編めたではないか。

「編まう編まう」とするよりもなにも考へずに編んでゐる方が進むんだな。
なにも考へずに編んでゐるとときに手痛い失敗をしてしまふので気をつけなければならないが。

十一月の第二週くらゐには編み終へられたらと思つてゐる。
ほかに編みたいものがあるからね。

Friday, 27 October 2017

「マハーバーラタ戦記」考

今月歌舞伎座で新作「マハーバーラタ戦記」を見てきた。
だいたい中日くらゐだつたと思ふ。
「マハーバーラタ」に関する知識は「インドの昔の話」くらゐだつた。

見て「時代物の歌舞伎だなあ」と思つた。
なぜさう思つたかその所以と、「しかしさう断定するにはチト弱い」と思つたその所以とを書く。

「時代物の歌舞伎」と思つた所以は、主人公が狂言廻しの役目をになつてゐるからだ。
「マハーバーラタ戦記」の主人公は迦楼奈(カルナ)といふ。
話は迦楼奈を中心に進んではいくのだが、ほかにも主人公といつてもをかしくないやうな登場人物もゐる。
阿龍樹雷(アルジュラ)や鶴妖朶(ヅルヨウダ)がさうだ。
阿龍樹雷にはこの幕の主役は阿龍樹雷といふ幕がある。
かういふところがとても時代物の歌舞伎らしい。

三大名作のひとつである「義経千本桜」を例にとると、物語全体の主人公は義経だが、義経が主役の段といふのは現在ではほとんど上演されない。
「義経千本桜」の中でよく上演される部分には、狐忠信が主役の段、平知盛が主役の段、権太が主役の段といふのがある。
忠信や知盛、権太はその段の中では主役だが、物語全体の中では「義経をとりまく人々」「義経と関はりのある人々」といふ脇役の立場にある。
脇役がfeatureされる、それが時代物の特徴だ。

「義経千本桜」の主人公は狐忠信である、といはれることもある。
出番が多いし、語り出しが「忠なるかな忠 信なるかな信」だから、ともいふ。
個人的にはそれは現代的なとらへ方なのではないかと思つてゐる。
主役は義経だらう。
外題に名前が出てゐるくらゐだし。
それに、義経が芯の話だからああいふ構成になるのであつて、もし忠信が主人公だとしたら知盛とか権太とか「なんで出てくるの?」といふことになつてしまふ。

「南総里見八犬伝」でも、主人公は里見義実といふ話があつて、当時といまとでは主人公のとらへ方がちがつたのではないか、とこれは私見だ。

「マハーバーラタ戦記」も迦楼奈を主人公としつつ、迦楼奈にかかはる人々をもfeatureしてゐる。
また、各幕もずつと芝居ばかりしてゐるわけではなく、所作事の幕めいたものもあつたりわづかではあるものの世話のやうな場面があつたりする。

ただ、贅沢を云ふなら、featureするのは阿龍樹雷や鶴妖朶ではなく別の人だつたらもつと時代物つぽくなるのにな、とも思ふ。
たとへば風韋摩(びーま)を主役にして荒事の幕を作るとか、鶴妖朶の爺や乳母またはその子ども(出てこないけどゐるだらう、おそらく)を主人公にした世話の幕を作るとか。
しかしこれをやらうと思つたら、時間が足りない。昼夜通しくらゐのスケールでやらないと無理なんぢやあるまいか。

また、阿龍樹雷や鶴妖朶以外の人間をfeatureしてもあまり効果が見込めない可能性もある。
「マハーバーラタ」自体があまりなじみのない話だからだ。

義経伝説にしても、赤穂浪士にしても、よく知られた話だ。
時代物に関はらず、たとへば今月国立劇場でかかつた「霊験亀山鉾」でいふと敵討の話も「鰻谷」も初演当時の客はよく知つてゐたものと思はれる。
だから主人公をそつちのけにした脇役主体の段があつても「さうきたか」とうなることになる。
#「つまらん趣向だな」と思ふこともあつたらうけど。

それが「マハーバーラタ」にはないんだよなあ。
ないから説明的な部分もあつたりする。
「誰もが知つてゐる物語」といふのがなくなつてしまつたから仕方がない。
そもそも「誰もが知つてゐるもの」なんてあつた試しがなかつたのかもしれないし。

「マハーバーラタ戦記」は、あれだけ大がかりに作つたら再演するだらうといふ気もする。
そのときにどう変はるのか。
刮目して待て。

Thursday, 26 October 2017

必殺仕掛人が好き

いはゆる必殺シリーズの再放送を日々見てゐる。

「必殺仕掛人」「必殺仕置人」「助け人走る」ときてゐて、このまま「暗闇仕留人」も放映してくれないかなあと思つてゐるところだ。

三作品見て、好きな順番でいふと「必殺仕掛人」「助け人走る」「必殺仕置人」かな。

なぜ「必殺仕掛人」が好きなのかといふと、話の筋が気に入つてゐる回が多いからだ。

再放送は録画をしてゐて、見る端から消してゐる。
「必殺仕掛人」は当初、なかなか消すことができなかつた。
第四話(放映してくれたんですよー。大友柳太朗がよくてねえ)くらゐ見て、「これはDVD Boxを買はう」と決め、消すことにした。
それくらゐ気に入つてゐる。
DVD Boxはまだ手に入れてはゐないけれどもね。

それでも消せてゐないのが第十二話「秋風二人旅」だ。
この回には天知茂が一人二役で登場する。侍の兄弟の役で、弟の素行に困つた兄が仕掛人に弟の始末を頼むといふ話だ。
仕掛人はきちんと依頼を果たすのだが、最後に梅安(緒形拳)は云ふ。
「もしかしたら、悪いのは依頼人だつた兄なんぢやないか」
といふやうなことを。

たいていの場合、必殺シリーズでは依頼人が悪かつたら依頼人も殺される。
さうでないと話に決着がつかないからかな。
なので、このオープンエンディング的な、実は一番悪い奴は野放し状態といふ終はり方にぐつと来てしまつたんだなあ。

必殺シリーズをはじめ、テレビの時代劇ドラマでは多くの場合、悪人は必ず処罰される。
必殺シリーズの場合だと、悪いことをした人間は必ず報復を受ける。
それを見て視聴者は溜飲を下げる。

それでいいのだらうか。

悪いことをした人間は必ず報ひを受ける、それは当然のことなのだらうか。
いやなことをされたら仕返しをしてもいいものだらうか。
現実の世の中では、答へは「否」だ。
さう思つてゐない人も多いよなと通勤電車に乗つてゐるときなどとくにさう思ふけれど、でも報復はよくない。いけないことだ。
いまの常識ではさういふことになつてゐると思ふ。

それはそれとして、やはり気持ちとしては仕返しはしたい。
でもできない。
さうした鬱憤を時代劇を見て晴らす。
晴らすだけならいいんだけどね。
さういふ話ばかり見てゐたら、「自分だつて仕返ししたい」と思ふやうになつてしまふのではないか。

なので、いまでは必殺シリーズを見るたびに「これはテレビの中のことだから」「これは作り話だから」と自分に云ひ聞かせるやうにしてゐる。
これが案外つらい。
つらいけど見てしまふんだけどね。

