憧れと「自分なくし」と「草燃える」
著名人・芸能人に好きな人がゐるとする。
一般的には、どう好きになるのだらうか。
あはよくばお近づきになりたい、と思ふのか。
願はくば友人に、あるいは伴侶になりたいと思ふものなのだらうか。
実を云ふと、著名人・芸能人に対してさういふ「好き」といふ感情を抱くことがあまりない。
どちらかといふと「ああなりたい」と思ふことが多いやうに思ふ。
かういふ人間は、相手に自分にはないものを求めるので自分とは似ても似つかないやうな人物を好きになる傾向がある。
同族嫌悪といふことばはかういふ人のためにあることばなのかもしれない。
みうらじゅんが「マイ仏教」の中で「自分探しではなくて「自分なくし」」といふやうなことを書いてゐる。
己をむなしうして、「この人のやうになりたい」と思ふやうな人物像にみづからを近づけていく。
若き日のみうらじゅんの場合はボブ・ディランだらう。
みづからの中に探すのではなく、外に求めるといふのは、千野帽子の「俳句いきなり入門」にも近い話が出てくる。
自分の云ひたいことなんて、たいした種類はない。まとめてしまへば「自分を見て」ひとつになつてしまふ。
自分の外を見回せば、云へることはいくらでもある。
自分探しをする人にも旅に出る向きがある。
外の世界にみづからを見出さうといふのだらう。
この場合、外に出ても自分のことしか見てゐなければ、結局自分は見つからないのではないか。
自分探しをしたことがないからよくわからないけれど。
自分なくしを試してみるか。
たとへば源実朝のやうになりたい、と思ふとする。
#なりたかないよ、といふ声も聞こえてくるなぁ。
実朝のどこがいいのか。
みやこびとから見れば鄙のもので、貴族から見たら下賤の身である。
だけどなんだかいい歌を詠んだりする。
それも解釈によつては「この人、大丈夫(メンタル的に)?」みたやうな歌を。
いいなあ。
実朝は、実際にはどんどん位をのぼつていくのだが。
それは家のためであつて、本来自分はそんなことどうでもいい、といふ感じだつたんぢやないかなあ。
といふのは、やつがれの実朝のイメージが篠田三郎だからかもしれない。
一見おとなしさうなのに、ひとたびことが起こると金閣寺に火をつけちやつたりとか(実朝のころには金閣寺はまだないが)、ウルトラの母(ペギー葉山)が出てきたりとかしさうな感じ。
考へてみたら「草燃える」つて頼朝は石坂浩二で実朝が篠田三郎でなんだかウルトラだな。
大江広元は岸田森だし。
ウルトラ。
といふか円谷、だらうか。
そりやあ三浦之介(藤岡弘(当時))はあはないはずだよねえ。
と思つたが、頼家は郷ひろみなのだつた。
このあたり、やつがれの中でいまひとつ整理がついてゐないところなのだが。
整理なんぞつけなくてもいいといふ話もある。
閑話休題。
さういふ風に自分にないものを外に見つけて、それを己がものにしやうとする。
さうすることで自分ができていく、といふ話なのだと思つてゐる。
あ、でも中学生のころは柴田錬三郎みたやうな文章が書きたいと思つてゐたんだよなあ。
といふ話は、機会があつたらまた。
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