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Friday, 31 March 2017

国語の問題なんぢやない?

昨日紹介したBBCの記事で、日本の英語教育の問題のひとつとして「文法や語彙、書くことに重点が置かれてゐて、重圧となるテストをくり返し行ふ」ことがあげられてゐた。

この記事では「英語を喋れるやうになる」ことが重要であるといふことになつてゐる。
ゆゑに、学校の英語の授業で文法や語彙、書くこと(といふよりは「読むこと」ぢやない?)に重点をおいてゐてはダメ、といふことになるのはわかる。

……いや、ほんとはわからない。

日本語で考へてみやう。
新聞を読んでゐると、意味はわかるけれども自分では使はないし使へないことばといふのがいくつも見つかる。
意味がわかるといつても、なんとなくわかる、くらゐのことばも多い。

自分が使へることばには二種類あつて、ひとつは読んだり聞いたりしたらわかるけれど書いたり話したりはできないことば、もうひとつは書いたり話したりできることばだ。
前者の方が数は多い。
読み聞きしてわかることばの量で書け話せることばの量が決まつてくる。
外国語教育において語彙と読むこととを重要視することはごく自然なことだ。
単語がわからなければ喋りやうがない。

文法はどうか。
たとへば英語と日本語とでは、文の形がまつたく異なる。
「I go to school.」を単語単位に訳すと「私は・行く・へ・学校」になる。

また、英語には代名詞や動詞、形容詞などに変化がある。
代名詞には主格・所有格・目的格があり、動詞には現在形・過去形・過去分詞形・現在進行形がある。
名詞には単数形と複数形とがあるし、形容詞や副詞の音節の短い単語には比較級と最上級とがある。

英語圏の人は知らず知らずのうちに身につけるのだらうが、慣れない人間にはさうはいかない。
やみくもに go と went と gone とを別々に覚えるよりは go の過去形が went で、と覚えた方がいい。
go にはたくさん熟語がある。went でも go で覚えたのとおなじ数だけ熟語を覚えるのか?
まさかね。

文法や語彙、読むことに注力するから話せるやうにならない、といふことはない。
話せるやうにならないことにはほかに理由がある。

それに、世の大半の「英語を話したい」と思つてゐる向きの「話したい」内容は、授業で学ぶまでもないやうなことばかりだと思ふんだけど、まちがつてゐるかな。

NHKラジオ講座に「英会話タイムトライアル」といふ番組がある。
「英語の瞬発力を鍛える」と称して、英語で話しかけられたら即座に英語で返す練習をする番組だ。
おほよその「英語で喋りたい」はこの番組で解決できるのではないかと思つてゐる。
この番組を聞いてゐると、「これつて、学校で教へる内容ぢやないよな」と思ふ。
でも求められてゐるのはかういふことなんだよね、きつと。

以前、職場で隣の席にダイヴィングが趣味といふ人がゐた。
海外にも潜りに行くのださうである。
現地の人と話したいと思ふのだが、生憎と英語で喋ることができない。
その人が周囲の人と話してゐていふ。
「英語、勉強したいけど、さういふんぢやないんだよね」
周囲の人も「わかるわかる」と相槌を打つ。
「さういふんぢやない」といふのは、多分に語彙を増やすとか文法的に正しい話し方をするといふのではない、といふことだらう。
潜りに行つて、現地の人と挨拶を交はしたい。
それでいい、といふことだらうと推測する。
あるいは、潮の状態やその日の海のコンディションの話をしたいといふ意味だつたのかもしれない。

挨拶ていどのことであれば、旅行英会話の本でCD付のものでも買へば事足りる気がする。
ダイヴィングに関はる話をするならば、語彙を増やす必要がある。
あるいは、知つてゐる単語をうまく使へるやうになればいいかもしれない。
文法はすでに学んでゐるのならもう学ぶ必要はない。復習は必要かもしれないけれどね。

結局、文法と語彙とは必要だ。

問題は、学校ではダイヴィングに関はる語彙を学ぶ機会がないかもしれないことだ。
それはもう個人でなんとかするしかない。
以前書いた「ほんたうに好きなことなら必要にかられて学ぶだらう」といふのはこれにあたる。

個々の生徒の趣味嗜好に応じた内容で外国語を学べればいいのかもしれないが、大人数の教室ではそれもままなるまい。
一番いいのは、学校で学んだことを自分の好きなことに応用してみる、といふことだ。
やつがれなら芝居とかあみものとかかな。
「先週の土曜日に歌舞伎を見に歌舞伎座に行きました。大好きな役者が出てゐて、夢中で見ました」などといふことは、中学校で学ぶていどの英語で話せることだ。
なにが気に入つたのか、それはなぜかが話せるともつといい。
でもそれつて、英語の授業の範疇なのか?
どちらかといへば、国語ぢやない?
日本人の英語が喋れない問題で重要なのは英語の授業ではなくて国語の授業だと思ふ所以である。

え、聞き取り?
さうねぇ、それは問題ねぇ。

Thursday, 30 March 2017

Fawlty Towers で英語を学ぶ

日本のどこかで「Fawlty Towers」で英語を学んでゐるところがあるのらしい。

日本政府は2020年の東京オリンピックまでに英語に堪能な国民の数を増やさうとしてゐる、といふBBCの記事で読んだ。

昨日「これ以上外国語を習得することはできない」とか書いたばかりだが。
もしかして、「Fawlty Towers」で学べば英語に堪能になれるかも?

しかし、なぜ「Fawlty Towers」?
ホテルもので30分番組といふところがいいのだらうか。
センスはあるよな。「Fawlty Towers」を選ぶなんて。

ところで、日本にも英語に堪能な人はいくらでもゐると思つてゐる。
ご両親ともに英語が喋れて本人も高校生のときに米国留学してゐた、といふ友人がゐる。
日本のさる名門大学に入学した友人が云ふには、それまで周囲には英語で会話のできる相手は皆無であつたが大学に入つたらいくらでもゐる、といふ。

さういふ人つて、暇ぢやないんぢやないかな。
「ヴォランティア」としてオリンピックのお手伝ひをするやうな時間がない人が多いのぢやあるまいか。
きつといいとこに就職して、それなりの職についてゐるだらうし。

それとも、あれかなあ。
博物館や美術館の学芸員の募集要項がTLに流れてきたことがあつた。
大学院卒で、英語・フランス語・イタリア語に堪能で、美術に関する見識があつて、それで時給千円前後、交通費は固定支給で全額出ない可能性もある、といふ。
それだけの技能がありながら、時給千円で交通費の支給は部分的、ですか。
でも、それでも応募する人はゐる、といふ。
有閑マダムなんかにかういふ人がゐるんぢやあるまいか。
美術の修士号だか博士号だかを持つてゐて、語学に堪能で、論文を書いたくらゐだからそれなりに見識はあつて、お金には困つてをらず、しかも自由になる時間がある。
かういふ人つていはゆるリベラルだつたりして、ヴォランティア上等みたやうなところがあるんだよね。