「必殺仕掛人」ではほかに佐藤慶の出演した第十九話「理想に仕掛けろ」も好きだ。
ちよつとあさま山荘を思はせるやうな話で、佐藤慶がカリスマ的な指導者の役を演じてゐる。
理想をよしとする左内(林与一)とそんなのうさんくさいよとする梅安とのやりとりが、いまはくどいやうな気もするが、これもいい。

あとは左内の過去の話とかもいいなあ。第八話「過去に追われる仕掛人」。
二人一役めいた話の第十話「命売りますもらいます」などはカメラワークもおもしろい。

やつぱりそのうちDVD Boxを買はう、と日記には書いておかう。

Wednesday, 25 October 2017

大向ふ考

今月歌舞伎座の演目のうち、坂東玉三郎が出演・演出する芝居では大向ふの会に対し「声をかけないやうに」といふお達しがあつたのださうだ。
伝聞である。
確認したわけではない。

大向ふの会といふのは歌舞伎の芝居の合間合間にかけ声をかける人々の会だ。東京にはいくつかあると聞いてゐる。
役者の出入りまたはせりふのちやうどいいタイミングで「何々屋!」と屋号を叫ぶ人がゐる、さういふ人々を大向ふと呼ぶ。
大向ふの会の人は木戸銭御免で芝居を見る。立ちつぱなしで芝居を見て、そして声をかける。

お達しについてはいくつか噂を聞いた。
曰く、大向ふの会に所属してゐない客に対しては禁じてゐるわけではない。なぜといつてお金を払つてゐる客に対してどうかうすることはできないからだ。
曰く、大向ふの会に所属してゐない人が、声をかけないやうにといふお達しのある芝居で声をかけた場合、幕間に係員が「かけ声はお控へください」などと説明しにいく。

もし後者がほんたうなら、場内アナウンスなり貼り紙なりで周知すべきことだ。
それをしてゐないんだから、前者の方が正しいのだらうといふ気はしてゐる。

これまた原典のない話で恐縮だが、江戸時代には拍手といふものは存在しなかつたのだといふ。
拍手はなくて、でも「いまの演技、とつてもいい!」だとか「なんとしても誉めたい!」といふ感情が大向ふを生んだ。
大向ふといふのはさういふものだと理解してゐる。

時は流れて、いまや歌舞伎の芝居でも客席から拍手が起こるし、場合によつてはカーテン・コールやスタンディング・オベイションまであることもある。
もしかしたら、大向ふは、もうその役割を果たし終へてしまつたのではあるまいか。
芝居の彩りとしては魅力があるし、なにしろ昔からあるものなので「もう不要です」とはいへない。
さういふ存在なのではあるまいか。

歌舞伎は、隆盛を極めたその昔にはいはゆる大衆芸能だつたらう。
大衆芸能だつたものが時代を経てなにかもつと高尚なものに変はりつつある。あるいはもう変はつてゐるのかもしれない。

客側も変はつてきてゐる。
拍手をするやうになつたことはもちろん、歌舞伎を見る以前にクラシック音楽の演奏会やいはゆる赤毛ものの芝居などにたくさん通つた経験のある客が多くなつてゐる。
さうすると、江戸時代にはあたりまへだつたらう上演中のお喋りや飲食は「とんでもないこと」になる。
客はしづかに鑑賞して、要所要所で手をたたくもの。
いまの歌舞伎の客はさうなつてゐる。なつてゐない部分もあるけれど、さうあることが望まれてゐる。

でもたまに昔の素性が出てしまふこともあるんだらうな。
今月の国立劇場の芝居では、二幕目以降、しよつ中隣の席の人とお喋りしてゐる一団がゐた。
「テレビを見る感覚」とののしる人もゐるけれど、あれは先祖帰りなんではあるまいか。
芝居のどこかに江戸のころの雰囲気が残つてゐて、それが客のお喋りしたい気分を呼び覚ます。
そんなこともあるんぢやあるまいか。

どちらかといへば大向ふには残つてもらひたいし、できれば会に入つてゐない人のかけ声も聞きたい。
建てなほす前の歌舞伎座にゐたんだよね。
自分の好きな役者の出る演目に一度だけ声をかける人とか。
いい声で、絶妙のタイミングでね。

しかし、かうして隠然と「大向ふ禁止」といふお達しが出て、しかもこれがはじめてでもないことを考へると、大向ふにはゐなくなつてほしいと思つてゐる勢力があるのではないかといふ気がしてくる。
あからさまに禁止するわけではなく、噂を流すことによつて人の疑念を呼び、大向ふを敬遠するやうな雰囲気を作る。
これがただの気のせゐであることを願つてやまない。

Tuesday, 24 October 2017

初心者は明るい糸で大胆に

ノールビンドニングの作り目は、なんとなくできるやうになつた。

今回の教訓は、はじめてのときには糸は太くて明るい色のものを選ぶこと、だ。
それと、思ひきつて先に進んでみること、かな。

初日と二日目とは、ひたすら作り目ばかり作つてはほどいてゐた。
極太の糸を選んだものの、糸の色が暗くてちやんと作り目ができてゐるかどうか自信がなかつた。
それで先に進むことができずにゐた。

しかし、それでは作り目がきちんと作れてゐるのかどうかわからない。
三日目に、思ひきつて先に進んでみることにした。
ブロディエン・スティッチに挑戦することにしたのである。
数目編んだところで、やつぱり糸の色が暗くてよくわからないけれど、どうやらそれらしいものができてゐることがわかつてきた。

その日は数目進んだところで終はつて、翌日は本を見ずにつづけてみたら、なんだか間違つてゐるやうだつた。
本に戻つて、作り目からやりなほした。
やつぱりできてゐるやうだ。

それでその後は作り目から数目編み進むを何度かくり返した。
なんとなくできてゐるやうである。
先週の終はりに、筒状につなげてみやうとしてうまくいつてゐるのかゐないのかわからない状態で終はつた。
これも糸の色が暗いからつなげるところがわかりづらいのが原因だ。
明るい色の糸を持つてこいよ、とも思ふが、なかなかちやうどいい糸がなくて、なあ。

ノールビンドニングは順調に進みつつあるやうだ。
糸をつなぐときにいはゆるロシアン・ジョインを使ふといふのがまたちよつとハードルが高いが、とりあへずなにか作品めいたものを作りはじめてみやうかと思つてゐる。

Monday, 23 October 2017

もうあみものの本は買はない

風工房の「まきもの いろいろ」に掲載されてゐるストールを編んでゐる。
先週は長さ四分の一まで編めた。
今週は二分の一には達しなかつた。
先は長い。

このストールは、本に指定されてゐる糸を購入して編んだ。
「まきもの いろいろ」を買つた所以がこのストールだつたから、といふこともある。
ほかにも編みたいものはいろいろ掲載されてゐるけれど、まづ「これが編みたい」と思つたんだな。
この本から最初に編んだのはリーフ模様のショールだつたけれど。

