なぜ書くのか 学校に通うてゐたころ
世の中には、「自分の気になつたことだけメモをすればよい」といふ話もある。
授業中板書を逐一ノートに取るよりも、そのとき教科書で見て気になつた点、教師のことばで引つかかつたことなどを書いた方がいい、といふのだ。
授業でそれをして定期考査でよい結果を残せるのかどうかよくわからないが、でもまあやつがれも板書を逐一ノートに取つたり取らなかつたりで学校の授業をやりすごしてきたので、それはそれでなんとかなるのだらう。
授業中はほかのことを書くのに夢中だつたから、といふこともある。
とくに中学生になつて以降、授業中は「書く時間」だつた。
いろいろつまらないことを専用のノートに書いてゐた。
いはゆる「内職」といふアレである。
当時から書いてゐたわけだ。
板書を逐一ノートに取る段ではない。
と云ひつつ、授業用のノートもそこそこ埋まつてゐたので、それなりに授業のことも書いてはゐたのだらう。
当時はなぜ書いてゐたのか。
時間がもつたいない気がしたからだ。
授業を受けてゐて時間がもつたいない、といふ感覚がいまとなつては自分でもよくわからない。
授業が終はれば部活動がある。
家に帰れば家族とのつきあひもある。
いま考へれば贅沢なことではあるけれど、当時は当時で時間が足りなかつたのだ。
授業中は、つねになにかしてゐなければならないわけではない。
教師だつてのべつまくなし喋つてゐるわけではない。
板書も逐一書き取る必要はない。
手持ち無沙汰な時間が発生する。
したら、書くよねえ。
といふのが当時のやつがれの考へだつた。
あれから幾星霜。
書く内容はだいぶ変はつたが、やはりなにか書いてゐる。
くだらないことしか書いてはゐない。
でもそれでいいんだな、といふことをヘンリー・デイヴィッド・ソローの「ウォルデン」を読んで思つた。
「ウォルデン」は「森の生活」と訳される場合もある。
「ウォルデン」では、ソローは好きなやうに暮らすためにまづは一年間に最低限必要な経費を計算し、その分稼いで、それから森の生活をはじめる。
その後書いてゐる内容つて、別段そんなにたいしたことでもないのだ。
さう思ふのはやつがれだけかと思つてゐたら、おなじやうに考へてゐる人もゐた。
さうだよね。
そんなご大層なことは書いてないよね。
ソローはどちらかといふと、後の市民的不服従とかへの影響が評価されてゐるやうな気もするし。
でも、つまらないことしか書いてゐなくてもいいのだ。
ソローの書いたことは後世に残つてしまつたけれど、やつがれの書いたことはやつがれがこの世を去つたあと消へてなくなるはずだ。
このblogにしても maintain する人がゐなくなるから削除されるだらう。
残らないことがむなしくない、といつたら嘘になる。
でも残らないと思ふからなんでも書けるといふこともある。
学校に通つてゐる時分は、手持ち無沙汰だからといふので書いてゐた。
でもそれがほんたうに自分がなぜ書くのか、その理由なのだらうか。
もうちよつと考へてみん。
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