クズ
中野翠を好ましく思つてゐたのは、はぐれものに対する視線が同士だつたからだ。
初期の週刊誌連載コラムを読むと、時折ホームレスや銀座の壁と壁とのあひだにはさまつてゐたをぢさんらへの言及がある。
「いづれは自分もああなるかもしれない」
さういふ感想とともに。
これに痛く共感した。
いづれ自分もああなるかもしれない。
まだ学校に通つてゐたけれど、やつがれもよくさう思つてゐた。
電車から橋の下にブルーシートのかかつた小屋のやうなものがいくつも並んでゐるのを見て「自分の入る余地がない」と、そのやうな自体になつたらどうすればいいのか途方にくれることもあつた。
いまでもある。
なんといふか、真つ当な生活といふものができない。
できないわけぢやないけれど、息苦しい。
いつか自分は破滅するんだらう。
さう思へてならないのだつた。
当時、中野翠はおそらくはまだ仕事が不安定だつた時期なのぢやああるまいか。
それで余計にさういふことを書いてゐたのではないか。
なぜかといふと、その後職を失つた人々への言及がほとんどなくなるからだ。
町でさういふ人を見かけなくなつたといふわけではない。
むしろ、当時よりよく見るやうになつたはずだ。
やつがれが最初に「わかる」と思つたのはバブルまつただ中のことだ。
宮部みゆきの「火車」も他人事とは思へない。
明日は我が身、と思ふ。
The Vanished: The "Evaporated People" of Japan in Stories and Photographs といふ本が出版されたといふので、New York Post で紹介されてゐた。
フランスのジャーナリストが取材して書いた本だといふ。
記事を読んだだけで胸ふさがる思ひがした。
この本を読んではいけない。
でも読まねばならないのではないか。
ひとつだけ云へることは、かうして「自分には真つ当な暮らしはムリなのだ」と思つてゐる人間に限つて、真つ当な暮らしから弾き出されたときにショックが大きくなにもできないといふことだ。
どこまでクズなんだらうね。
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