平日に休みを取つて歌舞伎座などに行くと、なんでこんなに客がゐるんだらうと思ふ。
月曜から金曜まで働いてゐて土日は休みといふ人ばかりではないことは認識してゐる。
やつがれのやうに不良社員で会社を休んで見に来てゐる人もゐるだらう。
それにしても多い。
この人々には、働きもせずに芝居見物をする余裕があるんだらう。
みながみな有閑紳士だつたり有閑淑女だつたりするとはかぎらない。
でもさういふ人も多いだらう。
そして、さういふ人は語学に堪能だつたりするのではあるまいか。
推測ではあるけれど。

「裕福=いい教育を受けてゐる=語学に堪能」といふ短絡的な考へ方であることは承知してゐる。
でもなー、私学で育つた人の話を聞いてゐると、「そりや私学に通つてゐた人の方が英語ができるやうになるよね」と思ふことが多い。
裕福なおうちの方が親の仕事の関係でこども時代を海外で過ごす、なんてな人も多からうしさ。
やつかみ過ぎか知らん。

Wednesday, 29 March 2017

外国語が上達しないわけ

半年ほど前、突然「自分にはこれ以上外国語を習得することができない」ことに気づいた。

天啓といふべきか。
突如として天から降つてきたかのやうにさう思つたのである。

卒然と降つてわいたので、そのときには理由はわからなかつた。
でもひどく腑に落ちた。
もうこれ以上はムリ。
納得もした。

あとづけで理由を考へてみた。
一番の理由は「見知らぬ他人と話したいとは思はないから」だ。
見知つてゐる人はみな日本語を話す。
見知らぬ人だつて日本語で通用する可能性の方が、いまの状態ではかなり高い。ほぼ百パーセントといつていいだらう。
それつて、外国語、必要ないぢやん。

英語上達の極意などを見ると、ひとまづ英語はどうでもいい、といふやうな論調があつたりする。
ものすごく好きでそのためならなんでもする、といふやうなことがひとつでもあればいい。
あるいは、仕事でも趣味でもいいが「これは自分にしかできない」といふやうなことがあればいい。

とにかく好きで仕方のないもののためなら英語の文献やインターネット上の文章なども読むだらう。
必要なら英語圏の人との意見交換もするだらう。
「これは自分にしかできない」といふものがあればあちらからアプローチしてくるかもしれない。
さうして必要にせまられれば、英語は上達する。
自分の好きなことのためだから、効果は絶大である。

自分の好きなものが日本固有のものだから英語や外国語の習得は必要ない、と思ふ向きもあるかもしれない。
さうでもないんだな。
浮世絵などは、貴重な作品の多くは外国にあつたりするし、あちらの方がより大切にあつかつてきてゐたりする。
先日 Kindle のお試し版で神道に関するの学術書を読んだ。作者は米国の人である。別段日系といふわけではないらしい。
日本の電車? 海外でも走つてゐたりするぢやあないか。

自分にはどうしても捨てきれないほど好きなことで外国語が必要なものなどない。
上達しやうがない。

海外旅行に行けばいいのでは、といふ話もある。
出かけるのがまづ好きぢやあない。
歌舞伎を見に出かけるのでさへ億劫だ。
毎回「よくぞ支度をし家を出で電車に乗りて人混みの中を歩きつつ歌舞伎座(国立劇場でも新橋演舞場でもどこでもいいが)にぞつきにける」と感慨にふけつてしまふほどである。
海外旅行?
ないない。
だいたい空港に行くまでが面倒くさい。
羽田にしろ成田にしろ、なぜあんなに不便なところにあるのだらう。
町のど真ん中に空港を作るわけにはいかないから仕方がないのだらうけど。
京浜急行線で羽田空港発着の横浜方面の電車に乗ると、必ずといつていいほど途中で降りて乗り換える人がゐる。
品川方面へ向かひたい人だ。
わかりづらいんだよね。
不便だよねー。

やつがれは、多分世間一般の人の中では字を書く方だと思ふ。
しかるに筆無精だ。
どうも他人とことばをやりとりするのが苦手なのらしい。
手紙を書くことがあつても、「かう云つてはいけない」「ああ云つては角が立つ」とあれこれ考へながら書くのが苦手だ。
相手の話に相づちを打たねばならないし、それも適切なものでなければならない。
ムリ。
絶対ムリ。

そんなわけで、もうこの先どんなに勉強することがあつても英語をはじめとする外国語に堪能になることはない、とわかつてしまつた。
いろいろと理屈をつけてみたが、理屈や理由はともかく、わかつてしまつたのだ。
この先上達することがないからラジオ講座を聞くことをやめるか、といふとさうはならない。
上達とラジオ講座を聞くこととは自分の中では別のことだからだ。
といふ話はまた機会があつたら。

Tuesday, 28 March 2017

新製品はうれしいけれど

タティングレースのモチーフつなぎは17枚つないだところだ。
これから18枚めに着手する。

Masquerade

モチーフは、Mary Konior の Tatting With Visual Patterns に掲載されてゐる Masquerade だ。
短い列を何列にするか悩んでゐたけれど、しばらくはこのまま4列でいくつもりだ。

昨今タティングレースに使ふ新製品が発売されてゐる。
クロバーからボビン形式のタティングシャトルが発売された。
ダルマはすこし前から出してゐたのかな、オリムパスではタティングレース用と銘打つて新たなレース糸を送り出してゐる。

気にはなるが、実物はどこで見られるのだらう。

以前は、自宅の周囲に手芸屋が二軒あつた。
どちらもいまはもうない。

三つ先のバス停のあたりにも手芸店が二軒あつた。
一軒は店長ご夫婦の高齢化のため閉店した。
もう一軒は店は残つてゐるものの、手芸用品はあつかはなくなつたと人づてに聞いた。

最寄り駅には本店のほか駅周辺に二軒の支店を持つ手芸屋があつた。
駅前再開発で支店の二軒がなくなり、本店も去年店じまひをしてしまつた。

最寄り駅から電車に乗つて一番最初にある大きな駅の手芸屋もなくなつた。
ユザワヤの支店はできたけど。
百貨店にはホビーラ・ホビーレが入つてゐるけれど、ここつてなんか違ふんだよなあ。

池袋にはキンカ堂があつたけれど、なくなつて久しい。
池袋といへば、西武百貨店の手芸店も以前はいろんな毛糸を売つてゐた。
はじめてロピーの毛糸を買つたはのこの店だつた。

一時は名古屋駅周辺の河合塾とどちらが多いかとふ勢ひだつた蒲田駅周辺のユザワヤもだいぶ数が減つた。
オカダヤはどうなんだらう。
神戸のドヰ手芸もテンポを縮小したのだつたか。

