おなじことを書く
何度もおなじことを書いてもかまはないことを教へてくれたのは森茉莉だつた。
無論、森茉莉の力をもつてして可能なことだとは思ふ。
思ふけど、でもやつぱり森茉莉の随筆を読んでゐると、「この話、別の本でも読んだし」だとか「この逸話、別の回でも書いてたよね」だとか、つひ心の中で指摘してしまふ。
山本夏彦もおなじことを何度も書いてゐた。こちらは森茉莉にくらべたら手を変へ品を変へといふ雰囲気はあつたものの、「これ、前も書いてゐたよね」と思ふことがある。
たぶん、おなじことを書いてもいいのだ。
云つてもいい。
とくに手を変へ品を変へ書くのはかまはない。
といふことを今朝読み始めた本を読みつつ考へた。
ものは James W. Pennebakerの The Secret Life of Pronouns だ。
Pennebaker のことを知つたのは、オバマとクリントンとの大統領選のときだつたと思ふ。最初かその次のかは記憶にない。
演説やディベイトで両者の話したことばから単語の種類による使用率をわりだして心理学的に分析する Wordwathcersといふサイトをたまたま見つけた。
代名詞や冠詞、前置詞に注目する点がおもしろいと思つた。
著書である Opening Up by Writing It Down を読んで、心的外傷やそこまで深刻でなくても心にかかることは文章として書き出すといい、とあるのを受けて、自分でもちよつとやつてみたがダメだつた。
書けば書くほど気にかかる。
書きやうが悪いのだらうか、もつと正直にいろいろ書かねばダメなのか、と悩んだが、そのうちやめた。
書いても気が晴れることはなかつたからだ。
好きなことについて好きなやうに書いたときの方がよつぽどいい気分になる。
The Secret Life of Pronouns を読んだらこは如何に。
おなじことをくり返しおなじやうに書き語るのはダメなのださうである。
おなじことを異なる視点から語つたり、異なる文体で書いたりしないとよくならないのださうだ。
つらい体験を何度も何度もくり返しおなじやうに語るのは鬱症状でもあるのださうな。
さうだつたのか。
自分としてはおなじやうに書いてゐるつもりはなかつたけれど、他人から見たら「なにをおなじことをおなじやうに書き散らしてゐるのか」といふ感じに見えたんだらうな。
ではおなじことを違ふやうに書いてみやうかと思つたかといふと、さうでもない。
いまのやつがれの興味はそこにはないやうだ。
とはいへ、この blog におなじことをおなじやうに何度も書いてゐることは確かなのだつた。
一度見返しておなじやうな話は書かないことにしやうかと思つてみても、ちよつと見返すのには時間がかかる。
おなじことでも違ふやうに書けばいいかな。
ダメか。
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