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Tuesday, 28 February 2017

つなぎ忘れる

タティングレースのモチーフつなぎは13枚めができたところだ。

しかし、つなぐのを忘れてしまつたので、つないだ枚数は増えてゐない。
現在14枚めを作つてゐて、13枚めと本体とをうまいことつなぎ合はせやうとしてゐるところである。

いまのところ本体は3列×4列の12枚つながつてゐる。
これをこの先どうつないでいくかについてはさんざん悩んだ結果、ひとまづは4列×4列を目指すことにきめてゐた。
14枚めを作りつつ13枚めと本体をつなぐといふことは、5列めのことを考慮する必要がある。
5列×4列にするか。
それとも4列×4列はあきらめて、3列×5列にするか。

そのときの気分かなあ。

Mary Konior の Maquerade はほぼ正方形のモチーフで、四枚を(ほぼ)正方形になるやうつなぐと中央にモチーフとは異なる模様が浮かびあがる。
このつなぐとできる模様をどう配置したいかによつてモチーフのつなぎかたも変はつてくる。

正方形に近い形につないで、模様もほぼ正方形に並ぶやうにしたいやうな気がしてゐるのだが。
でもいま長方形につないでゐて、これもまたいい気もしてゐる。
うーん。
悩むなあ。

糸はまだ十分残つてゐる。
まづは13枚めをうまくつなぐところからはじめるとするか。

Monday, 27 February 2017

右手に糸をかけて編む

くつ下を編み始めてしまつた。
袖なし羽織はまだ半分も編めてゐないといふのに。

すこし前に久しぶりにあみものの本を買つた。
Knitting Scandinavian Slippers and Socks といふ本だ。
中を読んでみたら、トゥヴォーエンズスティックニングで編むものだつた。

トゥヴォーエンズスティックニングは、スウェーデンの伝統的なあみものの手法で、もともとは糸が弱いのを補ふために編み出したもの、と聞いてゐる。
昔は羊毛が貴重だつた。着古したセーターなどを繊維の状態に戻して糸を紡いだといふ。
これは想像だが、セーターなどはおそらくフェルト化してしまつてゐて糸をほどけるやうな状態ではなかつたのぢやあるまいか。
かうして作つた糸は弱い。
そこで、しつかりした編み地になるやうに二本の糸で編んでいく方法が生まれた、のらしい。

二本の糸で編むので編み込み模様が多いが、一色でも編む。
編み込み模様を編む場合、通常は主となる色ともうひとつの色とがあつて、糸を上に渡す方はつねに上、下に渡す方はつねに下になるやう編み、糸同士が交差することはない。

トゥヴォーエンズスティックニングの場合は、糸を代へるたびに次の糸を前の糸の上を渡す。

Wheel-of-Heart Slipper in Progress

このときに糸に回転がかかるので、その方向からZ撚りの糸が適してゐるといはれてゐる。
棒針編みには普通はS撚りの糸といはれてゐるのと対照的だ。

題名には「Slippers」と「Socks」とある。
Slippers は並太の糸で編むことになつてゐて、丈は短くくつ下の上にさらに履くものといつた感じだ。
Socks は中細の糸で編む普通のくつ下である。

これを編んでみたくてね。
できれば Slippers の方を。
しかし、手持ちにちやうどいい太さの糸がない。
おそらくパピーのクイーンアニーくらゐがよささうなのだがなあ。
仕方がないので、多少細いがイエーガーのマッチメイカーDKを出してきた。

で、編み始めたのが Wheel-of-Hearts Slippers である。

Wheel-of-Heart Slipper in Progress

作り目は八の字の作り目なのでとくに目新しくはない。
問題なのは、右手に糸をかけて編む、といふことだ。

普段は左手に糸をかけて編んでゐる。
右手に糸をかけて編む方法もやつたことがないわけではない。
一時、メリヤス編みと裏メリヤス編みとで手の加減が変はることで悩んでゐた。
右手に糸をかける方法で編むと、メリヤス編みも裏メリヤス編みもおなじテンションで編めるときいて、試してみたことがある。

でもまあ、目がそろふところまでつづけられなかつたんだな。
右手の動きが忙しないのがダメだ。
針を編み目にいれて針から手を離し、糸を手にして針にかけて糸から手を離し、また針を手にして糸をひつかけたまま編み目から抜く。
シェットランド諸島の早編みの人が編むさまなどを見てゐると、この一連の作業が実になめらかで針や糸から手を離してゐることなどまつたく感じられないのだがなあ。

今回はちよつとやつてみるかな、といふので、果敢に右手に糸をかける方法で編んでゐる。

だから編み目も全然そろはない。
かういふときに己の不器用さを思ひ知る。

編み地はとてもふかふかとしてあたたかさうだ。
できあがるころにはもうこんなものは必要ないかもしれないが、まあ、必要だから編むわけぢやあないのでそれはいいのだ。

Friday, 24 February 2017

安い朱色の「三人形」

先週、大阪松竹座で二月花形歌舞伎を見てきた。

昼の部のうち、「義経千本桜」の「大物浦」「碇知盛」は、後半が絶叫合戦になつてしまふのは想定内だし、こののち芝居の引き出しの増えることがあれば解消されるだらう。

問題は「三人形」だ。

「三人形」は奴・傾城・若衆の三体の人形に命宿つて舞ひ踊るといふ所作事である。

傾城の出てきたときのショックといつたらなかつたねえ。
衣装の朱色の安つぽいこと。
品もなにもありやしない。

もう二十年も前だらうか。
衣装の赤い色がぺかぺかと安つぽくなつていけない、といふ話があつた。
当時はよくわからなかつたけれど、「三人形」を見たときに「かういふことなのかな」と思ひ出した。

朱色だけならまだしも、帯が緑地なのがまた念入りに安つぽい。
文楽や歌舞伎で緑色と朱色との衣装を着る役つて、あんましいい人ぢやあない。
なんかもつとほかの色合ひにはできなかつたのだらうか。
以前見たときは朱色ではなくて赤だつたやうな気がする。

チラシの写真だとそんなに安つぽくも見えないんだけどな。
照明の問題だらうか。

さらにいふと、この傾城の衣装の朱色が若衆の衣装の色と壊滅的に合はない。
若衆は上が青紫、袴が明るい黄緑といつた衣装で、これは以前見たのとおなじだと思ふ。
この青紫と朱色とが実に合はない。
見てゐてつらくなつてくるくらゐに合はない。

歌舞伎を見て「この色合はせ、つらい(>_<)」とか思つたの、はじめだよ。

歌舞伎がほろびるとしたら、かういふところから滅びるんだらう。
歌舞伎座で、大道具のお粗末さに毎月さう思ふ。
床や畳を表現する布の敷きかたが、あまりにもいい加減だ。
ところどころ皺がよつて浮いてゐる。
今月はたうとうその浮いたところに足を取られた役者がゐたといふ。

見てゐると、大道具担当の中に粗忽な人がゐるのがわかる。
盆が回つてとまると、大道具の人々が出てきて上手下手それぞれの布の端を引つ張つてのばす。
このとき、布の両端をきちんとのばす人と、一番長くて鋭角の端だけしかのばさない人とがゐる。
後者のやり方をすると皺ができるといふ仕組みだ。

客席から見てゐてわかるのだから、大道具や役者、舞台関係者はみなわかつてゐるだらう。
わかつてゐて放置してゐたから蹴つまづく役者が出てくる。
これが年老いた役者でそのまま転んで骨でも折つてゐたらと思ふとおそろしくて仕方がない。

織りや染めにしてもさうだ。
玉三郎がときに超絶豪華な衣装を着るのはなにも自分をうつくしく見せるためだけではあるまい。
さういふ衣装を作ることによつて技術の継承をうながしてゐる。
さうだと信じてゐる。