人はどこで手芸材料を買つてゐるのだらう。
こんなに店がなくなつてゐるのに。
それとも行くところへ行けばあるのだらうか。

いまモチーフつなぎに使つてゐる Lisbeth #40 はネット通販で買つたものだし、タティングシャトルもネットで注文した。モチーフの載つてゐる本だつてさうだ。

みんなネット通販で買つてゐるのだらうか。
その方が安売りしてゐることもあるしね。

でもできれば実物を見たい。
とくに糸の手触りや色などは実物を見てみないとわからないからだ。

クロバーのボビン形式のタティングシャトルは注文した。
ダルマやオリムパスのタティング用レース糸は見つけたら多分買ふだらう。
見つけることがあるとはチト思へないのが残念である。

Monday, 27 March 2017

春先にくつ下を編む

袖なし羽織は、左身ごろ(右身ごろかもしれない)を編んだところでいつたんやめ、涼しくなつてきたらつづきを編むつもりでゐる。

トゥヴォーエンズスティックニングのくつ下は、ほどくことにした。

かぎ針編みがしたいなー、といふ話は先週も書いた。
かぎ針編みはしたいのだが、なにを編みたいかといはれると編みたいものがない。

久しぶりに編むものがなくなつてしまつた。
そこで、ヨガくつ下を編み始めた。
たまたま Regia のくつ下毛糸が一玉あつたからだ。

Yoga sock in Progress

この毛糸、二玉買つたと思ふんだけどなあ。
ケイフ・ファセットの関はつた毛糸だといふ。
一緒にアルネ&カルロスの関はつた毛糸も買つて、こちらはあやまつて一玉づつしか買はなかつた。二色買つて、どちらもヨガくつ下になつてゐる。

もう一玉出てきたら、そちらは指なし手袋にでもするか。

ヨガくつ下を編むからといつてヨガをするわけではない。
ヨガくつ下を編む理由は三つ。
一つはおなじ色の毛糸が50gていどしかないこと。
もう一つは冷えるときにほかのくつ下の上に履いてくるぶしをあたためる用途に使ふため。
最後の一つは、ちよつと暑くなつても履けること。
暑くても寒くても使へるところがなかなかいい。

つま先とかかととを編まないだけでこんなに毛糸の使用量が違ふのか。
なにも考へずにくつ下を編む場合、中細のくつ下毛糸だと、片方で35g前後使用する。
つま先とかかととを編まないと、10g以上は毛糸の使用量が減る、といふことだ。
50gの毛糸一玉を使つてかなり余裕でヨガくつ下を編むことができるのだから。

手編みのヨガくつ下はすでに三足ある。
指なし手袋にすることも考へたが、ちよつと編みたい模様があつたので、くつ下にしてみた。
指なし手袋にしてもいい模様なんだけどね。

Yoga sock in Progress

まだ模様には入つてゐない。
ちやんと覚えてゐて編めるかどうか、挑戦だ。

Friday, 24 March 2017

Keep Learning 考

Keep learning.

「人間、一生勉強だよね」といふ話で、ちよつと違ふのは、「人間、一生勉強だよね」といふときの「勉強」は「生きていくうちに人生といふか毎日のくらしからなにがしか学び取る」といふやうな意味でも使ふのに対し、「Keep learning」の方は語学なら語学、科学なら科学(大ざつぱですまぬ)となにかしら対象を決めて学ぶ、といふことだ。

Keep learning といふと、とても前向きで正しい意味での「意識高い系」の人のもののやうに思はれる。
自分に自信がある人のためのことばだよね。
いまの自分が学べばさらにすばらしくなる。
向上心にあふれた人の考へさうなことだ。

さう考へると、自分は keep learning なんかしてもムダだな、といふ気がしてくる。
学んだつてたいした知識はつかないし。
技能はもつとムリだらう。
学ぶ時間に不足してゐる睡眠を取つた方がよほど有意義だ。

祖母は一種の「Keep learning」を実行してゐた。
ボケ防止だと本人は云つてゐた。
絵を描いたり、ニュースなどで知らない地名がでてくると地図で確認したり、毎日日記をつけたり。
Keep learning にはさういふ側面もある。
すなはちボケ防止だ。

書店の店頭には来月からはじまる新年度のNHK講座のテキストがならんでゐる。
学んでもムダ、と思ひつつ、「NHKラジオ 高校生からはじめる「現代英語」」を聞いてみやうと思ひ、テキストを購入した。

ムダだけど。
でもボケたら困るし。

老いれば誰しもボケるのだらう。
それを阻止することはできまい。
でもまあ、できる範囲で最小限にくひ止めることができるのなら、それはムダとばかりもいへないのではあるまいか。

と、屁理屈をこねつつ、新年度を迎へる。

Thursday, 23 March 2017

Moleskine に使ふファーバーカステルのヴァイオレットブルー

Moleskine で使用できる万年筆のインクを見つけた。
ファーバーカステルのヴァイオレットブルーである。

カートリッジタイプをウォーターマンのクルトゥールに入れて使つてゐる。
裏抜けはしないものの少しにぢんでゐるやうなので、もつと太いペン先だと裏抜けするのかもしれない。
また、ボトルタイプはどうなのかは不明だ。

プラチナ萬年筆から古典インクが発売されて、Moleskine で使へる万年筆のインクの幅がぐつと増えた。
これまではペリカンやプラチナその他何社かのブルーブラックか、ローラー&クライナーのスカビオサが裏抜けなく使へるインクとして知られてゐた。
自分で試した範囲だと、かつては日本橋丸善のエターナルブルーが細字なら使へてゐた。最近、裏抜けすることがあつて使つてゐない。Moleskine 側の紙質にもよるのだらう。
あとセーラーの青墨か。極黒は試したことがない。

ファーバーカステルのヴァイオレットブルーは、スモーキーな色合ひのインクだ。
紫煙とでも呼びたいやうな色である。
プライヴェート・リザーヴに Purple Haze といふインクがある。ヴァイオレットブルーの方が煙りつぽい印象がある。
試しにカートリッジを買つてみたところ、気に入つて、ボトルを買ふかどうか悩んでゐるところだ。
アウロラのシガロに入れてみたいんだよなあ。
シガロ、持つてゐないけれども。

Wednesday, 22 March 2017

プラチナ萬年筆の古典インクはカーキブラック

プラチナ萬年筆の古典インクのカーキブラックをパイロットのキャバリエの細字に入れてみた。

こんな感じである。
手帳は Moleskineだ。

プラチナ古典インク

キャバリエは文具店の閉店セールのときに買つた。
コンヴァータ(CON-20)も入れて、一度は使つてインキが切れたときに洗つてそのままになつてゐた。
理由は、CON-20はチト使ひづらいといふことと、軸が細いので長く書くのには向かないことだ。