編みながらいろいろ考へる。
たとへば、「もうこれからはあみものの本は買はないやうにしやう」とか。
なぜかといふと、どうしても本に指定されてゐる糸で編みたくなるからだ。
手元には一生かかつて使ひきれるかどうかといふくらゐ毛糸がある。
なのに、編みたいもののために毛糸を買つてしまふ。
この問題をなんとか解決したい。
ここ数年はだいぶ買はなくなつてゐる。
買ふときはどんなときかといふと、新しい毛糸が出てどうしても試してみたいといふときと、あみものの本を買つてどうしても本とおなじものが編みたいといふときだ。

新しい毛糸を買ひたいといふ気持ちはだいぶ抑へられるやうになつてきた。
問題は本とおなじものが編みたいときだ。
手持ちにたまたまおなじ糸またはおなじやうな糸があるときはいい。
これだけ手持ちに毛糸がありながら、さういふことはほとんどないんだなあ、これが。

それといふのも、あみものの本といふのは製紙企業と提携してゐて、そのシーズンの最新糸を使用した作品が多いからだ。
ゆゑに本来ならばもつと高価になるだらう書籍の価格も低めになつてゐるのだと思はれる。

最近は、Ravelry の影響などもあつて、指定糸意外で編むこともある。
Ravelry であみもの作品を検索すると代替糸を見ることができる。
Ravelry 以降、手持ちの糸でなんとか編まうといふ意識が芽生えたといつてもいい。

意識は芽生えて、でも掲載されてゐる作品がすてきだつたりするとおなじものを編みたいと思つてしまふんだよなあ。

今後はできるだけあみものの本は買はないやうにするつもりだ。
買ふとしたら、手持ちの糸でなんとかできるやうな作品を掲載した本にする。
これも Ravelry のおかげだらうか、最近はさういふ本も増えてゐるやうに思ふ。

そんなわけで、このストールを編み終へたらその代替糸でなんとかなりさうな作品を掲載してゐる本を買ふつもりでゐる。

結局買ふんだな。

Friday, 20 October 2017

それとも俺が悪いのか

昨日、Twitterで見かけたつぶやきに「以前は職場の書類はいまよりもずつと短く簡潔だつた。すべて手書きだつたからだ」といふことが書いてあつた。

以前といふのは1980年代くらいまでのことか。
つぶやいた人のいふ当時の文書を読んだわけではないので定かではないが、手書きするんだからそんなに長くは書けなかつたらう。

漢文が簡潔だといはれる所以は、紙のない時代に竹や木に書いてゐたからともいはれてゐる。
書きづらく修正も面倒なものに書くとしたら、書き出す前に内容を練つてから書くだらう。
PCで書くやうになつて「まづは書きはじめやう」といふ習性が身についた。
そんな可能性もある。

でも、それだつたら推敲すればいい話だ。
PCのワードプロセッシング・アプリケーションなりテキスト・エディタなりで書いた方が短くしやすいだらうに。

PCで文書を書いた場合、下書きは下書きとして別ファイルに残しておける。
別ファイルを推敲して短くしていく方が手書きで下書きを書いて短くしていくより楽なんぢやないか。
やりすぎたなと思つたら下書きファイルに戻ればいい。
ちよつとした修正ならCtrl+Zを押すといふ手もある。

画面上で推敲するのは紙で書いたものを読んで推敲するよりむつかしいとは思ふ。
なぜか画面上の文章を読むと「目が滑る」やうな印象を受けることがある。
読んでゐるつもりで読んでゐない。
見落としが発生しやすいのだ。
でもそれは誤字脱字のやうな細かい修正の話で、段落全体を削るとか、云ひまはしを変へるとか、さういふことならそんなに変はりなくできるんぢやないかなあ。

人は書いたものを削りたがらないものなのかもしれない。
せつかく書いたのにもつたいないと思つてしまふ。
だからどんどん文書が長くなつていく。
文書が長くなるといふことは、読む時間も長くなるといふことだ。
職場であれば仕事する時間が増えるといふことになる。
人間の仕事を楽にするために導入されたはずのPCが人間の時間を奪ふことになつてゐる。

昨日はあんなことを書いておいてなんだが、AIが職場に入つてきても、おなじやうなことになるのぢやあるまいか。
チト楽天的にすぎるかな。

Thursday, 19 October 2017

生まれた時が悪いのか

「非認知能力」だとか「言語技術」だとか、幼児のころから鍛えないといけないといふものを、いまさら知つてどうすればいいのか。
ちよつと途方に暮れてゐる。

言語技術についてはそれでも「大学生・社会人のための言語技術トレーニング」といふ本がないわけではない。
三森ゆりか自身が企業などに招かれて講演をすることもある。

一方、非認知能力はといふと、おとなになつてしまつたらもう手遅れとしか思へないやうな状況である。

非認知能力とは「open minded」とか「openness」に近いものなのではないかと思つてゐる。
先日「Scientific American」のWebサイトで記事を読んだ。
その記事では「open mindedな人は、知的好奇心にあふれてゐて、創造的であり、想像力がある傾向があり、音楽や本といつた文化的なものごとに対して貪欲で、さらには politically liberal であることが多い」といふやうなことが書かれてゐた。
たとへばレンガの使ひ道を考へなさいといはれた場合、open minded な人はいくらでも使ひ道を思ひつくのだといふ。さうでない人はせいぜい「壁を作る」とか「家を造る」といつたありきたりのことが三つ出てくるかどうかだ、といふ。
やつがれはこの「レンガの使ひ道を三つ思ひつくかどうか」といふタイプだ。
完全に close minded なのだつた。

この記事を読んで思ふのは、人が open minded になるかどうかは家庭環境によるところが多いのではないか、といふことだ。
こどものころから周囲に本や音楽があふれてゐて、興味を抱いたものに対して容易にふれることができる。
さういふ人が open minded になるのぢやあるまいか。
こどものころさうした選択肢の乏しい環境にゐたものは、なかなか open minded にはなれないのぢやないか。
さうすると、open minded な人を賞賛するといふことは裕福な家庭に育つた人を賞賛するといふこととほぼ同義なのではあるまいか。
近年、大学入試などにも選択式のテストだけでなく人物を見るやうなテストを取り入れやうといふ風潮が見られるが、これも裕福な家庭に育つた人を優遇することになるだけぢやないかといふ懸念がある。が、それはまた別の話。

非認知能力の多寡を調べるときも、両親の最終学歴や自宅の蔵書の量などを問題にするやうである。
いまさらどうしやうもないぢやあありませんか。

なぜ非認知能力や言語技術に関心を抱くのか。
それは、今後AIが人の仕事を奪つていくとして、AIと対抗しうるのは、否、AIには太刀打ちできないのは、非認知能力に富んだ人なのではないか、と思ふからだ。

とはいへ、いまとなつてはさうした能力を高めやうのない状況で「これが必要なんだ」と悟つてもむなしいだけ、といふ事実は変へられない。

Wednesday, 18 October 2017

使用済手帳でふり返り

手帳にいろいろと書き込むのはいいけれど、見返す機会がなかなかない。

見返さない手帳に意味はない。
さう思ふのだが、なかなか、ね。
「起きてゐるあひた一番長い時間を過ごすのは職場だ」といふことに気がついて、使ひ終へた手帳を職場におくやうにしたこともあつた。
でも、やつぱり自宅におくのがいいやうである。