何年も前にもう豆絞りの手ぬぐひは染められなくなつた、と聞いた。
このとき、確か菊五郎が一疋買ひ占めたと耳にした。
豆絞りの手ぬぐひがなかつたら、浜松屋の引つ込みができなくなる。
それとも買ひ占めたと聞いたのは藍微塵だつたか。
「切られ与三」の源氏店の場で、与三郎の着てゐる衣装の生地が藍微塵だ。
豆絞りはそれでも有松絞りでまだあるやうだから、藍微塵かもしれないな。

染めた赤い色がぺかぺかするのもさう。
襖の花丸が碌々描けてゐないのもさう。
かういふところから歌舞伎は滅びてゆくのだらう。

衣装や鬘、大道具・小道具は、今後はこれまで「歌舞伎らしい」と思はれてきたものとはと変はつてゆくのかもしれない。
「あらしのよるに」などを見ても、大道具で建物などを作成するよりプロジェクション・マッピングを取り入れていくのかな、といふ気がしてゐる。

でも、それは歌舞伎なのかな。
なにか違ふものになるのではないかな。
そんな気がしてゐる。

Thursday, 23 February 2017

やつぱり云ひ訳

こどものころから親や学校に云はれたことはさつぱりつづかなくて、「自分には根気といふものがないんだな」とずつとさう思つてゐた。

夏休みになると一日の生活をふり返つて、今日の天気はどうで、ラジオ体操には行つたから「○」、ゴミ捨てのお手伝いはしなかつたから「×」などとつける表があつた。
これを夏休みのあひだ毎日つける。
本来は毎日つけるべきなのだ。
でも、大抵は8/31にまとめて全部つける。
天気のことなど記憶にないからあいまいになる。
いまだつたらWebで検索をかければすぐなのにね。

また、親から「あれをやれ」「これをやれ」と云はれたこともつづかない。
部屋のかたづけやピアノ・そろばんの練習がそれかな。
毎日しなければいけないのに身につかないのに、できない。

自分には毎日毎日こつこつとなにかをしつづけることができないんだな。
長いことずつとさう思つてゐた。

ところが、最近になつて自分でやると決めたことは案外つづけられることに気がついた。

Bullet Journal に Tracker といふ形でその日一日できたことを○×でつけてゐる。
どの項目もほぼ毎日できてゐる。
やつてゐることはたいしたことではない。
でも親に云はれてつづかなかつた目の体操なども、いまはほぼ毎日できてゐる。
旅行などにいくとうつかり忘れてしまふこともあるが、また翌日からはつづけられてゐる。

なんだ、できるんぢやん。
自分にもひとつのことをずつとつづけることができる。
気がつかなかつたなー、いまのいままで。

そんな感じで気をよくしてゐたのだが、ただひとつできないことがある。
それは、睡眠時間を優先すること、だ。
一番重要だな睡眠時間の優先ができてゐない。

以前よりましになつてゐるのは確かだ。
以前は睡眠時間を削るやうにしてあみものやなにやらをしてゐた。
さうする以外に編む時間を捻出することができないからだ。
始発で出かけて終電で帰宅して、それでもあれこれやつてから寝てゐた。

朝起きて出勤して帰宅して夜寝る。
それだけの暮らしになんの意味があらうか。

当時はさう思つてゐた。
いまでもさう思つてゐる。

でもしたいことをするには気力や体力が必要だ。
睡眠が不足してゐてはしたいことも碌々できない。

そのことに気づいて、矛盾してゐるやうではあるけれどもしたいことをいろいろあきらめて睡眠時間の確保に汲々としてきた。
さう、汲々としてゐる。
睡眠時間の確保に。

一説によると、就寝時間がずるずると遅くなるのは、「やりきつた」といふ思ひがないからだ、といふ。
その日一日、したいことを思ふ存分してゐれば、なにもいつまでも起きてゐる必要はない。
ちやつちやと寝て、明日にそなへればいい。
そして明日、またしたいことを思ふ存分するのだ。

これには一理ある気がする。

確かに自分には「やりきつた」といふ感覚があまりない。
まつたくないと云つてもいいかもしれない。
最近だと京都に行つたときかな、「やりきつた」感を得ることができたのは。
それ以外は毎日したくもないことをこなすのに精一杯で、したいことなどほとんどできてゐない。
だから未練が残つてなかなか布団に入ることができないのだ。

では、たとへば今日K.ITOYAのやうな店が開業するとして、帰宅時に立ち寄るか、といふと、おそらく立ち寄らない。
立ち寄るとそれに時間をとられて睡眠時間がすくなくなるからだ。
立ち寄つた分の時間は、ほかのことで吸収しろよ、といふ話もある。
でも日々自分の行動を計測した結果、削れる時間はもう夕食の時間か入浴の時間しかない。
夕食を削つて文具店に行くか。

「やりきつた」といふ達成感を得るためには、睡眠時間を犠牲にする必要がある。
勤務時間や通勤時間はこれ以上削れないしね。

さうすると、毎日「今日もなにもできなかつたなあ」といふ未練ばかりがたまつていつて、それで就寝時間もどんどん遅くなつていく。
この達成感のなさをのりこえて布団に入るしかないのか。
さうするしかないとわかつてはゐて、でもやつぱりできないんだよなあ。

残る選択肢は、仕事をやめる、だが。
それをしてしまつては生計がたたなくなる。
わりきるしかないんだらうな。

Wednesday, 22 February 2017

きもちの問題

鎮静剤を求めるかカンフル剤を求めるかと訊かれたら、カンフル剤を求めるたちである。

その昔、小田晋はかう云つてゐた。
「かつての日本人はコカイン系より覚醒剤系を好んだ。
ぼーつとだらけた状態よりもヒロポンを打つて冴えた頭で遊んだり働いたりする方を求めた。
ところが最近はコカイン系が好まれつつある」

「最近」といふのは三十年前のことだ。
ニュースで耳にするのはあひかはらず覚醒剤の方が多いやうに思ふ。
実際のところは知らないけれど。
案外人の嗜好といふのはおほきくは変はらないものなのかもしれない。

ここでいふ「鎮静剤vsカンフル剤」と「コカイン系vs覚醒剤系」とは相似の関係にはない。
おそらく、世の中の人はカンフル剤より鎮静剤を求めてゐる。
「癒し」とか「癒される」とかいつてゐるのがさうだ。
神経を興奮させるよりなだめたい。
ぼーつとしたい、といふのは云ひ過ぎか、ほわほわといい気分になりたい。
さういふ人の方が多いやうに思ふ。

覚醒剤など摂取しなくても日々キリキリと過ごしてゐる人にはカンフル剤よりは鎮静剤の方が必要なのだらう。

自分に癒しは必要ないと思つてゐる。
別段病んでもゐないし傷ついてもゐない。
慢性的に疲れてはゐるが、それは睡眠不足たからで、それさへ解消されればかなり元気になれる自信がある。
解消されることがないので実際はどうなのかわからないが。
ゆゑに必要なのは十分な睡眠と、十分な睡眠をとるに足る環境といふか状況であつて、癒しではない。

だいたい、好きになるものがどちらかといふと神経を興奮させるもの、させがちなものばかりな気がする。

ソナタ形式でいふと第二楽章が比較的好きになるのは落ち着きたい系なのかもしれない。
それくらゐかなあ、ぱつと思ひつく「鎮静剤系」で好きなものといつたら。
囲碁とか将棋とかは一見落ち着いてゐるやうに見えて、あれはいくさだからね。
見た目ほど「鎮静剤系」ではない。

歌舞伎に出てくる登場人物で好きなのは仁木弾正だ。
好きな演目は「寺子屋」。
映画やTVドラマもどちらかといふとわーつと盛り上がる方が好きで、穏やかな日常生活の一コマを切り取りましたといふやうなものは自分には関係ないと思つてしまふ。

