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Friday, 30 June 2017

弾正考

お浄瑠璃やお芝居に出て来る「弾正」といふ名前の人はたいてい悪役と相場がきまつてゐる。

やつがれの知る範囲では「毛抜」の粂寺弾正がいい人(といふか悪い人ではない)で、あとはみんな悪い。
仁木弾正とか。
微塵弾正とか。
剣沢弾正とか。

といふやうなことをつぶやいたところ、「弾正といふのは正を弾くから悪い人だ」といふ説明を頂戴した。
それは如何にも悪さうだ。

例によつて根拠のない話で恐縮だが、以下はやつがれの想像した「弾正=悪人説」の所以である。

ひとつには、音が悪さうだから、だ。
やまとことばのうち、最初が濁点ではじまることばでいい意味を持つものは少ない。
いまぱつとあげることができなくて申し訳ないくらゐである。
しかも「だ」ときて「じ」だ。
悪さうな音がするでせう。
「大膳」といふ名を持つ人物にも悪役が多いことを考へると、そんなに間違つてもゐないんぢやないかと手前味噌ながら思ふ。

ほかに、弾正といふ役職が理由なのではないかとも思つてゐる。

弾ずるには、人の罪を責めただすといふ意味がある、と辞書にはある。
弾正といふのは弾正台といつて、犯罪などを取り締まつた警察機関だつた、ともある。

だからぢやあるまいか。
弾正といふ名を持つ人物を悪役に据ゑるのは。

時代劇の必殺シリーズを見てゐると、奉行所のお役人にはとんでもない人が多い。
仕掛けられたり仕置きされたり仕事されたり、つまりは、悪い人だから退治してくれ、と云はれてしまふ、そんな役人がたくさん出て来る。

「新・必殺仕置人」の与力陣を見てみやう。
岸田森にはじまつて、筆頭与力が今井健二、そのほか辻萬朝、西山辰夫ときて、とどめが清水紘治である。
どんな妖魔の巣窟だよ、といひたいやうな顔ぶれだ。
奉行所のお役人といふものは、とくに与力なんてものは、そんな存在なんだよ。
さういつてゐるかのやうだ。

皮肉だよね。
諷刺なのかもしれない。

弾正といふ名を持つ、すなはち(名前だけだけど)その役職にある人が悪役であるといふのと、必殺シリーズの奉行所の役人が悪人であるのとは、理由はおなじなのではあるまいか。

え、考へ過ぎ?
うん、まあ、さうかもしれないな。

Thursday, 29 June 2017

人形劇三国志DVD鑑賞会

六月二十五日(日)、パラセリゾーツ横浜関内店で開催された人形劇三国志DVD鑑賞会に参加した。

主催者三名と人形操演の船塚洋子さん、それに参加者五名の計九名があつまつた。
鑑賞する回は二つ、第十七回「決死の千里行」と第三十三回「赤壁の戦い」だつた。

パセラリゾーツはカラオケのお店で、DVD&ブルーレイ鑑賞パックといふサーヴィスを提供してゐる。
今回の上映会はこの鑑賞パックを利用したものだつた。

初対面同士も多い中、まづは自己紹介を、といふところで、いきなり運ばれてきたのがハニトーことハニートーストである。

Honey Toasts

鑑賞パックにはハニトーが二つとソフトドリンク飲み放題がついてくる。
すばらしい手際でトーストを切り分けてくださつた方々、ありがたうございます。

無事ハニトーも切り分けて、ひととほり自己紹介もして、いざDVD鑑賞を、といふところで機材に不具合が生じ、主催者の方とお店の方が大奮闘してくだすつて、なんとか上映にこぎつけることができた。

その間、船塚さんが持つてきてくだすつた「三国志百態」や「人形歴史スペクタクル 平家物語」の脚本、香盤表などを拝見する。
脚本や香盤表自体も興味深く、また書き込まれたメモもおもしろい。
脚本には要所要所に位置取りの図が描かれてゐた。
香盤表は、「ひとりでこんなにたくさん演じるのか!」と驚くやら感動するやら、だ。
昨日、NHK-BSで「プリンプリン物語」に関する番組を放映してゐたらしく、ひとりの声優がいくつも役を演じてゐたことをTwitterにつぶやいてゐる人々がゐた。
人形操演もすごいぞー。
セリフはなくても登場はしないといけない人物がゐる分、人形操演の方がずつと数は多からう。

DVD上映中も、船塚さんからいろいろとお話をうかがうことができた。
主催者の方がTwitterでつぶやいてらしたやうに、「決死の千里行」の沂水関を守る卞喜を遣つてゐたのは張飛を遣つてゐたのとおなじ方、とかね。
赤兎をたたくときのやうすが張飛とそつくりなのだ。
さうやつて見ていくとどなたがどの人形を遣つてゐるのか、わかるやうになつたりするのかもしれない。

この回はかなり笑いを誘う場面も多く、見ているみんなで笑いながら見るのも楽しかつたなぁ。

「決死の千里行」と「赤壁の戦い」との合間に、船塚さんの持つてきてくだすつた「平家物語」のDVDに入つてゐる撮影のやうすも見ることができた。
おそらくNHKで放映したものと思はれる。
「平家物語」のDVDも買はう。

「赤壁の戦い」になると見入る時間が増える。
上映回の選択もすばらしかつたと思ふ。

最後に船塚さんへの質問コーナーがあつて、上映会はお開きといふことになつた。
三時間、あつといふ間でしたね。

このあと鈴本演芸場に行き、「ウルトラセブン落語会」で柳家喬太郎が「セブン段目」といふ落語の「七段目」をアレンジした噺を聞いた。
大店の若旦那がウルトラセブンが好きで好きで、今日も仲間とDVD上映会をしてきた、といふ。
「みんなでわいわい見るのが楽しいんだよなあ」といふセリフに「そのとほりだよなー」と、つひさつきまでの楽しい時間を思ひ出すことだつた。

主催者の方々、ご参加のみなさま、そして船塚洋子さんにはなんと御礼申し上げたものやらわからない。
ありがたうございます。

次回は九月二日に開催する予定ださうである。
ご興味のある向きには是非参加を検討されたい。

Wednesday, 28 June 2017

弁慶上使考

「弁慶上使」はもともとは荒唐無稽な物語として上演されてゐたんぢやあるまいか。
まつたく根拠はないが、なんとなくそんな気がしてゐる。

「熊谷陣屋」については、なにかの本で読んだことがある。
文楽の熊谷が赤つ面で朱色の衣装で出てくるのは、最初は滑稽な人物として描かれてゐたからだ、と。
たれのなんといふ本だつたのかは失念してしまつた。
文楽の熊谷は「壇浦甲軍記」の岩永とおなじやうな出で立ちでせう、といふことは、おなじやうなタイプの登場人物として演じられてゐたんですよ。
そんなやうなことが書いてあつた。

「なるほどなあ」と思はないでもない。
初演のころの熊谷は、喜劇的とまでは云はないが悲壮感ただよふタイプではなかつたのではあるまいか。
観客にとつて、熊谷は近しい存在ではない。
武士だしね。
自分たちのあづかり知らぬ世界ではこんなこともあらうかと、さういふ興味で見てゐたのではないかなあ。

熊谷がさうなら「弁慶上使」の弁慶もさうだつた可能性はある。
「弁慶上使」の話は、武蔵坊弁慶にまつはる二つの逸話からできてゐる。
ひとつは、一生のうち二度しか泣かなかったこと。そのうち一回は赤ん坊のときのことであること。
もうひとつは、一生のうち女の人と契つたことは一度しかなかつたといふこと。
この二つの逸話から、あの話はできあがつてゐる。
はじめて見たときは「やるなあ」と思つたものだつた。

