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Tuesday, 26 September 2017

太くてもいい

タティングレースの栞は、あとちよつとといふところまで来た。

Mary Konior のデザインした Black Magic を淡い水色の糸で作つてゐる。
あと花びら(だらう、たぶん)を一枚作つたらおしまひだ。
これが終はると昼休みにすることがなくなつてしまふ。
昼休みのあひだはあひかはらず暗いので、もうタティングレースはあきらめやうかなあといつたところだ。

だが待てよ。
なにかとても太い糸で作ればいいのぢやあるまいか。

これまで一度だけ行つたことのあるホビーショーではえらく太い糸で作つたタティングレースのモチーフをつなげて着るものを仕立ててゐたのを見たことがある。
実際にそれを身につけてゐる人もゐた。

なるほど、細い糸で作るばかりがタティングレースではない。

だがなあ。
手持ちの糸で暗くても問題のなささうな太さでタティングレースにも向いたもの、といふのがぱつと思ひ浮かばない。
中細や合細くらゐの毛糸を使つてもいいが、さうした糸はたいていなにを作るかおよそのところは決めてゐる。
うーん。どうしたものかー。

といふわけで、ここはやはりおとなしくあきらめて糸紡ぎでもするかなあと思つてゐる。
さうするとタティングをする時間がなくなつてしまふんだよなあ。
バスで座れたときにタティングをすることにしやうかなあ。

その前に、タティングレースで作りたいものがいまあるだらうか。

考へるとしたらそこからかなあ。

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Monday, 25 September 2017

オレンジとレモン

リーフ模様のショールは一玉編み終はつたところだ。

リーフ模様のショール in Progress

まきもの いろいろ」での指定糸はリッチモアのパーセントだ。
やつがれは Zara で編んでゐる。
Zara が廃番になると聞いたときに目について買つた糸だ。
いい色だと思ふ。
先日、オレンジといふのは男女問はずあまり好きといふ人がゐない色だと聞いた。

かくいふやつがれも以前はオレンジはそんなに好きな色ではなかつた。
あみものを頻繁にするやうになつてからだな、オレンジや黄色が好きになつたのは。

ひとくちに「オレンジ」「黄色」いつてもいろんな色がある。
黄色はたまご色のやうな色が好きだ。
赤ちやん向け毛糸にありさうな色で、甘さはできれば控へめなものがいい。
オレンジはかういふちよつと杢な感じだつたり暗い感じだつたりするのを選ぶことが多い。
とくに日本の毛糸は色がちよつと暗めといふか渋めに出ることがあるやうで、さういふオレンジがいいんだよなあ。

そんなわけで、オレンジ色の毛糸で楽しく編んでゐる。
本では、リーフ模様のショールは短いものと長いものとが掲載されてゐる。
短い方はパーセントを50と数グラムでできると書いてある。
現在 Zara を50と数グラム使つてゐるが、どうもこれでは長さが足りないやうだ。
もともと長めのショールを作らうと思つてゐたのでそれはいいのだけれど。
手持ちのこの色は三玉。
それでちやうどいい長さになるかなあ。
ちよつと不安だ。

「まきもの いろいろ」にはほかにも編みたいまきものがいくつかある。
そのうちのひとつについては指定糸の指定色を買つてしまつた。
いくつ編めるかなあ。
袖なし羽織を忘れぬやうにしつつ、編めるだけ編みたいと思つてゐる。

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Friday, 22 September 2017

だからTwitter

なぜ Twitter なのか。

Twitter をはじめて十年半くらゐたつ。
たぶんまだやめないし、なくなつたら困るなあと思つてゐる。

なぜなのか。
なぜ Facebook や LINE ではないのか。

Twitter は、基本的にひとりごとを呟く場だからだらう。
Facebook は他人とつながることを推奨してゐて、ときに強要されてゐるかのやうに感じることもある。
LINE はひとりごとをつぶやくのにも使へるけれど、もとより他人との連絡に用ゐられることが多い。
他者との interaction が少ない。
それが Twitterと思ふ所以である。

Twitter で呟いたことを記録するサーヴィスにはいろいろある。
さういふサーヴィスで記録を残して、「あのときはあんなことを呟いてゐたんだんなあ」とか「あのときはこんなことを考へてゐたのか」と見返すのもおもしろい。
今日なんの気なしに呟いたことを二年前のほぼおなじ日に呟いてゐる、とかね。
他人にはまつたくおもしろくないことだが、自分がおもしろいからいいのである。
去年のいまごろは先代の松本幸四郎の「鬼平犯科帳」を見てゐたなあ、とか、ゲストはこの人々だつたのかー、とか、さういふのを読み返すのがことのほか楽しい。

そんな風に一時は記録として呟いてゐた時期もあつて、やたらとひとりごとばかり多い日があつた。
最近は「これは呟くには値しないな」と思つたら呟かず、場合によつては手帳に書き留めるやうにしてゐる。
それでずいぶんと呟く回数が減つた。
このままなんでもかんでも手帳に書くことにしやうかとも思ふ。
でも Twitter で呟いたことはオンラインで確認できるからな。
手帳だとさうはいかない。
使ひ終へた手帳をすべて持ち歩くわけにもいかないしね。

Facebook はともかく、LINE はかうした用途には向かない。
Facebook も「加東大介の左馬さんがことのほかよい」とか書くやうな場ではない気がする。

結局、Twitter なんだよなあ。

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Thursday, 21 September 2017

改名するなら

「ロリータ」を読んでゐて、改名することがあつたら「武田晴信」か「成田三樹夫」にしやうとあらためて心に誓つた。

出席簿(おそらく)が詩に見える人なら、このきもちはわかつてもらへるのではないか。
さう思つたからだ。

なぜ「武田晴信」か「成田三樹夫」なのか。
字面が好きだからだ。
「武」や「成」の右のはねと「田」の字とのバランス。
「晴信」といふ偏とつくりとのある縦にそろへやすさうな字面。
「三」と「夫」とのあひだに「樹」の字のはさまつたその形。
完璧だ。
自分のお粗末な字で書いてさへうつとりする。
いいなあ。
自分の名前ではかうはいかない。

やつがれの名前には偏とつくりとのある字がない。
字を縦に中央にそろへるのが難儀な気がする。
偏とつくりとがあつた方が縦に書いたとき中央にそろへやすい。
そんな気がするし、実際に自分で書いてゐてもさうだなと思ふ。