日曜日も新文芸坐で「赤穂城断絶」と「柳生一族の陰謀」とを見てかーつとなつてきたところだしね。

ふだんからぼーつとしてゐるからだらうな。
常態がぼんやりしてゐるので、これ以上鎮静剤は必要ない。
摂取したところで効きめもないのだらう。

カンフル剤を求めるのは理にかなつてゐるわけだ。

Tuesday, 21 February 2017

出不精なのにノマド向きのものを好むわけ

タティングレースのモチーフつなぎは12枚つないで、現在13枚めのモチーフを作つてゐるところだ。
モチーフは Mary Konior の Masquerade。
使つてゐる糸は Lisbeth #40 だ。

昨日、つないではいけないところをつないでしまつた。
しかも、そのあとダブルスティッチを8目も作つてしまつた。
あーあ。

といふわけで、ひたすらほどいてゐた。
これくらゐならほどくのである。

いま使つてゐるシャトルが GR-8 Tatting Shuttle なので、ほどくときには先についてゐるかぎ針を使ふ。
GR-8 Tatting Shuttle のかぎ針は先が鋭くない。
ゆゑにほどきにくいこともあるけれど、糸を痛めにくいと思つてゐる。
ほんたうならクロススティッチ用の針を使ひたいところだ。

さう思ふのは、三ヶ月ほど通つてゐたボビンレース講座の先生がさう云つてゐたからだらう。
先生は、間違へたところをほどくときにかぎ針を使つてはならないと教へてくれた。
糸が弱くなるからださうな。
かぎ針でひつかけたりして、糸がよれたりわれたりするのだとか。

ボビンレースの糸はあまり撚りが強くないのかな、とそのとき思つた。

ボビンレースはつづかなかつたなー。
ひとつには、通つてゐた講座の開催地が遠くなるからだつた。
ひとつとなりの駅のそばだつた開催地があんまりなじみのない場所に変はることになつてゐた。

それだけだつたらつづけたらうと思ふ。
おそらく一番の理由は、お道具が大きいからだ。
クッサンと呼ばれる円形の平たく大きな台を使はねばならない。
講座だけではたいして作れないので道具を持つて移動する。
これがなかなか苦痛でね。
しかも、移動できはするものの、出先でできるやうな手芸ではない。
する人もゐるのかもしれないけれど、その場合はかなり広いスペースが必要になる。
そして、お道具の出し入れに気を遣ふ。

向かないなー。

ボビンレースのやうな織りのレースに対するあこがれはある。
でも自分向きぢやないんだなー、すくなくとも今は。

いろいろやつてつづいてゐるものは、持ち歩けるもの、道具が比較的ちいさいものばかりだ。
あみものにしろタティングレースにしろ。
モバイルでないとつづかない。
Nina Libin いふところの nomad 向きの手芸しかつつかない。

nomad つて、出不精のくせに、といふ向きもあらう。
やつがれもその点が長いこと不思議だつた。
こんなに出かけるのが嫌ひなのに、なぜ手芸などはモバイルなものでないとできないのか。

出かけたくないから、なにか自分と外界とを遮断するものが必要なんぢやあるまいか。
一番いいのはヘッドフォンやイヤフォンをして音楽を聞きつつ外出することだらう。
でも、これがちよつと苦手だ。
ヘッドフォンならまだいいけけれど、イヤフォンは耳がかゆくなつてしまふのだつた。
かといつてヘッドフォンだとかさばる。
それに、歩いてゐる最中に音楽など聞いてゐたらなにか事故にでもあつたときに責任問題になる。
リスク回避なわけだ。

ほかには本や最近ではスマートフォンが自分を外界とへだててくれる手だてとなる。
本はともかく、スマートフォンにかかりきり、といふのもやつがれはとらない。
なんとなく、うつくしくないからだ。
いや、まあ、うつくしさはそんなに求めてないけどさ。
所詮自分のすることだし。

あみものやタティングレースが外界と自分とをへだてるものとしてうつくしいか、といふと、実のところあまりうつくしくはない。
一番まともなのは読書だらう。
自然な感じがするからだ。
あみものはまだしもタティングレースはしてゐる人がすくないからね。
なんとなく奇異な感じがする。
でも持ち歩きやすいからタティングにたよりがちではある。

そもそも、外出するのに外界と自分とを遮断するものが必要である、といふことがすでにうつくしくない。
わかつてはゐるのだが、持たずには出かけられないのだつた。

Monday, 20 February 2017

速く編めるやうになりたいか

袖なし羽織をちまちまと編んでゐる。

ストールのやうなサイズなので「ちまちま」といふ感じでもないのだが、やつてることはちまちましたことだ。

ギネスブックで世界一速く編めると認定されてゐる人の編んでゐるやうすを YouTube で見たことがある。
一目を編む動作がひとつに見える。

自分の場合は、一目を編む動作はふたつかな。
1. 針を編み目にとほして糸をひつかける
2. 糸をかけたまま針を編み目から引き出す

人によつては1.の動作がふたつになつて、全部でみつつといふ場合もあるかもしれない。

どうしたらこの動作をひとつに感じられるやうにできるのだらうか。
これができたらもつと速く編めると思ふんだよね。

速く編みたいのか。
そこはちよつと問題ではある。
速く編めるにこしたことはない。
速く編めればそれだけ多く編むことができる。
その一方で「速く編むことが目的ぢやないでせう」といふ話もある。

「Domino Knitting」に書いてあることばだ。
ドミノ編みは時間のかかる編み方である。
でもそれがなんだといふのか。
楽しむために編んでゐるんでせう。
だつたらいいぢやない。

かつては、あみものが生活を支へてゐることもあつた。
以前職場にゐた人の話に聞いた。
その人の親戚は米国に移住してゐて、家計の一部をかぎ針編みで支へてゐる、といふことだつた。
なぜかぎ針編みなのかといふと、棒針編みだと機会で編んだものと違ひがわからないからだといふことだつた。
親戚の人々は、ものすごく速く編むのださうだ。

編んでいくうちに自然と手は速く動くやうになる。
さういふ速さならいい。
速くならうとして速くなるのは、なんか違ふ気がする。
スポーツぢやないわけだしさ。

とはいへ、袖なし羽織を作るには、もつと速く編めたらいいのになあと思はずにはゐられないことも確かなのだつた。

Friday, 17 February 2017

努力をしない云ひわけ

もつときれいに字が書けたら。

ときたまさう思ひつつ、きれいに書けるやう努力することはしない。

あみものやタティングレースにしてもさう。
もつときれいに編めるといいのに、とか、もつと速く結べるといいのに、と時折思ふが、さうできるやうにならうとはしない。

あみものやタティングレースは、数をこなしていくうちにだんだん目もそろふやうになるし、ある程度は速く作れるやうになる。
数を作ればコツがわかつてくるので、やつがれの場合はくつ下であればほぼ自分の足にぴつたりのサイズに編むこともできる。

でも、それは数をこなしていくうちに自然とさうなつたのであつて、「さうしやう」だとか「さうならう」と思つた結果ではない。

だから数をこなすことつて大切なんだよね、といふのはまた別の話である。

なぜきれいに書けたりきれいに作れるやう努力をしないのか。
所詮自分にそんなことができるやうになるわけがないからだ、とあきらめてゐるからだ。

こどものころから不器用であると云はれつづけ、自分でも学校などで周囲とおなじことをしてゐるつもりが全然できてゐないことをいやといふほど経験してゐる。
自分にはムリなのだ。
自分にはできつこない。
やるだけ時間のムダだ。
さう思つてゐるからだ。

それは逃げではないのか。
やつてもみずになにを云ふ。
さう云ふ人もあるだらう。

字にしても、自分ではかう書かうといふ気持ちはある。
理想とする字といふかね。
でも手がさうは動かない。
必ず妙な動きをする。
自分で手の動きを制御できない。
だから不器用なのだらう。
気をつけて途中まではうまく書けても、最後までそれがつづかない。
なんでかね。
我ながら不思議である。

字がきれいなのがいいと思ふのは、その方があとで自分の書いたものを読み返しやすいからだ。
書いたものからなにか探すにしても、きれいな方が見つけやすい。
わかつてはゐるのだ。

わかつちやゐるけどできないんだよねえ。
それで時々なにもかもイヤになつて、もういつそメモの類は全部スマートフォンやポメラにまかせてしまはうか、と思つたりするわけだ。
デジタルにしてしまへば検索は容易になるからね。

でもポメラのテキスト形式はともかく、スマートフォンはいつまでもつのかわからない。
次に出てくるものが出回つたらあつといふ間に入手できなくなつてしまふかもしれない。
入手できなくなつたうへ、ためてゐた情報にアクセスできなくなる可能性もある。
なんだかわからないが次に出てくるものに移行できればいいけれど、さうかんたんには移行できないやうな予感もする。

テキスト形式にしても、たまたまここ何十年か使へてゐるといふだけで、この先も使へるとはかぎらない。
……うーん、まあ生きてゐる間くらゐは大丈夫かな。

それを考へると紙にペンで字を書いた方が確実な気がする。

とはいへ、そんなに一生懸命なにを残すのか、といふ話はある。
なぜ?