CON-20 だとどれくらゐインキが入つてゐるのかわからない。
インキの出が悪くなつてもインキが切れたのかペンの不具合なのかがわかりづらい。

細いペンはちよこつとメモを取るにはいいけれど、ちよつと長い文章を書かうと思ふと疲れる。
細ければ軽からうに、と思はれるかもしれないが、太い軸のペンをゆつたりと持つて書いた方が疲れづらい。

でも捨ててゐないので、書きやすいペンではあつたのだらう。

Webで公開されてゐる写真などを見るに、カーキブラックはセピアといふ感じに変色するやうだ。
たしかにセピアのやうに見える。
カーキといふなら二週間前に書いたシトラスブラックの方がよほどカーキに近い。
カーキブラックは普段使ふのにいいかもしれないな。

プラチナ萬年筆の古典インクについては変色について言及する人が多いやうに思ふ。
古典インクで書いたものは一年後にはどうなつてゐるのだらう。
一年くらゐではたいして変はらないのかな。
保存状態にもよるか。
五年後、十年後、黒い色だけ残るのだらうか。
それまで書いたものが手元に残つてゐるとは限らないか。

Tuesday, 21 March 2017

「作りたい」の目的語がない

日中、寒さを我慢せずに窓を開けてゐられるやうになると、レースの季節が来たな、と思ふ。

Mary Konior の Tatting with Visual Patterns に掲載されてゐる Masquerade といふモチーフを延々つないでゐる。
いまのところ16枚つなげてゐて、17枚めを作りはじめたところだ。

Masquerade は、ど紫とでもいひたいやうな色で作つてゐる。
紫は好きな色ではある。
でもこれはちよつとあまりにも紫すぎる気がする。
「レースの季節」にはそぐはない色だ。

レースの季節のレースは、やはり白だらう。
あるいは生成り。
もしくは白に近いくらゐ淡いパステルカラー。
黒もいいかもしれない。
オリムパスやダルマの40番手のレース糸をかぎ針編みで編む。
さういふイメージだ。

ここのところ、かぎ針編みはほとんどしてゐない。
レース糸、毛糸に関はらず、だ。
時折狂ほしくかぎ針で編みたくなるときがあるけれど、なにもしないうちに時間が過ぎていく。
「編みたい」といふ気持ちだけで、「なにを」といふ気持ちがないからだ。

かぎ針のレース編みをしたいと思ふ一方で、タティングレースも作りたいと思つてゐる。
ここにも何度か書いてゐるやうに、白とか生成りの糸でタティングをしたい、といふ気分になることがある。
とくにレースの季節にありがちだ。
問題は、白い糸を意外と持つてゐないことだ。
オリムパスの40番の100gを手つかずで持つてゐて、それくらゐしか思ひつかない。

「作りたい」と思ふときに「これを」といふのがくつついてきてくれるといいのだけれど。
なかなかうまくいかないのは、かぎ針にしろタティングにしろ、手の動きが好きだからなんだらうな。
オリムパスの100gは、今年もそのまま手つかずでゐるやうな気がしてならない。

Monday, 20 March 2017

季節の変はり目とあみもの

あたたかくなつてしまつた。

トゥヴォーエンズスティックニングのくつ下はほとんど進んでゐない。
このままほどいてやりなほすかもしれないと思つてゐる。

袖なし羽織の方は、左身ごろといはうか右身ごろといはうかがほぼできあがらうとしてゐる。
あとは伏せ止めといつたところだ。
どういふ伏せ止めにしたらいいか悩んでゐる。
作り目のときにかぎ針を使用したので、伏せ止めもさうするかな。
袖なし羽織はかるくできてゐるし、ガーター編みなので裾は編みつぱなしにするつもりでゐる。
袖口もそれでいけるかなあ。
襟といふか前立ては編むつもりでゐて、i-codeを編みつけやうかと思つてゐる。

かういふ気候になると、レース編みをしたくなる。
あたたかくなつたとはいふものの、いまならまだ毛糸で編めるだらうか。
レース糸だから細くて編み地もうすくなるし。
それともいまから夏向けのものを作つておいた方がいいだらうか。
悩むところである。

冬用の指なし手袋は編んだけれど、夏用の指なし手袋もほしい。
日除けに外で着用するものもいいけれど、どちらかといふと室内で冷房対策として使ふものがほしい。
夏用だし、ウールコットン的なもので編みたい。
問題は、手持ちのウールコットン的な糸は、指なし手袋を編むにはチト太すぎる、といふことだ。

とりあへず、手持ちの毛糸と相談していま編みたいものを編むことにしたい。
いつもさうなんだけどね。
それで必要なものが編めてゐないといふ。
まことに残念なことである。

Friday, 17 March 2017

早く寝ても眠い

早寝をしても寝足りた気分にならない。

積年の睡眠不足を解消しやうと日々いろいろやつてゐるのだが、どうにも解消されない。
一説によると、長いこと睡眠不足の状態をつづけてゐると、もう二度と不足分を取り戻すことはできないのださうな。

早寝してもなぜ寝足りた気分にならないのか。
ひとつには、早く布団に入つたからといつて、即眠れるとはかぎらないから、といふことがある。
「早く布団に入らなくては」と思つてゐるせいか、布団に入つてもしばらくは寝付けない。
直前までブルーライトを浴びてゐるから、といふのも原因なのかもしれない。

また、「早く就寝したのだから早く眠りにつかなければ」といふ妙な強迫観念のやうなものがあるのも事実だ。
そして却つて眠れなくなる。
最近では油断してゐて夜中に冷えて目が覚めてしまふ、なぞといふこともある。

あと、起きたときに妙に疲れてゐるから、といふ理由もある。
なぜかどんなに寝てもなかなか起きあがれない。
ベッドを導入しやうかと思ふ所以でもある。

しかも、就寝するときよりも目覚めたときの方が布団を心地よく感じる。
布団から出たくない。

さうすると、遅起きをした方が満足感は得られるのだ。
実際によく眠れたかどうかはともかくとして、朝いつまでも布団の中にゐる方が「よく眠つた」といふ満ち足りた気分になれる。
早寝ではかうはいかない。

早寝もずつとつづけてゐればもしかすると「よく眠れた」といふ満足感を得られるやうになるのかもしれない。
これがなかなかつづけられないんだよなあ。

Thursday, 16 March 2017

使へない理由

二年前、美篶堂のハードカヴァーノートを注文して、受け取つたのちそのままになつてゐた、といふ話を昨日書いた

使へないでせう。
注文して作つたノートだよ。
しかも紙はバンクペーパー。
さらに今後は注文できないときてゐる。
もつたいなくて使へない。

だつたらなんのために作つたんだ、といふ話もあらう。
注文したときは考へてゐないのだ。

毛糸にしてもさうなのだが、廃番になつてしまつたものや高価なものを安値で買つたもの、旅先で見つけて買つたものなどはなかなか使へずにゐる。
もつたいないからだ。
もう決して手に入ることはない。
さう思ふと使へない。

