消極的「ら抜きことば」の使用
いはゆる「ら抜きことば」は遣はない。
すくなくとも遣はないやうにしてゐる。
でも、気がつくと本来正しい用法であるはずの「ら」の入つてゐることばも遣はなくつてゐる。
たとへば、どうしても見たかつたTV番組を見損ねてしまつたときだ。
「あの番組、見られなかつたんだよね」
これでいいはずだ。
でも、多分、いまのやつがれはさうは云はない。
「あの番組、見ることができなかつたんだよね」
さう云ふ。
おそらくさう云ふ。
「見ることがかなはなかつた」といふ意味で遣ふ「見られなかつた」といふことばは、ここのところ耳にしないし目にしないことばだからだ。
耳慣れないことばなのだ。
ゆゑに使用を躊躇してしまふ。
これつて、消極的な「「ら抜きことば」の使用」なんぢやあるまいか。
それなら意識して「見られなかつた」とか「着られなかつた」といふべきなのか。
意識してならなんとかなる。
でも、普段喋つてゐるときに早々意識などしてゐられるものではない。
親しい人々と話に興じてゐるうちに、うつかり「あの人は用事があつて来ることができなかつた」と云つてゐる可能性は極めて高い。
だつて「あの人は用事があつて来られなかつた」なんて表現、長いこと耳にしてゐないんだもの。
しかし、このまま「来られなかつた」を遣はなくなつたら、ますますかうした表現と縁遠くなつてしまふ。
積極的に「ら抜きことば」を遣ふ日が来る日も近いのかもしれない。
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