Thursday, 16 February 2017

他人に見てもらふといふ動機

三年くらゐ前だらうか、ある人が旦那さんの作つたガンダムのプラモデルの写真を Twitter で公開したことがあつた。
作つても自分しか見る人間がゐないのはもつたいないと思つて、とのことだつた。
プラモデルの出来が大変すばらしく、絶賛されてゐた、と記憶する。
でも件の旦那さんはとくにblogなどはじめるつもりもなく、これからもブラモデルを作りつづけると云つてゐる、といふ話だつたやうに記憶する。

かういふ人つて、実はたくさん存在するのぢやあるまいか。

ヘンリー・ダーガーのやうにひとりで延々と誰読むこともない小説を書き続けてゐる人とか。
小説とはかぎらないか。
まんがとか詩とか曲とかといふ場合もありうる。
絵を描きつづけてゐるとか、彫刻を作りつづけてゐるとか、手工芸系のものもあるだらう。

やつがれはあみものやタティングをする。
できたものや、できてゐない中途のものもこの blog などで公開してゐる。
作る動機のひとつに、さうやつてほかの人に作つたものを見てもらふといふのがある。

公開するすべがなくても作りつづけはするだらう。
公開しないものもあるわけだし。
でも blog で公開しないとなつたらどうかなあ。

ひとつ試してみるかなあ。

自分しか読まないかもしれないメモを延々と書き続けてゐる、といふのもある。
ひたすら未来の自分が読んだらおもしろいかもしれないといふものを書き続けてゐる。
といふのはウソか。
そのとき忘れたくないものとか、とにかくなにか書きたくて書いたものとかもある。
なかには blog の元になるものもあるけれど、大半はならない。

作るだけ作つて人に見せることはしないといふのはよくわからないな、と、冒頭のガンダムのプラモデルの話を読んだときは思つた。
作つたらやつぱり人には見せたいぢやん。
この人にとつては Twitter に「みんなも見て」と投稿してくれた奥さんがいい観客なのだらうといふ気がする。
作ると、「わー、すごいねー」とか「ここんとこ、よくできてるよねー」とかいふリアクションがあるのではあるまいか。
リアクションがないとしても、世に聞く旦那さんのプラモデルを全部燃えるゴミに出してしまふなんてなことのない奥さんなのだと思はれる。

それだけでも作る気持ちの支へになるのではあるまいか。

と書いてゐて、これもウソだな、といふ気がする。
だとしたら、やつがれが延々と書いてゐる自分しか読まないメモはどうなるのか、といふ話になるからだ。
書いたものはそのまま廃棄される。
自分でするかほかの人がしてくれるのかはわからないが、行く先は資源ゴミのゴミ捨て場だ。
それとわかつてゐても書いてしまふ。
心のどこかで「それでもいづれ日の目を見ることがあるかもしれない」と思つてゐるからか。

うーん、まつたくないとはいへないが。
でもあるとも思へない。

なんで書いてゐるのかね。
好きだから?
まあ、それはさうかもしれない。

Wednesday, 15 February 2017

古典インクが使へるといふことは

プラチナ萬年筆の古典インク六色を、わけてもらつた。
俗にいふ「タミつてもらつた」といふところだ。

別件で買つてきてもらつたくまもんのパイロットのカクノの細字と、家で眠つてゐたカクノの細字にインキを入れてみた。
入れてみたのは、シトラスブラックとラヴェンダーブラックとである。

シトラスブラックを使用した感じは、Twitter で画像を見てゐた。
書いたそばから色が変はつていく。
最初は文字どほりシトラスを思はせるやうな淡いきれいな黄色でありながら、時間がたつにつれてだんだんカーキのやうな色になる。

実際に書いてみたところ、想像してゐたほど色の変化が見られないやうな気がした。
ところが写真に撮つてみると、これがかなり変はる。

プラチナ萬年筆の古典インク

うーむ。

シトラスブラックを入れたカクノは、かなりインキフローの渋い細字だつたので、それであんまり変化を感じることができなかつたのかなあ。

ラヴェンダーブラックの方のフローは普通で、こちらは書いてゐて明るい牡丹のやうな色から暗い紫に変はつていくやうすがよくわかつた。

が、こちらは写真に撮つてみると、違ひがよくわからない。

プラチナ萬年筆の古典インク

むむむ。

さういふものなのかなあ、人間の眼つて。
あるいはカメラつて。

気になつてゐた Moleskine にも書いてみた。

プラチナ萬年筆の古典インク

おおー、にぢまない。
細字で筆圧が低いせゐもあるかと思ふが、裏写りもしないし裏抜けもない。
たうとう Moleskine でも万年筆を使ひわけられる日がやつてきたか。
感慨深い。
以前も何度か書いてゐるやうに、はじめて Moleskine を使つたときは、いろんな万年筆にいろんなインキを入れて書いたものだつた。
おもに使つてゐたのはDr.ヤンセンのシェークスピアとモンブランのボルドーとだつた。
プラチナの古典インクにはセピアブラックがある。だいぶ暗くなりさうな印象があるが、なに、カーキブラックだつてある。
シェークスピアの代はりになりさうな予感がする。
ボルドーの代はりはカシスブラックだらう。
いいぢやあないか。

スライド手帳にも書いてみた。

プラチナ萬年筆の古典インク

スライド手帳は紙が薄いせゐもあつて、裏写りは多少するものの、写真ほどには気にならない。
一部裏抜けしてゐるやうに見えるのは、書き損じをごまかさうとしたところだ。

いいぢやあないか。
使へるぢやないか、プラチナの古典インク。

Moleskine もスライド手帳も、もつと太いペン先で書いたり筆圧の高い人が書いたりすると裏抜けするのかもしれない。
Moleskine には中屋万年筆の中軟にプラチナのブルーブラックを入れたペンで書き込むこともあるが、裏抜けしたことはない。
なにも考へずにつらつらつらーっと書くせゐかもしれない。

ところで、タミヤ、いいね。
まさかこんな形でタミヤに出会ふことがあらうとは思つてもみなかつた。
こどものころプラモデル作りにあこがれた時期がある。
不器用だつたので、買つたところでお金の無駄とあきらめてゐた。
生きてゐると、いろいろなことがあるものだ。

Tuesday, 14 February 2017

モチーフをつなぐとできる模様

タティングレースのモチーフつなぎは三列×四列になつた。

Masquerade

Mary Konior の Tatting With Visual Patterns ではこのモチーフ Masquerade の三列×四列の写真が掲載されてゐる。

このモチーフは四角い。
四枚を正方形になるやうにつなぐと、真ん中にモチーフとは別の模様ができる。
これが好きでねえ。
三列×四列だと六つできる。
三列×三列だと四つできて、それで結構満足してゐた。
でも、多い方がいい。

この先はやつぱり四列×四列になるやうにモチーフを足して、あはよくば四列×五列になるやうにしたいなあと思つてゐる。
モチーフ二十枚。
作れるかなあ、残りの糸で。
あと八枚くらゐはいけるだらうか。

