里の人の中で生きのびるには
からだの片端ものなら世間も面倒みてくれるが、性分の片端ものは世間も相手にしてくれない
先日、横浜シネマリンで小林正樹の映画「いのち・ぼうにふろう」を見てきた。
見てはいけないと思つてゐた。
わかつてゐたからだ。
冒頭に掲げたやうなせりふが出てくることが。
「いのち・ぼうにふろう」は、山本周五郎の「深川安楽亭」が原作の映画だ。
大名屋敷に囲まれた川の真ん中の孤立した小島にある一銭飯屋の安楽亭は立地条件を生かして密かに抜け荷を扱つてゐる。
その安楽亭を根城にした「性分の片端もの」たるあらくれ男たちが、幼なじみの娘を苦界から救ひたい一心の若ものに心動かされて「命を棒にふつて」人助けをしやう、といふやうな話だ。
「性分の片端もの」、ね。
その直前に、穂村弘の「はじめての短歌」を読んでゐたのもよくなかつた。
「はじめての短歌」は、穂村弘がビジネスマン向けに行つた短歌講座の講義部分をまとめたものである。
中で、「生きのびる」ことと「生きる」こととの違ひについて語つてゐる。
「生きのびる」とは社会的であり社会の中でうまく人とやつていくこと、「生きる」とは非社会的で効率とかなんとかさういふことはあまり考へないこと、かな。
通勤電車に乗るとする。
このまま職場のある駅を降りずに終点まで行つたら海に着く。
穂村弘は勤めてゐたころ毎日さう思つてゐたのださうだ。
そのまま海まで行つてしまふのが「生きる」、ちやんと職場のある駅で降りるのが「生きのびる」だ。
もちろん、毎日「生きのびる」わけだけど、でもやつぱり「生きる」ことに惹かれてしまふ。
やつがれの場合、終点まで電車に乗つても海や山には着かない。
反対方向に行く電車に乗らないとダメだ。
そして反対方向に行く電車に乗るには隣のホームに行く必要がある。
「生きる」ために超えるハードルがいくつかある。
だからなんとか「生きのび」てゐられるわけで、さうでなかつたらとつくに「生きる」を選択してゐる。
「はじめての短歌」を読んで自分のダメさ加減にがつくりきてゐたところにもつてきての「いのち・ぼうにふろう」だつた。
「性分の片端もの」のせりふがあるのは知つてゐたから、安楽亭の主・幾造(中村翫右衛門)が「からだの片端ものなら」と云つたときにちやんと身構へた。
来るぞ、とガードをかためた。
無駄だつたね。
「性分の片端ものは」ときたときにがつーんときれいにアッパーカットをくらつて即KO。
「Good-bye, Baseball!!」くらゐの勢ひで場外にとばされた。
わかつてゐたのに。
わかつてゐたからか。
安楽亭にゐるものはみな山のけもののやうなものだ、と幾造は云ふ。
けものだから悪いことをしても悪いと思はないし、自己中心的で自分が大事だ、他人とつきあはうなんてな了見は持たない。
「人間の中の片端もの」なのだ、と。
いちいち思ひあたることばかりだ。
そんな性分の片端ものたちが、一途に幼なじみの娘を救はうとする若ものに触発されて、みづからのいのちを棒にふつてもいいぢやあないか、と人助けをする。
さういふ男たちを見て、幾造は云ふ。
「はじめてひとのために何かしやうつて気になつたな」と。
幾造は「性分の片端もの」たちを守つてゐたんだな。男たちの父親くらゐの世代だらう。
安楽亭を畳まうといふときになつて、幾造は男たちにいふ。
「お前たちはもうここを出ていつても大丈夫だ。人助けをしやうとした気持ちさへ忘れなきや生きていける」
といふやうなことを。
思ふに、幾造も若い時分には「性分の片端もの」だつたんだらう。
若いうちは幾造がさういふ人間であることを理解してくれてゐる人に守られてゐて、あるときやつぱり人のためになにかしやうといふ気持ちになつて、それでいまがあるんぢやないか。
あらくれ者の中では与兵衛(佐藤慶)に幾造のやうになれさうな感じがあつたんだがなあ。
あるいは一番業の深さうな源三(岸田森)か、吃音ではあるものの文太(山谷初男)か。
でもやつぱり、山のけものは麓の人間と交はると、命を落とすことになる。
それがたとへみづから進んで落とすのだとしても。
穂村弘は、人は二重生活を送つてゐるといふ。
「生きのびる」と「生きる」とのあひだをおそらくは無意識のうちに行つたり来たりしてゐる、と。
「性分の片端もの」もまた、二重生活を送つていけるのだらうか。
山のけもののやうに暮らしつつ、里の人々のあひだに交ぢつてもうまくやつていけたりするのだらうか。
「いのち・ぼうにふろう」を見るかぎりでは、それはムリなやうに思はれてならない。
ただひとつなにか救ひがあるとするならば、これを書くまではひどく落ち込んだ気持ちでゐたけれど、書いたいまは晴れ晴れとした気分だ、といふことかな。
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