しかし、考へてみるとさうした「もつたいなくて使へない」毛糸は買ふ時点で使ひ道を考へてゐなかつたものが多い。
…………と書いてみて、さうでもないなあといふことに気がつく。
使ひ道を考へてはゐた。
考へてはゐたけれど、「ショールを編まう」だとか「くつ下にしやう」だとか、ぼんやりとしか決めてゐなくて、具体的に「これを編む!」といふのはない、のかもしれない。
あるいは大作すぎてなかなか編みはじめられないといふのもある。

いづれにしても、無計画なのだ。
無計画にものを買つてはいけない。
いまさらだが身にしみてさう思ふ。

無計画に加へて、「自分が編んでも(書いても)」といふ躊躇もある。
だつたらなぜ買つた、とも思ふわけだが、買ふときにはそんなことは考へてもみないんだよな。

無計画かつ分不相応。
さういふ買ひものはいけない、といふことだ。

Wednesday, 15 March 2017

もつたいなくて使へなかつたノートを使ふ

二年前、日本橋丸善の世界の万年筆展に美篶堂も出店してゐた。
ハードカヴァーノートの注文を受け付けてゐて、普段はないバンクペーパーのノートも作れるといふ話だつた。
これはいい機会だといふので、B6サイズでバンクペーパーのノートを注文した。
ノートができたといふ連絡があつていそいそと受け取りに行つて、二年がたつてしまつた。

美篶堂のハードカヴァノート

なかなか使ひ道のきまらなかつた美篶堂のハードカヴァーノートに、このたびめでたく使ひ道が決まつた。

他人のことばを書く、である。

以前、Smythson の Schott's Miscellany Diary (以下、Schott's) に本や映画、芝居などから気になつた文章を書き抜いてゐた。
Schott's は持ち歩きやすく、また読んでも楽しい手帳だつた。
気になる文章をためてゆくのにこんなに適した手帳もまたない。

ぱらぱらと見てゐると、本から書き抜いたもののほかに、TVのドキュメンタリー番組で見た川本喜八郎や今敏のことばなども書いてあつたりして我ながらおもしろい。

Schott's をほぼ使ひきつて、その後はおなじやうな用途で使ふノートはなかつた。
美篶堂のハードカヴァーノートでまたおなじやうなことをはじめやう。
さう決めた。

自分の文章を書かうとするから躊躇するのだ。
他人の文章を書くのならいいぢやあないか。
すくなくとも公になつたことばだ。
それならいいノートももつたいなくない。
唯一もつたいないことがあるとしたら、それは自分の字で埋められる、といふだけで。

早速、いま読んでゐる「深川安楽亭」からすこしづつ気になる文章を書きとめてゐる。

書いてゐると、ふしぎと気持ちが平らかになつていく。
清書の効用のやうなものか。
あるいは写経か。
お手本どほりに(といつて、字の形をそのままうつすわけではないが)間違ひなく書かうとすると、自然と集中するのだらう。
なんとなくおだやかな心地になつてくる。

Schott's を使つてゐたときは、なんとか一日の欄におさめやうとして字を小さくしたり「(中略)」などをよく使つたけれど、B6サイズのノートだとさうする必要もない。
いい使ひ道を見つけた。

Tuesday, 14 March 2017

評価無用

タティングレースのモチーフつなぎは十五枚目までつないで十六枚目を作つてゐる最中である。

Masquerade

Mary Konior の Tatting with Visual Patterns に掲載されてゐる Masquerade といふモチーフをひたすらつないでゐるところ。

作りはじめてからだいぶ時間がたつてしまつたこともあり、モチーフのサイズがだいぶ不揃ひになつてきてゐる。
前に作つたものと見比べながら糸の引き加減をきめてはゐるのだが、どうしてもうまく糸が引けなくて力任せに引いたらちいさくなりすぎてしまつた、なんてなことがときたまある。
どうやつたらきつちりおなじ形に作れるのだらうか。

時折思ふ。
小学校の習字の時間のことだ。
かきかた、といつたかもしれない。
おなじクラスの子の提出したもののなかには、お手本と寸分違はぬ字が並んでゐたりしてゐた。
これがやつがれにはできない。
お手本をなぞるときから線からはみ出してしまふ。

最近はどうだか知らないが、以前はフィギュアスケートにはショート・プログラムの前にコンパルソリーといつて滑つた軌跡が決められた形になるやうにして三度くり返す、といふのがあつたと聞く。
三度くり返して、三度とも軌跡がきつちり重なるのがいいとされてゐたやうに思ふ。

ムリだな。
絶対ムリ。
さう思ふのだが、多分いま活躍してゐるフィギュアスケータたちにとつてはお手の物なのだらう。

かきかたでいへば、お手本の上をなぞるのだつたらお手本どほりに書けばいい。
そのはずなのだが、それができない。
なぜかはみでる。
丁寧に書かないからか。
丁寧に書かうとすると、今度は線がふるへてうつくしくない。
一事が万事そんな調子である。

それでもがんばつて少しでもお手本に近づけると評価されるのは努力点が認められるうちだけだ。
すなはち学校に通つてゐるあひだだけである。

一事が万事そんな調子で、でもまあ、タティングレースで他人から評価をもらふわけぢやないからな。

Monday, 13 March 2017

本気で編まない

トゥヴォーエンズスティックニングのくつ下は、一日四段とかづつ進んでゐる。

毎日編んでゐれば右手で糸をかける編みかたにも慣れてくるかなと思つてゐたが、一日四段だとなかなか慣れない。
先に練習としてメリヤス編みだけのものを右手で糸をかける方法で編むべきだつたのかもしれない。
あるいは左手に糸をかけてトゥヴォーエンズスティックニングを編むべきだつたのかも。

できあがつても次の秋冬までしまつておくことは確実なので急いで編むことはない。

袖なし羽織は、トゥヴォーエンズスティックニングに疲れたときにちよこちよこと編んでゐる。
きりのよいところで中断して次の秋冬にそなへるつもりだ。
なぜかといふと、別のものを編むのに針を使へるやうになるからだ。

これまで編みたいものリストのやうなものは作らずに来た。
「これだけはどーしても編みたい!」といふやうなものがないからだ。
そのときどきで implusively に編みたいと思つたものを編む。