「弁慶上使」が荒唐無稽な物語として上演されてゐたとして、それがいま受け入れられるかといふと、それはないだらうと思つてゐる。

「熊谷陣屋」の熊谷でさへ岩永のやうな雰囲気は微塵もなくなつてゐるのだもの。
「弁慶上使」の弁慶だつて、同様だ。

ただ、熊谷ほどには弁慶は現代的に洗練されてゐないんぢやあるまいか。
上演回数がまづ違ふ。
現代人に受け入れやすいやうにするには、「弁慶上使」はまちつと上演して改訂していく必要があるんぢやないかなあ。

今月歌舞伎座で「弁慶上使」を見て、吉右衛門の弁慶は大きくて大変結構だし、おわさの雀右衛門、しのぶの米吉、侍従夫婦の又五郎と高麗蔵、床と、それぞれよかつたと思ふのだが、なんとなく未消化な感じがするのはそのせゐなのぢやあるまいか。

あるいはなにかもつと過剰なものが必要だつたのかもしれない。
だつてとんでもない話なんだもの、「弁慶上使」つて。

Tuesday, 27 June 2017

楽しいからいいかなつて

昨日、ネクタイを編んでゐる話を書いた。
考へてみたら、去年のいまごろタティングレースのネクタイを作つてゐたことを思ひ出した。

Tatted Necktie

Jan Stawaszのデザインで、両端がモチーフつなぎのひし形になつたものだ。
作つたら満足してしまつて、整形したあとはしまひこんだままである。

無駄ではないのか。
作つておいて使ふこともなくしまひこんだままだなんて、作つた甲斐がないのぢやあるまいか。
自分でもさう思はないでもない。
でも作つてゐるあひだ楽しかつたからいいのだ。
作るのが楽しくて作る。
さういうのもあつてもいい。

いま作つてゐるタティングレースのモチーフつなぎも袋状に仕立てることは決まつてゐるけれど、実用的なものになるかどうかはわからない。
まだ内袋もどうするか決めてゐない。

今回作らうとしてゐる形はやつがれにとつてタティングレースでは作つたことのないものだ。
そこがちよつと楽しい。
できあがつてみたら「こんなの使へないよ」といふものになる可能性は高いが、そのときはそのときだ。

といふ感じで今日もせつせと結びつづけるのであつた。

Monday, 26 June 2017

細々と編む

くつ下を編んであまつた毛糸で細々とネクタイを編んでゐる。

手編みのネクタイは以前から編んでみたいと思つてゐた。
自分がネクタイをしめることはないだらうし、贈る先もないのだが、とにかく編んでみたかつたのだ。
さういふものはいくらもある。
レース編みのショールなども、「こんなレーシーなの、編んでも使はないよな」と思ひつつ編む。
くつ下などは「こんなにたくさんあつたら編んでも使はないよな」と思ひつつ編む。
くつ下はそのうち履くこともあるし、レース模様のものも使ふやうになるものもある。

しかしネクタイ。
しかも手編み。
さらに羊毛(化繊と混紡だけど)。

しないでせう。
しないな。
暑さうだし。

でも編んでゐる。
編みたいからだ。

「細々と」と書いたやうに、物理的にも細々と編んでゐる。
前に垂れる部分の増減目が終はつて、いまは細い部分を編んでゐるからだ。
十五目くらゐだつたかな。
これを作り目から134.5cmくらゐ編んで、さらに細くして終はる。

ネクタイつてこんなに増減目のあるものだつたんだな。
単に細長く編むだけなのかと思つてゐた。
さういふネクタイもあるのだらうけれど。

また、ネクタイだからバイアスに編むのかなと思つてゐたが、さうでもないらしい。
バイアスに編むのもよささうな気がしてゐる。
Diagonal Scarf の編み方でいけるんぢやあるまいか。

編み方を見ると、このネクタイは絹の混紡糸で編むものだといふ。
さうだよね、ネクタイといへば絹。
使ひ道に困つた絹の糸があるので、そのうちネクタイを編んでみるかなあ。

Friday, 23 June 2017

性格で判断

いままさにさうなつてゐるのかもしれないが、今後はますます入学試験などで性格などを問はれることが増える、といふ話を聞く。

思へば、幼稚園からいままで自分の為人や性格を云々されて入園・入学・入社したことはない。
そんなことで評価されてゐたのなら、どこも不合格だつたらうからだ。

もう三十年は前のことだ。
いとこがさる中高一貫教育の学校を受験するといふ。
その学校は明るい性格の子しか入学させないといふ話だつた。
その学校の入試に対応した塾に通つてもゐた。
残念ながら我がいとこはそんなに明るい性格ではなかつた。
どちらかといふとものしづかであまり感情を面にのぼらせることのない人だ。
塾でも「合格はむづかしいかもしれませんね」と云はれてゐたといふ。
結局、親の仕事の関係でのその学校から遠いところに引つ越すことになり、受験しなかつたのらしい。

明るい性格の子しかゐない学校、か。
その学校で育つたら、暗い性格の人とのつきあひ方がわからなくなるのぢやあるまいか。
それつて、社会不適応者を育ててゐることにはならないのか。
あるいは教師に暗い性格の持ち主がゐるのだらうか。

それに、明るい性格の子だけを集めたとしたつて、その中に差異はある。
世の中の平均からみたら明るい子だけれど、明るい子ばかりの中に入れられたら暗い子になつてしまふ。
そんなこともあるだらう。

人の性格を見極めるのつて、そんなにかんたんにできるものなのだらうか。
学校や企業の面接官ともなれば、お手の物なのかなあ。

見た目でなんとなく変な人といふのがわかることもある。
この前東京宝塚劇場に行つたとき、その身なりから「この人、なんだか変」と思つた人は平気でエスカレータを待つ列に割り込んで来た。
着てゐるものがみすぼらしかつたとか、髪の毛が乱れてゐたとかいふわけではない。
ただ、その人には似合はないと思はれるやうな服を着てゐた。

でもそれを云つたらやつがれも「変な人」枠だからなあ。
面接試験を重要視するやうな入学試験や入社試験にはことごとく落とされる。
さう思つてゐる。

先日、TwitterのTimeLineにこんなやうなつぶやきが流れてきた。
英国数理社の入学試験の場合、ある一定の成績に達してゐるといふだけの人間が集められる。
その多様性がいいのであつて、性格だの人格だので入学の可否を決めてゐたらかうはならない。

自分にとつてはすつかり他人事なのでのほほんと構へてゐるが。
老人ホームへの入居も性格や人格が問はれることになつたらと思ふとお先真つ暗な気分になる。
それとももうさうなつてゐるのだらうか。
この世は闇か。

Thursday, 22 June 2017

方眼罫のノートを使ふ

無地の Moleskine ポケットサイズを使ひ終はり、方眼罫のおなじものを使ひはじめた。

方眼罫は次からはもう使はないかもしれないな、といふ気がしてゐる。

方眼罫は人気がある。
成績優秀な人は方眼罫のノートを使つてゐるといふやうな題名の書籍があつたやうに思ふし、Moleskine の中でも一番人気があるのは方眼罫なのではあるまいか。そんなことはないかな。

現在、システム手帳でも方眼罫のリフィルを使用してゐる。
Bullet Journal 用には方眼罫が都合がいいからだ。
一時普通の罫線のリフィルの先頭部分にだけ縦線を入れて Bullet Journal を試して見たことがある。
これでもいい気がしたけれど、なんとなくしつくりこなかつた。

方眼罫のなにが苦手なのか。
まづ、すべての方眼罫が苦手なわけではないかもしれない、といふことをことはつておく。
5mm方眼は、ちよつと使ひづらい。
一行に字をおさめるには狭すぎるし、二行使ふには広すぎる。
帯に短し襷に長しとはこのことだらう。
おそらく三行の中に二行書くのがいいやうな気がするが、さううまくできた試しがない。