そんなわけで、昨日これまで使つた手帳をぱらぱらと見返してみた。
三月この方自分の書く文字が劣化してゐるなと思つてゐたけれど、過去の手帳を見返してみるとさうでもないことがわかる。
そのときによつて波があるのだ。
比較的読みやすい字で書いてゐることもあれば、なにをそんなに慌ててゐたのかと思ふやうな字で書いてゐることもある。
ペンと紙との相性もあるやうで、相性のいい同士で書いたときはよく、さうでもないときはそれなりだつたりもする。
「さういへばこのときペンクリニックで見てもらつて、書き味が断然よくなつたんだよなあ」などと思ひ出すこともあつた。

使つた手帳で一番多いのは Moleskine のポケットサイズで、次が Smythson の Panama だ。
ほかにMDノートや旭屋紙文具店の文庫サイズのものが数点、満寿屋のMONOKAKI B6が一冊、トラベラーズノートが数冊といつたところか。

ぱらぱらとめくつてみて、自分にとつては Moleskine のポケットサイズや Panama がちやうどいいサイズなんだな、とあらためて思ふ。
いはゆる預金通帳サイズだ。
これより小さいと書くのに不便だし、大きいと持ち歩きづらい。

現在、バイブルサイズのシステム手帳を Bullet Journal として使つてゐる。
ここにもたまに「全部システム手帳に集約しやうか」と書いたり「やつぱやーめた」と書いたりしてゐる。
「これが使ひやすい」といふ手帳があると、やつぱり集約するのはムリなのかな。

手帳を使つてゐるあひだは、前日分、一週間前の分、一ヶ月前の分などをあれば見返すやうにはしてゐる。
使ひ終へた手帳のことも見返す機会を設けるやうにしたいが、さて。

Tuesday, 17 October 2017

時間はないけど

昼休みの空いた時間に、ノールビンドニングに挑戦することにした。
以前から興味はあつて、五年前に北欧に行つたときにも、三年前に行つたときも針を買つてきた。
写真は三年前に行つたときに買つてきたものだ。

ノールビンドニングとボスニアンクロシェット

左の二本がノールビンドニング用の針、右の一本はボスニアン・クロシェットの針だ。
ノールビンドニング用の針のうち、左の方はスウェーデンはストックホルムの北方民族博物館で写真がたくさん掲載されてゐる薄い手引書と一緒に求めた。素材は……なんなのだらう、これは。骨? 歯?
右の方はボスニアン・クロシェットの針と一緒にストックホルムのヘムスロイドで購入した。どちらもとてもスムースで使ひやすさうな針である。

入手したはいいものの、放置したまま三年がたつた。
手引書を見ながらはじめてもよかつたはずなのに、買つて満足してしまつた、とでも云ふべきか。

「さういへば自分はノールビンドニングの針を持つてゐるな」と思ひ出したのは、「はじめてのノールビンドニング」といふ本が発売されたからだ。
それまでもWebなどでノールビンドニングをしてゐる人やその作品を見かけることはあつたけれど、その時ではなかつたのだらう。

「はじめてのノールビンドニング」では、「作り目が大変」「作り目の作り方が覚えられなくて挫折する」などといふことが書かれてゐる。
思ひ出すなあ、タティングレースをはじめたときのこと
周囲にタティングをしてゐる人はなく、本だけが頼りだつた。
あのときも、目を作つたはいいものの、その作つた目が芯糸を自由に行き来するはずなのにさうならず、さんざん悩んだものだつた。
ちよつとやつてみてはうまくいかず、またやつてみて目が動かないといふ状況が数日つづいた。
懲りずにつづけてゐたとき、突然ひらめくことがあつて、やつと目を動かすことができた。
今回もそんな感じかなと思つてゐる。

タティングレースをはじめたときには時間があつた。
ほんたうはなかつたのかもしれないけれど、時間があると思つてゐた。
いまはない。
それがタティングレースをはじめたときとの一番大きな違ひかな。
いまの方がWeb検索などで情報も手に入れやすからうといふのも違ひのひとつだらう。

昨日ノールビンドニングをはじめてみたところ、まづ、目が正しく作れてゐるのかどうかがよくわからない。
本のとほりに目を作つて、しかし輪のできる場所が違ふ気がする。
糸は極太に近いやうな太いものを選んだのだけれど、色が暗いのが敗因かなあ。
とりあへず、今週はノールビンドニングの作り目に挑戦してみるつもりでゐる。

Monday, 16 October 2017

記憶することのよしあし

ストールはすこし進むやうになつた。

ストール

風工房の「まきもの いろいろ」に掲載されてゐるストールを編み始めて早一週間。やつと長さ四分の一のところまできた。
先は長いな。

先は長いけれど、すこし進むやうになつた。
寒くなつたからだ。
早く仕上げて使ひたいと思ふからといふこともあるし、だいぶ長くなつてきたので編んでゐるあひだ膝があたたかいといふこともある。
後者の方が理由としては大きいかな。

模様の編み方もだいぶ覚えた。
編みはじめと編み終はりとに一目分ほかのところと違ふ編み方をする必要がある。
模様が左に倒れていくときと右に倒れていくときとで、編みはじめに入るか編み終はりに入るかでわかれる。
これがなかなか覚えられなくてね。
覚えても心配なので、つひ本を見てしまふ。
そんなんでなかなか進まなかつたところも、やつと不安を覚えずに編めるやうになつてきた。

しかし、覚えたと思ふと落とし穴があつたりするのがあみものである。
#たぶん。

編みながら下の段を見て編み方があつてゐるかどうか確かめてゐるのだが、それがおろそかになつてきた。
おろそかになつても模様を覚えてゐるのでだいたいの場合はちやんと編めてゐる。
問題なのは「だいたいの場合」だ。
昨日は二回ほどいた。
どちらも早い時点で気がついたので二段ほどくくらゐで済んだが、一段に百三目ほどあるので一目一目ほどいていくのはなかなか根気のゐる作業だ。
とくにやつがれにとつては。

模様によつては、下から目を拾ふなどして対処することもあるのだが、今回はそれをやつてうまくいかなかつた。

この作業さへなければ三分の一くらゐは編めてゐたらうになあ。
さうも思ふが、おそらくはほどくのもあみもののうちなのだらう。

Friday, 13 October 2017

漫然とただ漫然と

あひかはらず足は痛い。
ちよつと脅されてゐるので医者や看護師のいふとほりにしてゐるのだが、回復してゐるといふ感覚はあまりない。
素人判断としては「安静にしてゐないのが一番悪いんぢやあるまいか」と思つてゐるが、さて。

といふわけで、いまも「痛いなー」と思ひつつこれを打つてゐる。
そのていどの痛みといふことでもある。
さういへば先日看護師さんから「痛みにお強いですね」とほめられてゐる患者さんがゐた。それつて「鈍感ですね」つてことなんぢやないの、と思つたが口に出しては云はなかつた。
そのていどには痛いといふことでもある。