といふ話を、たまにTwitterで呟くこともあるのだが、反応がないので世の中の人はさういふ風に考へたりはしないのだらう。

だいたい、普段生活してゐて「出席簿を見たら詩のやうでさー」とか話してゐる人がゐない。
すくなくともやつがれの周囲にはゐない。
みんなさういふことはかくしてゐるのだらうか。
かくしてゐるのかなあ。
心の中でひつそりと愛でる。
これはさうしたことなのかもしれない。
あるいは、これはあまり考へたくないことだが、そんなこと思つてもみないのだらうか。

「出席簿を見たら詩のやうだつた」に一番近い話として記憶してゐるのは、「グイン・サーガ」のあとがきに出てきた話だ。
たぶん、「グイン・サーガ」のあとがきだつたと思ふ。
あるいは中島梓名義で書かれたエッセイにあつたのかもしれない。

内容は「人は、すてきなことばを唱へ合ふだけでわかりあふことも可能である」といつた趣旨のものだつた。
「水滸伝」にはいはくいひ難くかつこいい名前がいくつも出てくる。
九紋龍史進であるとか。
豹子頭林冲であるとか。
さうした、口に出すだけでうつとりするやうな名前を互ひに伝へあふだけで、人はわかりあへるものだ。
「青面獣楊志!」
「小李広花栄!」
と、互ひに叫べば、「巨人の星」に出てくる登場人物たちががつしと抱き合ふやうに、理解しあへる。
そんなやうなことが書かれてゐた。

わかるなあ。
かつこいいもんなあ。
かつこいいものをかつこいいものと思つてゐる相手とわかりあふには、これで十分なのかもしれない。
読んだときにさう思つた。

「武田晴信」とか「成田三樹夫」といふのは、やつがれにとつてはさうした「かつこいいもの」であつて、それも口に出したときにどうかうといふよりは字面がなんとも素敵でたまらないものだ。

やはり改名するとしたらこのどちらかだな。
改名するとして、の話だが。

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Wednesday, 20 September 2017

書けないわけではない

三月からこの方「書けない」と思つてきた。
どうやら「書けない」わけではなかつたらしい。
その証拠に書いてゐるし。

先日、落語を聞きに行く前に、コーヒー屋でコーヒーを飲みつつ、前日に見た文楽の感想などを書いてゐた。
落語には早めに行つて、来月の席がまだあつたら買ふつもりでゐた。
買へなかつた。
書きはじめたらなんだか楽しくなつてしまつて、書き終へることができなくなつてしまつたのだ。

確かに、文楽は楽しかつた。
見る前から「今回の演目は絶対楽しい」と自分に云ひ聞かせて見たのが功を奏したやうだ。
もちろん、演目自体楽しいものだつたんだけれども、それはまた別の話。

一とほり書いて、それでも止まらなかつたので、いはゆる「徒然草」の序段をやつた。
「心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き尽く」ることにしたのだつた。

楽しかつたねえ。

そこで気づいたわけだ。
三月この方、「書けない」と思つてゐたけれど、書けないわけぢやなかつたのだ。
その証拠に中村歌六の歌舞伎夜話の記録などはしつこいほどに書いてゐるし、「激動の昭和史・沖縄決戦」や「同・軍閥」、「帝都物語」についても同様だ。
最近だと「町奉行日記」とか「逆艫」とか。

見ておもしろかつたことについて書くのだから、楽しいにきまつてゐる。
楽しくなければ書けないしね。
だが、書いてゐて、どことなく「書かされてゐる」といふ気分になつたことも確かなのだつた。
書かなければ。
書かなければ忘れてしまふ。
この感動(といふほど大げさなものではなけねども)をなんとか残しておかなければ。

楽しいと思つて書いてゐるときも、さうした「みづから課す義務感」のやうなものはある。
書かないと忘れてしまふ、だから書く、といふやうな。
でも書いてゐて楽しいので気にならない。
楽しくないときは、「とにかく書いてしまはなければ」といふ気持ちばかりが先に立つ。
さうすると楽しくなくなるからさらに義務感ばかりを感じてしまふ。
負のスパイラルといふアレだ。

それで「書けない」と勘違ひしてたんだなあ。
書けてゐないわけぢやなかつたのだ。
書いてても以前ほど楽しくなかつた。
それだけのことだつたのだ。

そんなわけで、また書くのが楽しくなつてきた。
問題は、書くのには時間がかかるといふことだ。
書く時間をなんとかして捻出しなければならない。
書ければ書けたで問題はあるのだつた。

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Tuesday, 19 September 2017

糸を持ち歩く

タティングレースの栞は、あとすこしでできあがるところまできてゐる。

Mary Konior の Black Magic を作つてゐる。
前半は終はり、後半に入つて五個中四個めの外周を作つてゐるところだ。

ここにきて、糸が足りない。
あとすこしだといふのに。
最初から足りない気はしてゐた。
クロバーのタティングシャトル・ボビンのボビンに糸を巻いて持ち歩いてゐる。
これがすこぶるよい。

クロバーのボビン式タティングシャトルは、従来のシャトルの形状に近く、使用してゐて違和感が少ない。
さすがクロバーだ。

では普段遣ひにしたいか、といふと、ちよつと微妙だ。
たぶん、やつがれがタティングシャトルに求めるのはボビン式といふだけではないのだ。
できればかぎ針も装備してゐてほしい。
だから GR-8 Tatting Shuttles を愛用してゐるんだな。
このことに、クロバーのボビン式タティングシャトルを使つてはじめて気がついた。
それまではボビン式のシャトルが好きだくらゐにしか考へてゐなかつた。

しかし、それでもクロバーのボビン式タティングシャトルはいい。
なにがいいといつて、ボビンとボビンのストッパとが実にすぐれてゐる。
予備の糸をボビンに巻いてストッパをつければ持ち歩きに便利なことこのうへないからだ。
ストッパにはボビンをさせるやうになつてゐる。ボビンに糸を巻くときに至極都合がよい。

そんなわけで、今回も外周用の糸をクロバーのボビンに巻いて持ち歩いてゐたわけだ。
でも、Black Magic を作るにはちよつと足りなかつたんだなあ。
惜しい。
もうひとつ予備に持つてゐればよかつた。

