魂の還る形
先日、「哥(うた)」といふ映画を見た。
丹波篠山に広大な山林を持つ森山家の人々をめぐる物語だ。
森山家には三人の息子がゐる。長男と次男とは正妻の子、三男はお手伝ひさんの子だ。三男の父親が誰であるかはほかの兄弟には知らされてゐない。
長男と次男とは、父親が死ぬ前に勝手に山林を売り払つてしまはうとする。
それを三男は必死にとどめる。文字どほり命がけでとどめる。
「魂の還る形が必要なのだ」といつて。
山林は日本人の魂の還る形なのだ、といふのである。
この「魂の還る形」云々は、戦後の日本人のあり方が前提となつてゐる。
映画の中では唐突にさういふ話になるのだが、見てゐて「ああ、さういふことだつたのか」と腑に落ちることがあつた。
三男には臨書をしてゐる場面が多く出てくる。
欧陽詢の楷書を練習するための本と「九成宮醴泉銘」を手本にしてゐる。
墓石から碑文を取つて、それをお手本にするのだと云ふ場面もある。
見てゐて不思議だつた。
三男は、なぜ臨書などしてゐるのだらう。
単なる趣味といふことも考へられる。
でも、なにか意味があるんだらう。
さう思つて見てゐたところの「魂の還る形」といふセリフだ。
形だ。
形が必要なのだ。
もつと考へると、なぜ欧陽詢なのかとか、興味の尽きない点はあるが、ここでは置く。
魂の還る形などと考へると大げさだし宗教がかつてもゐる。
心の拠りどころ、かな。
それだとだいぶ意味が変はつてきてしまふのかな。
自分の心の拠りどころはどこだらう。あるいはなんだらう。
なにかあるかな、そんなものが。
ないと思つてもある。
それが心の拠りどころなのかもしれない。
そんな気もする。
自分の心の拠りどころは、なにかしら古いもののやうな気がしてゐる。
木々のやうに必ずしも形のあるものではない気もする。
たとへば傍らに積んである「平家物語」とか。
休みの日に酒とともに楽しむ「史記」とか。
それが魂の還るさきなのかと問はれるとよくわからないが。
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