無地の場合、罫線がない分字の大きさも行間も好きなやうにとれる。
「好きなやうに」と書いたが、多少滅茶苦茶でもなんとかなる。
ガイドとなる罫線がないから行がななめになつていくこともある。
でも全体がななめになるなら、たいした問題ではない。

5mm方眼は絵やグラフなどを描くときにむいてゐるといふ。
小学生のころ、理科には方眼罫のノートを使つてゐた。
絵やグラフを描き入れるのに向いてゐるなあ、と思つた。

成績優秀な人に方眼罫のノートを使用してゐる人が多いといふのは、ノートの中の文字と絵とのバランスがとれてゐる人に成績優秀者が多い、といふことなのかもしれない。
本も読まずに(そして本の存在を確かめもせずに)書いて恐縮だが、そんな気がする。

やつがれのノートの使ひ方はといふと、とにかく一ページびつしり字で埋め尽くすやうな感じだ。
以前は絵なども入れてみやうと試みたこともあつた。
そのうち自然となくなつた。
いまこの瞬間この光景をかんたんにでも絵に残せたら、と思ふこともないわけではない。
でも気がつくと「ここがかうで、あそこがああで」と文字をつらねてゐる。

以前ほぼ日手帳で3,3mmだか3,4mmだか方眼といふのがあつたやうに思ふ。
使ひづらいといふ意見が多いやうに見受けられたが、二行に一行書き入れるのならちやうどいいサイズだつたんぢやあるまいか。

5mm方眼の一行に文字を一行書き入れるのなら、ペン先の細いペンを使へばいいのかもしれない。
このあとしばらく方眼系とのつきあひがつづくので、いろいろと試してみるつもりだ。

Wednesday, 21 June 2017

現実の生活を充足させるには

最近あまり書けてゐない。

読んだ本や見に行つた芝居、聞きに行つた落語、ことごとく記録が残せてゐない。
からうじていつ読み終はつたとか、いつなにを見に行つたとか、いつなにを聞いたとかは残してゐる。

Bullet Journal をつけてゐると、月によつてどれだけ書いたかがわかりやすい。
月の初めにその月の最初のページを、月の終はりにその月の最終ページを目次に書き入れるからだ。
今年は、二月と三月とはよく書いてゐて、四月五月とすこし落ち込み、六月はほとんど書けてゐない。
予実管理をするだけなら十分なくらゐには書いてゐる。

書かない生活は健康的だらうか。
書く生活よりもいいのか。

書かないのは書けないからでもある。
時間がないのだ。
あいた時間を見つけて書くやうにはしてゐるものの、その時間がなかなか見いだせない。
これをもつて生活が充実してゐるから、といふことも可能だ。
いはゆる「リア充」だから書く時間がない。
さういふこともできる。

でもやつがれにとつてはリアルの充実よりも書ける生活の方が慕はしい。
仕事や日々の暮らしの充実よりもあれこれくだらないことを書く時間があつた方がうれしい。
書かない/書けないといふことは、すなはち忙殺されてゐるといふことでもある。

別段書いたからといつてどうといふことはない。
いま「Why I write」でWeb検索をかけたら、Mediumの記事が目にとまつた。
その記事を書いた人は、世の中やその人の書いたものを読む人のことを変へたいと思つて書いてゐる、といふ。
すくなくともそれが書くことの理由のひとつだといふ。

世の中を変へたい、か。
奥泉光もそんなやうなことを書いてゐた。いや、いとうせいこうとの対談だつたと思ふから、話してゐた、が正しいか。

世の中を変へたいか。
やつがれ風情の書いたことで世の中が変はるとは思へない。想像すらできない。

ではなぜ書くのか。
書けば満足するから、かな。
本や芝居について、書いたところでひとまづ満足する。
読んだ、見た、といふ記録が残るからだらう。
その満足感、充足感を得ることなく今月はここまできてしまつた。
書くことでリアルな充足を得ることができる、といふことだらう。
書けばリア充。
さういふことだ。

ひとまづはなにもかもふり捨てて、これまで書かずにきた本や芝居、落語について書くことにしたい。
が、ふり捨てられるか否かが問題だ。

Tuesday, 20 June 2017

佐賀錦の持ち腐れ

手持ちの糸の中に佐賀錦がある。
黒が二巻、perwinkle と呼びたいやうな淡い紫が一巻の合計三巻だ。
黒の一巻にはビーズをとほしてタティングレースのブレスレットのやうなものを作つてゐる途中だ。
Jan Stawasz のデザインで、もとはチョーカーになつてゐる。
これをブレスレットにしやうと思つたんだな。
はじめたのが三年前で、そのまま止まつてゐる。

とまつてゐる所以は、自分でも定かではない。
もともとは旅行中の暇つぶしにと思つてはじめたものだつた。
旅行中もちよこちよこ結んではゐたのだが、なにぶんイヴェントももりだくさんであまり進まなかつた。
帰つてきてからつづければよかつたものの、そのままになつてゐた。

先日、糸の確認などをしてゐてその存在に気がついた。

ビーズはTOHOのスリーカットビーズで色は黒だ。
黒い糸にビーズを通すと糸の色がビーズにうつつてビーズの色がちよつと濁ることがある。
マットなビーズでもさうなることがあるので注意が必要だ。
でも黒なら大丈夫。
黒い糸には黒いビーズがよく似合ふ。

さう思ふのだが、なかなかつづける気にならないのはなぜなのか。
作りはじめたものは、一気に作らねばならないといふことか。
でも、あみものについては、夏物や冬物は季節がすぎてしまつたら次の季節まで持ち越して、ちやんと完成させてゐる。
この場合は季節がすぎてしまつたからといふ理由ではない、といふのが問題なのかもしれない。

紫色の糸はどうするかねえ。
一巻だとどれくらゐのものが作れるのだらうか。
あまり糸を消費しないやうなデザインならスカーフのひとつも作れるかな。

Monday, 19 June 2017

編んだり紡いだり

この週末は久しぶりに土日とも出かける予定がなかつた。
ほぼ一日中家にゐて、編んだり紡いだりしてゐた。

編んだものの写真も撮つた。

Par 5 Socks

ダルマのくつ下毛糸で編んだ Par 5 Socks である。
このくつ下毛糸は三月ごろ入手した。

針は2.75mmを使用した。
たまたま目についたからだ。
くつ下毛糸のラベルには、くつ下を編むときには0号(すなはち2.1mm)か1号(すなはち2.4mm)を使ふとよいと書いてあつたやうに思ふ。
しかもやつがれは手がゆるい。
大きくなつたとしたらオーヴァソックスにすればいいか、といふので、そのままえいやと編み始めた。

くつ下は編み方どほりに編んだ。
編み方には、かかととつま先とは好きな編み方を用ゐるやうに、と書いてある。
かかとのフラップ部分は自分で割り出して編んだ。
最初は単に引き返し編みのかかとにするつもりだつたが、かかと部分を二目ゴム編みにするといふのはあまりやつたことがなかつたので試しに編んでみた。
割り出した編み方どほりに編めたけれど、ちよつとゆるいかなあ。
かかとはきつちりつめて編んだ方が好きだ。
履いたときにずれにくくなるからだ。
でもまあこれはこれでいいか。
つま先は四方の一目内側で減らし目をする方法にした。

履いてみたところ、編む前に懸念したやうなゆるい感じはしなかつた。
縄編み模様で縮むからだらう。
縄編みには縄編み用の針は用ゐない。
ダルマのくつ下毛糸には用ゐた方がよかつたな、と思ふ。
糸がつるつるしてゐるせゐか撚りがほどけがちなのだつた。
ゆゑに手で押さへてゐた目の糸も二重になることがある。
この糸は編み込み模様にもあまり向かないのぢやあるまいか。
どんな模様が向いてゐるのかなあ。