昼間の職場は相変はらず暗い。
明るくなつたら Masquerade をつなぐプロジェクトを再開する予定なんだがなあ。
もしかしたらこのまま明るくならないのだらうか。

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Monday, 18 September 2017

まきもの不要なれど

Ambitus を編み終はつた。

Scarf

三日前くらゐから指定の最終段に入つてゐて、そこで終はりにするかそれとももうちよつと編むかで悩んでしまひ編み終へることができずにゐた。
三目二目のゴム編みであることもあり、伸縮性に富んだ伏せ止めを採用したかつたので、毛糸はだいぶあまつてゐたけれども指定段で編み終へることにした。
それで正解だつた。
伸縮性のある伏せ止めは普通の伏せ止めより糸を使ふからだ。

お昼ちよつと前からちまちまと伏せ止めをはじめ、なかなか終はらなかつた。
慣れない伏せ止めだからだらう。
伏せ止めが終はつたのが夕方だつたので、水通しはまた今度。
エステルヨートランドのキャラメルは手触りのちよつとごわごわとした糸だ。
でも水通しをするとやはらかくなるので、首にぴつたりとあたる cowl でも問題はない。

この毛糸は三年前のスウェーデンはウメオでのヴェヴメッサで購入したものだ。
ちやうど三年前のいまごろウメオにゐたのらしい。
ウメオで買つてきた毛糸はまだ手付かずのものがある。
おなじエステルヨートランドのレース糸だ。
これを編んでしまへばウメオで買つた糸は一通り使つたことになる。
編んであまつた糸もあるので完全に使ひきつたとはいへないけどね。

できればそのレース糸を使ひたいところなのだが、この秋冬はうつかりあみものの新刊を買つてしまつて、なあ。
買つてしまつたのは、風工房の「まきもの いろいろ」である。

五月の前の秋冬に使つた手編みのあれこれを洗濯してかたづけてゐて、「もうまきものは編まないことにしやう」と思つたはずなんだがなあ。
数からいつたらくつ下の方が多いかもしれないが、まきものも数多く編んでゐる。
一時メビウス編みにはまつてひたすらメビウス編みのまきものばかり編んでゐた時期もあるし、1シーズンにつき最低一枚はマフラーやショールを編んでゐると思ふ。
なぜつて、「編みたい」と思つてしまふからだな。

「まきもの いろいろ」にしてもその題名からして買つてはいけない本だ。
編んだはいいけれど全然使はないマフラーやショールが何枚もあるからだ。
でも編みたい。
このジレンマよ。

でも編みたいんだからさ。
編んでもいいんぢやあるまいか。
さう思つて編み始めたのがリーフ模様のショールである。

リーフ模様のショール

本ではリッチモアのパーセントを使ふことになつてゐるが、手持ちのZaraで編み始めた。
リーフ模様が気に入つてしまつたのだつた。
この本を見る限り、今年は大きくて長いまきものが流行りなのかな。
大きくて長いまきものはいつも編んでみたいと思ひつつ、なかなか編めずにゐる。
単純に毛糸をたくさん消費するし、編むのにも時間がかかる。しかも収納スペースが必要になる。
そんなわけであまり編まずに来たけれど、今年はひとつ編んでみるかな。

その前に去年編みはじめて途中になつてゐる袖なし羽織も編まねば、なあ。

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Friday, 15 September 2017

あこがれの総髪撫付

総髪撫付系に弱い。
それも、軍学者系の髪を縛らないのに弱い。
時代劇を見てゐるとつくづくさう思ふ。

先日も「大江戸捜査網」は第三シリーズ第23話「恐怖の爆破作戦!」を見てゐて、天本英世演じる悪役が軍学者(兵法家といつてゐたかもしれない)で、総髪撫付と云ひたいところだが、髪の毛に油分も水分もまつたくないやうな、倉多江美のまんがに出てきてもをかしかないくらゐパサパサとした感じの撫でつけ感のまつたくない髪型で出てきて、それだけでぐつときてしまつた。
この回は理想に燃える若者として誠直也も出てゐて、特撮好きにはちよつとたまらない回だつたりはするが、それはまた別の話。

総髪で、しかも倉多江美ばりのパサパサ感が実に天本英世的でそこもよかつたんだよなあ。

時代劇で総髪撫付といふと、脳裡に浮かぶのは佐藤慶だつたり成田三樹夫だつたりするので、原点はそのあたりなのかもしれない。
似合ふよね、佐藤慶も成田三樹夫も。

「なのかもしれない」と書くくらゐなので、原点の記憶はない。
なぜ総髪撫付を好きになつたのかも不明だ。
基本的にみんな髷を結つてゐる中に、たいていはひとりだけオールバックで長く髪を垂らしてゐるところがよかつたのか。
はたまた、かういふ出で立ちで出てくる人物はほぼ間違ひなく悪役で、さういふところがよかつたのか。
両方かな。
まれに儒家とか山伏だつたりすることもあるけれど、これまたたいていは軍学者とか兵法家のことが多いのでインテリだつたりするしね。

悪のインテリをぢさま
ああ、流れ着く先はそこか。

木原敏江が、「江戸時代は髪の毛が風になびかなくてつまらない」といふやうなことを云つてゐたことがある。
インタヴューに答へた、みたやうな記事だつたやうに記憶する。
それを読んで、「それはそのとほりだなあ」と思つた。
さう云ひながら歌舞伎見るんでせう、といはれるとぐうの音も出ない。
でも、歌舞伎には歌舞伎のよさがある。
お姫さまのかんざしがゆらゆら揺れたりね。
助六さんなら鉢巻がなびいたり。
もつと云ふと、シケ(ほつれ毛)の揺れるさまなんていふのは、はたいふべきにもあらず、といふ感じで実にいい。

まんがでさういふのを表現するのはむつかしいんだらうなあ。

さういへば、時代劇を見てゐて軍学者だの兵法家だのの髪の毛が風になびくやうすといふのはあまり見たことがない。
みづから手を下すことがあまりないからか。
それともあの髪の毛はびつちり撫でつけてあつて、風になびかないやうになつてゐるのか。
単にやつがれが粗忽で見逃してゐるだけなのか。
今後も総髪撫付には注目していきたい。