できあがつてどうする、といふあてはない。
白や生成ならともかく、紫なんてどこに飾つたものやらといつた色だし。

最近とみに思ふのだが、作つて仕上げるといふことが大切なんぢやないかな。
仕上げないといつまでたつても上達しない気がする。
上達はしなくてもいいかなとは思ふ。
でも、コツをつかむには、数多く作るしかない。
さう思ふんだよね。

タティングレースなんてそんなにさくさく作れるものでもないと思ふのだが。
すくなくともやつがれはさうなのだが。
#世の中にはものすごく速くタティングする人々がゐることは認識してゐる。

日々ちよこちよこ作つてゐれば、いづれできあがる。
その日を待つて今日もちよこちよこ作るのだらう。

Monday, 13 February 2017

色合はせに悩む

袖無し羽織は、片方の身ごろがわりといい長さになつてきてゐる。

Rowan のフェルテッドツイードを六号針で編んでゐて、四玉目を使つてゐるところだ。
もう一玉でいい感じの長さになるんぢやないかと踏んでゐる。
思つてゐたより進んでゐるな。

問題は、次に追加する糸のことだ。
ここまで、深緑色からはじめて、紺、紫ときて、いまはくすんだサーモンのやうな色で編んでゐる。
手持ちの毛糸の色はこの四つと、あとくすんだオレンジとくすんだ黄緑とがある。

サーモンと紫との相性はいい。
問題は、サーモンとその他の色との相性がいまひとつといふことだ。
くすんだオレンジ、かなあ。
ほかの色だとコントラストが大きすぎる。
毛糸だまを並べてみるとさう思ふ。

ここまで、色を変へるときは二段おき(ガーター編みなので一段おきに見える)にしましまにして、変はり目が目立たないやうにしてゐた。
「目立たないやうにしてゐた」といふのは、自己満足ではある。
遠くから見たらさう見えるかもしれないが、近くで見たら単にしましま模様があひだにはさまつてゐるだけにしか見えない。
とはいへ、馴染みのよい色同士を合はせてゐるつもりなので、そんなに唐突に色が変はつたやうには見えないんぢやないかな、とも思つてゐる。

ところが、サーモンには馴染みのよい色がない。
紫くらゐしか。

ここで紫に戻るか。
それとも冒険してみるか。
冒険したところで「これはちよつとなー」と思つたらほどけばいいんだから、冒険してみるかな。

ところで、「袖無し羽織」と書いてゐるものの、脇をはがなかつたらポンチョだよね、とも思つてゐる。
ポンチョの方が遣ひやすいかなあ。
これも考へてみるか。

Friday, 10 February 2017

里の人の中で生きのびるには

からだの片端ものなら世間も面倒みてくれるが、性分の片端ものは世間も相手にしてくれない

先日、横浜シネマリンで小林正樹の映画「いのち・ぼうにふろう」を見てきた。
見てはいけないと思つてゐた。
わかつてゐたからだ。
冒頭に掲げたやうなせりふが出てくることが。

「いのち・ぼうにふろう」は、山本周五郎の「深川安楽亭」が原作の映画だ。
大名屋敷に囲まれた川の真ん中の孤立した小島にある一銭飯屋の安楽亭は立地条件を生かして密かに抜け荷を扱つてゐる。
その安楽亭を根城にした「性分の片端もの」たるあらくれ男たちが、幼なじみの娘を苦界から救ひたい一心の若ものに心動かされて「命を棒にふつて」人助けをしやう、といふやうな話だ。

「性分の片端もの」、ね。

その直前に、穂村弘の「はじめての短歌」を読んでゐたのもよくなかつた。
「はじめての短歌」は、穂村弘がビジネスマン向けに行つた短歌講座の講義部分をまとめたものである。
中で、「生きのびる」ことと「生きる」こととの違ひについて語つてゐる。
「生きのびる」とは社会的であり社会の中でうまく人とやつていくこと、「生きる」とは非社会的で効率とかなんとかさういふことはあまり考へないこと、かな。

通勤電車に乗るとする。
このまま職場のある駅を降りずに終点まで行つたら海に着く。
穂村弘は勤めてゐたころ毎日さう思つてゐたのださうだ。
そのまま海まで行つてしまふのが「生きる」、ちやんと職場のある駅で降りるのが「生きのびる」だ。
もちろん、毎日「生きのびる」わけだけど、でもやつぱり「生きる」ことに惹かれてしまふ。

やつがれの場合、終点まで電車に乗つても海や山には着かない。
反対方向に行く電車に乗らないとダメだ。
そして反対方向に行く電車に乗るには隣のホームに行く必要がある。
「生きる」ために超えるハードルがいくつかある。
だからなんとか「生きのび」てゐられるわけで、さうでなかつたらとつくに「生きる」を選択してゐる。

「はじめての短歌」を読んで自分のダメさ加減にがつくりきてゐたところにもつてきての「いのち・ぼうにふろう」だつた。

「性分の片端もの」のせりふがあるのは知つてゐたから、安楽亭の主・幾造(中村翫右衛門)が「からだの片端ものなら」と云つたときにちやんと身構へた。
来るぞ、とガードをかためた。
無駄だつたね。
「性分の片端ものは」ときたときにがつーんときれいにアッパーカットをくらつて即KO。
「Good-bye, Baseball!!」くらゐの勢ひで場外にとばされた。
わかつてゐたのに。
わかつてゐたからか。

安楽亭にゐるものはみな山のけもののやうなものだ、と幾造は云ふ。
けものだから悪いことをしても悪いと思はないし、自己中心的で自分が大事だ、他人とつきあはうなんてな了見は持たない。
「人間の中の片端もの」なのだ、と。

いちいち思ひあたることばかりだ。

そんな性分の片端ものたちが、一途に幼なじみの娘を救はうとする若ものに触発されて、みづからのいのちを棒にふつてもいいぢやあないか、と人助けをする。
さういふ男たちを見て、幾造は云ふ。
「はじめてひとのために何かしやうつて気になつたな」と。

幾造は「性分の片端もの」たちを守つてゐたんだな。男たちの父親くらゐの世代だらう。
安楽亭を畳まうといふときになつて、幾造は男たちにいふ。
「お前たちはもうここを出ていつても大丈夫だ。人助けをしやうとした気持ちさへ忘れなきや生きていける」
といふやうなことを。

思ふに、幾造も若い時分には「性分の片端もの」だつたんだらう。
若いうちは幾造がさういふ人間であることを理解してくれてゐる人に守られてゐて、あるときやつぱり人のためになにかしやうといふ気持ちになつて、それでいまがあるんぢやないか。

あらくれ者の中では与兵衛(佐藤慶)に幾造のやうになれさうな感じがあつたんだがなあ。
あるいは一番業の深さうな源三(岸田森)か、吃音ではあるものの文太(山谷初男)か。

でもやつぱり、山のけものは麓の人間と交はると、命を落とすことになる。
それがたとへみづから進んで落とすのだとしても。

穂村弘は、人は二重生活を送つてゐるといふ。
「生きのびる」と「生きる」とのあひだをおそらくは無意識のうちに行つたり来たりしてゐる、と。

「性分の片端もの」もまた、二重生活を送つていけるのだらうか。
山のけもののやうに暮らしつつ、里の人々のあひだに交ぢつてもうまくやつていけたりするのだらうか。
「いのち・ぼうにふろう」を見るかぎりでは、それはムリなやうに思はれてならない。

ただひとつなにか救ひがあるとするならば、これを書くまではひどく落ち込んだ気持ちでゐたけれど、書いたいまは晴れ晴れとした気分だ、といふことかな。

Thursday, 09 February 2017

箇条書きはつぶやきだ

箇条書きはつぶやきだ。

Bullet Journal は、もともとは Rappid Logging を標榜するものだ。
即座に記録するためにはダラダラと長い文章を書いてなどゐられない。
箇条書きで簡潔に書きとめる。
これが Bullet Journal の真髄である。