昨日、「自分にとつて痛み止めを飲むといふことは「蠅を飲み込んだ老婦人」の歌に出てくる「飲み込んだ蠅をなんとかしやうとして蜘蛛を飲み込むことと同義」といふやうなことを書いた。
痛くても用事その他ができてゐるから云へることだ。
痛くて痛くてなにもできないといふ場合には適用できない。

そんなことを点滴を受けながら考へてゐた。

たとへばいまのやつがれのやうな状態に、いはゆるマインドフルな人が陥つたとする。
マインドフルな人はどうするだらう。
マインドフルなのだから、ひたすら痛みに集中するか。
それとも痛みで気が散るから痛み止めを飲んでその他のことに集中するか。
おそらくマインドフルな人が選ぶのは後者だらう。

一方やつがれはといふとマインドレスな性分なので、「痛いなー」と思ひつつ「助け人走る」の再放送などを見たりする。
「痛いなー」と思ひつつ編み、「痛いなー」と思ひつつ手帳にあれこれ記入する。
全然ものごとに集中できてゐない。
痛くないときだつて集中はできないのであまり気にならない。
結局さういふことなのかもしれない。

なにごとかに邁進する人、目的意識を持つた人は痛み止めを飲むといふ選択をするのかもしれない。
こちらはといふと日々漫然とぼんやりしてゐるので、それで飲まうといふ気にならないのかもしれないなあ。

どうも「Zen」だとか「マインドフルネス」といふのは功利的なにほひがして胡散臭く感じてしまふ。
功利的でなにが悪い。
なぜ功利的なにほひを自分は嫌ふのか。

などといふことをまた点滴のときにでも考へやう。

Thursday, 12 October 2017

痛み止めを飲まないわけ

足が痛い。
蜂窩織炎なのだとか。

足はただ座つてゐるだけでも痛い。
歩いても痛い。
ずつと座りまたは歩いてゐるうちに痛みを感じなくなる時間もある。
そしてまた痛くなつてくる。
そんな感じだ。

普通にしてゐても痛いといふと、医者は痛み止めを処方しませうか、と云つてきた。

それはなにかが違ふだらう。
さう思つたが口に出しては云はなかつた。

痛いときに痛み止めの薬を飲む。
それはなにかが違ふとつねづね思つてゐる。
痛み止めが痛みの原因をなくす働きがあるといふのならいいのだが。
たいていの場合、痛み止めは痛みを感じなくさせることしかしないやうに思ふ。
薬が切れれば痛みは戻る。
それは違ふだらうと思ふのだ。

痛いといふことは、そこになにか原因があるはずだ。
その原因はそのままに痛みだけ感じなくさせる。
さういふ需要があることは理解してゐるつもりだ。
残念ながらやつがれはさういふものは必要としてゐない。
必要なのは痛みのもとをなくすこと。
それができないのなら休んでゐろと云はれる方がまだましだ。

蠅を飲み込んでしまつた老婦人の歌といふのがある。
蠅を飲み込んでしまつた老婦人は、その蠅をなんとかしやうとして蜘蛛を飲み込み、蜘蛛をなんとかしやうとして小鳥を飲み込み、以下、猫を犬を山羊を牛を飲み込み、最後には馬を飲み込んで死に至る。
蠅を飲み込んでしまつた理由はわからない。
そんな歌だ。

やつがれにとつて、痛み止めを飲むといふことは、蠅に対して蜘蛛を飲み込むのと同意である。

そんなわけでいまも痛いなあと思ひつつかうしてゐる。
だから mindless なのである、といふのはまた別の話。

Wednesday, 11 October 2017

名前にふりがなつけますか

先日、とあるイヴェントのチケットを購入したとき、氏名と連絡先の記入を求められた。
なにかあつてイヴェントが中止になる等の事態が起きたときのためなのださうな。
ほかにもその場でチケットを買つてゐる人々がゐて、みな渡された付箋に氏名と連絡先とを書いてゐた。

ちらつと見ると、誰も氏名のところにふりがなをつけてゐる人がゐない。
さういふものなのかな、とそのとき思つた。
やつがれの書いた付箋には漢字表記の氏名のわきにカタカナでふりがながついてゐた。

たいていの場合氏名を記入するときはふりがなをもつけるやうにしてゐる。ふりがなを書くやう指定がないときも、だ。
ま、忘れることもあるけれども。
なぜかといふと、読み間違へられることが多いからだ。

名前を読み間違へられることは、普通にあることだと思つてゐる。
たとへば「淑子」だ。
「としこ」だつたり「よしこ」だつたりするでせう。
あるいは「淳」。
「あつし」だつたり「じゆん」だつたりするはずだ。
ほかにも読みが複数ある名前といふのはいくらもある。
さういふ人はやはり氏名の記入を求められたときにふりがなをつける習慣が身についてゐるのぢやあるまいか。

選挙に立候補する人が名前をひらがなにするのもさういふことなのだらうと思つてゐる。
書き間違へをふせぐためが第一義だらうが、ひらがなにすれば名前の読みを覚えてもらへる。
政治家および政治家-to-beにとつて名前を覚えてもらふことほど重要なことはあるまい。

さういへば野沢那智が云つてたなあ。「パックインミュージック」のときだつたらうか。
クラス替へなどあつたあとなど最初の出席を取られるときにちやんと名前を呼んでもらへたことがない。
ところがあるとき、はじめて先生が「のざわ……これは、やすとも、くん、かな」と云ってくれた。
「そうです! やすともです!」と答へた、とても嬉しかつた、といふ話だつた。

ちやんと名前を読んでもらへると嬉しいものなのだなあ。
昨今はいはゆるキラキラネームの人が増えてゐるといふけれど、さういふ名前の人もきつとさうなんだらう。

キラキラネームでなくても読み間違へは発生する。
氏名の記入を求められたらふりがなをつけるのはいいことだ。
政治家になるならないに関はらず、な。

Tuesday, 10 October 2017

やめた方がいいのかもしれない

タティングレースの栞は糸端の始末はできた。
昼間も明るくなつたからだ。
どうやら十月に入つた途端、昼休みに照明を消す儀式がなくなつたのらしい。
自主的に決してゐる部署もあるやうだが、少なくともやつがれなどのゐるあたりの照明はついたままになつた。
それでなんとか糸端の始末をした、といふわけだ。

栞は Mary Konior の Black Magic で、糸端を始末したはいいものの、やつぱりなんだかいびつな形になつてしまつた。
Black Magic はマーガレットのやうな花を一列につないだやうな形の栞だ。
花と花とのあひだは6-9-6のブリッジがつないでゐる。
このブリッジの形がどうもいびつになつてしまふのだつた。
Black Magic はいくつも作つてきたけれど、毎回さうなのだつた。
花と花とのあひだの形が悪いことはわかつてゐるので気をつけてはゐるつもりなんだがなあ。
はじめて作つたときよりはマシになつてゐるとは思ふけれども。
といふか、さう思はないとやつてらんないよ、といふのが本音である。

