他人に見てもらふといふ動機
三年くらゐ前だらうか、ある人が旦那さんの作つたガンダムのプラモデルの写真を Twitter で公開したことがあつた。
作つても自分しか見る人間がゐないのはもつたいないと思つて、とのことだつた。
プラモデルの出来が大変すばらしく、絶賛されてゐた、と記憶する。
でも件の旦那さんはとくにblogなどはじめるつもりもなく、これからもブラモデルを作りつづけると云つてゐる、といふ話だつたやうに記憶する。
かういふ人つて、実はたくさん存在するのぢやあるまいか。
ヘンリー・ダーガーのやうにひとりで延々と誰読むこともない小説を書き続けてゐる人とか。
小説とはかぎらないか。
まんがとか詩とか曲とかといふ場合もありうる。
絵を描きつづけてゐるとか、彫刻を作りつづけてゐるとか、手工芸系のものもあるだらう。
やつがれはあみものやタティングをする。
できたものや、できてゐない中途のものもこの blog などで公開してゐる。
作る動機のひとつに、さうやつてほかの人に作つたものを見てもらふといふのがある。
公開するすべがなくても作りつづけはするだらう。
公開しないものもあるわけだし。
でも blog で公開しないとなつたらどうかなあ。
ひとつ試してみるかなあ。
自分しか読まないかもしれないメモを延々と書き続けてゐる、といふのもある。
ひたすら未来の自分が読んだらおもしろいかもしれないといふものを書き続けてゐる。
といふのはウソか。
そのとき忘れたくないものとか、とにかくなにか書きたくて書いたものとかもある。
なかには blog の元になるものもあるけれど、大半はならない。
作るだけ作つて人に見せることはしないといふのはよくわからないな、と、冒頭のガンダムのプラモデルの話を読んだときは思つた。
作つたらやつぱり人には見せたいぢやん。
この人にとつては Twitter に「みんなも見て」と投稿してくれた奥さんがいい観客なのだらうといふ気がする。
作ると、「わー、すごいねー」とか「ここんとこ、よくできてるよねー」とかいふリアクションがあるのではあるまいか。
リアクションがないとしても、世に聞く旦那さんのプラモデルを全部燃えるゴミに出してしまふなんてなことのない奥さんなのだと思はれる。
それだけでも作る気持ちの支へになるのではあるまいか。
と書いてゐて、これもウソだな、といふ気がする。
だとしたら、やつがれが延々と書いてゐる自分しか読まないメモはどうなるのか、といふ話になるからだ。
書いたものはそのまま廃棄される。
自分でするかほかの人がしてくれるのかはわからないが、行く先は資源ゴミのゴミ捨て場だ。
それとわかつてゐても書いてしまふ。
心のどこかで「それでもいづれ日の目を見ることがあるかもしれない」と思つてゐるからか。
うーん、まつたくないとはいへないが。
でもあるとも思へない。
なんで書いてゐるのかね。
好きだから?
まあ、それはさうかもしれない。
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