外国語が上達しないわけ
半年ほど前、突然「自分にはこれ以上外国語を習得することができない」ことに気づいた。
天啓といふべきか。
突如として天から降つてきたかのやうにさう思つたのである。
卒然と降つてわいたので、そのときには理由はわからなかつた。
でもひどく腑に落ちた。
もうこれ以上はムリ。
納得もした。
あとづけで理由を考へてみた。
一番の理由は「見知らぬ他人と話したいとは思はないから」だ。
見知つてゐる人はみな日本語を話す。
見知らぬ人だつて日本語で通用する可能性の方が、いまの状態ではかなり高い。ほぼ百パーセントといつていいだらう。
それつて、外国語、必要ないぢやん。
英語上達の極意などを見ると、ひとまづ英語はどうでもいい、といふやうな論調があつたりする。
ものすごく好きでそのためならなんでもする、といふやうなことがひとつでもあればいい。
あるいは、仕事でも趣味でもいいが「これは自分にしかできない」といふやうなことがあればいい。
とにかく好きで仕方のないもののためなら英語の文献やインターネット上の文章なども読むだらう。
必要なら英語圏の人との意見交換もするだらう。
「これは自分にしかできない」といふものがあればあちらからアプローチしてくるかもしれない。
さうして必要にせまられれば、英語は上達する。
自分の好きなことのためだから、効果は絶大である。
自分の好きなものが日本固有のものだから英語や外国語の習得は必要ない、と思ふ向きもあるかもしれない。
さうでもないんだな。
浮世絵などは、貴重な作品の多くは外国にあつたりするし、あちらの方がより大切にあつかつてきてゐたりする。
先日 Kindle のお試し版で神道に関するの学術書を読んだ。作者は米国の人である。別段日系といふわけではないらしい。
日本の電車? 海外でも走つてゐたりするぢやあないか。
自分にはどうしても捨てきれないほど好きなことで外国語が必要なものなどない。
上達しやうがない。
海外旅行に行けばいいのでは、といふ話もある。
出かけるのがまづ好きぢやあない。
歌舞伎を見に出かけるのでさへ億劫だ。
毎回「よくぞ支度をし家を出で電車に乗りて人混みの中を歩きつつ歌舞伎座(国立劇場でも新橋演舞場でもどこでもいいが)にぞつきにける」と感慨にふけつてしまふほどである。
海外旅行?
ないない。
だいたい空港に行くまでが面倒くさい。
羽田にしろ成田にしろ、なぜあんなに不便なところにあるのだらう。
町のど真ん中に空港を作るわけにはいかないから仕方がないのだらうけど。
京浜急行線で羽田空港発着の横浜方面の電車に乗ると、必ずといつていいほど途中で降りて乗り換える人がゐる。
品川方面へ向かひたい人だ。
わかりづらいんだよね。
不便だよねー。
やつがれは、多分世間一般の人の中では字を書く方だと思ふ。
しかるに筆無精だ。
どうも他人とことばをやりとりするのが苦手なのらしい。
手紙を書くことがあつても、「かう云つてはいけない」「ああ云つては角が立つ」とあれこれ考へながら書くのが苦手だ。
相手の話に相づちを打たねばならないし、それも適切なものでなければならない。
ムリ。
絶対ムリ。
そんなわけで、もうこの先どんなに勉強することがあつても英語をはじめとする外国語に堪能になることはない、とわかつてしまつた。
いろいろと理屈をつけてみたが、理屈や理由はともかく、わかつてしまつたのだ。
この先上達することがないからラジオ講座を聞くことをやめるか、といふとさうはならない。
上達とラジオ講座を聞くこととは自分の中では別のことだからだ。
といふ話はまた機会があつたら。
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