だからダメなんだ、といふ話もある。
もつと計画的に編まないと。

しかし、考へやうによつては、そのとき編みたいものを編む、でいいんぢやないかといふ気もする。
趣味なのだし。
編んで楽しいものを編まうぜ。

さう考へると、自分には本気で編むときはない。
編むときはいつでもぼんやりと編んでゐる。
だから編み図を見ながら編まないといけないものは苦手だ。

編み図とにらめつこしながら編むものは、ぼんやりとしてゐては編めない。
だからといつて、本気で編むかといふとさうでもない。
せいぜい編み図で次の段を確認して、それで終はりくらゐだ。
だからダメなのだ、といふ話は確かにある。

Friday, 10 March 2017

見せない手帳

結局、Moleskine に戻つてきてしまつた。

My Moleskine

いはゆるユビキタス・キャプチャーやライフログの「なんでも書きとめやう」は案外むづかしい。
「こんなこと、わざわざ書かなくてもいいよな」とつひ思つてしまふ。
そして書きとめた方がよかつたことも書きとめずに過ごしてしまふ。

この障壁をのりこえるために、「とにかく頭に浮かんだことは書きとめる」といふのがユビキタス・キャプチャー(と、ここでは呼ぶ)の第一歩だ。
「こんなこと、わざわざ書かなくてもいいよな」といふことも書く。

これは、正しいと思つてゐる。
自分は結構書く方だと思つてゐるが、それでも「これは書かなくていいよな」と思ふことが多い。
そしてあとで悔やむ。
「ああ、あのときあれを書きとめておけばよかつた」と。

ユビキタス・キャプチャーをはじめる際には、とにかく頭に思ひうかんだことは全部書く。
なにも手書きである必要はない。
スマートフォンがあるのなら、写真や動画を撮つてもいいし、音声メモを残す手もある。

あるていど「頭に思ひ浮かんだことはとにかく書く」を実践して書いたことを見返すうちに、ある時期から「これは書かなくていいよな」といふのがわかつてくる。
つづけていくうちに、書かなくていいことも見えてくる。
つまり、つづけないと見えてこないといふことだ。

なにがムダでなにがムダでないのかといふのは人によつて違ふ。
おそらく、十中八九、やつがれの思ふ「どーでもいいこと」はムダなことだ。
書かなくてもいいことだ。
書く時間がもつたいない。
さうしたことどもである。

でも書きたいし、書かずにはゐられない。
そして、Bullet Journal はかうしたムダなことを記述するのにはいまひとつ向かない framework なのだつた。
むくやうに工夫すればいいのかもしれないけれど、手元に Moleskine がある現状ではしなくてもいいかな、とも思ふ。

二冊持ち歩かねばならないが、一ヶ月前まではさうしてゐたのでとくに苦にはならない。
プラチナ萬年筆から古典インクが発売されて、Moleskine でも万年筆を使へるし、ちよつと楽しくなりさうだな。

Thursday, 09 March 2017

効率的な生き方とか

書店のビジネス書のコーナーや、ネット上の記事や発言などを見るの、ものごとを効率的にこなすことは善である、といふ意見が多い。
非効率的にする意味がわからない。
それはそのとほりだ。

でも、さういふの、疲れちやふんだよね。
そんなに「効率、効率」とたくさんさうに云はなくてもいいのに。

時間のことにしてもさうだ。
翌日は午前十時半にあるところへ行かねばならない。
そこから逆算して、何時の電車に乗るかを考へ、それには何時に家を出なければならないかを割り出し、その時間に家を出るには何時までには食事を終へねばならず、それには何時には起きる必要があり、そのためには今夜何時に寝なければならない。
その時間に寝るためにはいまから何時までにはあれをしてこれをして…………

ふー。やれやれ。

なんかもう、この逆算をするだけでものすごく疲れる。
世の人はさうではないのだらうか。
Lifehack系の記事や本などを読むと、この逆算をすることといふのはごくごくあたりまへのこととして書かれてゐる。

あたりまへなのか。
こんなに疲れるのに。

先日、穂村弘の「はじめての短歌」といふ本を読んだ。
以前、映画「いのち・ぼうにふろう」について書いたときにこの本についてもちよこつと書いた。
「はじめての短歌」のなかで、穂村弘は「生きのびる」と「生きる」とについて書いてゐる。

通勤電車に乗つて、このまま終点まで行つたら海だなあと思ひ海まで行つてしまふのが「生きる」。
さう思ひつつもちやんと職場の最寄り駅で降りるのが「生きのびる」。
さう理解してゐる。

用事の時間にあはせて時間の逆算ができ、それを苦とも思はない人は「生きのびる」側の人間なのだらう。
側、は変か。
穂村弘は、人はだれしも「生きのびる」側面と「生きる」側面とを行き来して生きてゐる、といふやうなことを書いてゐた。
時間の逆算をして疲れない人は「生きのびる」ことに疲れを感じない人、とでもいへばいいのかな。
時間の逆算をするだけで疲れてしまふ人間は「生きのびる」のに向いてゐないのだらう。

向いてゐないけど、時間の逆算はしなければならない。
そしてときにひどく疲れてしまふのだつた。

「いのち・ぼうにふろう」的にいへば、性分の片端もの、山のけものだから、といふことにならうか。
しかし山では暮らしていけないのだつた。
なんの因果かねえ。

Wednesday, 08 March 2017

カキモリ オリジナルローラーボールペンのその後

去年の一月、カキモリでローラーボールペンとインキとを購入した。
インキはカキモリオリジナルのインディゴだ。
ローラーボールペンもオリジナルで、コンヴァータを使つて万年筆のインキを入れることができるやうになつてゐる。
購入直後の話は以前書いてゐる。

その後も遣ひつづけてゐて、インキの色が黒と判別がつかなくなつてきた。
インディゴはかなり暗い色のインキではある。
藍よりは黒に近い紺色にちよつと灰色がかつたところがある、そんなやうな色だ。
使ふうちにペンの中にインキがたまつてさらに黒くなつてしまつてゐたのだらう。

インキが切れた機会にペン先を洗つた。
しばし水につけたあと流水にさらす、といふのをくり返すくらゐだけれども。
晴れてきれいになつたペンにインキを入れると、インディゴ本来の色が戻つてきた。

カキモリ オリジナルローラーボールペン

このインキはちよつと太めのペン先で使つた方が楽しさうだ。

ローラーボールペンの書きやすさは、適度な抵抗感にあるのだと思つてゐる。
するするとなめらかにインキは出てくるものの、書くときに紙にたいして微妙なひつかかりがある。
かつちりした字を書くのに向いてゐるやうに思ふ。

萬年筆に関しては、抵抗のないペンの方が好きだ。
抵抗がなくてやはらかい書き味のペン先を好んで使つてゐる。

でも、適度に手応へのあるペンやかたいタッチのペンも持つてゐるし使つてゐる。

以前、手持ちの万年筆を「七人の侍」のひとりひとりにあてはめてみたときに思つた。
ペンには一本一本役割がある。
勘兵衛のやうなペンもあれば、菊千代のやうなペンもある。
久蔵のやうなペンもあれば、勝四郎のやうなペンもある。
そしてその一本一本が、やつがれにとつては「人生の一本」なんだなあ。
出番が違ふんだから、そのときはその一本が「人生の一本」になる。