ところで、ああいふ髪型に対するあこがれといふのもあつたりする。
なんだらう、時代劇でほぼ唯一、まねできさうな髪型だからかな。

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Thursday, 14 September 2017

新機種に求めるもの

iPhone の新作に興味を覚えなくなつて久しい。
これ以上大きくなられても片手での操作がむつかしくなるし、画面の解像度などは今の状態で十分だと思つてゐる。
大きさでいへば、iPhone4くらゐがちやうどよかつた。5だとやつがれの手には少し大きい。
iPhone5くらゐからだな、電車の中でiPhoneを使はなくなつたのは。
大きすぎて、片手だけで操作することに不安を覚えるやうになつたからだ。
以降、現在に至るまで、電車の中ではほとんどiPhoneを取り出すことはない。
ごくまれに座れることがあると取り出したりはするけれど、三日に一度あればいい方だ。

それでも新しい iPhone に望むことはある。
ひとつは電池のもちが長くなること、だ。
いまの使ひ方だと、二日は充電をしなくてもギリギリもつ。
しかし、もつのは電池のもちを考へて使つてゐるからだ。
それに、二日に一度でもちよつと頻繁に過ぎる。
充電を意識せずに使へるやうにならないものだらうか。

つまり、iPhone はやつがれにとつて「あつてあたりまへ」の存在になつてゐるといふことだ。
あつてあたりまへなので、電池が切れて使へない状態など考へられないし考へたくない。

MacBook もさうかな。
手元にあつて使へればいい。
スペックとか、あまり気にならない。
昔はハードディスクの容量がどうでメモリはこれくらゐ積んで、とか考へた。
それと懐具合とのかねあひでさんざん悩んだものだ。
それがいまはない。
まつたくないわけではないが、一番求めやすい機種でも自分の用途で不都合はない。

かうなつてくると、いつまで MacBook は、また iPhone は存在してくれるのだらうか、と思つてしまふ。
また、自分はいつまでかうした gadget を必要としつづけるのか。

いま使つてゐる iPhone が壊れて使へなくなつたら、新たな iPhone を買ふだらう。
でもそれは必ずしもやつがれの求めてゐる iPhone ではない。
いまの機能やスペックをそなへた状態で、電池のもちがよく、できればもうちよつと小さい(iPhone 4くらゐの)機種があればなあ、と思ふ。
電車の中で立つてゐても気軽に取り出せて使へる、そんな大きさの新機種が出たら買ふのになあ。

しかし、そんな iPhone は登場しない。
だれもそんな機種を「新しい」とは認めてくれないからだ。
「新しい」つてどういふことなのだらう。
先日発表されたアレが新しいといふことなんだらうか。
なんだらうな。

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Wednesday, 13 September 2017

よかつたねぇの時代劇

TVドラマの時代劇では、どうしてこんなにたくさん人が殺されてしまふのか。

毎日喜々として「必殺仕置人」を見てゐる人間がなにを云ふ。
我ながらさう思ふが、一昨日見てゐてつくづく思つてしまつたのだ。
なぜ時代劇ではこんなにかんたんに人が殺されるのだらうか。

「必殺仕置人」を見ながらさう思つたのだが、さう思つたときにやつがれの脳内に浮かんでゐたのは別の番組だつた。
前日に見た「大江戸捜査網」とか、もつと前に見た「暴れん坊将軍」や「三匹が斬る!」などだ。

「大江戸捜査網」では、杉良太郎演じる十文字小弥太に変はつて、里見浩太朗演じる伝法寺隼人が登場する回を見た。
隼人と同時に、左右田一平演じる同心が隠密同心に新たに加はることになつた。
左右田一平演じる同心は、物語の前半で殺されてしまふ。

殺すなら出すなよなー。
さう思つてしまつた。

かういふのは見てゐるこちらの心理状態によつて変はつてくる。
おなじドラマを見てもどうとも思はないこともある。
今回はたまたまさう思つてしまふ時期だつたのだらう。

「暴れん坊将軍」で思ひ出したのは、悪人に目を付けられた男が殺される話だ。
それは、いい。
よくはないかもしれないが、話の展開としてはありだ。
だが、その男の妻が殺される段になつて、「それは不要なんぢやない?」と思つてしまつた。
話自体は上様の立ち回りと「成敗!」のひとことで片が付く。
だが殺された夫婦には娘がゐた。
この娘はどうなるのだらうか。
ドラマは、め組の人々や隣近所の人がそれとなく娘を助けてくれさうだ、といふやうすで終はる。
だが、次の回以降、この娘は出てはこない。
そらさうだ。
この回一度きりのゲストだもの。
でも思ふのだ。
あの娘さんはどうなつてしまつたのだらう。
結局暮らしに困つて苦界に身を沈めるやうなことになつてはゐないだらうか。
せめておつ母さんだけでも生きてゐたら……
さう思はずにはゐられない。
母親が生きてゐたからといつて生活が楽になるとは限らないけれど。
だけどひどいでせう。
話の展開としては、男が殺されるだけで十分だつた。
なぜその妻まで殺してしまつたのか。
いまになつてもわからない。

かう書いてゐて、男と女とが逆だつたやうな気もするし、娘ではなくて幼い子供だつたやうな気もする。
が、大勢には影響がないのでこのままにしておく。

「三匹が斬る!」もその伝だつたやうに思ふ。
悪人に目を付けられた村人が殺されて、さらに第二第三の殺人が起こる。
そんなやうな内容だつたと思ふ。

いづれにしても、そんなにたくさん殺さなくても物語に影響はないのに、と思はせてしまふやうな話だつた。

そして、たまたま「そんなにたくさん殺さなくてもいいのに」と思つてしまふやうな精神状態のときに見たドラマだつたわけだ。

なんといふか、時代劇といふのは、もつと、こー、見てゐてほのぼのするもの、といふ勝手な思ひ込みがあるんだらうな。
必殺シリーズほか、例外はあるけれども。

水戸黄門などは見たあと「よかつたねえ」で終はるものだと思つてゐるし。
途中で殺される人がゐても、最後は印籠の力で(違)すべて解決し、芥川隆行のナレーションで終はる。

考へてみたら、水戸黄門が去つたあとも「よかつたねえ」がつづくとは限らないんだよね。
その場はおさまつたかもしれないけれど、御老公が去つたあとはなにごともなかつたかのやうに以前の状態に戻る。
そんなこともあるだらう。
さういふことの方が多いのかもしれない。