世の中には「メモは役にたたない」といふ考へ方もある。
断片的なメモ書きは役にたたない。
あるていど長さのある文章に起こした方がいい。
大学教授や助教授(当時)といつた研究に従事し論文を執筆することを常とする人々がそんなことを書いてゐたのを読んだことがある。

それを見て、さうだよなあ、と思つたものだつた。
断片的にメモを書きとめて、あとで見て前後関係がわかんなかつたりとかね。
その発想に至る道筋があつたはずなのだ。
それも含めてのアイディアである。
でもそこが思ひ出せない。
「メモは役にたたない」といふ発言をした人がさういふ意図で云つたのかどうかは定かではない。
でも自分はさうだつた。
なぜ自分が Moleskine のポケットサイズ一ページをびつしり埋めるやうに書くかといふと、それくらゐ書かないと残せないものがあるから、あると思つてゐたからだつた。
そして、それは正しいといまでも思つてゐる。

さういふ人間が箇条書きをするとどうなるか。
単に見た目が箇条書きになつただけで、延々とおなじ話題についてメモを書きつづけることになる。

そして、箇条書きのひとつの書き方が、まるで Twitter でつぶやくときのやうな書き方になつてゐる。

さうか。
Twitter でのつぶやきは箇条書きか。
やつがれの中では、「つぶやき=箇条書き」だ。
だから箇条書きすることに抵抗感があまりないんだな。
やつてることおなじだもの。

箇条書きのいいところは、前後関係にあまり縛られないことにある。
リニアに書きとめることになるからマインドマップのやうな自由さには欠ける。
でも文章で書いてゐるときよりはそこんとこ自由。
そこがいまのところ気に入つてゐる。

ほんたうは、箇条書きで書きとめたことからちやんと文章を起こすといいんだけどね。
どうしてもそこにたどりつけない、といふ話は以前書いた。
たどりつきたいんだが、どうしても時間的制約があつて、な。

Wednesday, 08 February 2017

なにか映画を見やうと思つて

「ドクター・ストレンジ」か「マグニフィセント・セブン」を見に行かうと思つてゐる。

なぜかといふと、あひかはらず最近見てゐるものは昭和のものばかりだからだ。
コンテンポラリーも見ておかないとね。
といふ、義務感といふか責任感みたやうなものがある。
我ながらめんどくさい。

「ドクター・ストレンジ」については、以前あまりそそられないといふ話を書いた。
大都市や摩天楼が壊れていく映像つて、なんかもう見飽きたんだよね、と。
予告編で見たかぎりいままで見たことのないやうな壊れ方ではあつた。
でも大都市や摩天楼が壊れていくといふことに変はりはない。
映像の進化、もつといふと映画製作の進化を楽しめる人にはいいのかもしれない。
でも、単に楽しく映画を見たいだけだからねえ。
あまり「それ、もう見たし」といふやうな内容には食指が動かないのだつた。

「マグニフィセント・セブン」にあまりそそられない理由は、「だつて「荒野の七人」なんでせう」といふところか。
「コンテンポラリー」といひきるにはちよつとためらひを覚える。
リメイクだからね。
リメイクだから、現代性が取り入れられてゐるはずだし、正しくコンテンポラリーなんだとは思ふ。
でもさ、きつと「荒野の七人」と比べちやふしさ。
もつといふと、「七人の侍」とも比較してしまふかもしれない。

意味ないのに。

映画批評などに従事してゐる人には意味があるかもしれないが。
やつがれにはない。
単に楽しく映画を見たいといふやつがれには、「マグニフィセント・セブン」を「荒野の七人(こちらも「The Magnificent Seven」であることに変はりはないのだが)やまして「七人の侍」と比べていいことはなにもない。
それぞれにいいところがあり、それぞれに、まあ多分、わるいところもある。
それでいいぢやあないか。
わかつてゐてもさういふ目では見られない。
おそらくね。

義務感といふか責任感のやうなものから見たいと思つてゐる、と書いたが、それでも「見たい」といふ気持ちに変はりはない。
「沈黙」はあんまし見たいと思つてゐないから、これだけは確かだ。
「沈黙」を見たいと思はない理由は、その長さにある。
上映時間が三時間近いといふ。
耐へられるだらうか。
多分ムリ。

「見たい」といふ気持ちは大事にしたいので、ぢやあ「ドクター・ストレンジ」か「マグニフィセント・セブン」かどちらかを見やう。

どちらを見るか。

「マグニフィセント・セブン」は評判がいい。
どこでかといふと、Twitter の我が TimeLine で。
「パシフィック・リム」からこの方TLで評判のよかつた映画はほぼすべておもしろく見た。
「マッドマックス 怒りのロード」とかね。
「シン・ゴジラ」もさうだし。
多分、この三つの映画は、ぼんやりしてゐたらどれも見なかつたことと思ふのだ。
TLで「いい」といふ評判が流れてきて、見に行つたらいづれもよかつた。

「ドクター・ストレンジ」についてはこれといつて情報が流れてきてゐない。

ぢやあ「マグニフィセント・セブン」かな。
さう思つたのだが、どうも行ける映画館の行ける時間帯にちやうどいいものがない。
といふわけで、いまのところ「ドクター・ストレンジ」を見るつもりでゐる。

うーん、でもこのままだと「マグニフィセント・セブン」は見逃すかもしれないなあ。
仕方ないか。

Tuesday, 07 February 2017

新境地の興奮と不安

タティングレースのモチーフつなぎは、十一枚めをつないで十二枚めを作つてゐるところだ。

Masquerade

モチーフの名前は Masquerade。Mary Konior の Tatting with Visual Patterns といふ本に出てゐる。

十枚めをつないだとき、めづらしくちよつとじーんときた。
ここにも何度か書いたやうに、これまで何枚も Masquerade を作つてきたが、つないだことがあるのは九枚までだつたからだ。

なんだらう、この感覚。
新たな地平線の向かうに到達した感じ?
いや、到達ぢやないか。新たな地平線の向かうを窺ふ感じ?
そもそも「地平線が新た」つてどーゆー状況だよ。

それはともかく、新たな境地にたどりついた。
そんな気がしたのだつた。

十一枚めをつないだとき、その「じーん」とした感情は不安に変はつた。

横(縦でもいいが)三列で縦(横でもいいが)四列。
これは本に掲載されてゐる状態だ。
この先どうする。
四列×四列にするか。
それとも三列×五列にするか。
糸が足りなくなつたときのことを考へると、短い方は三列のままの方がいいのか。
あるいはモチーフの何枚か欠けた状態もおもしろかもしれないからどんどん縦横を増やしていくか。

どうしたものやら決まらない。
ゆゑの不安感である。

でも、さうだな。
四角のうち一角が欠けてるといふデザインはいいかもしれない。
さういふ風にうまくできるかどうかはわからないが、ちよつとその路線で行つてみるか。

Monday, 06 February 2017

指なし手袋

指なし手袋ができあがつた。

Fingerless Mitts

水通しはしてゐない。
寒かつたので即使ひたかつたからだ。
これがとにかく暖かい。
並太にしておいてよかつた。
中細だとこの暖かさは出ない気がするんだよね。

中細のくつ下毛糸で編んだ指なし手袋は自宅で愛用してゐる。
手にはめれば暖かいし、はめた状態でも細かい作業はできるし、文句はない。
文句はないのだが、暖かさといふ点でいふと並太で編んだこの指なし手袋にはかなはない。

Rowan の Big Wool といふ超極太の毛糸で編んだ指なし手袋もある。
普通の指あり手袋よりも暖かいのではないかと思ふ。
一見防具かと思ふくらゐゴツいできの手袋だ。
寒さを防ぐ道具ではあるのか。
この超極太毛糸で編んだ指なし手袋も時々使ふ。
指なし手袋であるにもかかはらず、手にはめた状態ではスマートフォンを操ることができない。
編み地が厚すぎてスマートフォンを持つてゐるといふ感覚があまりせず、取り落としやすいからだ。

