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Wednesday, 31 May 2017

メモを取るタイミング

歌舞伎座ギャラリーで開催される歌舞伎夜話に行くことがある。
メモはその場で取るべきか。
それともこの場では役者の話に集中して、あとで覚えてゐることを書き出すべきか。

これまで後者を選択してきた。

芝居などもさうで、見てゐるときにメモを取りたいと思ふことがあつても、結局取らないことが多い。
観劇の最中にメモを取る人には音に対する配慮がなく、さういふ人と同類と思はれたくないから、といふのがひとつ。
もうひとつは、あとで思ひ出せることを書けばいいのではあるまいか、と思つてゐるからだ。
見るはしから忘れていくんだけどね、困つたことに。

やつがれは、言葉、ことに話し言葉に対する記憶力が弱い。
芝居のセリフなどを一言一句覚えてゐることができない。
なのでメモを取りたくなる。

また、歌舞伎夜話に関していふと、あとで書く場合、覚えてゐることをかたつぱしから書いていくので非常に時間がかかる。
時間がかかるといふことは、どんどん忘れていくといふことでもある。
ゆゑに、聞いてゐるときにメモを取れば、時間の短縮につながるのではないか、と思ふわけだ。

でもなー。
別にメモを取りに行くのが目的ぢやないからなあ。
観光旅行に行つてひたすら写真を撮る人をさして、カメラのレンズを通さずに自分の目で見た方がいいのに、と意見する人がゐる。
大きなお世話だよ、と思ひつつ、それもまた真理だよなあ、とも思ふ。

そのあたりのせめぎあひに自分の中で決着がついてゐないので、メモを取ることについても決心がつかない。

今度歌舞伎夜話に行くことがあつたら、その場でメモを取つてみやうか。
問題は、あとで読まうと思つても判読できないのではないか、といふことなのだが。

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Tuesday, 30 May 2017

細さへの挑戦 いまむかし

TwitterのTimeLineにビーズバッグに関するつぶやきがRTされてきた。
過去に作られたビーズバッグ用のビーズは現在製作されてをらず、貴重だ、といふ話だ。
同様にがま口といふか口金の部分もさうなのらしい。

三年前にスウェーデンに行つたとき、北方民族博物館でビーズ細工の展示をしてゐた。特別展だつたと記憶してゐる。
特小サイズとほぼおなじやうな大きさのビーズをふんだんに使つた装飾品がいくつもあつた。
装飾品を作つた人もすばらしいが、ビーズを作つた人もすごい。
こんなに小さなビーズをそれも大きさもそれなりにそろへた状態でどうやつて作つてゐたのだらう。
需要あるところに供給あり、といふことか。

北方民族博物館では、昔の織物や編物の展示もしてゐる。これは常設。
見ると、すくなくともレース糸の40番手くらゐの糸で作られたマクラメ作品があつたりする。あらためてマクラメはレースなんだなあと感心することしきりだ。
かういふ需要もあつたといふことなんだらう。

アイルランド風のかぎ針編みにも、かつてはものすごく細い糸で編んだものがあつたといふ話を聞く。
いまでは到底編めない、といふ話も。
かつてはさういふ需要があつて、大変な技巧を持つ職人がゐたわけだ。

現在ものすごく細い糸で編んだり結んだりするのは、申し訳ないが酔狂の域の話だと思つてゐる。
さういふ糸で作つたものがほしいといふわけではない。
細さへの挑戦、己が技巧の証明。
そんな感じがする。

それが悪いといふのではない。
むかしといまとでは動機が違ふ、といふだけのことだ。
細さに挑戦できるのなら、やつがれだつてしてみたいよ。
だが残念ながらそんな技巧はないし、今日も Lisbeth #40 を結びながら「Lisbeth は #20 が一番だよねー」などと思つたりするのである。

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Monday, 29 May 2017

あみものと気分転換

あみものをするとリラックスできるかといふと、さうでもない。

先週は平日のあひだはほとんど編めなかつた。
仕事で気にかかることがあつたからだ。
なんだかわさわさとした気分でその仕事をする日である金曜日まで過ごした。
編みかけを手に取る気にはならなかつた。

あみものが好きな人の中には、編んでゐると心が落ち着くから好きといふ人もゐると思ふ。
ふんはりとした毛糸が指と指とのあひだを通りぬけてゆき、軽快な針の動きとともになにがしかの編み地ができあがつていく。
いい気分だ。

もし自分も「編んでゐると気分が落ち着くから」といふので編んでゐるのだとしたら、先週などはがんがん編んでゐたはずだ。
それがまつたく進まなかつた。

気持ちを落ち着けやうとして編むこともないわけぢやあない。
医者で順番を待つあひだに編むのはそれだ。
先週はそんな気分にならなかつたんだな。

では全然進まなかつたのかといふとさうでもなくて、日曜日に録画したTV番組を見ながら結構編んだ。
かかとを編んで、まちの減らし目が終はつたところだ。
そろそろ次に編むものを決める時期でもある。
使ふ毛糸は決まつてゐるのだが、なにを編んだものかまだ悩んでゐる。
手触りのいい毛糸なので、首回りのものを編まうかと思つてゐるのだが、つひ最近「もうこれ以上マフラーは必要ない」と思つたばかりなんだよなあ。
かといつて、毛糸の量からいつて、ほかに編めさうなものもない。
ここはひとつ考へどころだ。

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Friday, 26 May 2017

生まれる時代を間違へたらうか

先日、平成生まれの若者たちに90年代や80年代の流行歌やアイドルが好きな人が多い、といふ記事を読んだ。
なかに「生まれる時代を間違へた」といふやうな文章があつた。

昭和なものが好きである。
昭和なものといつて、昭和は64年まであつたので、まんべんなく好き、とはいへないとは思ふ。
毎回録画して見てゐるのは昭和のころの時代劇だ。
歌は有名なものにかぎるけれども東海林太郎も歌ふし、米若の「佐渡情話」とか虎蔵の「三十石船」などを聞いたりする。あきれたボーイズとかね。
まんがやアニメも昭和な感じのものが好きだ。

それで、「ああ、自分は生まれる時代を間違へた」と思つたことがあるか。
実はない。
いまの年齢のまま昭和40年代に生きてゐたとしたら、大正や明治のものに心惹かれてゐただらうからだ。
明治に生きてゐれば江戸時代のこと、江戸時代に生きてゐたら……江戸時代は長いから、すでに過ぎ去つた時代のことを恋ひ慕ふだらう。文化・文政のころに生きてゐたら元禄の世に心を馳せる、とかさ。

なぜ過ぎ去つてしまつたことが好きなのか。
なぜ現在目の前で展開してゐることに興味を持てないのか。
すでに評価の定まつたものが好きだからかもしれないな。
または、時を経て残つてきたもの。
それはズルい、といふ話もある。
自分が評価する必要が少ないからだ。

もう手の届かないものに惹かれる面もある。
録画や録音で見聞きすることはできるけれど、でももうそのときのこの世の雰囲気といふものは存在しない。
どんなに求めても体験することはできない。
さうしたものにどうしやうもなく心惹かれる。

いづれにせよ、自分は生まれる時代を間違へたとは思つてゐない。
いまこのときを生きてゐるからかういふ趣味嗜好を持つてゐるのだ。
それだけは確かなことである。

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Thursday, 25 May 2017

すでに手遅れ?