でも普通はさういふことは考へない。
めでたしめでたしで終はつたら、「よかつたねえ」と思ふ。

めでたしめでたしで「よかつたねえ」だと、途中の話を忘れてしまひがちなのかもしれないな。
物語の中で罪もない人々がむやみやたらと殺されてしまつたことなど記憶の彼方に消へてしまうのかもしれない。
それで「TVの時代劇イコールなんとなくほのぼのするもの」と思ひ込んでゐるのだらう。

人はやたらと殺されるけど見終はつたあとなんとなくよかつたなと思ふ「座頭市物語」(TV版)のやうな番組もあるしね。
「座頭市物語」(TV版)は、基本的に「善人は死なない」「悪人でも女の人は死なない」「悪人は市に斬り殺される」といふお約束がある。例外もあるけれど、わりとかういふ話が多く、途中殺伐とした気分になつても最後は「よかつたねえ」で終はる。
でも好きなのは浅丘ルリ子回(善人も死ぬ)だつたりするので、つまるところ、やつがれは人の死にすぎる時代劇が好きなのだらう。
毎日「必殺仕置人」を喜々として見てゐるくらゐだもの。

それでも「人が殺されすぎる」と思つてしまふところがある、といふのが人の心といふのはふしぎなものであることよ。

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Tuesday, 12 September 2017

タティングレースのリングをほどく

タティングレースの栞は、うまいことほどくことができて現在もちまちまと作成中である。

先週、痛恨の大失態を犯した翌日、ダメでもともとと思ひつつもリングをほどいてみた。

昔はほどけなかつた。
タティングレースをはじめたばかりのころのことだ。
おそらく手がきつすぎたのだらう。
リングの締め具合がわからず、あまりゆるくすると芯糸が見えてしまふこともあり、きりきりと締めてゐた。
また、糸のすべりがよくなくて、つひ力任せに引いてしまふこともあつた。これはいまもある。

リングをほどかうとして、芯糸をムリに逆方向に引つ張ると、最後の目が裏返つてしまふことがある。
目が裏返るといふのは、芯糸に巻き付いてゐた糸が芯糸になつてしまひ、芯糸が巻き付く現象をいふ。
タティングレースでは、シャトルから出てゐる糸を芯糸に巻き付けて目を作る。このとき芯糸は自在に動く状況にある。
シャトルから出てゐる糸に芯糸にするはずだつた糸が巻き付いてしまふと、シャトルから出てゐる糸は巻き付かれたまま動かなくなる。芯糸も同様だ。
それで芯糸を引けなくなつてしまふ。
この罠によくひつかかる。

いまは以前よりもリングの芯糸の引き加減が弱くなつた。
また、ほどかうとして芯糸をムリに引くと目が裏返つて糸を引けなくなつてしまふといふ現象も理解してゐる。
今回も最後の目が裏返つてしまつて、なほしながら芯糸を引き出した。
裏返つた目をなほすときにはクロススティッチ針を使ふやうにしてゐる。
ときに二本使用して、なんとか目をもう一度ひつくり返す。

いづれにせよ、リングを閉じるときには気をつけねばならない。
もう何度もやつてゐることなのに、気がつくとおなじことをやつてしまふのだつた。
吁嗟。

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Monday, 11 September 2017

緯度が違ふと見え方も違ふ?

Ambitus を編み始めた。
先週の水曜のことだ。

糸はエステルヨートランドのカラメルだ。

Karamell Östergötlands Ullspinneri

三年前のヴェヴ・メッサで購入した。
そのときのエントリはこちら
日本でも買へると思つたし、この色合ひはよく見かけるものではあつたけれど、買つた。

買つたはいいものの、なにを編んだらよいものやらずつと悩んでゐた。
ネックウォーマかな、と思つたのは水曜日のことだ。
MacBook に保存してある編み図・編み方を見返して、ambitus に決めた。
長いこと編みたいと思ひつつそのままになつてゐたネックウォーマである。

指定の糸は並太(DKかworsted)となつてゐるので、カラメルよりはもうちよつと太い糸で編むのだらう。
カラメルは合太(sports)だよね。
編み方によると、四目一模様で適当に作り目を増減するやうに、と書いてあつた。
指定では116目といふことだつたが、120目にしてみた。
手がゆるいのでそれくらゐでよからうと判断した。
針は編みはじめは四号、増やし目に入つてからの段は六号で編んでゐる。

Ambitus in Progress

水曜日はあまり天気のよい日ではなかつた。
日のささない日であつたやうに覚えてゐる。
そのせゐか、編みすすめてもあまりいい色だなと思ふことはなかつた。
悪くはないけど、普通。

人間の目の見え方といふのは、緯度によつて違ふのだといふ。
おなじ人がおなじものを見ても緯度が違ふと色が異なつて見えるといふのだ。

三年前のヴェヴ・メッサはウメオで開催された。
ウメオはスウェーデンの北部の街だ。
緯度は六十五度。
こちらは三十五度くらゐのところに住んでゐる。
そらー色の見え方も違はうといふものだ。

沖縄の型染めなども、現地で見るのと東京で見るのとではおなじものでも全然違つて見えるといふ話も聞いたことがある。

さういふことなんだなー、と、ちよつとあきらめてゐたところ。
翌朝見てみたらこはいかに。

な、なーんか、いい色ぢやない?
木曜の朝は晴れてゐた。
日もさしてゐて、明るかつた。
どうもこの色合ひは、日光の下で見た方がよく見えるやうだ。
すくなくともやつがれの目には。

そんなわけで、その後もちやくちやくと編み進んでゐる。
いま考へてゐるのはどの伏せどめを使ふか、だ。
一目ゴム編みで編み始めて分散増目をくり返し、最後は三目表目二目裏目のゴム編みになる。
毛糸があまるやうならもうちよつと長くしやうかなとも思つてゐる。
うーん、普通に伏せるか。
それともなにか伸縮性のある伏せどめにするか。
まだもうちよつと編むやうなので、しばし考へることにしたい。

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Friday, 08 September 2017

書けるとき書けないとき

Bullet Journal のいい点に、一ヶ月にどれくらゐ書いたかわかる、といふものがある。

一ヶ月に何ページ書いたかわかると、その月にいろいろ書くことがあつたのだな、といふことがわかる。
月初に先月分の最終ページと今月分の最初のページとを INDEX PAGE に書き込むからだ。

