山には行かぬそんな日に
夏の朝、マーラーの交響曲第五番を聞いてゐる。
先日とあるblogのエントリで「マーラーのどの曲が好きでどの演奏が好きか」といふのを読んだ。
そんなに長くはない記事で、かなり一生懸命に読んでしまつた。
さうか。
マーラー、好きだつたのか。
好きといつてもシノーポリの交響曲全集を持つてゐたことがあるくらゐでそれ以外はポツポツとしかCDは持つてゐないし、演奏会も第六番は何度か聞きに行つてゐるけれど聞いたことのない曲もある。
この一年くらゐはまつたく聞いてゐなかつた。
と、云ひ訳をするくらゐ好きなのらしい。
今朝、ふと今年の一月ごろ使つてゐた手帳をぱらぱらとめくつてみた。
「好きなことをすると疲れる」などと書いてあつたりする。
「好きなことをするとうしろめたい気分になる」とも。
そんなことをするくらゐなら、部屋の片付けをしろよ、みたやうな、ね。
ほかにするべきこと、しなければならないことがいくらもあるだらう。
お金と時間との無駄遣ひだ。
好きなことに対する障壁は巨大だ。
結構もろいものではあるけれど。
「人形劇三国志」のエンディングテーマにこんなくだりがある。
好きなら好きといえない心に人はいつも苦しむのこれを聞いて、「世の中さういふものだよな」と思ふこともある。
でもさうでもないと思ふこともある。
Twitter の TimeLine などを眺めてゐると、誰がなにが好きか如実にわかることがある。
もしかしたら、それはなにかのカムフラージュなのかもしれない。
ほんたうに好きなものはほかにあつて、それを隠すために別なものを好きと公言してゐるのかもしれない。
さう思ふこともある。
なんでそんな無駄にチャフをばらまくやうなことをしなければならないのか。
「好きなものごとを知られることは弱みを握られることと同義だ」と思つてゐるから、だらうな。
この話を書くときに必ず引き合ひに出す大和和紀の「KILLA」といふまんがにさういふくだりがある。
主人公は周囲の人々を次々と裏切つて大企業の社長になる。そして同業他社で業界一の社の総帥である実の父親と争ふ。
主人公には心を許せる相手がゐない。
唯一、こどものころからつきあつてゐる盲目のチェスプレイヤ以外には。
敵は主人公の弱点はそのチェスプレイヤであることに気づき、危害を加へやうとする。
主人公も敵の弱点はひとり娘であると見て、血を分けた妹であるその女の人と対峙したりする。
弱みを握られて強請られたり犯罪に加担させられたりしたら困るとは思ふ。
しかし、だ。
「きみはほんたうはマーラーが好きなんだらう? 知つてゐるよ。バラされたくなかつたら一千万円をいまから指定する駅のロッカーに入れてもらはうか」
などといふことがありうるだらうか。
かりにあつたとして、マーラーが好きだといふことが世間に知られて困ることがあるだらうか。
ナチス政権下のドイツだつたらいざ知らず。
と、これはもう一度IHIステージアラウンド東京で「髑髏城の七人」の鳥ステージを見に行くための云ひ訳だつたりはする。
なんで好きだといふことはかくもめんどくさいのか。
めんどくさいのはやつがれだけか。
« 対句と娯楽性 | Main | パピーのピマデニムで Helix Scarf »
Comments