萬年筆は一本で、ほかの役割はボールペンや鉛筆にまかせるといふ手もある。
そこは好き好きだらう。

このローラーボールペンの役割はといふと、ちよつと大きめの字が必要なとき用、かな。
字を目立たせたいとき、でも色はあまり使ひたくないとき。
さういふときはこのペンの出番だ。

あと字の練習にも向いてゐる。
かつちり書きやすいからね。

もう二本くらゐそろへて、カキモリのオリジナルインキを入れてみたいものだ。
用途が決まつたらそろへやうと思つてゐる。

Tuesday, 07 March 2017

つなぎ忘れをつないでみれば

タティングレースのモチーフつなぎは、あつけなくつなぎ方が決まつてしまつた。

12枚を3列×4列でつないだあと、13枚目をつなぎ忘れ、14枚目でうまいこと本体とつなぎあはせたのだが。
かうなつてしまつたのである。

Masquerade

3列×5列になるやうにつないだつもりだつたのに、気がついたら4列×5列になつてゐた。
あーあ。

糸はまだあるので、とりあへず4列×4列になるやうにつないで、4列×5列をめざすことにしたい。

このモチーフつなぎは、Lisbeth #40 一玉で Masquerade といふモチーフを何枚作れるかを確認するために作つてゐる。
Masquerade は Mary Konior のデザインしたモチーフで、Tatting with Visual Patterns に掲載されてゐる。

目的はある。
覚えてもゐる。
でも「もーどーでもいいかな」といふ気分にもなつてゐる。

なにか大きなものを作らうと思つて三玉とか五玉とかおなじ色の Lisbeth #40 の糸を買つてある。
いきなり作りはじめて糸が足りなくなるのも困る。
それで今回のモチーフつなぎをはじめたわけだ。

「もーどーでもいいかな」といふ気分になつてゐるわけは、作りはじめてからだいぶ時間がたつてしまつたからだ。
当初の意欲が消へかけてゐる。
一玉でどれくらゐのものが作れるのかもわかるが、一玉でどれくらゐ時間のかかるのかもわかつてきたからだ。

あみものはお休みしてタティングに切り替へるといふの手もある。
あたたかくなつてきたし、それでもいいかな、といふ気もする。

いづれにしても残りのレース糸は結構な量があるので、まづはつなぎ忘れをごまかすことにする。

Monday, 06 March 2017

中断するとき

トゥヴォーエンズスティックニングのくつ下はあまり進んでゐない。

右手に糸をかけて編むことと、編み図を確認しながら編むこととに慣れてゐないからだ。
進まないのは想定のうちではある。

さうかうするうちに、なんだかあたたかくなつてきてしまつた。
袖なし羽織、半分までは編みたかつたんだがな。

だが、半分までといふきりのいいところまで編んでしまふと続きがなかなか編みはじめられないやうな気もする。
つづけるための手だてとして、「半端なところではふつておく」といふのがあるからだ。

小説家などは、その日の仕事を終へる際、きりのあまりよくないところでやめるのだといふ。
さうすると翌日仕事をはじめる際にはじめるきつかけがつかみやすいのださうな。
森博嗣だつたかは、原稿を手書きしてゐたら字の途中でやめるだらう、といふやうなことを書いてゐた。

あみものやタティングレースに関してはやつがれはきりのいいところで中断することが多い。
あみものの場合は針から糸がはづれにくいやうな状態にする。
タティングレースなら目のゆるんでこないやうな状態にする。有り体にいふなら、リングを閉じた状態にする。
その方がまた始めるときに取り出しやすいからだ。

縄編みの場合は、縄編みまで編んでやめる。
次に手に取るときは縄編みのない段を編むやうにする。
さうすると、どこまで編んだか編みながらわかるし、とりあへず編めばいいのではじめやすいからだ。

今回の模様編みの場合は、足の裏部分がわかりやすい模様になつてゐるので、甲部分を編んで中断するやうにしてゐる。
再開するとき、これまたとりあへず編みはじめられるやうにしてゐるわけだ。

工夫はしてゐるんだけど、なかなか進まないねえ。
トゥヴォーエンズスティックニングつて左手に糸をかけた状態では編めないのか知らん。
そんなことはないと思ふんだがな。
と、ここで調査を始めるとまた進まなくなるし、それよりなにより手の加減が変はるので、ひとまづはこのまま右手に糸をかける方式でゆきたい。

Friday, 03 March 2017

どーでもいいことを書きたい

二月の頭にMoleskine を遣ひきつたとき、システム手帳一冊だけを遣ふことにした。
以降、書く量はすこし減つた。

理由として、Bullet Journal はなにか書くときにまづお題を書くといふきまりがあるからだと思つてゐる。

たいていお題はその日の日付だが、たとへば本の感想ならその本の題名がお題になるだらうし、旅行の予定をたてるなら行く先がお題になるだらう。

お題ありきでないと書きはじめられない。
いや、それは云ひすぎか。
お題がないやうなぼんやりとしたあれこれは Bullet Journal だと書きづらい。
そして、いままで Moleskine などの雑記帳に書いてきたのはさういふ「お題のとくにないぼんやりとしたあれこれ」だつたことに気づく。

これまでは、Moleskine の一ページを遣つてこころにうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけてゐた。
あとで見返して「これがお題かなー」と思ふやうなことに赤青鉛筆で下線を引いたり引かなかつたりしてゐた。

さういふのを書かなくなつたんだな。

「お題のとくにないぼんやりとしたあれこれ」も書きたい。
なんとなく。

さうした「心にうつりゆくよしなしごと」を箇条書きとして書くことに慣れてゐないんだらうな、とは思ふ。
そして、とくにお題のないものが減つたため、お題のある見返しやすい手帳になつてゐるな、とも思ふ。

でも、なんていふか、どーでもいいぼんやりしたことも書きたいんだよ。
理由はないけど。
楽しいからかな。

といふわけで、「お題のとくにないぼんやりとしたあれこれ」をどう書くか、なにに書くかをこれまたぼんやりと考へてゐる。
書かないことにも意味があるし、その結果時間の余裕も生じはするんだけどさ。

ムダなことしか好きぢやないんだよ。
残念なことに。

Thursday, 02 March 2017

見に行かないけど歌舞伎が好き

歌舞伎が好きだが歌舞伎は見に行かない。
大いにありうることだと思つてゐる。

野球は好きだがプロ野球の試合を見に行くことはない、といふ人は多い。
行ける日時に試合があるとはかぎらない。
野球観戦に行く余裕がないこともあるだらう。金銭的にも時間的にもね。