マルチタスクは脳に悪影響を及ぼすといふ。

最近あまり聞かなくなつたことばに「ながら族」といふのがある。
ラジオを聞きながら仕事や勉強をする人々のことをさしていつたことばだ。
巷で見かけるスマートフォンを見ながら歩いてゐる人々も「ながら族」だらう。

「ながら族」は脳に悪影響を与へつづけてゐるのだらうか。
先日「三国志 桃園のつどい」といふイヴェントで横山光輝が「三国志」を執筆してゐたころの写真を見る機会があつた。
仕事机の隅にいつもラジオがあつて、聞きながら描いてゐたといふ。
仕事をしながら横山光輝は己が脳にダメージを与へつづけてゐたといふことか。

かくいふやつがれも「ながら族」で、TV番組が見ながらつひあみものやタティングをしてしまふし、映画館や劇場でも編んだり結んだりしながら見られないものかとつねづね思つてゐる。
Stephanie Pearle-McPhee a.k.a. Yarn Harlot は映画館には音がしないやう木製の編み針を持つていく、といつてゐた。
ほんたうはメタル制の針の方が好きだけど、ともいつてゐた。
Knitters Magazine だつたかでも、コンサートで演奏を聴いてゐる最中に編めたら、といふコラムがあつたやうに思ふ。
PTAの会合に編みかけを持つて行つて編む人の話も聞いたことがある。米国の人だつたと記憶する。

自分の欲望を正当化しやうとして、あれこれ例をあげてしまつたが、つまり、なにかを見てゐる「だけ」といふのは実に手持ち無沙汰なものなのだ。

世の中のスマートフォンを見ながら歩いてゐる人々も、「ただ歩くだけだと手持ち無沙汰だ」と思つてゐるのかもしれない。
昨日の朝ニュースで取り上げられてゐた都内のゴーカートの問題で見かけた運転中に自撮りする人々も、「ただ運転するだけだと手持ち無沙汰だ」と思つてゐるのかもしれない。

歩きながらや車などを運転しながらのスマートフォンの使用を、ここで倫理的に云々するつもりはない。
あの人々が脳にダメージを与へながら歩いてゐるとはちよつと思へない、といふ話だ。
さう思ふのは、自分がながら族だからなのかもしれない。
TVドラマを見ながらあみものをしてゐて、自分の脳にダメージを与へてゐる感覚は皆無だからだ。
この「自覚症状がない」といふのがアヤシい気もする。

歩きながらスマートフォンを使ふ人々がさうするのは、自分が被る不都合や周囲に及ぼす不都合に思ひ至らないといふ時点で、すでに脳がダメージを受けてゐるからなのだらうか。

今夜も萬屋錦之介版の「鬼平犯科帳」を見ながらくつ下のつづきを編むだらう。
すでにやつがれの脳もだいぶマルチタスクにやられてしまつてゐるやうだ。

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Wednesday, 24 May 2017

なぜ書くのか 学校に通うてゐたころ

世の中には、「自分の気になつたことだけメモをすればよい」といふ話もある。
授業中板書を逐一ノートに取るよりも、そのとき教科書で見て気になつた点、教師のことばで引つかかつたことなどを書いた方がいい、といふのだ。
授業でそれをして定期考査でよい結果を残せるのかどうかよくわからないが、でもまあやつがれも板書を逐一ノートに取つたり取らなかつたりで学校の授業をやりすごしてきたので、それはそれでなんとかなるのだらう。

授業中はほかのことを書くのに夢中だつたから、といふこともある。
とくに中学生になつて以降、授業中は「書く時間」だつた。
いろいろつまらないことを専用のノートに書いてゐた。
いはゆる「内職」といふアレである。
当時から書いてゐたわけだ。

板書を逐一ノートに取る段ではない。
と云ひつつ、授業用のノートもそこそこ埋まつてゐたので、それなりに授業のことも書いてはゐたのだらう。

当時はなぜ書いてゐたのか。
時間がもつたいない気がしたからだ。
授業を受けてゐて時間がもつたいない、といふ感覚がいまとなつては自分でもよくわからない。
授業が終はれば部活動がある。
家に帰れば家族とのつきあひもある。
いま考へれば贅沢なことではあるけれど、当時は当時で時間が足りなかつたのだ。

授業中は、つねになにかしてゐなければならないわけではない。
教師だつてのべつまくなし喋つてゐるわけではない。
板書も逐一書き取る必要はない。
手持ち無沙汰な時間が発生する。
したら、書くよねえ。
といふのが当時のやつがれの考へだつた。

あれから幾星霜。
書く内容はだいぶ変はつたが、やはりなにか書いてゐる。
くだらないことしか書いてはゐない。
でもそれでいいんだな、といふことをヘンリー・デイヴィッド・ソローの「ウォルデン」を読んで思つた。
「ウォルデン」は「森の生活」と訳される場合もある。
「ウォルデン」では、ソローは好きなやうに暮らすためにまづは一年間に最低限必要な経費を計算し、その分稼いで、それから森の生活をはじめる。
その後書いてゐる内容つて、別段そんなにたいしたことでもないのだ。
さう思ふのはやつがれだけかと思つてゐたら、おなじやうに考へてゐる人もゐた。
さうだよね。
そんなご大層なことは書いてないよね。
ソローはどちらかといふと、後の市民的不服従とかへの影響が評価されてゐるやうな気もするし。

でも、つまらないことしか書いてゐなくてもいいのだ。
ソローの書いたことは後世に残つてしまつたけれど、やつがれの書いたことはやつがれがこの世を去つたあと消へてなくなるはずだ。
このblogにしても maintain する人がゐなくなるから削除されるだらう。

残らないことがむなしくない、といつたら嘘になる。
でも残らないと思ふからなんでも書けるといふこともある。

学校に通つてゐる時分は、手持ち無沙汰だからといふので書いてゐた。
でもそれがほんたうに自分がなぜ書くのか、その理由なのだらうか。
もうちよつと考へてみん。

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Tuesday, 23 May 2017

Mindless Tatting

タティングレースのモチーフつなぎは現在23枚めをつないでゐるところだ。

タティングレースについてはまづはこのモチーフつなぎをなんとかしやうと思つてゐる。
Lisbeth #40 1玉で Mary Konior の Masquerade といふモチーフを何枚作れるか、といふ experiment なので、正確に云ふと糸を使ひ切るところまでやつてみるつもりだ。

ところで、この土日にあみものをしてゐて、手が機械的に動く感覚がとてもこころよかつた。
ひたすらメリヤス編みをするあひだなにも考へなくても動く手の感覚に「久しぶりだなあ」と思ふと同時に、自分の意思と関係なく動いてゐるやうな感じに脳内麻薬の出る思ひがした。
世に Mindless Knitting といふそれだ。

あみものにしてもタティングレースにしても、基本的にはつねに作つてゐるものに注意をしてゐる状態だと思ふ。
手加減はどうだとか糸の張り具合は適切かとか、目が乱れてないかとか次の模様はどこに入れるのか、だとか。
でもそれを超えてとにかく手が動く、といふことがある。
土日のメリヤス編みがまさにそれだつた。
無になつてひたすら編んでゐる感じ。
悪くない。

