手本のないかなしさ
こどものころ、筒井康隆の書く字にあこがれてゐた。
この話はここにも何度か書いてゐる
新潮社のハードカバーフェアのやうなものがあつて、その四六判だかA5だかのパンフレットの下3/1か4/1のところに、筒井康隆自筆の随筆が書かれてゐた。
その字がよくてなあ。
その後「大いなる助走」を手にして、表紙カヴァにこれまた筒井康隆自筆の原稿が用ゐられてゐてうなるのだつた。
装丁は山藤章二だつたかと思ふ。
まねしたわけですよ、当時は。
万年筆で書いた字を鉛筆でまねをするわけだからもちろんうまくはいかないわけだが、そこはもう雰囲気といふものだ。
ところで、字には基本といふものがある。
基本を身につけてしかるのちに自分流にするのはかまふまい。
本来はさういふものなのだと思ふ。
いまもむかしもやつがれは悪筆であつた。
そのの基本も身につけずにゐた状態で、他人の字をまねしたらどうなるか。
まあ、悲惨なことにしかならない。
でもいまでも思ふのだ。
筒井康隆の字、いいよなあ、と。
ひるがへつてタティングレースである。
タティングレースにもいろいろあつて、大きくわけると手のきつい人とゆるい人とがゐる。
きついといつても、ダブルスティッチも糸の引き加減もきつい人もゐれば、やつがれのやうにダブルスティッチはだいぶゆるいが糸の引き加減はややきつめといふ人もゐる。
どれをいいと思ふか、だ。
もちろん、きつすぎずゆるすぎず、丁度いいのが一番いいだらうとは思ふ。
でもさういふお手本に出会つたことがない。
「こんな風にタティングしてみたい」と思ふやうなお手本に、長いこと会へずにゐた。
ただ本を見て見やう見まねで結ぶ。
ずつとさうやつてきた。
タティングレースつて、案外さうやつて身につけた人が多いのぢやあるまいか。
イデアのない状態で学びつづけてゐる、といふかさ。
それはそれでいいのかもしれないし、つづけていくうちに「かうあるべきだ」といふ状態がわかつてくるのかもしれない。
でも、お手本があった方がいいし楽だつたよなあ。
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