模様が向いてゐるといへば、パピーのオンフルールで編んだ cowl は糸と模様とがぴつたりあつたものになつたと自画自賛してゐる。

Knitted Cowl

オンフルールは、おそらくもう廃番になつた糸だらう。
羊毛、絹、カシミヤの混紡糸で、とても上品な糸だ。

糸はあるだけ使つた。針は6号。
このままくしゃくしゃにして使つてもいいし、折つて二重にして使つてもいい。
早く寒くならないかなあ。

糸紡ぎは、Helix Scarf を見てはじめた。
毛は鎌倉ペレンデールで求めたシェットランドだと思ふが定かではない。
マフラーはもういらないといふのに、なぜ、と思ふが、編みたいのだから仕方がない。
手持ちの糸で編めばいいのだが、Helix Scarf は紡ぎ雑誌に掲載されたものだつた。
紡ぎはじめたのは無謀だつたかなあ。

ほかに、ネクタイを編み始めた。
くつ下を編んで余つたくつ下毛糸があつたのでそれで編んでゐる。Opal のキリン柄だつたと思ふ。

この先また出かける週末ばかりなので、とくに糸紡ぎなどはどうなるのか甚だ不透明だが、まあ、ネクタイは編むだらう。

夏物は、今年はなしかな。

Friday, 16 June 2017

はふつておけない登場人物

「必殺仕掛人」の再放送がはじまつた。

なかなかリアルタイムでは見られないので録画して見てゐる。
見たら即消す。
さうしないとハードディスクの容量がすぐに足りなくなるからだ。

だが、「必殺仕掛人」が消せない。

これまで見てゐた「鬼平犯科帳」にも見ても消せない話はあつた。
出てくる俳優や話の内容がよかつたり、ちよつといい絵が何枚かでてきたり。
さういふので消せてゐない回がいくつかある。

「必殺仕掛人」は、ここまで第二話から第四話までを見たが、いづれも消せてゐない。
残しておいてもあまり見返す機会もない。
それなのに消せない。

それが好きといふことよ。
といふ話もあるが、ぢやあ「必殺仕掛人」のなにがいいのかと問はれると答へに窮する。
それもまた好きといふことなのかもしれない。

先日、「パペットエンターテインメント シャーロック・ホームズ(以下「人形劇の「ホームズ」」)」の一挙放映を見る機会があつた。
本放送時にすべて見てゐる。
録画したものをディスクに焼きもした。
なのに見てしまつた。

人形劇の「ホームズ」には文句がないではない。
最終回でモリアーティ教頭を貶めた結果、敵対するホームズもまたなんだかたいしたことのないやうな存在に堕してしまつた。
さう受け取れたからだ。

さはさりながら、人形劇の「ホームズ」の一挙放映を見てなにが好きつてなんとなく登場人物たちに「おともだち感」を抱いてしまふところだな、と思つた。

野田昌弘が書いてゐた。
スペースオペラに必要なのは「おともだちになりたい」と思はせるやうな登場人物たちなのだ、といふやうなことを。
さうでもないけどいい例として柴田錬三郎の「われら九人の戦鬼」をあげてゐた。
「われら九人の戦鬼」を読んでゐて登場人物に抱くのは、「はふつておけない感」かな、とじぶんでは思つてゐる。

一番古い人形劇の記憶は「新八犬伝」で、おぼろげにしか覚えてゐないけれど、これも登場人物たちのことが身近な人のことのやうに思へてきて、つひ見てしまつてゐた気がする。
思へば、NHKの人形劇はさうだつた。
すくなくとも記憶してゐるかぎり、そしてやつがれにとつてはさうだつた。
登場人物に対して「おともだち感」とか「はふつておけない感」を抱いて見てゐた。
さう思ふからよけいに一生懸命に見る。

人形劇の「ホームズ」も例外ではない。

そして、「必殺仕掛人」もさうなんだらうな。
あんましおともだちにはなりたくない人しか出てこないけれど、でもはふつておけない。
今度はどんな事件がふりかかつてくるのか。
どうやつてそれを解決するのか。
気になつて仕方がないのだ。

録画を消せないのなら、いつそディスクを買ふか、とも思つてゐる。
入手できさうならいづれ買つてゐる気もするが、でもいまは買はない。
いまは日々放映されるのを楽しみに待つて見ることにしたい。
毎日、あるいは毎週放映されるのを待つのがまた楽しい。
TV番組に生き残る道があるとしたら、これぢやあないかと思つてゐる。

Thursday, 15 June 2017

飯田市川本喜八郎人形美術館 新・三銃士 その2

週末に飯田市川本喜八郎人形美術館に行つて来た。
六月二十五日まで展示されてゐる「連続人形活劇 新・三銃士(以下「新・三銃士」)」を見るのが目的だ。

昨日はホワイエに展示されてゐる帆船や鳥・馬・蜘蛛と噴水広場について書いた。
今日はスタジオの中について書く。

スタジオの中は、手前両側の壁際に小道具を展示したケースがひとつづつある。
入り口を入つて真正面には大きなセットを背景にして「新・三銃士」の人形たちが飾られてゐる。
迫力ある展示だ。

左のケースには、コンスタンスの裁縫道具や劇中に登場した手紙、本などが置かれてゐる。
奥には細長い建物も展示されてゐる。
コンスタンスの裁縫道具は、DMCのスペシャルダンテルが四巻ほど入つてゐた。
なるほど、スペシャルダンテルは人形サイズだな。
パステルカラーのものが三巻で、いづれも未使用。白い一巻は使用中でかぎ針編みのドイリーを編んでゐる最中といつたやうすだつた。
細かいことを云ふと、ドイリーと一緒についてゐるかぎ針はそのドイリーを編むには太すぎる。
誰かがもつと細い針で編んだのかなあ。

手紙は、細かい手書きの文字でフランス語つぽい。
ちよつと茶色がかつた紙にセピア色のやうなインキで書かれてゐる。
リシュリューの似顔絵もあつた。懐かしいなあ。

銃士たちの使つてゐるマグカップも飾られてゐる。
奥の左からアラミス用、アトス用、ポルトス用、手前が左がダルタニアン用。その横にプランシェの食べかけのりんごがある。
それぞれ趣が違つて各人にあつたデザイン、といひたいところだが、ポルトスのはちよつと小さいんぢやないかな。
あとダルタニアンのカップには中に金具が仕込まれてゐて、ここに布かなんかをひつかけて中身が入つてゐるやうに見せてゐたのではないかと思はれる。

ほかにも酒場シェークルで使はれてゐたコインなどの小道具やちよつとした装身具のやうなのも飾られてゐて、こもの好きにはたまらないんぢやないか。
本もミニチュアのやうな感じで、豆本好きとおぼしきお客さんが食ひ入るやうに見入つてゐた。

右のケースにはルイ十三世やアンヌ王妃、リシュリューやロシュフォール、ミレディーの持ち物が展示されてゐる。
ロシュフォールの短銃とそのホルスターがなかなかイカしてゐる。財布とおぼしきちいさく黒いポシェットもいい。
アンヌ王妃の持ち物の中にはダイヤの首飾りもある。人形の身につけるものだから当然なのだが、こんなに小さいのか、とちよつと驚く。

「人形劇三国志」や「人形歴史スペクタクル 平家物語」の展示には小道具だけを feature したものはあまりないやうに思ふ。
自分がみた中では、渋谷ヒカリエにある川本喜八郎人形ギャラリーの外のケースに「平家物語」で使はれた琵琶や扇子などが飾られてゐたことがあつたくらゐかなあ。
三国志や平家物語の展示の場合、登場人物が小道具を持つてゐることが多いやうに思ふ。
孔明が白羽扇を持つてゐたり、関羽が青竜刀、張飛が蛇矛、呂布が方天戟を持つてゐたり、とかね。
楽器も、経正が青山の琵琶を、敦盛が小枝の笛を持つてゐたり。
三国志や平家物語の人形は手でものを持てるやうになつてゐるからだらうか。
得物だけ並べた展示といふのも見てみたいやうな気もする一方で、人形が持つてゐるのも絵になるんだよなあとも思ふ。