タティングレースはどうだらうか。
メリヤス編みのみの mindless な境地に達することができるのか。
うーん、やつがれにはできてゐないやうに思ふ。
タティングは何目に一度ピコを作るとか何目に一度別のピコとつなぐとか、結構しよつ中やることがある。
なかなか mindless といふわけにはいかない。

いかないけれど、ここのところのやうにひたすらひとつのモチーフを作りつづけてゐるとときになにも考へてゐないことに気づくことがある。
さういふときはつなぐところなどを間違へてゐることが多いので注意が必要だ。

シャトルを動かす手については、でも結構 mindless かな。
一目一目に糸の引き具合とか気にしないし。
#だからダメなのか。
タティングシャトルを操る手の動きといふのは実に楽しいものだ。

Mindless Knitting といふことばには、ちよつと揶揄するやうな響きがある。
編み図と首つぴきで編むやうな大作を編んでゐるわけぢやないんですよ、といふやうなね。
でもこのなんにも考へない感じ、一種 zone に入つてしまつたやうな感じがいいと思ふんだよねえ。
タティングもスティッチとピコとのパターンを覚えてしまつてなにも見ずに作れるやうになつたあたりからが楽しい。

まあ、やうするに、今後もつづける、といふことだな。

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Monday, 22 May 2017

数をこなす

ダルマのくつ下毛糸で編んでゐるくつ下は、二本めに入つたところだ。
日曜の朝、つま先を編んでまだメリヤスはぎのできることを確認し、そのままもう片方に着手した。

今回メリヤスはぎをしたのは、「もしかしたら忘れてるかも」と思つたからだ。
二目ゴム編みどめとメリヤスはぎとは忘れたらあみもの人生終了、といふ気がしてゐる。
この二つをなにも考へずにできるうちは大丈夫。
そんな気がするのだ。

縫ひ針を使ふことが全般的に苦手なので、ゴム編みどめもメリヤスはぎも長いこと苦手であつた。
なんとかできるやうになつたのは、ひたすらくつ下ばかり編んでゐたからだ。
つま先から編めばゴム編みどめ、履き口から編めばメリヤスはぎが大抵出て来る。
それで数をこなしてゐるうちに、手が覚えたわけだ。
うまくできるやうになつたわけではない。
でも、本には「ゆるくとじる」と書いてあるけれどそのとほりにするとゆるくなりすぎるといふことは学んだ。
メリヤスはぎもゴム編みどめもすこしきついくらゐの加減がよいやうだ。
メリヤスはぎについては、くつ下といふ細い糸を指定よりも細い針で編むのでもともと編み目がきついのでさうなるのだらうと思ふ。
ゴム編みどめはゴム編み用のとめ方だからあまりゆるくしすぎなくてもいいのかもしれない。
そもそもやつがれの手がゆるすぎる、といふこともある。

セーターだと完成するまでに時間がかかるし何枚も編むといふこともむつかしいのでなかなかその境地に達することができないのではないかと思ふ。
くつ下なら比較的早くできあがるから、仕上げの作業も回数をこなすことができる。

と書いたところで、以前、くつ下もセーターも編み目の数はそんなに変はらないといふ話を聞いたことを思ひ出す。
極太毛糸で編んだセーターと中細毛糸で編んだくつ下となら、もしかするとさうなのかもしれない。
実証はしてゐないからなんともいへないが、案外くつ下はたくさん編む必要があるのだらう。

いづれにしても、くつ下ばかり編んでゐた時期があつてよかつた、といまは思つてゐる。
くつ下毛糸はまだ何玉かあるのでこの先もくつ下ばかり編むこともあらう。
といふことはこの先もゴム編みどめやメリヤスはぎをいくつもこなすといふことだ。

しばらくあみもの人生は終はりさうにない。

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Friday, 19 May 2017

手に馴染む手帳

手帳はあひかはらずバイブルサイズのシステム手帳と Moleskine のポケットサイズとを合はせて使つてゐる。
ほかにトラベラーズノートと美篶堂のハードカヴァーノートを置き手帳として使つてゐる。

システム手帳は HIRATAINDER のシャンパンゴールドのバインダを使用してゐる。
去年の一月に使ひはじめて、手に取つたときにしつとりと馴染んでいい感じだ。
使ひはじめた当初はさらりとした印象だつたのだが、いまはなるほど山羊皮とはかういふものか、と思つてゐる。
かうなると手放せなくなるのが人情である。

Moleskine にはナガサワ文具センターのキップレザーのカヴァをかけてゐる。
このカヴァが使ひたくて Moleskine にしてゐるといふ面もある。
こちらはいつでも持ち歩いてゐる。
「今日は外で手帳を使ふことはないよなー」と思つても持つていく。
ほんたうは内容的にはシステム手帳を常に持参する方がいいのだが、とりあへずどんな場面でも書き込みやすいといふことで Moleskine を持つて出る。

さう、システム手帳といふのは、なにかのときにぱつと開いて書き込むことに向いてゐない。
立つた状態でシステム手帳を開いて書き込むのはちよつとむづかしい。
やつがれの手が小さいからといふこともあるが、あまり安定もよくない。
Moleskine だとその点は心配無用だ。

出かけるといつて、芝居や映画がほとんどなので、書くときには劇場の座席に座つた状態で書くことになる。
このときも、システム手帳だとちよつと不安定だ。
かたいかばんを持つて行つて下敷きにできればいいのだが、毎回さういふわけにもいかない。

そんなわけで、新たなノートを買ふ機会もない。
愛用してゐる HIRATAINDER だが、貼り合はせた皮同士がちよつとはがれかけてゐる。
角の部分だけなので実害はないが、気になる。
ボンドとかでもう一度貼りなほした方がいいのか知らん。
ちやんと縫ひ合はせてあるから大丈夫かな。

手に馴染んだ道具は代へがきかない。
大事に使ひたいと思つてゐる。

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Thursday, 18 May 2017

みのひとつだになきぞかなしき

「道灌」を聞くたびに「ああ、自分は歌道に昏い」と思ふ。
「道灌」は、太田道灌が歌道に精進する逸話を取り入れた噺だ。
問題は、この噺は前座がかけることが多く、このあとにいろいろな噺を聞いて己の不明のことなどすつかり忘れてしまふ、といふことか。

「歌の道に明るい」とはどういふ状態をさすのだらう。
歌や詩は、覚えてナンボだ。
をりにふれ、歌や詩が口をついて出る。
それもその場にふさはしいものが。
かうなつてはじめて「歌の道に明るい」といへるのではあるまいか。
もつといふと、本歌取りの歌が作れる、とかね。

「道灌」の道灌は、狩に出たをり雨に降られる。
一軒の荒ら屋を見つけて簑を借りやうとすると、荒ら屋にゐた女の人が手折つた山吹を差し出して「お恥づかしう」と云ふ。
これは兼明親王の「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」といふ歌をふまへたものだつたのだが、道灌にはわからなかつた。

歌の道云々よりも、謎かけに強いか否かといふ噺なんぢやないかといふ気もしてくる。

対象を勅撰和歌集にとられてゐるものにしぼるとして、いつたい世の中には何首くらゐの歌があるのか。
万の単位でなんとかなるのか。
それにしたつてものすごい数である。
気が遠くなる。