かくいふのは、身近に野球は好きだけれど試合は見に行かないといふ人間がゐたからだ。
積極的に見に行かないわけではない。
見に行く機会や余裕があれば行くだらう。

プロ野球チームの球場がわりと近くにある状況でかうだ。
遠いところにあつたらますます行く機会はすくなくなる。
行つてみたいと思ひつつ、行かぬままに過ごす野球ファンといふのはかなりの人数になると思つてゐる。

歌舞伎についても、好きだけれども劇場に行くことはないといふファンが多くてもをかしかない。

一年を通して上演してゐるのは東京にある歌舞伎座だけで、ほかに名古屋・京都・大阪・福岡などで年に一、二度、ときに三度ほど上演があるのと、巡業といつて全国を回る興行があるくらゐで、あとは上演するとしても東京にある劇場にかぎられる。

見に行くことのない人、多いよね、絶対。
テレビで見て歌舞伎好きだな、とか、見てみたいな、と思ふこともあるかもしれない。
巡業で近くに来たので行つてみたら気に入つた、といふこともあるかもしれない。
でもその先なんらかのアクションを起こすのがむづかしいことも多からう。

見に行かないけれど、歌舞伎が好き。
好きだから語りたい。
さういふ人もゐることだらう。
うかつに「見たことないくせに」とは云へないなあ。

Wednesday, 01 March 2017

覚えるといふより集める

単語の蒐集をすることにした。

今朝から Living with the Dead Language といふ本を読み始めた。
出版業界で編集に携はつてゐた著者が退職後ラテン語の勉強をはじめた。それはなぜか。
といふやうな内容の本だと思つてゐる。いまのところ。

著者は、こどものころからことばに大変興味を抱いてゐたのだといふ。
はじめて見聞きすることばがあると、ノートにつけてゐたのださうな。
そのうち末尾が「-id」の単語の蒐集にひろがつた、などと書かれてゐる。

なるほどー。
それはおもしろいかもしれないな。

学校に通つてゐたころには人並みに単語帳を手に入れて、英語の勉強の一環として知らない単語・覚えたい単語を書いてみたりしたこともある。
何度かためしてみて、つづかなかつた。
単語帳の体裁がやつがれ好みでなかつたといふのがひとつ。
根気がないからといふのがもうひとつ。
そして、自分で書いた自分の字など見返したいと思はなかつたから、といふのが一番大きな理由かな。
なにしろ、読みづらいからね。

日本語にしろ英語にしろ、どうも語彙力に欠けるのは、このせゐかもしれない。

それがなぜはじめてみる気になつたのか。
さういふ気分だつたから、かな。

システム手帳の方眼罫のリフィルに書くので、これといつた体裁はない。
ひとまづ Bullet Journal にならつてページの上に「Words」と大書し、書きはじめた日付として今日の日付を書き入れた。
あとは一行おきに単語を書いて、その横に辞書からひろつてきた意味を書く。
「ひろつてきた」と書いたのは、辞書のその単語の欄を読んで、気に入つたものを書いてゐるからだ。
あまり書きすぎても見づらくなるので、あるていど取捨選択する。

単語を覚えるといふ用途であるならば、単語の使用例も書くべきだらう。
でもそれはしない。
以前、それをしてつづかなかつたからだ。
つづけるにはできるだけかんたんにしておく必要がある。

それに、なにも単語を覚えやうとしてこの記録をつけるのではない。
あとで読み返して「あー、このときはこんな単語を調べたんだなー」と感慨にふけるためにつけてゐる。
だから見やすければいいのである。
せいぜい丁寧に読みやすく書くことに気をつければそれでいい。

いまは英単語だけだが、日本語でもつけるつもりだし、ほかの国のことばもあればつけたいと思つてゐる。
つづくやうなら綴じノートにつけるやうにするとか、そこらへんも考へるつもりだ。
なんか、ちよつと、楽しい気分だ。

2月の読書メーター

2月の読書メーター読んだ本の数:6読んだページ数:1640ナイス数:10Bridge of Words: Esperanto and the Dream of a Universal LanguageBridge of Words: Esperanto and the Dream of a Universal Language感想エスペラント語前史といふか、Universal Language の歴史的部分がおもしろかつた。エスペラント語の歴史と著者がエスペラント語のイヴェントなどで世界各地で出会つた人々との話が交互に出てくる構成。ユダヤ的とはどういふことかといふ内容が主で、時々「その内容は本当に必要なのか」と思ふこともある。エスペラント語誕生の時期と世界の情勢とを合はせて考へるのもおもしろい。最後の方にエスペラント語やエスペラント語を話す人々の未来はどうなるかといふ話も出てきてこれまた興味深い。読了日:02月06日 著者:Esther Schor
はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)はじめての短歌 (河出文庫 ほ 6-3)感想人前でスマートフォンを使ふことに抵抗を覚えるのは「コンビニ的圧力」への内なる抵抗と同じなのかな。「生きのびる」と「生きる」でいふと、万年筆は「生きる」側な気がするし、噺家も「生きる」タイプの方が好きな気がする。だから自分は生きのびづらいのだらう。読了日:02月07日 著者:穂村 弘
歴史をつかむ技法 (新潮新書)歴史をつかむ技法 (新潮新書)感想史料批判とか、現在の価値観でなく当時の価値観で考へるとか、それがむづかしいんだけどなー。そしてそれは歴史だけに限らない。なにごとにもあてはまる気がする。歴史の教科書の最初に歴史を俯瞰する部分がないといふのはその通りかも。あつたらもうちよつと違ふんだらうか。読了日:02月10日 著者:山本 博文
太平記(一) (岩波文庫)太平記(一) (岩波文庫)感想時々誰がどつち側かわからなくなつたりはするものの、とてもおもしろく読める。義太夫の人がそのまま語れさうな感じで、時折脳内で妄想再生して見てゐる。楽しい。読了日:02月22日 著者:
文学の楽しみ (講談社文芸文庫)文学の楽しみ (講談社文芸文庫)感想云はれてみれば「classic」に「古い」といふ意味はないなあ。「古典的な」といふ訳をあててしまつたから古い気がしてしまふけれど。精々「伝統的な」くらゐで、伝統的であることと古いこととは別な気がする。ちやんと理解できたわけぢやないが、見るもの読むもの聞くものなにもかもが楽しくなつてくるやうな本である。読了日:02月27日 著者:吉田 健一
The Fall of the House of UsherThe Fall of the House of Usher感想冒頭部分を音読すると、それだけでなんだか重たくどんよりとした気分になつてくる。さういふ気分にさせる音が続くんだらう。全部音読したらどうなるんだらう。読了日:02月28日 著者:Edgar Allan Poe
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