あるいはやらない方がいいのかもしれない。
いつまでたつてもそんな調子なわけだからね。

Monday, 09 October 2017

模様編みに手こずる

風工房の「まきもの いろいろ」に掲載されてゐるストールを編んでゐる。

ストール

幅がそこそこあるのと模様に慣れないのとでいまひとつ進みが悪い。
模様にはそのうち慣れると思ふので、そのうちもう少し早く編めるやうになるはずだ。

その前に編んでゐたリーフ模様のショールは、端のリーフ模様がなかなか覚えられずにゐた。
しかし、気がつくと編み図を見ずとも編めるやうになつてゐた。
慣れだ。
なぜリーフ模様が覚えられなかつたのかといふと、次の葉模様につながる部分のはじまりがよくわからなかつたからだ。
最初は裏目ばかりのところになぜ突然一目だけ表目が出てくるのかわからなかつた。
模様ができてくると、この表目が次の模様につながつてゐることが理解できるやうになつた。
理解できると、自然といつ表目を編めばいいのかわかるやうになつた。

いま編んでゐるストールの模様は12段17目一模様のレース編みだ。
模様編みに苦労したのは最初の3段くらゐで、それ以降は下の模様を見れば間違つてゐるかどうかわかるやうになつてゐた。
いい模様だ。
今回は模様編みの1段目にそれほど苦労はしなかつたが、左端まで編んでのこりの目数が合はないなんてなことが往々にしてある。
さうするとどこまで正しく編めてゐるのか確認しながらほどいていくことになる。
そんな手間はいやなので、毎回模様の1段目はできるだけ気をつけて編むやうにしてゐる。
そのつもりである。
そのつもりでゐて、やつぱり間違へることも多いんだけどね。

編み方に従ふと、現在やつと六分の一くらゐ編めたところだ。
先は長いなあ。
先は長いが、編み終はつたあとにどうやつて整形したものかいまから悩んでゐる。
多分二メートル近いストールになるはずなんだよね。
そんな長いものを広げる場所はないんだよなあ。

Friday, 06 October 2017

飯田市川本喜八郎人形美術館 懐かしのテレビ人形劇展

九月末、飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
今回は「懐かしのテレビ人形展」について書く。
「懐かしのテレビ人形展」は開館十周年を記念したイヴェントのひとつだ。

昔懐かしい形のテレビから人形たちが抜け出してくるかのやうなポスターがいい。

「懐かしのテレビ人形展」は展示室の奥にあるスタジオで開催されてゐる。
入り口を入ると三方の壁に沿つて人形が並んでゐる。
むかつて左の壁には「ひょっこりひょうたん島」「プルルくん」とそのシナリオ、入り口正面の奥の壁には「連続人形活劇 新・三銃士」、右の壁には「プリンプリン物語」、「パペットエンターテインメント シャーロックホームズ」の人形と小道具が展示されてゐる。

「ひょっこりひょうたん島」のケースは二つあつて、最初のケースにトラヒゲ、ドン・ガバチョ、ダンディーが、次のケースにはサンデー先生と博士がゐる。
人形は番組がリメイクされたときのものだらう。おめかししたかのやうにきれいだ。
最初にぱつとトラヒゲが目に入ってきて、それだけでなんだか楽しい気分になつてくるところにドン・ガバチョといふ並びがいい。
不思議だよねえ。
なんでこれだけで気分が盛り上がるかねえ。
トラヒゲ、ドン・ガバチョとくると、ダンディーがとてもダンディーに見える。
サンデー先生と博士とは遠足組の代表といつたところか。ほかの子たちも見たくなつてくるなあ。

「プルルくん」で展示されてゐるのは、プルルくんとプルルくんのママ(だらう)、それとトラくんの三体だ。
Web検索をかけてもこれといつた情報が集まつてこない番組で、残念ながら見たことがない。
原作は手塚治虫とのことだ。
1970年代に放映されたものとのことで、人形も古びてきてゐる。
今回の展示つて貴重なんぢやないか知らん。
人形のケースの隣には数冊のシナリオをおさめたケースもある。シナリオを読むことができれば、どんな内容だつたかはわかるだらう。

三銃士の人形はアトス、アラミス、ダルタニアン、ポルトス、ロシュフォールの五人で、ケースには入つてゐない。
ダルタニアンと三銃士とは前回の展示とほぼおなじポージング
ロシュフォールはポルトスの右側ややはなれたところに四人に半ば背を向けて立つてゐる。さげてはゐるものの、剣は四人の方に向いてゐる。
三銃士とプリンプリン、ホームズの展示は写真撮影が許可されてゐる。
写真が撮れるとつひ目で見ることがおろそかになつちやふんだよなあ。
いかんいかん。

「プリンプリン物語」のケースは二つで、最初のケースにプリンプリンとモンキー、次のケースにオサゲ、ボンボン、カセイジンが入つてゐる。

プリンプリン、懐かしいよねえ。
録画が見つかつたとのことで、現在衛星放送で再放送中だ。

プリンプリンは両腕をやや広げて「ようこそ」といひたげなやうすで立つてゐる。
まつげが長い。
モンキーはそのややうしろでやはり両手を広げて立つてゐる。

オサゲも手を広げてゐて、ボンボンも同様で右手をちよつと掲げた感じ。カセイジンは腕を組んで立つてゐて如何にもカセイジンだが、ふしぎと拒絶されてゐるやうな感じはしなかつた。
三人ともプリンプリンとおなじやうに「Welcome!」と云つてくれてゐるやうに見えた。

できればルチ将軍にも会ひたかつたなあ。

ホームズのケースは二つで、ひとつにはホームズとハドソンさん、ワトソンがゐる。もうひとつのケースには小道具が展示されてゐる。

ホームズは目の動くカシラで、右の方を見てゐる。右手を顎にあて、左手は右肘のあたりにきてゐる。なにか気になるものを見つけて考へてゐるといつたやうすだ。
人形劇のときは、目の閉じるカシラのときにまるで目が動いてゐるやうに見えるのが好きだつたなあ。
ハドソン夫人は右手を前に出し左手を後ろに引いた形で、ちよつと踊りながら歌つてゐるやうなやうすで立つてゐる。
ワトソンは左手をかかげ、右手はベルトのあたりにある。「やあ」と云はれてゐる気がする。

小道具には誰の持ち物かとかどの場面に使はれてゐたものかといつた見出しがついてゐる。全部で数十点はあるのぢやあるまいか。
「消えたボーイフレンドの冒険」に出てきた「A Tale of Two Cities」なんかが並んでゐて、ちよつとうれしい。

「懐かしの」と謳つてゐるといふことは、あるていど年のいつた大人向けの展示なのだらうか。
ホームズはわりと最近の作品だし、プリンプリンは現在再放送中なので、さうとばかりもいへないだらうが。

欲を云ふなら、「プルルくん」とあはせておなじ手塚治虫原作の「風の子ケーン」を並べるとか、さうした展示も見てみたかつたやうに思ふ。

三国志から幻の大作へはこちら
蓮如とその母はこちら

Thursday, 05 October 2017

飯田市川本喜八郎人形美術館 蓮如とその母 2017

九月末、飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。
今回は人形アニメーション「蓮如とその母」の展示について書く。

今年は飯田市川本喜八郎人形美術館開館十周年にあたり、その一環として九月三十日に飯田人形劇場で映画「蓮如とその母」が上映された。
あはせて映画に出演してゐる人形も展示され、現在でも見ることができる。