暖かさでは落ちるけれど、並太で編んだ指なし手袋なら、はめた状態でスマートフォンを扱ふことも可能だ。
うーん、なんでもつと早いうちに編んでおかなかつたかなー。

この指なし手袋の欠点はいまのところひとつだけだ。
はめた状態だと万年筆を持ちづらいといふことだ。
それなりに編み地に厚みがあるので、万年筆を握つたときの角度が変はつてしまふのである。
それで書きづらくなる。
鉛筆やボールペンならそんなことはないんだけれどもね。
そんなわけで、万年筆で字を書くときはこの指なし手袋をはづしてゐる。

この指なし手袋は、とくに編み図や編み方なしに編んだ。
そこでメモ書きとしてどう編んだかを残しておかう。
使用した毛糸は Jaeger Matchmaker Merino DK。
針はUSサイズの6号(4mm)。
ゴム編みの作り目で52目作り、親指のまちの部分以外はずつと52目で編んだ。
41段目から縄編みを入れた。
縄編みが終はつてから親指のまちの増やし目をはじめた。全部で8目増やした。
親指のまちの増やし目が終はつたところから何段編んだかは数へてゐない。手にはめながら決めた。
親指も何段編んだかは数へてゐない。
二目ゴム編み止めで伏せた。
縄編みは交差の上下を左右で逆にしてみた。

こんなところかな。
ひとつ編むと次が編みたくなる。
今回は肘のちよい手前までくる長さの指なし手袋になつた。
長いから暖かい。
今度は肘の上までいくやうなのを編んでみたい。
「Dr.パルナサスの鏡」を見て以来、ずつと編んでみたいと思つてゐてそのままになつてゐる。

などと思ひつつ、袖なし羽織を再開した。
編み地が長くなるので編んでゐて暑苦しくなるからいまの時期しか編めない。
この冬にはできないなあ。また次の冬まで持ち越すことになるだらう。

Friday, 03 February 2017

手書きもポメラも

見た芝居や映画、読んだ本について思つたことなどは、基本的には手帳に書き記してゐる。

書いてゐると、「もつと速く書きたい」といふ思ひにとらはれることがある。
手書きだと時間が足りなくて書き尽くせないといふ焦りも覚える。

いつそ、ポメラで書いたらいいんぢやあるまいか。
さうも思ふ。

愛用してゐるポメラDM100はほとんど文房具だ。
ノート兼筆記用具とでもいつていい。
このblogのエントリもほとんどポメラで書いてゐる。
キーボードが打ちやすいからだらう、自宅のMacBook Airや職場のWindowsマシンで書くよりもよほどたくさん書けるし速く書ける。
たくさん書けると思ひもしなかつたやうなことを書いてゐたりもする。
書いてゐることに付随した、場合によつては全然関係のないアイディアが浮かんだりもする。
書くことにストレスを感じないとかういふこともあるのだな、とよく思ふ。

やつがれの手跡は大変な癖字で、読みやすさとは真逆の字である。
あとで見返したときに見やすいやうにできるだけ読みやすく書かうとはするのだが、あまり成功してゐない。
記録を残すなら、手書きよりポメラだ。

さうは思ふのだけれどもねえ。

1990年代後半、なんだかよくわからないがやたらと長い小説が出版される時期があつた。
何冊か読んで、中には「これさー、手で書いたらきつとかうはならないよね」といふものもあつた(ちなみに京極夏彦の小説ではない)。

当時はもうワードプロセッサを使つてゐる人も少なかつたらうから、おそらくはPCに向かつてキーボードで打つてゐたのだらう。
キーボードで打つから饒舌になる。
ぢやあ手で書いたら?
この作家たちは、手で書いてもこんなに長くて時に冗長としか思へない(そしてそれが持ち味でもある)小説を書くのだらうか。

文章は、使用する道具に左右される。
文体も内容も量も、場合によつては質も、だ。
手で書いてもキーボードで打つてもまつたくおなじものが書けるといふ人はまれだらう。

文体や内容が道具の変化(進化かもしれない)によつて変はるのは至極当然のことなのかもしれない。
木簡や竹簡に書いてゐた時代と紙に書くやうになつた時代とでは違ふだらうし、紙が高価で入手困難だつた時代と比較的安価で手に入りやすくなつた時代とでもまた違ふだらう。

もう木簡に書くやうなことはしないとしても、紙に字を書くこととキーボードで打ち込むことと、両方できるのなら両方やつてみやうぢやないの。
そんな気分なのかもしれない。

ポメラで書いた場合とノートに書いた場合と、文体がことなるかといふと、自分ではよくわからない。
一見して違ふのは漢字の量かな。
手書きだと漢字とひらがな・カタカナとで大きさや文字と文字との間隔を無意識のうちに調整するのだらう、漢字が多くてもあまり気にならない。
その点、ポメラで書いた場合は画面上に漢字が多いと読みづらく感じる。
それでもまだ漢字は多い方だ。

blogを書くときは、かういふかな遣ひであることもあつて、ほんたうはひらがなにしたいところをわざと漢字にすることもある。
ひらがなのままだと読みづらいんぢやないかと思ふからだ。

記録は、デジタルで残した方が検索がしやすくていい。
さう思ひつつ、紙の手帳に向かつてしまふのは、なぜなのか。
好きだからなんだけれど、ではなぜ好きなのか。

どうでもいいか、そんなことは。

Thursday, 02 February 2017

早起きして「鬼平犯科帳」を見ない理由

平日は帰宅後に見てゐる「鬼平犯科帳」などを、朝早起きして見た方がいいのではないか。

なぜそんなことを考へてゐるのかといふと、「鬼平犯科帳」とかを見ると気分が昂揚するからだ。
異様にもりあがる。
もりあがらないこともあるけれど、でもなにかしらもりあがる要素はある。

いつもは夜見てゐるので、睡眠によつてご機嫌な気分はリセットされてしまふ。
朝起きてから見れば、その日一日、ご機嫌な状態で過ごせるのぢやあるまいか。
一日はムリでも、朝くらゐはさ。

でも、多分早起きして見ることはないだらうな。

朝、一時間ていどのTVドラマを見られるくらゐに早起きするやうに早寝をするのがむづかしいからといふのが一番の理由だが。

夜、気分がいい状態でゐられるのは、通勤電車などに乗る必要がないからだらうといふ気がするから、といふのも理由のひとつである。

帰宅したら、通勤電車に乗つて、不愉快な人に出会つたり、遅刻しないやう職場につけるか苛々したりすることがない。

早起きして朝見ることにして、いい気分にはなつたものの、乗るべき電車がやつてこなかつたり、それで別の電車に乗つたらぎゆうぎゆう詰めの上、電車がなかなか進まなかつたり、そんなのお互ひさまなのにうるさい客が乗つてゐたりしたら。
それでなくても駆け込み乗車をする客やら、両手でスマートフォンを使つてゐるから電車が揺れると倒れてくる客やら、やたらと大きな音量で音楽を聞いてゐる客やら、そんな客と乗り合はせたとしたら。
せつかく早起きしていい気分になるやうなTVドラマを見ても、まつたく意味ないと思ふんだよね。
意味ないどころかイヤな気分になつてしまふ。

先日の「鬼平犯科帳」はサブタイトルが「凄い奴」、原作でいふ「本門寺暮雪」だつた。
「凄い奴」は天本英世。始終菅笠を深くかぶり、黒い着物に黒つぽい袴姿で表情はよく見えない。「殺気といふか妖気といふか」といふ表現が実によく似合ふ。こんなに似合ふ俳優もまたゐないのぢやあるまいか。

