経験財と芝居
世の中には買つてみなければわからないものがある。
店頭で家具を見て、いいなと思ふ。
いすやベッドなら座つてみたりちよつと寝ころんでみたりする。
たんすや戸棚なら開け閉めしてみたり収納スペースの確認をしたりする。
ときには別のいすやたんすと比較する。
寸法もはかつて、よしと思つて買つてみても、実際に使つてみるとなにかが違ふ。
かういふつもりぢやなかつたんだけどなー。
でも仕方がない。
自宅で使つてみなければわからなかつたのだから。
家具にかぎつたことではない。
映画や芝居なんかもこの類だ。
実際に行つて見てみないとわからない。
かういふものを経済学では経験財といふのださうだ。
実際に経験してみて、あるいは経験してゐる途中でその商品の価値がわかるもの、とのことだ。
以前、「オイコノミア」で見た。
食品の場合、途中で「これはまづい」と思つたらそこで食べるのをやめるか我慢して最後まで食べるかだ。
マナーとして最後まで食べる人が多いやうな気がする。
映画や芝居はどうだらう。
見始めて、途中で「これはつまらないぞ」と思つたら、そこで席を立つて帰るだらうか。
あるいはせつかく来たのだから最後まで見るか。
映画の場合は途中で抜け出しづらいこともあらう。芝居なら幕間に抜け出ることも可能だ。
TVドラマなら、つまらないと思つた時点で視聴をやめる。
第一話を見てかんばしくなく、第二話を見てつまらなかつたらもうそこでやめる。
あとになつて、「最終話でどんでん返しがあつておもしろかつたのにー」と云はれても、その作品にはそのどんでん返しまでやつがれを引き留める力がなかつたのだ。
最後のどんでん返しも見てほしいのなら、そこまで視聴者を引きつけるものが必要だ。
TVドラマがさうなら、映画や芝居もさうだらう。
つまらないからと途中で見るのをやめる人がゐたら、その作品にはその人を引きつける力が欠けてゐたのだ。
この人物が「つまらないから途中で帰つた」と云つたからといつてその人を非難するのもどうかと思ふ。
途中で帰つたといふ時点で、すでにその作品はつまらないものといふことだからだ。少なくともその人にとつては。
「最後まで見てゐないくせに」といふ非難はあたらない。
最後まで見たいと思はせる魅力が作品になかつたのだから。
と、理屈ではわかつてゐても、自分が気に入つた作品について「つまらなかつたから途中で帰つた」と云はれるのはつらい。反論もしたくなる。
もう少し好きな対象との距離をとれるといいのだけれど。
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