歌舞伎と客電
歌舞伎とはなんだらうか。
先日歌舞伎座ギャラリーで開催された「秀山祭播磨夜咄」に行つてから、ときをり考へる。
やつがれの歌舞伎の定義はかんたんだ。
客電が落ちつぱなしの芝居は歌舞伎ではない。
以上である。
例外もないわけではない。
ずつと夜の場面ばかりであれば、客電が落ちつぱなしでも歌舞伎たり得る。
さういふ場合でも幕切れでは客電をつけてほしいけれど、まあ、許容範囲だ。
客電云々は比較的新しい話だ。
かつては客電などといふものはなかつた。
往時は窓を開閉して照明の代はりにしたといふ。
といふことは、窓を閉めつぱなしといふことはなかつたといふことだらう。
明るくなければ舞台は見えない。
客電が落ちてゐてもからうじて舞台が見えるやうになつたのは文明の利器のおかげである。
しかし客電が落ちてゐると暗くなる。
すなはち舞台が見えづらくなる。
そんなものが歌舞伎だらうか。
新作歌舞伎の多くが客殿を落としつぱなしにするのは、新劇がさうだからだらう。
芝居がはじまると客電が落ちる。
なにか見せたくないものがあるのではないかと勘ぐつてしまふ。
見せる自信がないのだ。
新劇も多くはさうなのだと思ふ。
黒衣といふ合理的な仕組みのない新劇には、おそらく観客にそれとさとられたくないものがたくさんあるのだらう。
確かに、見えればいいといふものではない。
TVの画質はどんどんよくなつてゐるのだといふ。
しかし、画質がよくなると見たくないものも見えてしまふ。
たとへば人の皮膚の肌理だとかね。
昔の映画、とくに白黒のものなどを見ると、女優の出てくる場面では紗がかかつてゐるものがあつたりする。
それだけでこの世のものではないやうなうつくしい人が出てきたやうな気分になる。
「逢びき」といふ映画がある。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を使つてゐることでもよく知られてゐる。
この映画に出てくる主演女優は、うつくしくないとはいはないが、美人ではない。
この女優の登場場面には紗がかかつてゐる。
女優とはうつくしいものであり、映画とは主演女優をうつくしく撮るものである、といふ文法が生きてゐたころの映画といふことだらう。
紗がかかるといふことは、画像はぼんやりするといふことだ。
くつきりはつきりと見えればよいといふものではないといふことでもある。
客電を落とすことをよしとすることと、「うつくしくなければ見たくない」といふ風潮とは相対関係にある。
そんな気がする。
新橋演舞場で「椿説弓張月」がかかつたとき、イヤホンガイドで三島由紀夫が歌舞伎について語つた録音を流したことがあつた。
国立劇場俳優養成所での特別講義のときのものださうである。
三島由紀夫は歌舞伎を「くさやの干物のやうなものである」と語つてゐる。
とてつもなくくさいが、食べてみるとおいしい味はひもあるものなのだ、と。
歌舞伎を見てゐると、どこからどう見てもお爺さんにしか見えないやうなお姫さまや若衆が出てきたりする。
でも、見てゐるとそれがどこからどう見てもうつくしいお姫さまであつたりきれいな若衆に見えてきたりする。
さういふことをくさやの干物に譬へて語つてゐた。
この講義を聞いて、「ああ、さうだなあ、歌舞伎といふのは、くさやの干物のやうだなあ」としみじみ思つた。
多分、やつがれの好きな歌舞伎はさうした「くさやの干物」のやうなものなのだと思ふ。
#「大江戸・りびんぐ・でっど」ぢやないよ。
翻つて昨今の歌舞伎には、くさやの干物のやうな味はひのある芝居は少なくなつてゐるやうに思へる。
歌舞伎を見たいと思つて見せてはもらへなかつた小学生のころ、写真のたくさん載つてゐる歌舞伎の本を借りて見たら、当時の中村歌右衛門はもうすでに妖怪だつた。
福助時代の中村梅玉と「鴛鴦襖恋睦」を踊つたときの写真などはとくに物の怪としか云ひやうのない姿だつた。
当時もそれをダメだと評する人はゐたらう。
あのうつくしくかつた成駒屋のなんと変はり果てたことよと嘆く人もゐたらう。
それでもそれで通つてゐたのだ。
尾上梅幸も、藤娘だつたり義経だつたり白井権八だつたりで出てきても、どこからどう見てもをぢさんにしか見えなかつた。
やつがれが見られるやうになつたころはをぢいさんだつた。
そのをぢいさんが藤の精になり、御大将にになり、前髪の匂ひたつやうな若衆になる。
そんな姿を見てきた。
それはあなたが目に見えないものを見てゐるからでせう。
さういふ聲も聞こえてくる。
さう云はれて、はつと気がつく。
さう、多分、やつがれは、目の前にない芝居を見てゐる。
それを歌舞伎としてよしとしてゐる。
話は長くなるのでまたの機会があればそのときに。
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