スタジオの主たる展示は、左からバッキンガム公爵、アンヌ王妃、ルイ十三世、ボナシュー、コンスタンス。後方にアラミス、アトス、ポルトス、前方にダルタニアン、プランシェ。ロシュフォールにケティ、ミレディと護衛隊三名の総勢十四名と二匹だ。あ、護衛隊士の奥に馬がゐるから二匹と一頭かな。
トレヴィルとリシュリューとはゐない。至極残念である。
スタジオ内は人形やセットを保護するためかかなり照明が抑へられてゐて暗い。

バッキンガム公爵はアンヌ王妃の手をとつて、ふたりで踊らうかといつた風情だ。
王妃のとなりにルイ十三世がゐて、ひとりで踊つてゐるやうな態なのだが、王妃に語りかけてゐるかのやうな雰囲気もあり、見てゐてちよつとつらい。

ボナシューとコンスタンスとは銃士たちを見てゐるのかなあ。
ボナシューはコンスタンスを見てゐるやうにも見える。
コンスタンスの視線の先にゐるのはアラミスかな、といふ気もする。
かうして見るとボナシューの顔はかなり特異だ。
デフォルメされてゐるのに妙にリアルな感じがする。
顔の皺や唇の感じ、かなあ。
コンスタンスはちいさくて可憐に見える。
作中の気の強いやうすは影を潜めてゐるやうだ。

アラミスはまつすぐ、アトスは膝を曲げて足を広げた臨戦態勢、ポルトスはちよつと半身の気取つたやうすで剣をかまへて立つてゐる。
それぞれその人物らしいやうすだ。
その三人の手前のダルタニアンもアトスと似たやうな体勢で剣をかまへてゐる。
かうして見ると、主人公顔だよなあ、ダルタニアン。
とても余裕のかまへに見える。
その横にゐるプランシェも仲間のつもりなのかな。とても可愛い。

ロシュフォールは銃士たちの方を向いて立つてゐる。右手に剣を持つて銃士たちの方に向けてゐる。
スタジオが暗い中、白い顔に黒装束で顔に照明があたつてゐるのでロシュフォールの写真はひどく撮りづらかつた。顔が白くとんでしまふのだ。
かうして見ると、デカいし、黒いし、腕が妙に長いし、ひどくおそろしい存在に見える。
ちよつとエヴァンゲリオン入つてるよなあ、ロシュフォール。
腕の長さなら玄徳に負けないぞ。

ロシュフォールの手前にケティがゐて、プランシェをねらつてゐるのかといつたやうす。

その背後にミレディーが控へてゐる。
「わたしはミレディー ミレディー ミレディー 世界で一番いい女」などと「プリンプリン物語」のヘドロの歌を思はず口ずさんでしまふくらゐいい女だ。
「好きな色は赤と黒」かどうかは知らないが、血の色と罪の色といふのはミレディーにもふさはしい。
三銃士の人形は樹脂でできてゐて、人形の性格にあつた木目を描いてゐるのださうだが、木目の見えない髪の毛なんかも木製のやうに見えるんだよなあ。ミレディーの髪の毛もまさにさう。

ほかに美術館の方にうかがつた話だと、人形には球体関節を使用してゐて、手首や肘の部分などはわざと隠さないやうにしてゐるのだといふ。
人形といふことを明確にすることで、視聴者が感情移入しやすくなるといふ効果をねらつてゐるのだとか。
また、唯一木で作つた人形があつて、それは三谷幸喜をモデルにしたオレイリーなのだとか。
木で作ると湿気や温度などで大きさが変はつたりするが、一度しか登場しないオレイリーならいいだらうといふので作つたのだといふ。

「新・三銃士」にしても「パペットエンターテインメント シャーロック・ホームズ」にしても、話の最後がグタグダで、「それぢやあ三銃士ぢやないだらうよ」とか「モリアーティ教頭をおとしめると相対的にホームズもたいしたことのない存在になつちやふんだけどなー」とか、いろいろ納得のいかないところが多い。
でも、それは人形のせゐではない。
人形に罪はない。

シャーロック・ホームズの人形の行方は知らないが、三銃士の面々とはかうしてたまに飯田で会へる。
機会があつたらまた会ひに行きたいものだ。

Wednesday, 14 June 2017

飯田市川本喜八郎人形美術館 新・三銃士 その1

週末に飯田市川本喜八郎人形美術館に行つて来た。
今回の目当ては「連続人形活劇 新・三銃士(以下「新・三銃士」)」の展示である。
六月二十五日まで展示されてゐる。

2009年から2010年にかけて放映された「新・三銃士」の人形は飯田にある。
寄贈されたのだといふ。
人形だけでなく、セットなども一緒なのださうな。
過去にも何度か飯田市川本喜八郎人形美術館で展示されたことがあつた。
残念ながら都合が合はずに見ることがかなはなかつた。
前回の范増ぢやないけれど、「やつと会へたね」といつたところだ。

「新・三銃士」の展示部分は写真撮影可能だつた。
「パペット・エンターテインメント シャーロック・ホームズ」の展示を横浜人形の家に見に行つたときも撮影OKだつたな。NHK文化祭のときもか。
写真撮影ができるのはとてもうれしいのだが、つひ写真を撮るのに一生懸命になつてしまつて、自分の目で見ることがおろそかになりがちだ。
今回もさうだつた。
スタジオ内が暗い上に白い顔にライトのあたつてゐる黒装束のロシュフォールが撮りづらくてなあ。顔の部分が白くとんでしまひがちで。
かういふときは写真はあきらめるが吉とわかつてゐても未練がましく何枚も撮つてしまふ。

「新・三銃士」は展示室の奥のスタジオに展示されてゐる。
四月までは「項羽と劉邦」が展示されてゐたところだ。
また、ホワイエにもいろいろと展示されてゐる。
ホワイエにケースが四つあつて、手前のケースには帆船、次のケースにはトレヴィルのところにゐた鶏とリシュリューのところにゐた蜘蛛、その次のケースにはラロシェルにゐたカラスや町の外にゐたセキレイ、カモ、奥のケースには銃士隊の馬が飾られてゐる。
そしてホワイエのつきあたりには噴水広場のセットが組まれてゐる。

帆船は撮影用の小さいサイズのものだ。
とても趣がある。
鳥や蜘蛛、小道具があるのも「新・三銃士」の展示の特徴だ。
「新・三銃士」は人形の皮膚の表面に木目を描いてゐて、木で作つたやうに見える。
鳥や馬も木でできてゐるかのやうに加工されてゐる。
しかも鳥は可愛いものが多い。
噴水広場のセットには石造りの建物もあつて、そこの窓にハトがとまつてゐるのがまた念入りで可愛い。丸つこいハトでね。エサが豊富なんだらうな。
蜘蛛だけはちよつと不気味な感じだ。真つ赤でね。
馬は精悍さうだ。展示室内にゐる赤兎や白竜、張飛や義経、義仲の乗つてゐる馬と比べて見るのもおもしろい。

スタジオの中は、手前両側の壁際にケースがひとつづつある。どちらにも小道具が飾られてゐる。
スタジオを入ると、真正面に大きなセットを背景にして「新・三銃士」の人形たちが飾られてゐる。
左からバッキンガム公爵、アンヌ王妃、ルイ十三世、ボナシュー、コンスタンス。後方にアラミス、アトス、ポルトス、前方にダルタニアン、プランシェ。ロシュフォールにケティ、ミレディと護衛隊三名といつた顔ぶれだ。
トレヴィルとリシュリューがゐないのがとてもさみしいが、仕方がない。
スタジオ内は人形やセットを保護するためかかなり照明が抑へられてゐる。