歌の道に精進するのはいい。
でもそれつて、ほんたうにやつがれのやりたいことなのだらうか。
ふと立ち止まつて考へてしまふ。
違ふな。
さういふことがしたいわけぢやあない。

でもこれからも「道灌」を聞くたびに「ああ、自分は歌道に昏い」と思ふのだらう。

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Wednesday, 17 May 2017

色なしと人やみるらん

先日「好きなアイドルとかゐたことないの?」と訊かれた。
考へてみて、ゐないやうな気がした。
多分ゐない。
一番アイドルに近いのは萬屋錦之介だらうか。

思ふに、フィクションの世界の主人公に興味のない人間は、あんまりアイドルを好きになつたりしないのではあるまいか。

ここのところずつと時代劇ばかり見てゐるのでそこから考へると、好きになるのは昔から山形勲とか山村聰のやうなインテリをぢさま悪か、ヘンテコリンな人だ。
実を云ふと錦之介ももとはヘンテコリン枠だつた。
はじめて錦之介を知つたのがTVの「子連れ狼」だつたからである。
その後、人形劇の「紅孔雀」だか「笛吹童子」だかを放映してゐるときに、古い東映の「紅孔雀」とか「笛吹童子」を見る機会があつた。

いやー、驚いたね。
あの拝一刀が、小四郎? 菊丸?
ないわー。
絶対ないわー。

といふわけで、最初はいはゆる「ギャップ萌え」のやうな感じだつた。
#多分、世にいふ「ギャップ萌え」とは違ふのだらうけれども。

役者や俳優にしても、主人公をもつぱらに演じる人にはあまり興味を惹かれない。
それを考へると、萬屋錦之介といふのは自分にとつてかなり稀有な存在だ。
「武蔵坊弁慶」の藤原秀衡とか「花の乱」の山名宗全とかが好きだつたりはするのだが、基本的に主役の人だと思つてゐる。
柳生但馬守のやうなヘンテコリンなのがいいのかもしれない、とも思ふ。
実を云ふと一心太助はそれほど好きではないし。あれはやつがれにとつては山形勲の松平伊豆守を楽しむ映画だし。

今後もアイドルを好きになることはないんぢやないかな、とも思つてゐる。
最近アイドルと呼べるやうな存在がゐないからだ。
ゐてもグループ単位なので「アイドル」といふ印象が薄い。
グループならグループ内の役割として好きな人はゐるかなあ、といふ気もしないでもない。
インテリをぢさま悪のやうな役割の人とかヘンテコリンな人とかがゐたら好きになるんぢやないかな。

そんな人がゐたら、それはもうアイドルではないか。

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Tuesday, 16 May 2017

断捨離のビーズタティング

去年のいまごろ、ビーズタティングをしてゐたやうだ。

タティングレースをしてゐると、ときに狂ほしくビーズを使つてタティングしたくなるときがある。
あみものもビーズを入れるのはちよつと楽しい。
かぎ針編みだとがま口なんか作つたなあ。
方眼編みの巾着の長編み部分にビーズを入れたこともあつた。
棒針編みでもリストウォーマとかネックウォーマとか作つたことがある。ネックウォーマの方はローワンのキッドシルクヘイズにスワロフスキーのビーズを通すといふなんだか贅沢なものだ。

あみものやタティングレースにビーズを取り入れるのはとてもいい。
毛糸だとビーズを通して移動させてゐるときに糸がすりきれさうな心配があるが、綿などのレース糸ならその心配もあまりない。
そんなわけで我が家には一生かかつても使ひきれないだらう量のビーズがある。

毛糸同様、ビーズも「かういふものを作らう」と思つて買へばいいのだが、「きれいだから」とか「なかなか見ないビーズだから」といふので買つてしまつて収拾がつかなくなつてゐる。
買ふときには考へる。
このビーズでこんなものを作つたらどうか、とか。
でもさういふときのイメージは曖昧なものが多く、結局買つてそのままになつてしまふ。

萩尾望都も書いてゐたよね、「新作のビーズはとにかくほしくなる」とか。

糸もビーズもふんだんにあるのだから、あみものやタティングレースにどんどんビーズを取り入れたらいいのだが。
さうならなのは、なにを作つたものやら思ひうかばないからだ。
デザインする能力に乏しいんだよね。
勢ひすでにある作品を参考にすることになる。
このときに「これが作りたい!」といふ作品になかなか出会へない。
それまでは「これが作つてみたいなー」と漠然と考へてゐるのだが、いざ作る段になると「それほど作りたいわけでもないなー」に変はることもしばしばだ。
また、ビーズタティングの作品には大仰なものが多く、「作りたいのはこれぢやない」と思つたりもする。

ビーズタティングは気力の充実してゐるときでないと始められない。
糸にビーズを通すのに根気がゐるからだ。
デザインにしたがつて順番にビーズを入れる場合はなほさらだ。
「んー、今日は気力が満ちてゐない」といつて、ビーズタティングをあきらめることもある。

糸にビーズさへとほしてしまへば、あとはシャトルに糸を巻いてタティングをはじめるだけなのだが。
なかなかそこにたどりつかない。
かくして糸もビーズも減らないといふ次第だ。

ものを片づけるためにもビーズタティングをはじめるかなあ。

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Monday, 15 May 2017

編みかけのくつ下 仕上げたくつ下

現在、Par-5-Socks といふくつ下を編んでゐる。

先の秋冬に発売されたダルマ毛糸のくつ下用毛糸で編むにあたり、単色の毛糸にはえるやうな模様のくつ下を編みたいと思つた。
それで縄編み模様のくつ下にしてみた。

編みはじめた当初は、ダルマ毛糸のくつ下用毛糸は縄編みには向かないな、と思つてゐた。
おそらくスーパーウォッシュ加工のせゐだらう、糸がつるつるしてゐて撚りがすぐにほどけてきてしまふ。
別の模様にしやうかとも思つたが、結局そのまま編み続けてゐる。
いまは縄編みにもだいぶ慣れてきた。
そんなわけで、それなりに楽しく編めてゐる。

ところで、ヨガソックスをしあげた。

Yoga Socks

Regia の 50g が一玉だけあつたので編んでみた。
模様はよく Baby Cable といはれるものだと思ふ。二目を交差させて作る模様だ。
甲は二目ゴム編みだけにした。
Webで Baby Cable のくつ下を見かけて、自分もやつてみたいと思つて編んだものだ。
とくに編み図はない。
脚部分を適当な長さに編んで、かかと部分を伏せ目にして、次の段で伏せた分を作り目して編み進む。甲部分が適当な長さになつたらおしまひ。
一応長さを比べながら編んだつもりだが(すなはち段数など数へずに編んだところが)、甲部分は長さがそろはなかつた。
まあ、履けば気にならないだらう。

このすべて適当なくつ下から、脚と足との編み方はあるくつ下へとちよつとステップアップした。
このあとはかかととつま先とも編み方の決まつてゐるものを編みたい。
でもアフガン編みもしたい。
どちらになるかはそのときの気分次第だな。

