モラルねぇ
橋本治の「いとも優雅な意地悪の教本」を読んだ。
意地悪とはどういふものか、といふ話だが、気になつたのはそこではない。
モラルの話だ。
あるいは矜持の話かもしれない。
この本には都知事だつたときの舛添要一についてなにが問題だつたのかが書かれてゐる。
舛添要一は公金を私的に利用した疑ひで職を追はれた。
「疑ひで」と書いたのは、調査した弁護士が「限りなくクロに近いが違法ではない」といふ旨のことを云つてゐたからだ。
違法ではないのなら、なぜ都知事を辞めなければならなかつたのか。
それは、「やることがあまりにもセコ過ぎたからでせう」と橋本治はいふ。
こどものための本だとか、書道のときに使ふといふ中国服だとか、用途が些事に過ぎる。
それくらゐ、自費で賄へよ。
そんなものばかりだ。
たぶん、舛添要一は自分が都知事の座を追はれたことに納得してゐない。
自分が悪いと思つてゐないことについて謝ることはできない、といふやうなことを発言してゐたことからも明らかだ。
悪いと思つてゐないのだ。
だつて法的には問題ないんだし。
法律に違反してゐないのならなにをしてもいいのか。
そのとほりだ、といふ人もあらう。
そんなことはない、といふ人もあらう。
ここで問題になつてゐるのは「モラル」だ。
モラルといはうか倫理観とでもいはうか「人としてかうあるべき姿」や「理想」とでもいはうか。
実をいふと、やつがれはモラルに欠けた人間である。
これを常々気に病んではゐて、なんとかしやうとは思ひつつ、生来の卑しさからどうにもできずにゐる。
自分がよければいい。
自分さへよければいい。
楽しければそれでいいぢやあないか。
無意識のうちにさう思つてゐる。
行動原理がさういふ考へに支配されてゐる。
たまに我と我が身とをふりかへつて、「なんとあさましいのか、この己といふ人間は」と嘆き、そのときはなんとかしやうと思ふのだが、喉元過ぎればなんとやらといふアレで、次の瞬間には忘れてゐる。
舛添要一を非難した人々は、「人間としてどうなのよ」と迫つたわけではないのかもしれない。
自分だけいい目を見てずるいよ、と思つたのかもしれない。
するつてーと、単に妬み嫉みの話になるわけだが。
嫉妬するのは自由だけど、それを表面に出すか否かは、やはりモラルまたは矜持の問題になるのだらう。
Comments