個々の小道具や人形についてはまた次回。

Tuesday, 13 June 2017

糸の在庫

タティングレースのモチーフつなぎは24枚目をつなぎ終へて、これから25枚目に入るところだ。

近頃はレース糸も増やしてゐない。
オリムパスのタティングレース用の糸をためしに買つたくらゐだ。
買はなくなつた理由はなにか。
すでに手持にたくさんあるから、といふのがひとつ。
でもそれまでだつてたくさんレース糸を持つてゐても買つてゐたのだ。
買はなくなつた理由その二は、行動半径内にレース糸を買へる店がなくなつてしまつたから、だ。
行動半径がせまくなつた、といふこともある。
以前は蒲田のユザワヤなどにしげく訪れてゐたけれど、ここのところさつぱりご無沙汰してゐる。
行動半径の狭くなつた所以は、体力がなくなつたからだな。
以前だつたら蒲田または吉祥寺のユザワヤの閉店前に間に合ふやうにはりきつて職場を抜け出たものだつたが、最近はさういふやる気がない。
また、行き着けの手芸屋が次々と店じまひしてしまつたといふこともある。
なんだかんだいつて、最寄りの手芸屋が頼りになるんだよなあ。

すでにたくさんレース糸を持つてゐるのだから、買う必要はないぢやないか。
もつともな意見だ。
しかし、「かういふものが作りたい」と思つたときに、手持の糸では作れないことがある。
もちろん、糸を買つたときは「かういふものを作らう」と思つて買つてゐるわけだが、すでに放置して久しい。
いま作りたいものはそれとは違ふもの。
贅沢すぎる、わがままだ、と云はれやうとさう思つてしまふのだから仕方がない。
それに、糸はそのときに買つておかないとあとで出会へないこともあるからなあ。

Ravelry に、手元に毛糸をためることがない、といふ人がゐてちよつと驚いたことがある。
一つ編んだら次に編みたいものの毛糸を買つて編む。編み終はつたらまた次に編むものの毛糸を買ふ、といふやうにしてゐるといふのだ。
理想だよなあ。
自分もさうしたい。
でもそれには毛糸や糸を持ち過ぎてゐる。

タティングレースのモチーフつなぎが終はつたら、と、ここにも何度か書いてゐる。
栞のやうなものを作らうか、とか。
糸の在庫を見てゐたら佐賀錦があつたので、それでスカーフのやうなものでも作つてみやうか、とも思つてゐる。
いづれにしても、手持の糸でなんとかすることを考へないと、な。

Monday, 12 June 2017

冬待つこころ

くつ下は水通しして乾かした。
だが写真は撮つてゐない。
明るいときに撮らうなどと思つてゐるあひだに週末が終はつてしまつた。

現在は cowl を編んでゐる。
参考にしてゐる編み図はない。
一段目でメリヤス編みを五目、左上二目一度、かけ目をくりかへし、二段目はメリヤス編みといふのをくりかへすだけのネックウォーマだ。

使用糸はパピーのオンフルール。羊毛と絹とカシミヤとの混紡糸で、灰色がかつた白のたいへん上品な糸だ。
もともと cowl にするつもりで買つた毛糸だつた。
メビウス編みにしやうと裏も表も使へるやうな編み地にして、ちよつと編みはじめてはゐた。
編みはじめてはみたものの、なんだかあまりいい感じにならなくて、放置してあつた。

先日糸の整理をしてゐるときに出てきて、どうしたものかなあと考へ、くつ下を編み終へたあと即編みはじめた。
ななめに模様ができて、いい感じだ。
糸にぴつたりとあつたデザインだと自画自賛してゐる。

できあがつたところで使ふ予定はない。
寒くなるのを待たねば使へない。
今年は東京マッハで北軽井沢に行くなんてなこともないしね。

早く寒くならないかなー。
その前に編みあげねばならないか。

Friday, 09 June 2017

エレヴェータの夢

遅刻しさうになる夢をたまに見る。
行く先は学校や職場ではない。
友人との待ち合はせだつたり、芝居だつたりする。

そして、遅刻しさうになる理由で一番多いのが、エレヴェータにうまく乗ることができないといふものだ。

乗つたエレヴェータが行く先階につかなかつたり、降りてみたら全然違ふ建物の中にゐたり、そもそもエレヴェータが来なかつたり。

現実にも日々エレヴェータを使つてゐるが、なかなか来なかつたり目的階につかなかつたりして遅刻した、といふことはない。
エレヴェータのせゐで困つた目にあつたこともない。
そのせゐだらうか、夢の中でもそんなにあせることはない。
「これは夢だから」とわかるときもある。

ちよつとWeb検索をかけてみると、エレヴェータといふものは昇降するものだから運気に関はつてゐる、だとか、不安定な状態をいふ、だとか、そのほかにもいろいろと出てくる。

いまの暮らしが安定してゐるとは思はないけれど、かといつてエレヴェータの夢を見たあとさらに不安定になるかといふとさうでもないやうに思ふ。
こころに不安を抱へてゐるときに見るのだとしたら、のべつまくなしに不安なのだらうな。

夢を見てゐるときに「これはエレヴェータに乗る夢だ」と思ふことはほとんどない。
宿やなにかの出入りに使用する。
移動の手段として使ふだけなので、エレヴェータが夢の中心だとは思はない。
目覚めてあとで考へると「あれはエレヴェータの夢だつたのだな」と思ふ。

なぜ電車やバス、タクシーではないのか。
乗り物の方がよほど昔から乗つてゐるし、いまだつてほぼ毎日のやうに使用してゐるのに。

もしかするとエレヴェータの夢と思つてゐるものは、「移動しない/できない夢」なのかもしれないな。

Thursday, 08 June 2017

続・なぜ学校で漢文を学ぶのか

なぜ学校で漢文を学ぶのか。

昨日は「国語のカリキュラムを決める人の都合で学ぶことになつてゐる」といふ説と、とはいつても教へる立場と教はる立場とでは理由が異なるだらう、といふことを書いた。

教はる立場から見た漢文を学ぶ理由はなにか。

かつて、漢文はものの考へ方の基礎をなすものだつた。
山本夏彦が、幕末から明治初頭にかけて欧米に出かけていつた日本人のうちにあちらで尊敬されるものもあつた、といふやうなことを書いてゐる。
漢籍の素養があつたからだ、といふ。
あちらでは学校でラテン語を学んだ。いまでも学んでゐるところもあらう。
ラテン語を学ぶ所以は、ラテン語で書かれてゐるものの考へ方の基礎をなす文献を読むためだ。
読んで育つたものは違ふけれど、相通ずるところがある。
互ひにさう思つたのだらう。

それではいまも漢文はものの考へ方の基礎をなすものなのか。
ほんたうはさうなのかもしれないけれど、学校で学ぶ漢文は違ふ。
授業で取り上げるのは断片にすぎないし、そもそも時間が短すぎる。

では学校の授業の漢文からなにを学べばいいのか。
昨日の流れからいくと、そんなのは生徒ひとりひとりが勝手に考へればいい、だ。
あんまり考へる時間もないけれど、ね。

かつて生徒だつたやつがれが勝手に考へた理由は、漢文を学ぶことで文章の書き方を学ぶ、だ。

文章の書き方は国語(現代国語)で学べばいい、といふのは至極もつともな意見のやうに見える。
以前も書いたとほり、ビジネス文書には「口語文で書くこと」といふきまりがある。「文語文を使用してはならない」ともいふ。

