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Thursday, 08 June 2017

続・なぜ学校で漢文を学ぶのか

なぜ学校で漢文を学ぶのか。

昨日は「国語のカリキュラムを決める人の都合で学ぶことになつてゐる」といふ説と、とはいつても教へる立場と教はる立場とでは理由が異なるだらう、といふことを書いた。

教はる立場から見た漢文を学ぶ理由はなにか。

かつて、漢文はものの考へ方の基礎をなすものだつた。
山本夏彦が、幕末から明治初頭にかけて欧米に出かけていつた日本人のうちにあちらで尊敬されるものもあつた、といふやうなことを書いてゐる。
漢籍の素養があつたからだ、といふ。
あちらでは学校でラテン語を学んだ。いまでも学んでゐるところもあらう。
ラテン語を学ぶ所以は、ラテン語で書かれてゐるものの考へ方の基礎をなす文献を読むためだ。
読んで育つたものは違ふけれど、相通ずるところがある。
互ひにさう思つたのだらう。

それではいまも漢文はものの考へ方の基礎をなすものなのか。
ほんたうはさうなのかもしれないけれど、学校で学ぶ漢文は違ふ。
授業で取り上げるのは断片にすぎないし、そもそも時間が短すぎる。

では学校の授業の漢文からなにを学べばいいのか。
昨日の流れからいくと、そんなのは生徒ひとりひとりが勝手に考へればいい、だ。
あんまり考へる時間もないけれど、ね。

かつて生徒だつたやつがれが勝手に考へた理由は、漢文を学ぶことで文章の書き方を学ぶ、だ。

文章の書き方は国語(現代国語)で学べばいい、といふのは至極もつともな意見のやうに見える。
以前も書いたとほり、ビジネス文書には「口語文で書くこと」といふきまりがある。「文語文を使用してはならない」ともいふ。

さういふきまりはあつて、しかし、会社に入つて仕事上で文章を書く場合、正式なものを書かうとすればするほど文章は文語に近くなつていく。
文語といつても古文で学ぶやまとことば主体のものではない。
漢文読み下し文に近いものになつていく。
その方がいかめしく簡潔になるからだらう。
また、かつては正式な文章は漢文で書かれてゐたから、といふこともあるのかもしれない。
そんな時代のことは知らないけれど、さうしたものであるといふことを、なぜか知らん感じ取つてゐるのぢやあるまいか。

漢文は文章全体の構造を学ぶのにも向いてゐる。
漢詩で最初に学ぶのは五言絶句であらう。
たつた二十文字で起承転結とはなにかを知ることができる。

国語でもハチの生態について書かれた文章などを読んで文の組み立て方を教へたりもする。
教科書では何ページかにわたる文章だ。
それも「出師の表」などなら見開きにちよいとあまるくらゐで知ることができる。
#註釈のつけ方次第で変はるだらうけど。
教科書に線を引けば「ここまでが序」とか「ここからが本題」とか「これが結句」とかほぼ一目でわかるやうになる。
いまどきの「最初に結論を書く」書き方には向かないかもしれないが、そこは応用だ。

中学生や高校生の段階では社会に出てビジネス文書を書くことになるかどうか、自分でもまだよくわからないことだらう。
新聞以外でかたくるしい文章に出会ふ機会もあまりないかもしれない。
ゆゑに「なんで学校で漢文なんかやるんだらう」と不満をいだくのは当然のことだ。

やらねばならぬならやらねばならぬで仕方がない。
なぜやらねばならぬのか、もうちよつと生徒を導くことができたなら、と思はれてならない。

まあ、みんながみんな社会に出てビジネス文書に接することになるとはかぎらないのも確かだがね。

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