世界を狭める引用好き
先週の水曜日、新文芸坐で「ああ爆弾」を見た。
「ああ爆弾」は岡本喜八監督作品で、1964年の映画だ。
Wikipedia によると「ジャズからロック、浪曲に狂言、果ては題目までを駆使した和製ミュージカル映画である。」とある。
ほかにも、「猫の首に鈴をつけ」たあと能の「安宅」の最後の部分が流れるし、主人公・大名大作(伊藤雄之助)が「南無阿弥陀仏」、その妻・梅子(越路吹雪)が題目である「南無妙法蓮華経」と唱へつづけるうちに互いの唱へてゐるものが入れ替はるのは歌舞伎の「連獅子」だ。
大作が引つ込むときにお囃子めいたものが流れるのは噺家が高座を降りるときの感じに似てゐるし、義太夫もあつたやうに思ふ。
なんか、いろいろてんこ盛りな映画だつた。
引用とパロディとがわんさと詰め込まれてゐる。
かういふ作品に弱い。
考へてみれば、歌舞伎が好きなのも、とくにいはゆる「古典」といはれる作品が好きなのも、えうはそこだ。
「実盛物語」は、斎藤実盛が白髪を黒く染めてゐたといふ話と、手孕村のいはれとをうまく一緒にして作つた話だ。
「盟三五大切」は「仮名手本忠臣蔵」の世界に「五大力恋緘」をもつてきたといふ趣向。
「法界坊」の外題は「隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)」。
つまり隅田川もののひとつで、だから吉田家の若君とかが出てくる。
さういふ、「ああ、これ、知つてる」とか「さうきたか」といふのが芝居見物のひとつの醍醐味だと思ふんだよなあ。
最近だと、PNSPこと「ペンヌリサンポーサンポーペン」などは「ああ爆弾」における狂言がかりの部分と似たやうなものだと思つてゐる。
恥づかしながら、PPAPを見たことがないのだが、それでもPNSPがもともと芝居の中にあつたものではない、なにかを引用したものであることはわかる。
なんでこんな引用だらけのものが好きなのか。
だいたい、「この部分はかくかくしかじかのものからの引用である」つて、知らなきやわからないぢやない。
「ああ爆弾」にしても歌舞伎にしても、引用元を知らないものはたくさんある。
そもそも引用してゐることを知らないものが山とある。
知らないといふことは、それが引用であるかどうかはわからない。
わからなかつたら「好き」とはいへないやね。
つまり、自分は自分の知つてゐる極めて狭い範囲のものごとが引用されてゐるものが好きなのだ。
すなはち、好きなものが至極限られてゐるといふことだ。
自分の世界を狭めてゐるのである。
まあ、楽しいからいいけどね。
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