さういふきまりはあつて、しかし、会社に入つて仕事上で文章を書く場合、正式なものを書かうとすればするほど文章は文語に近くなつていく。
文語といつても古文で学ぶやまとことば主体のものではない。
漢文読み下し文に近いものになつていく。
その方がいかめしく簡潔になるからだらう。
また、かつては正式な文章は漢文で書かれてゐたから、といふこともあるのかもしれない。
そんな時代のことは知らないけれど、さうしたものであるといふことを、なぜか知らん感じ取つてゐるのぢやあるまいか。

漢文は文章全体の構造を学ぶのにも向いてゐる。
漢詩で最初に学ぶのは五言絶句であらう。
たつた二十文字で起承転結とはなにかを知ることができる。

国語でもハチの生態について書かれた文章などを読んで文の組み立て方を教へたりもする。
教科書では何ページかにわたる文章だ。
それも「出師の表」などなら見開きにちよいとあまるくらゐで知ることができる。
#註釈のつけ方次第で変はるだらうけど。
教科書に線を引けば「ここまでが序」とか「ここからが本題」とか「これが結句」とかほぼ一目でわかるやうになる。
いまどきの「最初に結論を書く」書き方には向かないかもしれないが、そこは応用だ。

中学生や高校生の段階では社会に出てビジネス文書を書くことになるかどうか、自分でもまだよくわからないことだらう。
新聞以外でかたくるしい文章に出会ふ機会もあまりないかもしれない。
ゆゑに「なんで学校で漢文なんかやるんだらう」と不満をいだくのは当然のことだ。

やらねばならぬならやらねばならぬで仕方がない。
なぜやらねばならぬのか、もうちよつと生徒を導くことができたなら、と思はれてならない。

まあ、みんながみんな社会に出てビジネス文書に接することになるとはかぎらないのも確かだがね。

Wednesday, 07 June 2017

なぜ学校で漢文を学ぶのか

Web検索で「なぜ漢文を学ぶのか」を調べると、学校の授業で取り上げられないと困る学者や研究者がゐるから、といふ答へが出てくる。
教へる側、もつと云ふとカリキュラムや教科書を作る立場から考へるとさうなのだらう。

だが、教はる側からしたらどうだらうか。

日本の学校では、すくなくともやつがれの通つた小中高のそれぞれの学校では、「なぜこの科目を学ぶのか」とか「この授業を受けた結果、どうなることが望まれてゐるのか」といふやうな話を聞いたことがない。

あつてもいいやうな気がするのだ。
年度の最初の授業で、場合によつては長い休みのあけたあとの最初の授業で、「今回この科目ではかういふことを学びます。それによつてかういふ知識が得られ、かくかくしかじかのことができるやうになります」みたやうな話が、さ。
「かうなることが望まれます」が云ひ過ぎなのだとしても、「今回はかういふことを学びます。かういふことができるやうになります」くらゐは教師から提示されてもいい。
さうしたら児童や生徒だつて「これからかういふことをするのだな」とわかるし、それによつて自分がどう変はれるのか変はればいいのかわかる。
その方が授業にとりくみやすいのぢやあないのかなあ。

しかし、日本の学校では、すくなくともやつがれの経験では、さういふ話は一切ない。
いきなり授業がはじまつて、児童や生徒はおとなしく(ない場合もある)教科書を開き、板書をノートにうつすのである。

つまり、児童なり生徒なりが自分で勝手に各授業で学びたいこと、得たいことを決めていい、といふことだ。
教師への指導要領といふのは必ずあるはずで、教師は教師でそれを目指す。
でもそれを児童や生徒に押しつけることはしない。
児童や生徒は、教師の気持ちを汲んでもいいし汲まなくてもいい。
算数の授業を受けながら「リンゴとミカンとの違ひとはなんだらう」と思ひを馳せてもいいし、国語の授業で「ファーブル昆虫記」の一節を読みつつ「海外にも変はつた人はゐるんだなあ」と思つてもいい。
ひよつとしたら「学問の自由」といふのはかういふことなのかもしれない。

学校で漢文を学ぶのはさうしないと困る学者や研究者がゐるから、といふのは、生徒の力のおよばないところだからどうしやうもない。
でも、授業があるからにはなにかしら学ぶことがあるといふことだらうとは思ふ。
それはなにか。
それは次回の講釈で。

Tuesday, 06 June 2017

タティングレースで糸の使用量をみつもるには

タティングレースの Lisbeth #40 一巻使ひ切り作戦(時々名前が変はる作戦であつた)もだいぶ進んできた気がする。
糸が残り少なくなつてきたからだ。
あと Masquerade を8枚作るつもりなのだが、足りるだらうかと心配になつてくるほどだ。

だいたい、本来であれば使ひ切るまでモチーフを作りつづける必要はない。
タティングレースにはちやんと糸の使用量を割り出す方法がある。

まづ糸に何cmか置きに印をつける。
以前やつたときは10cm単位に印をつけて、50cmと1mとにちよつと色を変へて印をつけた。
印を付けるのにはチャコペンを使つたと記憶してゐる。
印を付けた糸をシャトルに巻いて、10スティッチのリングを5つ作る。10個でもいい。
50スティッチまたは100スティッチに使用した糸の長さが判明する。
50スティッチや100スティッチのリングやアーチをひとつ作ればいい、といふ話もあるけれど、おそらくリングひとつひとつに微妙に手加減が変はるので、それでいくつか作るのだらうと思つてゐる。
あとは作るモチーフなりなんなりのスティッチ数を数へて糸の量を割り出すのだ。
実際はピコがあつたりするし、リングとリングとのあひだに糸を渡すこともあるだらうからそこのところを考慮しないといけない。
でもこの方法は有効だと思ふ。
すくなくともやつがれには有効だつた。

ではなぜ今回それをしなかつたのか。
糸の色が濃くて、印を付けるのがむづかしかつたからだ。
いまはチャコペンを使つてゐないしね。
白いペンや色鉛筆でも持つてゐればよかつたのかもしれないけれど、残念ながら手持になかつた。
買へばよかつたのかなあ。
ま、いいか。

そんなわけで半年もかけてひたすら使ひきり作戦をつづけてゐるわけだ。
我ながらどうかしてゐると思ふが、まあ、趣味などといふものはそんなものだらう。

Monday, 05 June 2017

春夏用の糸はない

今年は夏用の糸を買つてゐない。
去年はパピーのピマデニムを買つてLacy Baktus (Rav)を編み、北軽井沢で開催された東京マッハに持つて行つた。
整形がうまくいかなくて写真を撮つてゐないのだが、このLacy Baktusは北軽井沢でも活躍したし、その後も長いこと使つてゐた。
綿はいいよね。
Debbie Bliss だつたかも云つてゐた。
綿は年がら年中着られていい、といふやうなことを。

そのとほりなんだよなあ。
そのとほりだけれども、綿の糸をきつちりきれいに編むのはむづかしい。

毛糸(ここでいふ毛糸は羊毛から作つた糸と思し召せ)が編みやすいのは糸自体に伸縮性があるからだ。
多少手がゆるくてもあまり不揃ひな出来にはならないし、整形すれば全体的に整ふこともある。
ゆゑにきつちり編んでも伸びることもあるわけだが、そこは仕方がない。

綿や麻、絹の糸はさうした伸縮性に欠ける。
ゆゑに編みづらい。
そこのところは製糸会社も大したもので、ちやんと編みやすい糸を用意してくれたりする。
最近の麻の手編み糸はだいぶ編みやすくなつてゐるやうに思ふ。

そんなわけでここ四年ばかりは夏になると綿や麻の糸を買つて夏ものを編んでゐた。
夏のあひだに編み切らずに翌年に持ち越すこともあつた。
全部きちんと編んで、ほぼ糸が残つてゐない。
毛糸はいくらも在庫があるけれど、春夏用の糸はほとんど手持にない。
それで毎年買つてしまふわけだ。
でもなー、毛糸だけど、在庫はいくらもあるんだよなあ。
くつ下とか手袋とか帽子とか、ちいさくて編んでゐる最中に躰にあたらないものなら真夏でも編めることはわかつてゐる。

