書けないわけではない
三月からこの方「書けない」と思つてきた。
どうやら「書けない」わけではなかつたらしい。
その証拠に書いてゐるし。
先日、落語を聞きに行く前に、コーヒー屋でコーヒーを飲みつつ、前日に見た文楽の感想などを書いてゐた。
落語には早めに行つて、来月の席がまだあつたら買ふつもりでゐた。
買へなかつた。
書きはじめたらなんだか楽しくなつてしまつて、書き終へることができなくなつてしまつたのだ。
確かに、文楽は楽しかつた。
見る前から「今回の演目は絶対楽しい」と自分に云ひ聞かせて見たのが功を奏したやうだ。
もちろん、演目自体楽しいものだつたんだけれども、それはまた別の話。
一とほり書いて、それでも止まらなかつたので、いはゆる「徒然草」の序段をやつた。
「心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き尽く」ることにしたのだつた。
楽しかつたねえ。
そこで気づいたわけだ。
三月この方、「書けない」と思つてゐたけれど、書けないわけぢやなかつたのだ。
その証拠に中村歌六の歌舞伎夜話の記録などはしつこいほどに書いてゐるし、「激動の昭和史・沖縄決戦」や「同・軍閥」、「帝都物語」についても同様だ。
最近だと「町奉行日記」とか「逆艫」とか。
見ておもしろかつたことについて書くのだから、楽しいにきまつてゐる。
楽しくなければ書けないしね。
だが、書いてゐて、どことなく「書かされてゐる」といふ気分になつたことも確かなのだつた。
書かなければ。
書かなければ忘れてしまふ。
この感動(といふほど大げさなものではなけねども)をなんとか残しておかなければ。
楽しいと思つて書いてゐるときも、さうした「みづから課す義務感」のやうなものはある。
書かないと忘れてしまふ、だから書く、といふやうな。
でも書いてゐて楽しいので気にならない。
楽しくないときは、「とにかく書いてしまはなければ」といふ気持ちばかりが先に立つ。
さうすると楽しくなくなるからさらに義務感ばかりを感じてしまふ。
負のスパイラルといふアレだ。
それで「書けない」と勘違ひしてたんだなあ。
書けてゐないわけぢやなかつたのだ。
書いてても以前ほど楽しくなかつた。
それだけのことだつたのだ。
そんなわけで、また書くのが楽しくなつてきた。
問題は、書くのには時間がかかるといふことだ。
書く時間をなんとかして捻出しなければならない。
書ければ書けたで問題はあるのだつた。
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