相談しない
ここのところ、さんざん悩んで相談しないことが多い。
他人に相談したいと思ふときは単に承認欲求が強くなつてゐるだけだと思ふからだ。
やつかいだな、承認欲求とか。
Twitter をはじめて、「自分がなぜダメなのか」を知る機会が増えた。
「承認欲求」もさうだが、「自己肯定感」などといふことばを覚えたのはわりと最近のことである。
それまでは、人間といふものは「自分は生きてゐていいのか」とか「自分はなんのために生きてゐるのか」とか普通に考へるものだと思つてゐた。
疑ふこともなかつた。
「自分は生きてゐていいのか」といふのはキリスト教でいふところの「原罪」につながるものなのではないかと考へてもゐた。これはいまでも考へないことはない。
人間は根源的に罪を背負うて生きてゐる。
ゆゑに「自分はほんたうに生きてゐていいのか」とか「自分はここにゐてはいけないのぢやないか」とか考へたりするのではないか、と思つてゐた。
キリスト教の原罪といふものは、もつと全然違ふものなのだらうけれど。
思ふに、自己肯定感の高低に関はらず、「自分は生きてゐていいのか」とか「自分はこのままでいいのか」とか考へるものなんぢやないのかなあ。
だいたい「ありのままの自分でいい」といふ考へ方がもう受け入れられない。
ありのままの自分がいいわけないぢやあないか。
で、Twitter の TimeLine を見てゐると、なんで自分がかうなつてしまつたのかその原因もなんとなくわかつたりする。
でもそれを云ひ訳にしてはいけないのださうだ。
一番つらいのはここかもしれないな。
云ひ訳ができない。
つらいなあ。
ところで相談しないのは、自分の決定に自信がもてないからだ。
だれかに背中を押してもらひたいだけなのである。
それがわかつてゐるから他人には云へない。
それはそれで正しいのだらう。
さうすると、相談といふのはいつたいどういふものなのか。
だんだんわからなくなつてくる。
旅行の日程について話をするとか、さういふことかな。
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