やつがれの場合でいふと、今年は二月・三月とバイブルサイズのシステム手帳のリフィルに六十ページをすこし超えるくらゐ書き、四月と六月とは二十ページに満たないくらゐしか書いてゐない。五月は五十ページでちよつと持ち直したものの、七月も四十ページ台で、月も終はらうとしたころにたくさん書くやうになつてゐる。
八月はその勢ひで六十ページを超え、九月もいまのところ順調にあれこれ書いてゐる。

「私の日記」として使用してゐる Moleskine のポケットサイズに書いた内容を見てみると、三月の後半くらゐから「全然書けない」と書いてゐる。
これが四月、五月も続く。
「全然書けない」と書いてゐるときには、自分がそれまでにどれだけの量を書いてゐるのかはわかつてゐない。
四月の時点では、三月は全体として六十ページくらゐ書いてゐるので、そんなに調子が悪いといふ感じではないやうに見えたのではないかと思ふ。
実際は、三月も終はりに近づくころにはほとんど書かなくなつてゐた。
ページ数だけではわからないこともあるけれど、いきなり書けなくなるといふことはない。
変化は次第にあらはれる。

たくさん書くといふことは、それだけ刺激を受けてゐるといふことだ。
おもしろい本を読んだ、とか。
ある芝居を見たらとても気に入つた、とか。
巷ではこんなことを云つてゐるけれど、とか。

そして、実際にそれを書きとめるだけの気力があるといふことだ。
つまり、Bullet Journal のページ数の多い月は、精神活動もそれなりに活発だつた月と考へてよい。
すくなくともやつがれにとつてはさうだ。

「私の日記」である Moleskine もあるので、誤差はあるのだが、書けるか書けないかは健康か否かの尺度でもある。
寝不足がつづくと書けなくなるしね。

来年は Bullet Journal に「私の日記」も戻さうかと考へてゐたりもする。
あるいは Bullet Journal を綴じノートに戻さうか、とかね。

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Thursday, 07 September 2017

「可愛い悪魔」のおそろしさ

九月三日日曜日、新文芸坐で「可愛い悪魔」を見てきた。

以下、「可愛い悪魔」の核心にせまる部分があるので、ネタバレを厭ふ方とはおさらばさらば。

「可愛い悪魔」は「火曜サスペンス劇場」で放映された二時間ドラマである。
リアルタイムで一度見たきりで、忘れられないドラマだつた。
「花筺」公開を記念して新文芸坐で大林宣彦監督作品特集を開催するにあたり「可愛い悪魔」もラインアップされてゐるといふので、万難を排して見に行つた。

見に行つて、すつかり忘れ去つてゐることも多々あつた。
主人公・涼子(秋吉久美子)がドラマの冒頭で精神病院に入院させられる、とか。
番組の最後で精神病院の医師(峰岸徹)とシスターでもある看護婦とがアリス(ティナ・ジャクソン)と一緒にスキップしてゐる、だとか。

見て思ひ出したこともある。
みなみ・らんぼうのゆる〜いアヤシさだとか。
ドラマの中では父親殺しはアリスのせゐではないことになつてゐる、とか。
これは上映後の樋口尚文と秋吉久美子とのトークショーで聞いて思ひ出したことだが、当時「可愛い悪魔」といつたら秋吉久美子のことだつた。その秋吉久美子が「可愛い悪魔」の被害者を演じるといふのが、見てゐて意外だつたしおもしろかつた、とか。

そのトークショーで「可愛い悪魔」の怖さについても語つてゐた。
捨てカットがまるでない、とかね。
全篇緊張感にあふれてゐるのである。
二時間ドラマは気楽に見られる番組だつたやうに思ふ。
放映時間的に、家庭の主婦は夕飯の片付けをしながら見てゐることもあつたのではないか。

そこに捨てカットなしの、つねに緊張感あふれる映像かつ内容の物語が放映されたら。
そりやあ忘れられないよね。

ものの映し方も、人形ひとつとつても怖いし、「あ、あれ、あとで使ふガラスの花瓶だ」と思ふだけで怖い。知らなくても、ガラスの花瓶が空の状態でおいてあるだけで怖い。

アリスがまた怖いしね。
どこまで悪意があるのか。
悪意はまるでないのか。
人が死ぬといふことがどういふことか、理解してゐるのかゐないのか。

このトークショーでは話題にならなかつた点で、もうひとつやつがれが怖いと思ふ点がある。
それは、主要な登場人物の衣装がほぼ白もしくは白つぽい色である、といふことだ。

主人公の涼子がたまに黒つぽい衣装を着ることがあるのと、アリスが学校に行くときの制服が黒つぽいことを除くと、病院関係者はもちろん、渡辺裕之も赤座美代子もみなみ・らんぼうも皆白もしくは白つぽい衣装で出てくる。
渡辺裕之とみなみ・らんぼうとは上下とも白だし、涼子とアリスとも基本は白か白つぽい衣装だ。

それのなにがこわいのかといふと、ドラマ冒頭では赤いセーターに黒つぽいパンツとかだつた涼子が、精神病院に入れられると真つ白な服を着せられるからなのではないかと思ふ。
すなはち、主要な登場人物はみなどこかしら病んでゐるのではないかといふ気がしてくるのだ。
どこかしら精神を。

さう考へてみると、いつたいなにがほんたうなのかわからなくなつてきて、実に怖い。
この物語自体は涼子あるいはアリスの中の妄想なのかもしれないといふ気すらしてくる。

この日、客席には病を押して大林宣彦も来てゐた。
苦しげに呼吸しながらも、いろいろと語つてくれた中に、今回見返してアリスの「死んぢやへ」といふつぶやきがどこから来たのかわかつた、ということがある。
先の大戦中、日本人の戦闘機乗りが「死んぢやへ」と云ひながら英米軍を攻撃する、攻撃されてゐる方は苦しんでゐる表情をしてゐる、といつたポンチ絵のやうなものがあつた。
アリスの「死んぢやへ」はそれがもとになつてゐる、といふのだつた。

なんでもかんでも戦争(反対)に結びつけるのは、やつがれはかはない。
このときも、最初に聞いた時は「なんでもかんでも戦争に結びつけなくてもいいのに」と思つた。
「花筺」の宣伝にしても、だ。