展示内容は、ギャラリー奥から蓮如の母・おれんの若き日の姿とその弟・長右衛門とのケース、蓮如の妻・蓮祐と蓮如とのケース、法住のケース、東条坊、叡山の高僧、おれん、おけふ、おてつのケースである。
人形のポージングなどは以前の展示のときとそれほど変はりはない。

美術館には映画上映の前日に行つた。
気分が昂揚した。
明日は、ここにゐる人形たちの動くところが見られるのだと思ふと、期待が高まつてしまつて思はずケースのまはりを行つたり来たりしてしまつた。

「蓮如とその母」は、劇場公開されなかつたと聞いてゐる。
将軍暗殺や応仁の乱、大凶作による飢餓等で乱れた室町時代にあつて叡山からの弾圧を受ける本願寺を描く一方で、蓮如の母おれんの出自から同和問題をも取り扱つた深刻かつ重厚な内容の映画でありながら、エンターテインメントな部分もあつて、決して重苦しいだけの作品ではない。
見てゐて「次はどうなる、その先は?」と身を乗り出したくなるやうな映画だ。
上映機会が少ないことが惜しまれてならない。

映画の話はまたの機会にゆづるとして、展示でひとつだけ気になることがあつた。
それは、おけふの衣装が映画のときとは違ふことだ。

「蓮如とその母」には岸田今日子のそつくり人形であるおけふと黒柳徹子のそつくり人形であるおてつとが登場する。
声もそれぞれのモデルがあててゐる。
展示で見ると、ふたりなかよくつれだつて蓮如の講話を聞きに行かうといふところなのだらう、見てゐて思はずにつこりしてしまふ。
おてつはトレードマークのたまねぎ頭が特徴だ。衣装は朱色がかつた橙色の地に黒く細かいダイヤ柄が散つてゐて、足下の鼻緒の赤いのが目を引く。
おけふの衣装は灰色がかつた桃色の生地と灰色の生地との胴抜のやうな衣装だ。
どちらの衣装もそれぞれの個性をよくあらはしてゐる。

今回映画を見てゐて、この胴抜のやうな衣装が出てきたときに「あれ、おけふさんはおてつさんと一緒に出てくるんぢやなかつたつけか」と思つた。
見てゐると、どうもおけふさんではないやうだ。

映画のおけふさんは映画がさらに進んで、蓮如の講話に一緒に行かうとおてつさんが誘ひに来る場面で登場する。
見ると、衣装はちよつと落ち着いた色合ひの桃色で、濃い茶か黒の草むらのやうな細かい模様が点々とあるものだつた。
かういふこともあるものなのだなあ。

いつもなら、展示されてゐる人形を見たあとその人形が登場する人形アニメーションを見て、その後にまた展示室に戻つてきてさつきまで動いてゐた人形を見る。
今回は、美術館と劇場とのあひだの行き来を厭うてしまつて、映画鑑賞後に人形を見ることがかなはなかつた。
やつぱり今回展示されてゐるうちにもう一度行きたいかなあ……。

三国志から幻の大作へについてはこちら

Wednesday, 04 October 2017

飯田市川本喜八郎人形美術館 三国志から幻の大作へ

九月末、飯田市川本喜八郎人形美術館に行つてきた。

九月三十日に飯田人形劇場で映画「蓮如とその母」を上映するといふので見に行つた。
その一環で、美術館にも立ち寄つた。

飯田市川本喜八郎人形美術館では開館十周年を記念してさまざまな催しが行はれてゐる。
現在常設点として展示室に「人形劇三国志」の人形が展示されてゐる。
展示室の奥には「三国志から幻の大作へ 人形が語る歴史物語」と題して、「項羽と劉邦」の人形七体と「平家物語」の人形二体が展示されている。
また、映画の上映にあわせて「蓮如とその母」に登場する人形十体の展示もある。

スタジオには「懐かしのテレビ人形展」と題して、「ひょっこりひょうたん島」「プルルくん」「新・三銃士」「プリンプリン物語」「シャーロック・ホームズ」の人形たちが並んでゐる。

盛りだくさんだ。

今回は「三国志から幻の大作へ」から「項羽と劉邦」の人形について書く。
「項羽と劉邦」は、今年の三月から四月にかけて、この美術館のスタジオに展示されてゐた。
そのときのことはここにも書いた(1 2 3)。

すこし前まで「源氏と木曽」の展示のあつたケースに「項羽と劉邦」から七体の人形が飾られてゐる。
人形は、三月四月の展示のときにゐた人形とおなじである。
むかつて左側から范増、項羽、虞美人、始皇帝、呂后、劉邦、韓信の順で並んでゐる。
項羽と劉邦とは後方のやや高いところにゐる。

ポージングも春に見たときとほぼおなじだ。
ただ、春とは視点の高さが変はるので、あのときとはまた違つた趣がある。
たとへば、劉邦は春に見たときはとても思慮深げで慎重さうなやうすに見えた。今回は、こちらを見下ろしてゐるからか、はたまた躰が若干右に傾いてゐるからか、どことなく食へない親父といふ風に見える。劉邦らしい。

春よりも明るいところで見られるので、細部がよく見える。

そんなわけで気になつたのが范増の衣装だ。
普段から着てゐるものなのだらうな。
そんな印象を受けた。
どことなくやはらかい感じがするからだと思ふ。
何度も身につけて着慣れたものといつた様子だ。

隣にゐる虞美人の衣装もやはらかい線を描いてゐるけれど、こちらはもとの布地がやはらかいからさうなつてゐる風に見える。

項羽や劉邦、韓信は鎧姿なので范増ほど衣装の布地の見えるわけではないが、鎧からのぞく裾などはいづれもぱりっとしてゐる。

時代劇のとくに映画を見ると感心することに、登場人物の衣装に着古した感じが出ていることがある。
撮影用に作つた衣装は、最初はできたての新品だらう。
それをどうにかして着慣れた感じを出して、それから撮影をするのだらう。

范増の衣装にもなにかおなじやうな工夫がなされてゐるのではあるまいか。

七体の人形のゐるケースの脇には、カシラだけのケースがある。
これも前回とほぼ同じで、虞美人と韓信、殷通がゐないくらゐかな。
荊軻のカシラは春と同様眉毛や髭などに鉛筆であたりを入れた状態で展示されてゐる。
前回より後ろを見づらいので、三つ編みなどに編んだ髪の毛がちよつとしか見えない。
展示は三段で、上の段の左から黥布・李斯・趙高・章邯・懐王・陳平。
真ん中の段が、蒙恬・項梁・荊軻・項伯・扶蘇。
下の段は、陳勝・蒯通・蕭何・張良・酈食其・夏侯嬰。

「項羽と劉邦」の人形は次はいつ見られるのか不明だ。
さう思ふともう一度くらゐは見に行きたいものだが、さて。

Tuesday, 03 October 2017

仕上げの技能向上策

タティングレースの栞は糸端の始末を忘れたままになつてゐる。

Mary Konior の Black Magic を作つたはいいが、職場では昼間照明を消すので暗くて糸端の始末がおぼつかないからだ。
家でやらうと思つていつも忘れてしまふ。

