なぜ学校で漢文を学ぶのか
Web検索で「なぜ漢文を学ぶのか」を調べると、学校の授業で取り上げられないと困る学者や研究者がゐるから、といふ答へが出てくる。
教へる側、もつと云ふとカリキュラムや教科書を作る立場から考へるとさうなのだらう。
だが、教はる側からしたらどうだらうか。
日本の学校では、すくなくともやつがれの通つた小中高のそれぞれの学校では、「なぜこの科目を学ぶのか」とか「この授業を受けた結果、どうなることが望まれてゐるのか」といふやうな話を聞いたことがない。
あつてもいいやうな気がするのだ。
年度の最初の授業で、場合によつては長い休みのあけたあとの最初の授業で、「今回この科目ではかういふことを学びます。それによつてかういふ知識が得られ、かくかくしかじかのことができるやうになります」みたやうな話が、さ。
「かうなることが望まれます」が云ひ過ぎなのだとしても、「今回はかういふことを学びます。かういふことができるやうになります」くらゐは教師から提示されてもいい。
さうしたら児童や生徒だつて「これからかういふことをするのだな」とわかるし、それによつて自分がどう変はれるのか変はればいいのかわかる。
その方が授業にとりくみやすいのぢやあないのかなあ。
しかし、日本の学校では、すくなくともやつがれの経験では、さういふ話は一切ない。
いきなり授業がはじまつて、児童や生徒はおとなしく(ない場合もある)教科書を開き、板書をノートにうつすのである。
つまり、児童なり生徒なりが自分で勝手に各授業で学びたいこと、得たいことを決めていい、といふことだ。
教師への指導要領といふのは必ずあるはずで、教師は教師でそれを目指す。
でもそれを児童や生徒に押しつけることはしない。
児童や生徒は、教師の気持ちを汲んでもいいし汲まなくてもいい。
算数の授業を受けながら「リンゴとミカンとの違ひとはなんだらう」と思ひを馳せてもいいし、国語の授業で「ファーブル昆虫記」の一節を読みつつ「海外にも変はつた人はゐるんだなあ」と思つてもいい。
ひよつとしたら「学問の自由」といふのはかういふことなのかもしれない。
学校で漢文を学ぶのはさうしないと困る学者や研究者がゐるから、といふのは、生徒の力のおよばないところだからどうしやうもない。
でも、授業があるからにはなにかしら学ぶことがあるといふことだらうとは思ふ。
それはなにか。
それは次回の講釈で。
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