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Friday, 12 May 2017

歌舞伎のトワイライト・ゾーン おまけ

一昨日は、「歌舞伎には「綯ひ交ぜ」といふものがある」といふ話、昨日は「でもいまはあんまし機能してゐるとは思へないんだよね。歌舞伎の外にはあるけれど」といふ話を書いた。

日曜日の朝、TV朝日系列の番組を見てゐるとわかる。
特撮戦隊ヒーローもの、仮面ライダー、プリキュア、いづれも綯ひ交ぜの作品だ。

戦隊ヒーローの世界に動物といふ趣向を取り入れるとジュウオウジャー、鉄道といふ趣向を取り入れるとトッキュウジャー、忍者といふ趣向を取り入れるとニンニンジャー。
そんな感じで毎年新しい戦隊ヒーローが生み出されてゐる。
趣向は何年かすると一回りしておなじものが使用されることもある。番組を見るのはこどもだといふ想定だからだらう。
こどもはいづれおとなになり、戦隊ヒーローものを見なくなる。
それに、世界と趣向とはおなじでもまつたくおなじエピソードをくり返すわけではない。

仮面ライダーはいまは仮面ライダーの世界に医療とヴィデオゲームといふ趣向が取り入れられてゐて、プリキュアにはお菓子といふ趣向が取り入れられてゐる。
#「東映」といふキーワードが透けて見えますか。

戦隊ヒーローものや仮面ライダー、プリキュアが綯ひ交ぜの物語になつてゐる理由は、毎年新しいことをしなければならないからといふのが大きいのではないかと睨んでゐる。
でもおそらく現場では「さういふものだから」でやつてゐるのぢやあるまいか。

戦隊ヒーローものは、基本的には地球の平和を脅かす悪の組織が存在して、それに対抗するために複数人で構成されたヒーローグループが組織され、最終的にはヒーローたちが悪の組織を倒す、といふ筋になつてゐる。
毎年新しい番組を作成するにあたり、この枠組みはくづさずにヒーローの人数やそれぞれの性格、悪の組織の目的などをすこしづつ変へる。
そしてそこに趣向を取り入れる。
「そしてそこに」ぢやないか。
趣向が決まることで悪の組織の目的やそれぞれの登場人物の性格づけが決まつてくるのかもしれない。
こんな風にして、戦隊ヒーローものも仮面ライダーもプリキュアも成立してゐるのではないかと思はれる。

世界と趣向といふしばりがあつて、新たなものが生み出される。
昨今「型があるから個性も生まれる」といふやうな話をよく目にする。
「個性的なものを作りなさい」といはれて、なにも手本にせずに作らうとすると、誰が作つても大差ないものしかできてこない。
型のやうなしばりがあつてはじめて個性も生じる、といふやうな話だ。
ほんたうなのかどうなのか、自分で検証したわけではないけれど、日曜朝にTV朝日系列の番組を見てゐると「かういふことか」とも思ふ。

この番組に共通する点は、戦隊ヒーローものなり仮面ライダーなりプリキュアなりといふよく知られた世界があつて、そこに動物なり偉人なりお姫さまなりといつたこれまたよく知られた趣向が取り入れられてゐることだ。

歌舞伎の綯ひ交ぜもかつてはさうしたものだつた。
源平の争ひなり太平記なりといつたよく知られた世界があつて、そこに曾我兄弟なり赤穂浪士なりといつたこれまたよく知られた趣向が取り入れられる。

いまでも、歌舞伎にはよく知られた趣向が取り入れられることがある。

正月の国立劇場で上演される菊五郎劇団の芝居には、そのときどきに流行してゐることを趣向として取り入れることで知られてゐる。
今年はピコ太郎だつた。

スーパー歌舞伎II「ワンピース」には「伽羅先代萩」の政岡や「碇知盛」のパロディのやうな場面がある。

しかし、それは「綯ひ交ぜ」ではない。
「綯ふ」といふのはもともとは縄を綯ふといふ風に長いもの同士を合はせてひとつにすることを表現することばだ。

ピコ太郎の持ちネタにしても政岡や知盛のパロディにしても、趣向ではあるけれども点のやうなものだ。
芝居全体を綯ふ要素にはならない。

それがいけない、といふわけではない。
いまの歌舞伎には、芝居全体の要素たりうるやうな趣向を取り入れることがほばないといふだけにすぎない。
それで歌舞伎自体がダメになるとか滅ぶとかいふことはない。
ただただ「さういふものなのだな」といふだけのことだ。

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Thursday, 11 May 2017

歌舞伎のトワイライト・ゾーン 裏

昨日は、「歌舞伎には「綯ひ交ぜ」といふものがあつて、なんだか「Twilight Zone」に似てゐる気がして好きだ」といふ話を書いた。

この歌舞伎の「綯ひ交ぜ」つて、現在も通用してゐるのだらうか。

七月に大阪松竹座でかかる「盟三五大切」は、忠臣蔵の世界と五大力の世界とを綯ひ交ぜにした狂言だ。
忠臣蔵の世界に五大力といふ趣向を取り入れた芝居、といふ方がいいのかな。
五大力といふのは「五大力恋緘」といふ芝居のことだ。
最後に上演されたのがおよそ30年前のことである。
1989年9月に歌舞伎座でかかつて以降、上演記録がない。
源五兵衛を演じたのは團十郎、三五兵衛は富十郎、小万は先代の雀右衛門だつた。
もう誰もこの世にはゐない。

「五大力恋緘」を見たことのある人つて、そんなにたくさんはゐないんぢやあるまいか。
上演記録から見てそんなにしよつ中かかつてゐた芝居でもなささうだ。
そんな芝居をなぜ鶴屋南北は取り入れたのか。
おそらく当時は人気があつたのだらう。
あるいは初演されたばかりで人の記憶に新しかつたのかもしれない。

「盟三五大切」の「五大力の趣向」といふ部分に意味があるのか。
現在「五大力恋緘」はほとんど上演されてゐないといふのに。

綯ひ交ぜの芝居は、客が知つてゐることを前提にしてゐる。
もちろん、取り入れた世界なり趣向なりを知らない客が見ても楽しくなるやうにもなつてゐる。
でも基本的には客に知識・常識があることが前提だ。

江戸の昔はそれでよかつたのだらう。
いまはそれは通用しない。
すくなくとも歌舞伎の世界では。

歌舞伎の外では通用してゐる気がする。
映画やTVドラマ、アニメーションなどでは、登場人物の背景にうつりこむ品々やセリフにはさみこまれる情報などを見聞きして「あれは何々といふ映画に出てきたもの」だとか「あのセリフはこれこれを引用したもの」だとか楽しむ向きがある。
ヤシマ作戦はプリズ魔でせう、とかね。

さう考へると、超歌舞伎の場合綯ひ交ぜの芝居を作りやすいのかもしれないとも思ふ。
また、先代の猿之助はスーパー歌舞伎で綯ひ交ぜの世界のやうなものを構築しやうとしてゐたのかもしれない。
スーパー歌舞伎の「三国志」とか、全然三国志ぢやないものね。演義でもなければましてや「正史? なにそれ、おいしいの?」状態だ。
でも「三国志の世界」に別の趣向を取り入れやうとしてああなつた、とも考へられる。

