演目が好きなのか役者が好きなのか
長いこと、「河庄」や「雁のたより」などは好きな芝居だと思つてゐた。
実際好きだつたし、かかると聞けばうれしい演目だつた。
どうやら「河庄」や「雁のたより」が好きなわけではないらしい、といふことに気がついたのはわりと最近のことである。
「河庄」自体が好きだつたわけではない。
中村鴈治郎(三代目。以下「3」)が紙屋治兵衛を演じるときの「河庄」が好きだつたのだ。
「雁のたより」も同様で、鴈治郎(3)の三二五郎七で見る「雁のたより」が好きだつた。
ほかの役者で見る「河庄」や「雁のたより」は別段好きでもなんでもない、むしろあまり好みではない方なのらしい。
さういへば、鴈治郎(3)襲名のあとだつたらうか、歌舞伎を通じて知り合つた人に「あなた、鴈治郎(3)のこと好きだものね」と云はれてびつくりしたことがある。
そ、そーかなあ。
考へたこともなかつた。
いま思へば、そのとほりだつたのかもしれない。
すくなくとも当時は。
政岡とかも好きだつたし、四月に中村吉右衛門の内蔵助の「南部坂雪の別れ」で見た瑤泉院も「四月に「南部坂雪の別れ」かよ」と見る前は思つてゐたものの、見たらものすごくよかつたし。
「時雨の炬燵」もよかつたなあ。片岡秀太郎のおさんで。
「雁のたより」のお玉どんも秀太郎だつたか。
「二月堂」の渚の方も忘れられない。
定高とかね。よかつたよねー。
「吉田屋」の伊左衛門も、鴈治郎(3)に限る。
それくらゐに思つてゐた。
そんな鴈治郎(3)だつたが、山城屋を襲名する少し前からなんとなく以前ほど好きではない気がしてゐた。
芝居が長いのである。
くどい、といつてもいい。
最初にさう思つたのが葛の葉だつた。
や、もういいから、先に行かうぜ。
見てゐてさう思つた。
さういふ時期が続いて、でも歌舞伎座のさよなら公演の「藤娘」なんてのは実にすばらしくて、たぶん、そのあたりからまたちよつと「いいかも」と思ふやうになつたやうに思ふ。
三年前の九段目の戸無瀬とか、大絶賛してたしね、当時のやつがれは。
でも、ぢやあ、山城屋が好きか、と訊かれると、やつぱり別段好きぢやあないんだよな。
なんなんだらう。
演目と役者との組み合はせ、相性、さういつたものなのかもしれないな。
「義賢最期」も好きだと思つてゐたけれど、やつがれの好きな「義賢最期」は、「中二病」といはれるだらうことを覚悟でいへば、「滅びの美学」とか「敗者の覚悟」が感じられる芝居であつて、派手な立ち回りは添へものに過ぎない。
凄惨な敗者の最期を演出するもの、または敗者の云々などを解さない客向けのサーヴィスが、戸襖倒しであつたり仏倒しであつたりするのだ、と思つてゐる。
「義賢最期」を「立ち回りがすばらしい」と誉める人が多いときは、「あ、なんか違ふ芝居なんだな」と思ふやうになつた。
どうやら成長したのらしい。
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