その間、昼休みになにをしてゐるのかといふと、タティングシャトルに残つた糸でおなじく Mary Konior の Curds & Whey を作つてゐる。
シャトルに一定量の糸があまつてゐると、つひ Curds & Whey を作つてしまふ。

理由はふたつある。
ひとつには、シャトル一つでできるものであるといふこと。
またひとつには、スティッチの結び具合やリングの締め具合などの調整の練習になること。

一応、なにに使ふかは不明だが、ちやんと糸始末まで行ふ。
さうしないと上達しない気がするからだ。
あみものも同様で、作り目や普通に編むことはわりとすぐに上達する。
伏せ目やセーターの脇などのとじやはぎはなかなか上達しない。
最終段階に進むことが少ないからだ。
はじめるにははじめられても、終はりまでいけない。
それで仕上げに必要な技術がいまひとつ上達しない。

一時、自分でもをかしいんぢやないかと思ふくらゐくつ下ばかり編んでゐたことがある。
「Sockknitter に俺はなる!」と思つてゐたからだ。
使ふことなくしまはれたくつ下は数知れず。
でもそれでもよかつたのだと思つてゐる。
編みはじめから仕上げまで、何度もくり返すことができたからだ。

タティングレースでもちいさいモチーフをいくつもいくつも作つてみるかなあ。
ちやんと整形するところまで手がければ、それなりに上達しさうな気もする。
かんたんなモチーフを基本的なことを確認しながら作るのもいいかもしれない。

と、日記には書いておかう。

Monday, 02 October 2017

リーフ模様のショールの進み具合

風工房の「まきもの いろいろ」からリーフ模様のショールを編んでゐる。
本には短いショールと長いショールとが掲載されてゐて、その中間くらゐの長さになりさうだ。
すでに減らし目に入つてゐて、いまのところ順調に編めてゐる。
端のリーフ模様がいい感じだ。
ガーター編み側の端の目もいつになくそろつてゐる。
これまでこんなにそろつたガーター編みの端の目を編めたことがあるだらうかくらゐの勢ひだ。
ガーター編みの場合端の目は毎段は編まないといふ編み方がある、といふのはいづれも様にはよくご存知のことだらう。
編み終はりは編んで、編み始めは編まずに裏目を編むときの要領ですべり目にする。
さうすると端の目がきれいに出る。
編み始めの目を裏目に編んで、編み終はりは編まずに普通にすべり目にする方法もある。
どちらを選ぶかは作品次第かと思ふ。
あとは人の好き好きだらう。
いちいち最初の目だけ裏目で編むのは面倒臭いといふ向きには編み終はりまで編んで次の段の編み始めは裏目を編むやうにすべり目にする方がいいだらう。
#ガーター編みを裏目編みで編む場合は上の「裏目」は「表目」になる。

端の目はいつになくそろつてゐるのだが、増やし目と減らし目の部分がふぞろひな気がしてゐる。
そこだけ編み方が違ふのだからガーター編みで編んでゐる部分とは違つてしまふのは仕方がない。
整形すればいい感じに落ち着くのか。
それともかういふ模様のやうに見えるのが正しいのか。
本の写真ではちよつとわかりづらい。
これでいいやうにも見える。
かういふときは実物を見てみたいやねえ。

編み地はちよつとしつかりし過ぎてゐるかもしれない。
編み地がdenseといはうかね。
まきものならもうちよつとくたつとした編み地の方がいいのではあるまいか。

この秋冬は少なくともあともうひとつはまきものを編む予定で、編むつもりでゐる袖なし羽織は羽織ものだ。
手持ちの糸で編むつもりだつた着るものには着手できないかな。

ちよつと前までは「もう編まなくなるかも」などと思つてゐたといふのに、いまはもつと編む時間がほしい。
自分勝手なものである。

Sunday, 01 October 2017

9月の読書メーター

9月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:1583
ナイス数:25

Nabokov's Favorite Word Is Mauve: What the Numbers Reveal About the Classics, Bestsellers, and Our Own Writing (English Edition)Nabokov's Favorite Word Is Mauve: What the Numbers Reveal About the Classics, Bestsellers, and Our Own Writing (English Edition)感想
古今の著名な英米文学を入手してどの単語をいくつ使っているのかを分析する。それだけの話なのだが、これが滅法おもしろい。これを可能にしたのはコンピュータの技術なのだが、分析の切り口を決め結果を解釈をするのはいまのところまだ人間のようだ。分析にはPythonを用いたとある。久しぶりに電車を乗り過ごすくらい夢中になって読んだ。日本文学でも同じことやってる人いないか知らん。
読了日:09月01日 著者:Ben Blatt
古文の読解 (ちくま学芸文庫)古文の読解 (ちくま学芸文庫)感想
「これからの若者は理系の勉強をするべきだ。それでなければ日本の未来はない」というような考えから書かれた本である、と解説にはある。古典をもっぱらにしない受験生に如何に合格点を取るかを指南する本。そのはずだが、内容は古文に限らず現代文や英文など外国語で書かれた文の読解にも役立つように思える。
読了日:09月09日 著者:小西 甚一
大人のための国語ゼミ大人のための国語ゼミ感想
「お米をとぐ」という表現を見かけなくなったのはこういうところに起因しているのかなあ。お米はいまや「洗う」ものになってしまった。それも「わかってもらいたい」と思えば仕方のないことなのだろう。こどものころから質問力がないので、これを機に鍛えたい。
読了日:09月12日 著者:野矢 茂樹
語彙力がないまま社会人になってしまった人へ語彙力がないまま社会人になってしまった人へ感想
たとえば「偏頗」ということばを職場の打ち合わせの場などで用いたとして、上司や同僚から「語彙力のある人だ」と思われるだろうか。答えは否な気がする。やってみたことはないから絶対とは云えないけれど。最終章にある語彙力の鍛え方は参考になる。外国語の習得にも役立つのではないかと思っている。
読了日:09月13日 著者:山口 謠司
思考ツールとしてのタロット (こどものもうそうブックス)思考ツールとしてのタロット (こどものもうそうブックス)感想
易の参考にと思って読んでみたところ、タロット自体に興味を惹かれることになる。「コレポン(コレスポンデンスの略)」という考え方がとても興味深い。かんたんに云うと連想かと思う。疲れているときは連想力が全然働かないんだよなー。「想像と言葉」や「はぁって言うゲーム」にも興味はあったけど「ひとりじゃできないんだろうなあ」とあきらめていた。機会があったらこの二つも体験してみたい。
読了日:09月15日 著者:米光一成
いとも優雅な意地悪の教本 (集英社新書)いとも優雅な意地悪の教本 (集英社新書)感想
初めて読んだ橋本治は「桃尻娘」で、「世の中ほんとにこうだったらイヤだなあ」と思ったものだった。当時友人にそう云ったら「え、こういうもんでしょ?」と返って来たように記憶している。そういう人の書く意地悪というのはこういうものなのかもしれないなあ。ってあれから何年たっていると思っているのか。
読了日:09月25日 著者:橋本 治

読書メーター

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