でもなー、本家本元の歌舞伎は、なー。

勘三郎が語つてゐたことがある。
こどもが生まれて男の子で「歌舞伎役者の家に生まれたからには曾我兄弟の物語を読ませたい」といふので本屋に行つたら、こども向けはもちろんのことおとな向けでさへ十郎五郎の物語の書籍など一冊もなかつた、と。
この傾向は現在も変はつてゐないと思つてゐる。

おほもととなる世界の話が知られてゐないのに、なんの綯ひ交ぜか。
綯ひ交ぜなどといふものは、もう書籍の中や人の知識の中にしか存在しない。
存在はするけれどもその意義がない。

客は知らないといふ前提だと、綯ひ交ぜは成立しない。
成立させやうとしたら、「これなら知つてゐるだらう」といふものを持ち込むしかない。

歌舞伎における「綯ひ交ぜ」は、かつてさういふものがあつた、といふところに落ち着いてゐるのだらう。
または「この芝居はもともと「義経記の世界」と「夏祭浪花鑑の世界」とを綯ひ交ぜにしたものでした」といふ知識としてだけ残つていくのかもしれない。

生まれてはじめて「盟三五大切」を見たときのあの「うわー、これ、「五大力恋緘」の登場人物ぢやん。全然性格違ふぢやん。話も違ふし。わ、しかも、あの人、「忠臣蔵」のあの人なの? なにこれ?」といふ、おそらく初演を見た人も感じたであらうわくわくした気分は、この先味はふこともないのだらうな。

あるとしたら超歌舞伎、か。

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Wednesday, 10 May 2017

歌舞伎のトワイライト・ゾーン

「綯ひ交ぜ」といふことばがある。
歌舞伎で二つ以上の世界を混ぜあはせて一つの作品を作ること、と辞書にはある。
七月に大阪松竹座でかかる「盟三五大切」は「五大力」の世界と「忠臣蔵」の世界とをあはせた綯ひ交ぜの狂言だ。さらに「東海道四谷怪談」を匂はせるやうなところもある。
かういふ芝居に弱い。

「五大力」であつて「五大力」ではなく、「忠臣蔵」であつて「忠臣蔵」でない。
どちらでもあつてどちらでもない。
ふたつの世界のあはひにあるやうで、そのどちらにもない。
登場人物の名前は「五大力恋緘」の登場人物や「仮名手本忠臣蔵」の登場人物とおなじだけれど、人物造形は異なる。
好きだなぁ、この感じ。

こんなにあからさまでなくても、「髪結新三」のやうにちらつと大岡政談がかいま見えたり、今月歌舞伎座でかかつてゐる「魚屋宗五郎」のやうに番町皿屋敷の影があつたりするのもいい。

このどちらの世界でもあつてどちらの世界でもないといふのが、実に「トワイライト・ゾーン」だといふ気がする。

「トワイライト・ゾーン」といふと、オープニング・テーマが有名だ。
「にににに にににに」と口ずさむと「ああ、あの曲か」と思ふ向きも多いかと思ふ。
この主題曲にかぶせて、ロッド・サーリングのナレーションが入る。

There is a fifth dimension beyond that which is known to a man.
にはじまる、これも有名な文句だ。

この第五の次元は宇宙のやうに広大で無限のごとく果てしがない。
光と闇とのあはひ、科学と迷信とのあはひに存在するものだ。
人の恐怖の淵と知識の頂との間にある空想の次元。
人呼んで「トワイライト・ゾーン」。

この漢詩を思はせるやうな対句の連続がまづたまらない。

あるやうなないやうな、ぼんやりとした感じ。
twilight は辞書によつては日の出・日の入りどちらの時間帯もさすとある。彼は誰時とおなじやうなものだらう。
ことばの意味さへ不分明だ。
綯ひ交ぜの世界とは、この第五の次元、トワイライト・ゾーンのやうなものなのではあるまいか。

もともと芝居で世界を綯ひ交ぜにしたのはほかに理由があるものと思つてゐる。
ご見物に慕はしい内容をと思つた、とか。
しよつ中新作を作らねばならないのですでにあるものから借りてくることにした、とか。
このネタだつたらオレの方がもつとおもしろい芝居を作れるぜと思つた、とか。

それがまた違ふ効果を生んだのだらう。
「南北、好きー」と思ふのも、いろんな世界をもつてきててんこもりなところがいいんだらうな、やつがれにとつては。

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Tuesday, 09 May 2017

明日はどつちだ タティングレース篇

昨日のエントリで、「あみものに時間がかけられなくなつてどんどん劣化してゐる。明日はどつちだ」と書いた。

タティングレースについてもおなじことが云へるか、といふとさうでもない。
タティングレースにかける時間も明らかに減つてはゐるが、それほど劣化したといふ感じはしない。
タティングをまともにできたためしがないからだらう。

なにをもつて「まとも」といふか。
きちんとした完成品を作れてはじめて「まとも」といふ。
これまで完成までこぎつけて「まとも」と思へるタティングレースなんて数へるほどしかない。
栞などもかなりしつこく作つてゐるけれど、毎回「あー、ここがダメ」「ここで気が抜けてる」といふ点が必ずある。

あみものにはないのか、と訊かれると「ない」とは云ひきれない。
でもあみものの方が完成にたどりつけて、しかも編みはじめる前の想定とそんなに違はなないものを作れてゐる。

やつがれの作るタティングレースのなにがダメなのだらう。

先にも書いたとほり、途中で気が抜けるところがある点だ。
inconsistent だから、ともいへる。
リングのサイズがまちまちだとか。
ピコの長さがそろつてゐないだとか。
ダブルスティッチの大きさや手の加減がそろつてゐないだとか。
つねに気を遣つて作れてゐるものがほとんどない。

いま、Mary Konior のデザインした Masquerade (Tatting with Visual Patterns 掲載)は、できるだけ最初に作つたモチーフに近づけやうとしてほかのモチーフを作つてゐる。
それでもうまくリングの芯糸を引けなくて力まかせに引いた結果小さくなりすぎることもあるし、ダブルスティッチを作るときの手の加減のせゐでチェインの長さがそろはなくなることもある。

モチーフつなぎだけではない。
おなじく Mary Konior の Tatting with Visual Patterns に掲載されてゐる Black Magic といふ栞ひとつとつても、一度としてまともに作れたことがない。
きちんと作ることができると花びらの中のリングがきれいに円を描くやうにならぶはずだ。
これができない。
いつも「確かに作り方どほりに作りはしたけれど」といふ出来になつてしまふ。

タティングレースに関しては、以前と比べて劣化したといふ意識があまりない。
それであみものほどには明日を見失つてゐないのだらう。

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Monday, 08 May 2017

五里霧中

かぎ針編みの水玉模様のストールといふ名のスカーフを編み終へた。
整形もしてみた。
どうもうまく形が整はない。
ユザワヤの店頭で見たときはすてきだつたのになあ。
整形の仕方がまづいといふのもあるが、編んでゐる最中からかなり波打つてゐたので編み方にも問題がある。