でも考へた。
たぶん、戦争の時、敵国を攻撃する兵隊は相手に対して「死んでしまへ」といふ感情を抱くのだらう。
戦時のとくに兵隊はさういふ気持ちになるのだらうと。
いまなら「それは間違つてゐる」といへる。
だが、その場に自分が置かれたら「間違つてゐる」といへるだらうか。

アリスは通常の世界に住んではゐないのだ。
自分の意に反するものはすべて敵。
敵は死んでもかまはない。
それはおそろしいことなのではあるまいか。

今後、「可愛い悪魔」を見る機会はないかもしれない。
あつたら、そんな視点でドラマを見てみたいものだ。

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Wednesday, 06 September 2017

相談しない

ここのところ、さんざん悩んで相談しないことが多い。
他人に相談したいと思ふときは単に承認欲求が強くなつてゐるだけだと思ふからだ。

やつかいだな、承認欲求とか。

Twitter をはじめて、「自分がなぜダメなのか」を知る機会が増えた。
「承認欲求」もさうだが、「自己肯定感」などといふことばを覚えたのはわりと最近のことである。
それまでは、人間といふものは「自分は生きてゐていいのか」とか「自分はなんのために生きてゐるのか」とか普通に考へるものだと思つてゐた。
疑ふこともなかつた。
「自分は生きてゐていいのか」といふのはキリスト教でいふところの「原罪」につながるものなのではないかと考へてもゐた。これはいまでも考へないことはない。
人間は根源的に罪を背負うて生きてゐる。
ゆゑに「自分はほんたうに生きてゐていいのか」とか「自分はここにゐてはいけないのぢやないか」とか考へたりするのではないか、と思つてゐた。
キリスト教の原罪といふものは、もつと全然違ふものなのだらうけれど。

思ふに、自己肯定感の高低に関はらず、「自分は生きてゐていいのか」とか「自分はこのままでいいのか」とか考へるものなんぢやないのかなあ。
だいたい「ありのままの自分でいい」といふ考へ方がもう受け入れられない。
ありのままの自分がいいわけないぢやあないか。

で、Twitter の TimeLine を見てゐると、なんで自分がかうなつてしまつたのかその原因もなんとなくわかつたりする。
でもそれを云ひ訳にしてはいけないのださうだ。
一番つらいのはここかもしれないな。
云ひ訳ができない。
つらいなあ。

ところで相談しないのは、自分の決定に自信がもてないからだ。
だれかに背中を押してもらひたいだけなのである。
それがわかつてゐるから他人には云へない。
それはそれで正しいのだらう。

さうすると、相談といふのはいつたいどういふものなのか。
だんだんわからなくなつてくる。
旅行の日程について話をするとか、さういふことかな。

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Tuesday, 05 September 2017

世の中暗い

タティングレースで、Mary Konior の Black Magic を作り始めた。
Tatting with Visual Patterns に掲載されてゐる栞である。

と書いて、どうしやうかと思つてゐる。
昨日の昼休み、痛恨の失敗をおかしてしまつたのだ。
ほどかうとしたけれど、昼間は暗くて目がよく見えない。

なぜ Black Magic を作らうかとしたのかといふと、昼間暗くなるからだつた。
なんだかわからないけれど、現在職場では昼休み開始から三十分たつと照明を消す。
照明を消す前にタティングすればいいのかもしれないが、残りの三十分でうまく食べ終はれなかつたらと思ふと、やはり最初の三十分は昼食を食べることに注力したい。る
そんなわけで、暗くても、まあなんとかできるやうなものといふので、Black Magic をはじめたのだつた。
しかるに間違へてしまつたわけだ。

うーむ。

今日は復旧作業から入るつもりだが。
うまくいかなかつたら Black Magic はこのままお蔵入りかなあ。

世の中にはタティングレースで間違つてしまつた場合、なにがなんでもほどくといふ人とある程度やつてダメだつたらあきらめる人とゐると思ふ。
やつがれは圧倒的に後者で、なぜといつてほどくことに時間を使ふんだつたら切つてなかつたことにする方がいいと思つてゐるからだ。
人生は短い。
からんだ糸をほどくことに時間を費やすには、人生は短すぎる。
さう思つてゐる。

といふわけで、切つてしまふ線が濃厚だ。
切つて、まだ作りはじめたばかりなので、なかつたことにするかもしれない。
まあ、その時の気分次第だな。

なにしろ世の中が暗いと考へ方も暗くなるのでな。

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Monday, 04 September 2017

編みたいものと編みたい毛糸

編んでゐない。
もうこのままあみものblogはやめてしまはうかといふ勢ひである。
人はかうして編まなくなるのかもしれない。
湿気の多い状態だと気温が低くてもあんまり編みたいと思はないのかもしれないなあ。

編みたいものがないわけぢやない。
編みたいものにはいろいろ種類がある。
たとへば、「これが編みたい」といふ編み図や編み方がある場合と「この毛糸を編みたい」といふ場合。
我が家にはマラカニアン宮殿の靴もかくやといふくらゐ毛糸があるので、できれば「この毛糸を編みたい」といふ具合にいきたいところだ。
しかし、実際には写真や編み図・編み方などを見て「これが編みたい」といふことの方が多いし、いままさにそんな状態だ。
手持ちの毛糸ではちよつと編めない。
そんな感じ。
これ以上毛糸を増やしてはいかん、と、あきらめるしかない状態だ。

「これが編みたい」と「この毛糸を編みたい」とがうまいこと一致するといいんだがねえ。

編みたい毛糸もある。
三年前のヴェヴ・メッサで買つてきたエステルヨートランドの段染め糸を編みたい。
編みたいけれど、なにを編んでよいのやらわからない。
かういふときの Ravelry 頼み、かな。

スウェーデンとフィンランドとには都合三回行つてゐて、毎回なにかしら毛糸を買つて帰つてきてゐる。
毎回、買つてきた毛糸のうちなにがしかは使つてゐる。
しかし、使へずに残つてゐる糸もある。

Stephanie Pearl-McPhee はかうした毛糸は使へないものであるといふ。
海外旅行に行つて買つてきたり、海外旅行みやげだつたりする毛糸は、なかなか使へず、stash の肥やしとなつていくのだ、と。
Yarn Harlot が云ふのだから、仕方がないか。

