努力をしない云ひわけ
もつときれいに字が書けたら。
ときたまさう思ひつつ、きれいに書けるやう努力することはしない。
あみものやタティングレースにしてもさう。
もつときれいに編めるといいのに、とか、もつと速く結べるといいのに、と時折思ふが、さうできるやうにならうとはしない。
あみものやタティングレースは、数をこなしていくうちにだんだん目もそろふやうになるし、ある程度は速く作れるやうになる。
数を作ればコツがわかつてくるので、やつがれの場合はくつ下であればほぼ自分の足にぴつたりのサイズに編むこともできる。
でも、それは数をこなしていくうちに自然とさうなつたのであつて、「さうしやう」だとか「さうならう」と思つた結果ではない。
だから数をこなすことつて大切なんだよね、といふのはまた別の話である。
なぜきれいに書けたりきれいに作れるやう努力をしないのか。
所詮自分にそんなことができるやうになるわけがないからだ、とあきらめてゐるからだ。
こどものころから不器用であると云はれつづけ、自分でも学校などで周囲とおなじことをしてゐるつもりが全然できてゐないことをいやといふほど経験してゐる。
自分にはムリなのだ。
自分にはできつこない。
やるだけ時間のムダだ。
さう思つてゐるからだ。
それは逃げではないのか。
やつてもみずになにを云ふ。
さう云ふ人もあるだらう。
字にしても、自分ではかう書かうといふ気持ちはある。
理想とする字といふかね。
でも手がさうは動かない。
必ず妙な動きをする。
自分で手の動きを制御できない。
だから不器用なのだらう。
気をつけて途中まではうまく書けても、最後までそれがつづかない。
なんでかね。
我ながら不思議である。
字がきれいなのがいいと思ふのは、その方があとで自分の書いたものを読み返しやすいからだ。
書いたものからなにか探すにしても、きれいな方が見つけやすい。
わかつてはゐるのだ。
わかつちやゐるけどできないんだよねえ。
それで時々なにもかもイヤになつて、もういつそメモの類は全部スマートフォンやポメラにまかせてしまはうか、と思つたりするわけだ。
デジタルにしてしまへば検索は容易になるからね。
でもポメラのテキスト形式はともかく、スマートフォンはいつまでもつのかわからない。
次に出てくるものが出回つたらあつといふ間に入手できなくなつてしまふかもしれない。
入手できなくなつたうへ、ためてゐた情報にアクセスできなくなる可能性もある。
なんだかわからないが次に出てくるものに移行できればいいけれど、さうかんたんには移行できないやうな予感もする。
テキスト形式にしても、たまたまここ何十年か使へてゐるといふだけで、この先も使へるとはかぎらない。
……うーん、まあ生きてゐる間くらゐは大丈夫かな。
それを考へると紙にペンで字を書いた方が確実な気がする。
とはいへ、そんなに一生懸命なにを残すのか、といふ話はある。
なぜ?
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