みのひとつだになきぞかなしき
「道灌」を聞くたびに「ああ、自分は歌道に昏い」と思ふ。
「道灌」は、太田道灌が歌道に精進する逸話を取り入れた噺だ。
問題は、この噺は前座がかけることが多く、このあとにいろいろな噺を聞いて己の不明のことなどすつかり忘れてしまふ、といふことか。
「歌の道に明るい」とはどういふ状態をさすのだらう。
歌や詩は、覚えてナンボだ。
をりにふれ、歌や詩が口をついて出る。
それもその場にふさはしいものが。
かうなつてはじめて「歌の道に明るい」といへるのではあるまいか。
もつといふと、本歌取りの歌が作れる、とかね。
「道灌」の道灌は、狩に出たをり雨に降られる。
一軒の荒ら屋を見つけて簑を借りやうとすると、荒ら屋にゐた女の人が手折つた山吹を差し出して「お恥づかしう」と云ふ。
これは兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」といふ歌をふまへたものだつたのだが、道灌にはわからなかつた。
歌の道云々よりも、謎かけに強いか否かといふ噺なんぢやないかといふ気もしてくる。
対象を勅撰和歌集にとられてゐるものにしぼるとして、いつたい世の中には何首くらゐの歌があるのか。
万の単位でなんとかなるのか。
それにしたつてものすごい数である。
気が遠くなる。
歌の道に精進するのはいい。
でもそれつて、ほんたうにやつがれのやりたいことなのだらうか。
ふと立ち止まつて考へてしまふ。
違ふな。
さういふことがしたいわけぢやあない。
でもこれからも「道灌」を聞くたびに「ああ、自分は歌道に昏い」と思ふのだらう。
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