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Friday, 01 September 2017

本に夢中になれない人生

先日、危ふく電車を乗り過ごすところだつた。
本を読んでゐたからだ。

これまで本を読んでゐたせゐで電車やバスを乗り過ごしたことは一度しかない。
集中力とか根気とかに欠けるので、なにか読んでゐてもつねに意識がふはふはしてゐるからだらう。

夜を徹して本を読むといふ経験もない。
夜を徹する前に読み終はるから、といふこともあるかもしれないが、単に寝てしまふのである。

夜を徹してラジオ番組を聞くことはあつた。
映画でもオールナイト上映会でずつと起きてゐることもある。

おそらく、本についてはいつでも手元にあるから即読まねばならないといふ気分にならないのぢやあるまいか。

そんなに夢中になるやうな本に出会つたことがない。
さうも云へる。
これまでそんなにたくさん本を読んでは来なかつた。
我が家は「本を読むんだつたら外で遊んできなさい」といふ家で、本を読んでゐても疎まれこそすれ、喜ばれはしなかつた。
自然、読む本の量もすくなくなる。

つまんない人生だな。
徹夜して本を読むことも、本を読んでゐて電車を降りることを忘れることもないなんて。

電車を乗り過ごすことがないのは、つねに alert な状態でゐるから、なのかなあ。
たとへば、仕事の打ち合はせの場合でも、終了時間どほりに終はらないと気がすまない。
世の中の人は、ちやんと結論なりなんなりが出ないとイヤなのらしい。
終了時間をむかへたといふのに、延々と打ち合はせをつづけやうとする。
これがダメなんだよなあ。
時間が来たんだから、やめやうよ。
最初から時間が決まつてゐるんだから、それにあはせて進行しやうよ。
いつもさう思ふ。
でも現実にはさうなることはほとんどない。
時間を過ぎても議論はつづき、次に会議室を使用する人が来たからといふので、これといつた結論も出てゐない状態なのに打ち合はせを無理矢理終へる。
どうせ結論が出ないのなら、時間がきたときに終はればよかつたのに。

そんな状態だから、打ち合はせの最中も始終時間を気にしてゐる。
時間に対して alert な状態にゐる。

でもほんたうはそんなのはイヤなのだ。
いつだつてどこでだつてぼんやりとしてゐたい。
alert な状態など願ひ下げだ。
本来はさういふ人間なのである。
然るに電車は乗り過ごさない。
日々、疲れるはずだよな。
もともとはぼんやりした人間なのに、ムリに alert な状態をたもつてゐるのだもの。
打ち合はせのときこそもつとぼんやりしてゐるべきなのだ。
「あと五分で終了時間だ」とかキリキリしてゐる場合ぢやあないのである。
囲碁や将棋ぢやあるまいし。

ところでいま読んでゐるのは Nabokov's Favorite Word is Mauve といふ本だ。
これが滅法おもしろい。
といふ話はいづれ書くかもしれない。

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8月の読書メーター

8月の読書メーター
読んだ本の数:7
読んだページ数:2457
ナイス数:20

漢文入門 (現代教養文庫 578)漢文入門 (現代教養文庫 578)感想
著者による訳文のうち「当時は流行語かなんかだったんだろうなあ」と思われることばの意味がよくわからない。もしかすると原文の方がわかるのではないかという気がする。現代語訳ってむつかしいんだな。そのときだけわかればいいという面もあるとは思うけれど。読んでいて「漢文って楽しそうだな」と思える。
読了日:08月02日 著者:魚返 善雄
The Secret Life of Pronouns: What Our Words Say About UsThe Secret Life of Pronouns: What Our Words Say About Us感想
シャーロック・ホームズが外見などからその人の職業その他をあてる、その種明かしを読んでいるような気分になる本。話し言葉や書き言葉から代名詞や冠詞、前置詞といった機能語を数えてその使用方法から話し手・書き手の性格を読み取る。日本語でもおなじような結果になるというけれど、日本語の場合はなにを数えるんだろう。
読了日:08月10日 著者:James W. Pennebaker
新八犬伝 結 (角川文庫)新八犬伝 結 (角川文庫)感想
やっと親兵衛が登場して、でもすぐに物語は終わる。この巻ではとうとう父の仇を討った道節がしかし虚しさを覚え、この世の地獄を作り出すのは力や権力を持った者だと悟った親兵衛はひとたびは侍を捨てようと思う。そんな中、さもしい網干左母二郎にもいいところがあったりしてちょっと和む。「新八犬伝」も録画が見つかったりするといいのにな。
読了日:08月15日 著者:石山 透
史記 12 列伝 5 新釈漢文大系 (92)史記 12 列伝 5 新釈漢文大系 (92)感想
このくだりを読んでいると、「儒者って、ダメぢゃん?」という気がしてしまうのは僻目なのか。単に武帝に阿った人が多いからそう見えるだけなのか。竇太后って呂后の下で生き残ってきた人なんだよな。そう思うともう一度そのくだりを読み直したいという気になる。
読了日:08月20日 著者:青木 五郎
町奉行日記 (新潮文庫)町奉行日記 (新潮文庫)感想
一作目の「土佐の国柱」で、一豊の望んでいたことは「民の心をひとつにする」であって、「郷士の除外」ではなかったのではないのかなあ。作者はそう思ってはいないのかもしれないが、読んでいてそういう感じがした。「云わなくても通じる」という話が多い。そういう物語、いまの人も好きだよね。表題作はセリフもちょっと洒落ていて、ドラマ化・映画化されるのもむべなるかなといったところ。
読了日:08月22日 著者:山本 周五郎
目白雑録 (ひびのあれこれ)目白雑録 (ひびのあれこれ)感想
他人に対する批評ももちろん、喫煙室にたむろするぼーっとした喫煙者であるおじさんたちと同類であることを否が応でも思い知らされつつタバコはやめられないなどと自らのことを書く部分も楽しい。
読了日:08月24日 著者:金井 美恵子
概説文語文法 改訂版 (ちくま学芸文庫)概説文語文法 改訂版 (ちくま学芸文庫)感想
参考書としてではなく、一般書として文法書、それも文語の文法書を書こうという意欲・情熱はどこから生まれてくるのだろう。そんなことを思いながら読む。冒頭の「文法とは」とか「文・文章・文節・語」などの説明は口語にも置き換えられる。文法を覚える意義などもとても興味深い。
読了日:08月28日 著者:亀井 孝

読書メーター

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