井関録之助は中谷一郎で、ちよつと「助け人走る」を思ひ出させるやうな坊主姿で出てくる。
やつがれ世代だと中谷一郎といへば「水戸黄門」の風車の弥七といふ向きも多からうが、やつがれはどちらかといふと「江戸の鷹」の御鷹組の副長や、諸々の時代劇の悪役、あるいは岡本喜八などの映画に喜劇的な役で出てくる方が好きだつたりする。
もちろんこの録さんも好きなタイプだ。

「凄い奴」の雇ひ主である名張の利兵衛は小栗一也で、上方の肝の据はつた大親分といふ貫禄十分だし、その利兵衛とやりあふ大滝の五郎蔵の内田良平も泥棒の悪の感じと密偵としての責任感とをよく出してゐる。
この利兵衛と五郎蔵との対決もまた緊迫していいんだなあ。

天本英世の凄い奴は鬼平(丹波哲郎)と録さんとのあとを追つたりするのだが、たまに姿をくらます。このステルスな感じが如何にも天本英世的だ。
最後は案外あつさり斬られてしまひ「なーんだ」と思つたところからの階段落ちで、なんかもうおなかいつぱいといつたところ。

さうさう、肺病病みの侍として伊藤久哉が出てくるのもいい。ちよつと胸病んでるみたやうな感じ、することあるぢやあありませんか、伊藤久哉。

といふわけで、なんだかこー、ものすごくもりあがつたんだよね、見てゐて。
見た後も。

早起きして、朝見ることにする?
試してみる価値はありさうだが、さて。

Wednesday, 01 February 2017

暦の上では春になるので

二月になつた。
Bullet Journal の二月ページを作成した。

Bullet Journal

曜日を記入する前に写真を撮つてしまつた。無念。

月があらたまつたときに Bullet Journal では以下のやうなことをする。

  1. INDEX に先月分の最終ページを記入する
  2. INDEXに今月用の項目を書き入れて最初のページ数を記入する
  3. 今月用の Monthly Log ページを作成する
  4. 今月用のTo Do ページを作成する
  5. 今月用のTracker ページを作成する
このうち、To Do と Tracker とは Monthly Log に属するもの、とやつがれは考へてゐる。
To Do リストは週単位で管理してゐるので、いまのところ各月の To Do リストは作成してゐない。そのうち必要を感じたらするかも。

Bullet Journal をはじめたのは去年の二月だつた。
一年つづいたね。

最初は MD Notebook の新書サイズを使用してゐた。
Bullet Journal は綴じ手帳を想定して作られた framework だと思つてゐる。
しかし、月のかはり目に加へて古いノートから新しいノートへ移行するときもいろいろとやることが多さうに感じたので、システム手帳にうつしてみた。
いまところ、それでうまくいつてゐる。

このほかに「なんでも書く手帳」として現在は Moleskine のポケットサイズを使用してゐる。
この Moleskine をそろそろ使ひ終へるので、またここで「なんでも書く手帳」をシステム手帳に戻さうかと考へてゐる。
システム手帳に、といふよりは、Bullet Journal に、かもしれない。

Bullet Journal は基本的には箇条書きで書き込むものだ。
Rappid Logging を標榜してゐるからだ。
素早く記録するには、箇条書きが一番だ。
さういふ考へのもとに作られてゐる。

そんなわけで、去年は二月から七月くらゐまでは Bullet Journal に箇条書きでなんでも書きつけてゐた。
最初のうちはそれでよかつたのだが、だんだん書きづらくなつてきた。
システム手帳の場合利き手と反対側のページが書きづらいといふのもあるし、方眼罫に字を書くのに慣れなかつたといふのもある。
それに、箇条書きといふスタイルが自分には合はないんぢやあるまいか。
さう思つて、最初はたまたま手元にあつた MD Notebook の文庫サイズを「なんでも書く手帳」として使つてみたら、それまでよりたくさん書くやうになつた。
その後、Smythson の Panama を経て Moleskine を使用してゐる。

それをまた Bullet Journal に箇条書きであれこれ書き記すことにして、Moleskine なり Panama なりはまとめノートにしやうと考へてゐる。

以前からここにも書いてゐるやうに、やつがれはどうも一度書いたことを清書するといふのが好きではないのらしい。
一度書いてしまつたら見直しはしても、もう一度あらためて書いたりはしない。
メモ書きを残しておいてあとでちやんと書く、といふのはずーつとやつてみたいと思つてゐるし、ノートの使ひ方としてもそれはいい手だと思つてゐる。
でもできないんだよなあ。
大抵は、時間がなくて、だ。
そこを敢へて、やつてみやうぢやないの。
さう思つてゐるのだつた。

現在システム手帳で使用してゐるのは、スライド手帳と Bullet Journal 用にダ・ヴィンチの方眼罫のリフィルである。
それに加へて、アシュフォードのメモパッドを使つてみやうかと思つてゐる。
バイブルサイズのシステム手帳を使用してゐるのだが、かばんによつてはかさばつて入れられないことがある。
メモパッドなら薄いし、持ち歩きやすいだらう。

そんな感じで、しばらくは様子を見てみやうと思つてゐる。

1月の読書メーター

1月の読書メーター読んだ本の数:6読んだページ数:2705ナイス数:17史記 11 列伝 4 新釈漢文大系 (91)史記 11 列伝 4 新釈漢文大系 (91)感想戦争しない期間が長くなると、個々の能力よりも如何に力あるものに取り入つていくか、周囲とうまくやつていけるかといふ能力がものをいふやうになる。そんな気がする。まあそれも個々の能力といへばさうだけれども。読了日:01月01日 著者:青木 五郎
The Vanished: The The Vanished: The "Evaporated People" of Japan in Stories and Photographs感想蒸発して別の人生を歩むことになつた人、自殺に至つた人、未遂の人の話かと思うてゐたら、南米から某自動車会社に出稼ぎにきてリーマンショック後の不況に悩む人や秋葉原に集まるいはゆるオタクの人、果ては拉致被害者や東日本大震災の被災者の話にも及ぶ。フランス語の原書を英語に翻訳したもので、その前にはもちろん日本語からフランス語(場合によつては英語を経てフランス語)への翻訳があるはずで、そのあたりをどう読んだらいいのかチト悩んだ。読了日:01月12日 著者:Léna Mauger
不死蝶 岸田森 (ワイズ出版映画文庫)不死蝶 岸田森 (ワイズ出版映画文庫)感想この本を読んでも自分が本当に知りたいと思つてゐることは得られない。結局出演作を追つていくしかないんだらう。映像作品が主な活躍の場であつたことを感謝するばかりだ。ただこの本を読んでゐると「おほつごもり」や「欲望といふ名の電車」なども見たかつたなあと思つてしまふことも確か。読了日:01月18日 著者:
文語訳 新約聖書 詩篇付 (岩波文庫)文語訳 新約聖書 詩篇付 (岩波文庫)感想十二使徒の葬られてゐるとおぼしき墓所を訊ねるといふ本を読んだときに各福音書の違ひについて述べられてゐて違ひがよくわからなかつたので読んでみた。以前持つてゐた新約聖書はもつとコンパクトだつたのになーと思つたが、あちらは二段組みでしかも紙がえらく薄いものだつた。こんなヴォリュームになるのか、とちよつと驚いた。読了日:01月19日 著者:
応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)感想応仁の乱に関わる人々といふか家の出自などを知つてゐないとむづかしいのかも。興福寺にはじまつて興福寺に終る、そんな感じ。デマに惑はされるのはいつの世も変はらない。たとへ情報を素早く入手できるやうになつたとしても。読了日:01月24日 著者:呉座 勇一
読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)感想教養と読書とについての本。題名や冒頭から「本は読むな」といつてゐると思ふ向きもあるかもしれないが、でもさ、<共有図書館>とか、あるていど読まないと把握できないと思ふんだよね。まあ、娯楽として読むだけ、教養なんてどうでもいいといふのなら<共有図書館>なんて把握しなくてもいいんだらうけど。いづれにしても「本を読むな」と云ひたい本ではないとみてゐる。読了日:01月28日 著者:ピエール バイヤール
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