でも夏物も編みたいわけですよ。
ピマデニム、いい糸だつたし、ヴェスト的なものを編めるくらゐの量を買つて編まうかなあ。
いまからだと遅すぎるだらうか。

Friday, 02 June 2017

経験財と芝居

世の中には買つてみなければわからないものがある。

店頭で家具を見て、いいなと思ふ。
いすやベッドなら座つてみたりちよつと寝ころんでみたりする。
たんすや戸棚なら開け閉めしてみたり収納スペースの確認をしたりする。
ときには別のいすやたんすと比較する。
寸法もはかつて、よしと思つて買つてみても、実際に使つてみるとなにかが違ふ。
かういふつもりぢやなかつたんだけどなー。
でも仕方がない。
自宅で使つてみなければわからなかつたのだから。

家具にかぎつたことではない。
映画や芝居なんかもこの類だ。
実際に行つて見てみないとわからない。

かういふものを経済学では経験財といふのださうだ。
実際に経験してみて、あるいは経験してゐる途中でその商品の価値がわかるもの、とのことだ。
以前、「オイコノミア」で見た。

食品の場合、途中で「これはまづい」と思つたらそこで食べるのをやめるか我慢して最後まで食べるかだ。
マナーとして最後まで食べる人が多いやうな気がする。

映画や芝居はどうだらう。
見始めて、途中で「これはつまらないぞ」と思つたら、そこで席を立つて帰るだらうか。
あるいはせつかく来たのだから最後まで見るか。
映画の場合は途中で抜け出しづらいこともあらう。芝居なら幕間に抜け出ることも可能だ。

TVドラマなら、つまらないと思つた時点で視聴をやめる。
第一話を見てかんばしくなく、第二話を見てつまらなかつたらもうそこでやめる。
あとになつて、「最終話でどんでん返しがあつておもしろかつたのにー」と云はれても、その作品にはそのどんでん返しまでやつがれを引き留める力がなかつたのだ。
最後のどんでん返しも見てほしいのなら、そこまで視聴者を引きつけるものが必要だ。

TVドラマがさうなら、映画や芝居もさうだらう。

つまらないからと途中で見るのをやめる人がゐたら、その作品にはその人を引きつける力が欠けてゐたのだ。
この人物が「つまらないから途中で帰つた」と云つたからといつてその人を非難するのもどうかと思ふ。
途中で帰つたといふ時点で、すでにその作品はつまらないものといふことだからだ。少なくともその人にとつては。
「最後まで見てゐないくせに」といふ非難はあたらない。
最後まで見たいと思はせる魅力が作品になかつたのだから。

と、理屈ではわかつてゐても、自分が気に入つた作品について「つまらなかつたから途中で帰つた」と云はれるのはつらい。反論もしたくなる。
もう少し好きな対象との距離をとれるといいのだけれど。

Thursday, 01 June 2017

The Conduit

文房具店で、パイロットのペンに関する文章を目にした。
なぜ書くのか、といふやうな内容だつた。
正確な内容は覚えてゐない。
この文章の最後に「手と紙をつなぐもの。それがペンです」といふやうな一文があつた。
「人と紙をつなぐもの」だつたかもしれない。
筆記具がないと紙に字を書くことはできない。
指先やつま先などに墨やインキなどをつけて書くこともできやうが、あまり実用的ではない。
紙に書くなら筆記具がほしい。

筆記具が手と紙とをつなぐものだとする。
鉛筆やクレヨンなどは別として、万年筆やボールペンは一種管のやうなものだと考へられる。筆も似たやうなものだらう。
ペンとは導管のやうなものだらうか。
指先からペンになにかが流れ入り、それがペン先から紙の上に流れ出す。
さういふ仕組みなのかもしれない。

流れ入り流れ出すものはなにか。
最初に思ひついたのは「血」だ。
指先からペンへと書き手の血が流れ入り、ペン先から紙へと血が流れ出す。
命を削つて書く、などといふが、ペン先から流れ出るのが血であれば、命を削つてゐるといふのもうなづける。

だが、自分で書いてゐるときに、自分の血がペンに流れて紙の上に出るといふ感覚はまるでない。
血が外に出る、それも管のやうなものに出されるのは採血のときだ。
採血のときの痛みはない。
気の遠くなるやうな感覚や血がなかなか出てこなかつたらどうしやうといふ悩みに近いものはある。
でもなー、違ふな。
血ぢやないな。

ペンが自分の手と紙とをつないでゐる、といふ感覚はないではない。
でもペンを通してなにかが流れ出てゐるといふ感覚はまつたくない。
なにも出てゐない気がする。
気のやうなのもさへ通つてはゐない。
それとも意識したことがないだけで、実はなにかが通つてゐたりするのだらうか。

普段筆記に使つてゐるのが万年筆で、それも筆圧をかけなくても書けるやうなペンばかりなので、書いてゐるときに抵抗を感じることがほとんどない。
それでさういふことを意識しないんだらう、といふ気はする。

いづれにせよ、ペンが導管である、といふのはちよつとおもしろい考へ方に思へる。
もうちよつと考へてみやう。

5月の読書メーター

5月の読書メーター
読んだ本の数:6
読んだページ数:1543
ナイス数:6

Pride and Prejudice (Wisehouse Classics - with Illustrations by H.M. Brock)Pride and Prejudice (Wisehouse Classics - with Illustrations by H.M. Brock)感想
なんで「高慢」なのかよくわからなかつたが、「pride」なわけはわかつた気がする。pride=高慢ではないといふことか。それにしてもみんなよく喋る。こんなに喋るのかー。
読了日:05月09日 著者:Jane Austen
大江戸歌舞伎はこんなもの (ちくま文庫)大江戸歌舞伎はこんなもの (ちくま文庫)感想
結局ここに戻つてきてしまふ。歌舞伎関連の本を三冊選べといはれたら、この本と釘町久磨次の本とそのときの気分で一冊だなあ。
読了日:05月11日 著者:橋本 治
佐藤君と柴田君佐藤君と柴田君感想
The Expanding Universe of English、読んだなあ。The Shrinking Universe of Englishを見てみたいと狂ほしく思うた昔を思ひ出す。
読了日:05月14日 著者:佐藤 良明,柴田 元幸
幽霊たち (洋販ラダーシリーズ)幽霊たち (洋販ラダーシリーズ)感想
巻末に単語一覧がついてゐるのが発売当初は目新しいやうに思つたが、Kindleに慣れてしまふと巻末までいつて一々単語を探すのが億劫。翻訳で読んだことがあるのでそれでもなんとかなる。翻訳で読んだのに原文でも読んでしまふといふのはいつたいなんなんだらう。書くつてなに? 生きてゐる証つて?
読了日:05月16日 著者:ポール オースター
シティ・オブ・グラス City of Glass (ラダーシリーズ Level 5)シティ・オブ・グラス City of Glass (ラダーシリーズ Level 5)感想
主人公(だらう)の足跡を地図上でたどりたくなつてくる。文具好きとしては赤い手帳が気になるなあ。
読了日:05月20日 著者:ポール・オースター
警視庁草紙 上 山田風太郎ベストコレクション (角川文庫)警視庁草紙 上 山田風太郎ベストコレクション (角川文庫)感想
登場人物に著名人が多いところを楽しむか、隅のご隠居(元・町奉行)と川路大警視との目に見えぬ戦ひを読むか、はたまた明治初期のあれこれに思ひを馳せるか……全部か。以前NHKでドラマ化された番組を見てゐた。ドラマはドラマでおもしろかつたけれど、原作のもつ雰囲気はなかつたやうな気がしてゐる。
読了日:05月26日 著者:山田 風太郎

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