連休中は、冬物のかたづけもした。
主に自分で編んだものを洗濯した。
何年か前に編んだものはさすがにフェルト化しかけてゐるものもある。
何年か前といへば、睡眠時間を削つて編んでゐたころだ。
このころ編んでゐたものの方が最近編んだものよりも出来がいい。
デザインも凝つてゐたりする。
ちやんと編み図を見ながら編んだものか、自分で編み方を割り出しで編んだものだ。
最近は、編む時間も短ければ、編んでゐるものもいきあたりばつたりなものばかりだ。
かぎ針編みのスカーフは編み図を見ながら編んだけれどそれくらゐだな。
袖なし羽織は自分で考へながら編んでゐるけれど、とくに編み方を割り出したりはしてゐない。ガーター編みでひたすら編んでこれでいいと思つたあたりでやめるといふ行き当たりばつたりの編み方だ。
かぎ針編みのスカーフを編むのに中断してゐたヨガソックスも編み方があるわけではなく、「かう編めば編めるだらう」といふ見切り発車なものだ。

時間をかければなにごとも上達するといふ。
マルコム・グラッドウェルの「10000時間の法則」といふものがある。
偉大な業績をおさめた人の共通点として、一万時間なにごとかに打ち込んだ経験がある、といふ。その「なにごとか」で成功してゐる、といふのだ。
この説には反論も多々ある。
それに、一万時間をかけてなにかをしたからといつて必ず成功するといふわけではない。
この説は「成功した人の共通点」であつて「一万時間かけてなにかをした人の共通点」ではないからだ。

でもやつぱりかけた時間は裏切らない。
成功の是非に関はらず、時間をかければあるていどのことはできるやうになる。

やつがれは不器用である。
慣れない手芸などをするとよくわかる。
今回、冬物をかたづけてゐてもよくわかつた。
時間をかけてしよつ中編んでゐたときのものの方があきらかに出来がいい。
睡眠時間を優先するやうになつて編まない日もあるやうなちかごろ編んだものはやはりどこか出来が悪い。

これからどうすればいいのだらう。
家にはおそらくは一生かかつても編みきれない量の毛糸があつて、この先も編んでいくつもりではある。
しかるにこの出来だ。
この先もできるだけ睡眠時間は犠牲にしないやうに編んでいかうと思つてゐる。
それぢやダメなのかな。
なにごとかを為すには、ほかのことをやめてそれだけに邁進する必要があるのぢやあるまいか。

といつて、別にあみものでなにごとかを為さうとは思つてゐない。
でも劣化を目の当たりにして、なんだかがつくりきてゐるのも事実なのだつた。

ちよつと未来を見失つてゐる。

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Friday, 05 May 2017

睡眠大事

この連休、思つたより睡眠負債を返せてゐない。
連休中は毎日最低六時間は床についてゐるが、それでは普段の負債が返せない。
なぜ十分に睡眠がとれないかといふと、就寝時間が遅いからだ。
もつと早く寝ればいいのに、遅くなつてしまふ。
結果、朝もできるだけ寝てゐることになる。
そしてまた寝るのが遅くなる。

寝るのが遅くなるのは、「今日一日やりたいことをしてゐない」と思つてしまふからだ。
連休中にしやうと思つたことはだいたいこなしてゐて、でもそれは自分のしたいことではない。
では自分のしたいこととはなんだらう。
それがわからないので、遅くなる。
そして朝起きられない。
悪循環だ。

世に「自分探し」といふ。
この「自分探し」といふことをずつと厭ふてゐる。
なんだよ「自分探し」つて。
探さなくても自分はここにある。
いまあるのが自分だ。
その自分と違ふ自分が、いまゐる状況と異なる商況に身をおけば見つかるといふのだらうか。

違ふな。
異なる状況に現れる自分もまた自分だ。
その場の状況に対応した自分が現れただけのことだ。
探してゐたからでてきたわけではない。

世の「自分探し」といふのは、実は「自分がしたいこと探し」なのではないかと思つてゐる。
自分がほんたうにしたいことはなんなのか。
日々生きてゐる中で見つけられない人間が、あちこち歩いて探し回る。
それで見つかるのかなあ。
普通に暮らしてゐて、それで見つかるものなんぢやあるまいか。
だつてかうして生活してゐても、周囲にはいろんなことがあるぢやあないか。

などと書きながら、しかし、自分がしたいことはいつたいなんなのか、いまだにわからずにゐる。
わからないから夜になつてもいつまでも眠れないのだ。
したいことがあつてそれをしてゐたら明日もするだらうし、それにそなへて今日はもう寝やうといふ気にもなるだらう。

この年になつて「自分のしたいことがない」とか阿呆なことを云つてゐるなあと我ながら思ふ。
でもある日突然気がつくかもしれないとも思つてゐる。
「これが自分のしたかつたことなのか」と。
そのときのためにも、きちんと睡眠はとつておきたい。

結局、十分に睡眠をとるのが一番なのだ。

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Thursday, 04 May 2017

出かけない連休

ここ数年、年末年始の休みや五月と九月との連休の前には「この休みにはこれをする」といふことを決めるやうにしてゐる。
それまでもおほまかには決めてゐたのだが、最近は手帳に書くやうになつた。
これまではToDoリストのやうなものを作るだけだつたが、今回は日ごとに「今日はこれをする日」といふのを書いてみた。
それでだいたいうまく行つてゐる。

今日は映画を見に行く日だ。
朝目が覚めて行きたくない。
絶対見に行かねばならない映画でもない。
見に行きたいのはシネマヴェーラ渋谷で上映する「ニノチカ」だ。
今日を逃したら今度見られるのはいつになるかわからない。
でも一度は見てゐる映画だ。
今日行かなくてもいいかな。
さういふ葛藤と戦ふことしばし。
結局行くことにした。
行くことに決めてゐたからだ。

この休みは、できるだけなにもしないことにしてゐた。
冬物の洗濯とか部屋の片付けとかいろいろあるけれど、極力出かけない方針だ。
こんなときでないと行かれない場所はいくらもある。
しかし出かけない選択肢を選んだ。
なんか、疲れちやふんだよね。
といつて、出かけなくても疲れることには変はりはない。

家にゐるときはできるだけ時計の時間にしばられないやうにしやうと思ふ。
時計の時間にしばられない暮らしは実にいい。
何時の映画を見るには何時の電車に乗つて、それには何時に家を出て、そのためには何時までに食事を終へる必要があつて、つまりは何時に起きなければならなくて。
そんなことは一切考へる必要がない。
明るくなつたから起きておなかがすいたから食事をする。
天気がいいから散歩をし、読みたいから本を読む。
眠たくなつてきたから寝る。
人によつて circadian rythm はさまざまなのかもしれないが、案外これでうまくいく。

しかし、休みで出かける予定のない日でもなかなかさううまくはいかないんだよなあ。
何時までにゴミを捨てに行かねばならない、とかあるしね。
あるいは明日は資源ゴミの日だから本や雑誌をまとめておかなければ、とか。

時計の時間がいけないのではないのだらうか。
「しなければ」といふ義務感にしばられてゐるのがダメなのか。

この連休はできるだけでかけないことにした、と書いたが、今日も映画に行くし、芝居にも行く。
もうちよつとなにも予定のない日を用意しておくべきだつたか。
そしてこの「べきだ」といふ考へ方もいけないのか。

