手書きもポメラも
見た芝居や映画、読んだ本について思つたことなどは、基本的には手帳に書き記してゐる。
書いてゐると、「もつと速く書きたい」といふ思ひにとらはれることがある。
手書きだと時間が足りなくて書き尽くせないといふ焦りも覚える。
いつそ、ポメラで書いたらいいんぢやあるまいか。
さうも思ふ。
愛用してゐるポメラDM100はほとんど文房具だ。
ノート兼筆記用具とでもいつていい。
このblogのエントリもほとんどポメラで書いてゐる。
キーボードが打ちやすいからだらう、自宅のMacBook Airや職場のWindowsマシンで書くよりもよほどたくさん書けるし速く書ける。
たくさん書けると思ひもしなかつたやうなことを書いてゐたりもする。
書いてゐることに付随した、場合によつては全然関係のないアイディアが浮かんだりもする。
書くことにストレスを感じないとかういふこともあるのだな、とよく思ふ。
やつがれの手跡は大変な癖字で、読みやすさとは真逆の字である。
あとで見返したときに見やすいやうにできるだけ読みやすく書かうとはするのだが、あまり成功してゐない。
記録を残すなら、手書きよりポメラだ。
さうは思ふのだけれどもねえ。
1990年代後半、なんだかよくわからないがやたらと長い小説が出版される時期があつた。
何冊か読んで、中には「これさー、手で書いたらきつとかうはならないよね」といふものもあつた(ちなみに京極夏彦の小説ではない)。
当時はもうワードプロセッサを使つてゐる人も少なかつたらうから、おそらくはPCに向かつてキーボードで打つてゐたのだらう。
キーボードで打つから饒舌になる。
ぢやあ手で書いたら?
この作家たちは、手で書いてもこんなに長くて時に冗長としか思へない(そしてそれが持ち味でもある)小説を書くのだらうか。
文章は、使用する道具に左右される。
文体も内容も量も、場合によつては質も、だ。
手で書いてもキーボードで打つてもまつたくおなじものが書けるといふ人はまれだらう。
文体や内容が道具の変化(進化かもしれない)によつて変はるのは至極当然のことなのかもしれない。
木簡や竹簡に書いてゐた時代と紙に書くやうになつた時代とでは違ふだらうし、紙が高価で入手困難だつた時代と比較的安価で手に入りやすくなつた時代とでもまた違ふだらう。
もう木簡に書くやうなことはしないとしても、紙に字を書くこととキーボードで打ち込むことと、両方できるのなら両方やつてみやうぢやないの。
そんな気分なのかもしれない。
ポメラで書いた場合とノートに書いた場合と、文体がことなるかといふと、自分ではよくわからない。
一見して違ふのは漢字の量かな。
手書きだと漢字とひらがな・カタカナとで大きさや文字と文字との間隔を無意識のうちに調整するのだらう、漢字が多くてもあまり気にならない。
その点、ポメラで書いた場合は画面上に漢字が多いと読みづらく感じる。
それでもまだ漢字は多い方だ。
blogを書くときは、かういふかな遣ひであることもあつて、ほんたうはひらがなにしたいところをわざと漢字にすることもある。
ひらがなのままだと読みづらいんぢやないかと思ふからだ。
記録は、デジタルで残した方が検索がしやすくていい。
さう思ひつつ、紙の手帳に向かつてしまふのは、なぜなのか。
好きだからなんだけれど、ではなぜ好きなのか。
どうでもいいか、そんなことは。
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