いづれにせよ、この連休はあまりうまく休めてゐないやうだ。
もつと平日からきちんと暮らしてないとダメなんだらうね。

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Wednesday, 03 May 2017

悪しきバランス感覚

北伐の手ぬぐひを三本持つてゐる。
最初に買つたのは、荀彧の手ぬぐひだ。
2013年に横浜の産業貿易センターで開催された三国志フェスで入手した。
このとき、荀彧と趙雲とどちらを買ふか悩んだ。
なぜこのふたりなのか。
好きだから?
Non, non.
何枚もならんだ手ぬぐひの中で、このふたりの絵には動きがあつてすてきだと思つたからだ。
趙雲は槍など持つて動きがあるのがわかりやすい。
荀彧は衣装の裾などがふはりと風に吹かれてゐる感じでよかつたのだつた。
で、結局風を感じる荀彧の手ぬぐひにしたのだつた。

その二年後、またおなじ場所で三国志フェスがあつて、そこで前回あきらめた趙雲の手ぬぐひを買つた。
合はせて周瑜の手ぬぐひも買つた。
このときは選べなかつた。
それにもうひとつ理由がある。
周瑜を買ふと、魏・呉・蜀からひとりづつ揃ふからだ。
荀彧を魏の人とかいつたら荀彧に怒られさうな気もするし、「呉」をどういふ意味にとらへるかで周瑜の立場も変はつてくるわけだが、そこはご愛嬌といふことでひとつ。

この妙なバランス感覚が自分の欠点なんだよなあ。

趙雲と周瑜との手ぬぐひを買つたとき、いはゆるパネリストとして会場で発言してゐる人がゐた。
魏(といふか曹操と野郎ども)の話をふるとにこにこと対応するのに、その他の人の話をふつてもだまつてゐる、そんな風情だつた。
それを見聞きして、「人間、これでいいんだ」と、目からうろこの落ちる思ひがした。
公平であらうとしなくてもいいんだ。
自分の好きなものを好きだと公言して、そのことばかり云つてゐてもいいんだ。

翻つて自分を見るとどうだらう。
つまらない人間ぢやあないか。
魏・呉・蜀でひとりづつ揃つた?
なんてちいさい人間だ。

飯田で見て来た話ももつと「これが好きなんだよ!」といふのでその話だけをすればいいのに、と思ふ。
それがなかなかできないんだよね。
つひ「この人のことはあまり書いてないからもつと書かないと」とか、「ほかの人のことはそんなに書いてないからもつと削らないと」とか、考へてしまふからああなつちやふんだよなあ。
今後はもうちよつとかたよつた書き方をしてみやうかと思つてゐる。

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Tuesday, 02 May 2017

箱型にする予定

タティングレースのモチーフつなぎは、二十一枚目をつないでゐるところだ。

結局、Lisbeth #40 一玉を使ひきつて何枚 Masquerade を編めるかを確認するといふ目的は目的として、いまつないでゐるものは最終的に箱型になるやうにするつもりでゐる。
4列×7列になるやうにつないで、両端をモチーフでつなぐつもりだ。
底と脇とのマチがそれぞれモチーフ一個分になるやうにつなぐ予定である。

Masquerade は、Mary Konior のデザインしたモチーフで、Tatting with Visual Patterns といふ本に掲載されてゐる。
四角いモチーフで、正方形になるやうに四つつなぐとまんなかにモチーフとは別の模様があらはれる。
四隅に工夫をしてつながつたときに模様ができるやうになつてゐるのだ。
通常このタイプのモチーフはシャトルをふたつ遣ふものが多い。
四隅のチェインの外側にリングがくるやうなデザインだ。
さういふのも好きなんだけど、Masquerade はシャトルひとつとレース糸の玉だけで作れるといふところがいい。
チェインの外側にリングがくるデザインも SCMR にすればシャトルひとつとレース糸の玉だけで作れるけどもね。

Masquerade は何度も作つてゐるし大好きなモチーフだが、ここにきてほかのモチーフを作りたい気もしてゐる。
これが終はつたら、あのモチーフを作らうかそれともそちらのモチーフがよからうか、などと考へてゐる。
Lisbeth #40 一玉で Masquerade がいくつ作れるかを確認する意味が薄れてきてゐる。

世の中、さういふものだよな。
でも一玉使ひ切りは一度はやつてみたかつたのでこの先もつづけるつもりだけれどね。

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Monday, 01 May 2017

4月の読書メーター

4月の読書メーター読んだ本の数:3読んだページ数:713ナイス数:11Wuthering HeightsWuthering Heights感想サーズデイ・ネクストのシリーズでヒースクリフは超絶人気者といふことになつてゐる。なぜなのだらう。読んでもわからなかつた。悪は好きなはずなのだがなー。ヒースクリフは悪ではないんだな、きつと。読了日:04月13日 著者:Emily Brontë
昔話 (講談社文芸文庫)昔話 (講談社文芸文庫)感想文明とは、といふ話だと思ふが、その一方で「洗練とは」といふ面もあるやうに思ふ。読了日:04月19日 著者:吉田 健一
時間の言語学: メタファーから読みとく (ちくま新書1246)時間の言語学: メタファーから読みとく (ちくま新書1246)感想時間は抽象的なものなのでメタファーを使用しないと語れない、とか、時間の流れは未来から来るのかはたまた過去からか、そして視点はどこにあるのか、といつたあたりはおもしろかつた。しかし、「時は金なり」を「時は命なり」に変へなければといふ主張がどこからやつてくるのか不明。危機感はわかるし、世の中このままではいかんだらうとも思ふのだが、いささか唐突な結論に感じた。読了日:04月25日 著者:瀬戸 賢一
読書メーター

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ゴール間近

かぎ針編みの水玉模様のストールは、モチーフ百枚をこえるところまできた。

百十一枚編むことになつてゐるので、ゴールは近い。
ただし、編んでるあひだにだいぶ波打つてしまつてゐるので、整形に手間がかかるだらうなあと思つてゐる。

編んでゐる最中に長さをみたところ、なんとなく足りない気がしてゐた
百三十枚くらゐ編まないとダメかなあと思つてゐたが、ここにきて「これくらゐなら大丈夫」といふことがわかつてきた。
整形するときは横にひつぱるやうだらうけれど、なんとかなるだらう。

このストールのデザインはかなり気に入つてゐる。
青海波を思はせるやうな半円のモチーフをつなげて編んでいくデザインだ。
最初は色違ひで三枚くらゐ編みたいと思つてゐた。
一枚編むのに一ヶ月以上かかつてゐる現在は、二枚目以降は無理だな、と思つてゐる。
無理といふのは妙か。
編めないことはない。
編めないことはないけれど、ほかに編みたいものが編めないことになる。
毛糸もたくさんある。
このストールを編み始めるまへに編んでゐたヨガソックスも途中で止まつてゐる。
ほかのものも編みたい。

とはいへ、やはりこのデザインはいい。
もうちよつと太い糸で編んでみるかなあ。
あるいは毛糸。
さうしたらもうちよつと早く編めるのではあるまいか。

でもこのストールは金票40番で編むから繊細な感じがしていいやうにも思ふ。

いづれにせよ、このストールを編み終へたら停滞してゐるヨガソックスを完成させるつもりでゐる。

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